「長い昔話になるが、そなたには聞いてもらわねばなるまい」
余には時間がない、と陛下は笑う。
「おそらく、王太子と話す時間はとれぬであろう」
殿下は今、国境か……あるいはその周辺にいるだろう。
開戦の知らせはまだないので、戻りはまだ先になる。一月先になるか二月先になるかは状況次第だ。
時間がないというのはどういうことなのだろう、と思いながら、ふと、その顔色の悪さに病ではないかと気付く。
「陛下?」
私が問うまでもなく、陛下は何を聞きたいのかわかったのだろう。
柔らかな笑みを浮かべて先に告げた。
「余の生命はあと一月にも満たぬのだそうだ」
穏やかな口調だった。まるで、明日の天気は晴れだと告げるような何気ない声のトーンで、私は一瞬何を言われているのかわからなかった。
「なぜ、ですか」
平坦な自分の声に、頭のどこかで、ああ、そうなのか、と納得している。
「一年前だったか……、もう少し前だったか……胃に痛みを覚え……宮廷医師の診断の結果、胃の腑によくない腫物があると判明した。触れてそうとわかるほどのものでな。血を吐くようになったら三月もたぬだろうと言われた。その時だったのだ、最後の賭けをしようと決めたのは」
陛下は軽く首をかしげ、そして遠くを見る。何を見ていたのか……それは、あるいは、私の知らぬ過去をみていたのかもしれない。
その瞳には、どこか懐かしむような、何かの痛みをこらえるような色が浮かんでいる。
「……終わりにするために?」
「そうだ。かつてないほどにそなたに危険が迫ったのは私が思いつめていたからなのだろう。私が名も覚えていない彼らは、時として驚くほどに鋭い」
彼ら……陛下の手足となる人々。だが陛下にとって、彼らは彼らという集団でしかない。それらの人々の末端に、エルルーシアや、あるいは、あのエルゼヴェルトのお城のスープ番の人がいたのかもしれない。
もう帰らぬ彼らを思う時、哀しみにも似た何かが胸を浸す。
私にできることは忘れないことだけだけど。
「……やがて医師が言っていたように、腫物はだんだんと硬くなりはじめ、他のところにも少しづつ同じようなものができているように思えた。私は焦ったよ。このままでは決着がつく前に、自分が死んでしまうのではないかと」
だが、間に合った、と陛下は笑う。私は笑みを浮かべることが出来なかった。
めまぐるしく頭が回る。
胃の腑の腫物やしこり……胃癌なのだろうか?
私にはその類の医療知識があまりない。
この世界の医療水準がよくわからないが、この言い回しを聞いている分には、あまり発達しているように思えない。
「とうとう、半年前に血を吐いた……打ち切られた生命の期限からはもう三ヶ月も長く生きておる。私の執念もたいしたものだと我ながら思ったのだが、先日、侍医に言われたのだ。もって、あと一月だとな。だんだんと食べられなくなっているのがよくないらしい」
「……そんな……」
陛下が、死ぬ?
やっと、その事実をぼんやりと理解した。
「知っているのは、医師とそなたとユーリアだけだ」
「どうしてですか?!」
他のお子様方も、他の妃方も知らないのだと陛下はおっしゃる。
「ままならぬ人生だった。余の望みは何一つかなわなかった……せめて、死ぬときは自分の思う形で死にたい」
何を口にすればよいのかわからなかった。
どのような慰めも、励ましも陛下には届かないと……無意味だと思った。そもそも、こんな場面で何を言えばいいのかもわからない。自分がどんなに物を識らないかをつくづくと思い知らさされる。
「余は、これまで、ささやかな抵抗を繰り返してきた……今となっては何一つ意味がなかった。むしろ、すべてが裏目にでたといってもいい。最後まで負け続きだったが……そなたに負けるのは悪くない気分だ」
(私はとても勝ったとは、思えていませんが)
ただ腹立ち紛れに口にしてしまったのだが、陛下にはあの言葉が必要だったらしい。
「私も負けたが、王太子も負けた」
「え?」
「だって、そうだろう。この結末はあれですら予測していなかったはずだ」
くっくっと喉の奥で笑う。
「いえ、でも殿下ですから……」
「……何らかの形でそなたが抜け出すことまでは予測の範囲だったかもしれない。ユーリアと対面することもまた予測していたかもしれない。だが……そなたがユーリアを退け、私と対面することは……考えたことはあっても、ありえないと思っただろう」
「なぜですか?」
殿下なら何でも知ってる気がするのは、私の欲目なのか。
「私が誰よりもそなたを愛していることを知っているから……私が自分から己が犯人であることを示唆すような真似はしないと思っていただろう」
愛している、という言葉は、私に対して言われているはずなのに、陛下の眼差しは私ではない誰かの面影を追っている。
「愉快だよ……あの、失敗などしたことがないような男が、帝国もエサルカルもその手のひらにのせて転がしてきた男が、十五も年下の幼い少女にしてやられたのだ」
「……殿下はきっと負けたなんて思いません」
拗ねたような響きになっていたとしたら、これほどまでに断絶していながらも、実は陛下が最も殿下の事を理解しているのではないか、と思えたからだ。
(たぶん、私にはわからないこと)
こちらの世界で育たなかった私には、王であることも王族であることも、心底理解できたとは一生言いきれないと思う。
妃殿下のおっしゃったことも、陛下のおっしゃったことも、頭ではわかるのだ。
ユーリア妃殿下の誇りも、陛下が賭けをされたその御心も、意味はわかるのだが、共感できるのはほんの一瞬だけだ。アルティリエだけではない私は、一番大事なのはそんなことではない、と思ってしまう。
「いいや、あれはそなたには敵わない、と思うだろうよ」
陛下は心底楽しげだった。
私は小さく溜息をつく。
遠くで明けの三点鐘が鳴っていた。
午前三時……いつもなら間違いなく夢の中にいる時間だ。
なのに、眠気を感じている暇もない。
「夜明け前に戻るためには、話を急がねばなるまいな」
陛下は笑いをおさめて口を開いた。
それは、私の生まれるずっと以前の話であり、また、まだこの国ができたばかりのその頃の話だった。
「そもそもの事の始まり、その原因が何であったのか……と問うならば、それは、このダーディニアという国の成り立ちのせいだろう。だが、直接的にというならば、それはティーエの……先の第四王妃エレアノールの出生のその事情だった。言葉を飾らずに言うならば、エレアノールの母が、この国を裏切ったことと言ってもいい」
陛下は祭壇に目を遣り、それから、私を見て続ける。忙しない足踏みの音が、ひどく気になった。
陛下もまだ何かを迷っておられるのもしれない……貧乏ゆすりとは違うのだけれど、しきりに足踏みをするその音がちょっと気になってしまう。周囲が静かだから余計に響くのだろう。
「エレアノールの母は、エルゼヴェルト公爵姫エリザベートだ。王家から降嫁した王女を母を持つ直系の公爵姫だ。エルゼヴェルト公爵の妃というのは、王女がなるものというのが暗黙の了解だ。そして、エルゼヴェルトの公爵姫が王室に嫁ぐのもまた暗黙の了解である。それは我が国が存続するための約束事であり、密やかに守られ続けてきた……だが、エリザベートはそれを破った。エリザベートが恋した男はリーフィッドの公子だった。後に大公となったが、所詮は弱小国の大公に過ぎぬ。本来あれと婚姻を結べるような相手ではない。……あれは、自分がエルゼヴェルトだという自覚がなかった。己が大切にされてきた理由を考えたことがなかったのだろう。だからこそ、あんな利敵行為ができたのだ」
憎々しげな口調に、ちょっと後ずさりたくなる。
椅子に座っていなければ、絶対に後ろにさがった自信がある。
「なのに、だ。我らはそれを認めないわけにはいかなかったのだ。あれの産んだ子供の権利を守る為に」
確か、エリザベート大公妃が産んだお子様は先々代の大公殿下とエレアノール妃のお二人で、現在の大公殿下はひ孫にあたるはずだった。先代大公殿下は早くにお亡くなりになっていて、いま、エリザベート様の血をひくのは、その大公殿下と私だけだとリリアに聞いた気がする。
(えーと、ハトコになるんだったような……)
系図がちょっと曖昧というか、記憶が怪しいのだけれど、血縁であることは確か。
「周辺国が帝国に併合される中、リーフィットのみが未だ独立を保っているのは我が国が援助しているからに他ならない。だが、これはもう必要がない。帝国との関係次第だが、いずれリーフィッドは我が国の領土となる」
「……それは、どういう意味なのでしょう?」
領土併合宣言か、あるいは、征服宣言なのだろうか。
「エリザベートが死んだ今、リーフィッドに援助の必要はないのだ」
エリザベート大公妃はたいそうな長寿を保ち、つい先頃の春にお亡くなりになった。
『リーフィッドの春の女神』と呼ばれ、最後までその柔らかな微笑みで周囲を魅了されたという。
「なぜ、そこまでエリザベート様を?」
エリザベート様ゆえにこれまで援助をしてきたのだと言わんばかりの口調に、つい問うた。
「エリザベートが、エルゼヴェルトだからだ」
当たり前のようにおっしゃるが、怨念がこもっていそうな声音になっている。
この方は、エルゼヴェルトというその名がどれだけ憎いのだろうか。
「そして、それこそがわが王家の秘密なのだよ、ティーエ」
陛下の目が、強い光を帯びる。
「王家の秘密……」
「これを知ったら、君は逃げられない。それでもいいのかね?」
「構いません」
私はこくりとうなづく。
別に気負っているわけでもなく、即答できたのは、逃げるつもりなど最初からないからだ。
(私は殿下の隣に立つのだから)
「…………」
けれど、陛下はなかなかお話下さらない。
考えがまとまらないのか、私には話せないことがあってそれをどうしようか迷っておられるのか……。
「陛下、まず、私が気づいたことをお話しますから、間違っていたら教えてください」
「……ティーエ……」
ここは私から誘導するべきだろう。聞きたいことはたくさんあって……でも、時間は有限なのだから。
「ずっと、不思議に思っていました。それは、エルゼヴェルトと王家の関係についてです。さっきの陛下のお言葉で、はからずもそれについては確証を得てしまったようなものですが……話の整理の為に繰り返し申し上げますね」
私の書斎には、本と共にたくさんの地図や家系図があった。
その中の二枚……王家の家系図とエルゼヴェルトの家系図には書き込みがあった。
名前の下にひかれた赤い線は王家に嫁いだエルゼヴェルトの姫君。青い線は王家からエルゼヴェルトに嫁いだ王女達。王家の家系図とエルゼヴェルトの家系図はほとんど同じ配色の繰り返しだった。
「王家の家系図には正妃は必ず記載されています。王妃の家と呼ばれるエルゼヴェルト……それは、言葉通りの意味でした。エルゼヴェルトを母にも妻にも持たぬ王はいないのです」
「ラグレース2世」
陛下は何代か前の王の名を告げる。
「確かに、彼の母はグラーシェスの姫でしたが、その母はエルゼヴェルトの姫でした。そして、第一王妃は王族でした。が、父方の祖母は王女で母方の祖母はエルゼヴェルトの姫でした。一代おいてはいますが、それはほとんどエルゼヴェルトといってもかまわない血の濃さだったと思います」
「そうだ」
「エルゼヴェルトの直系公爵姫は、まず国王なり、王太子なりの妻になるのです、必ず。そして、二人目以降の姫がいれば、それは王族か他の三公爵家に嫁ぐのです。……系図を見る限り、外へ嫁いだのはエリザベート姫だけでした」
「ああ、その通りだ」
「そして、ほとんどの場合、エルゼヴェルト公爵姫の産んだ子供が玉座につきます。公爵姫が子供を産まなかった場合、あるいは、その子供が王として不適合である場合にはじめて他家の妃が産んだ子が玉座につく……でも、本当にそれは他家の姫なのでしょうか?その疑問は、国母となられた方の婚姻前のフルネームをみればわかります。未婚の姫の姓は、母姓=父姓。そこで母姓にエルゼヴェルトをもたぬ方はほとんどなく、王家の血とは逆を考えれば、第二のエルゼヴェルト……そう。こういっては何ですが、表に出るエルゼヴェルトなのではないでしょうか?」
「なぜ、そう思うのだね?」
「相続法ですわ。通常、正式な婚姻から生まれた嫡長子が相続権一位のはずです。でも、王家はその限りではありません。我々には秘されている王室法により、その相続が正しいかどうかが決まっています。そして、だいたいの場合、エルゼヴェルト公爵姫が産んだ子供は順序を覆すのです。まるで、エルゼヴェルトの血こそが王位継承の理由であるかのように」
私は陛下に視線で問いかける。
それは、なぜなのかと。
「気付いたのは、それだけかい?」
陛下はそれだけでは答えてくれる気がないらしい。
「……もう一つあります」
だから、私も仕方なく最後の札をだす。
「何かな?」
これは、少し曖昧で自信がない。けれど、大事なのはそれをさも当たり前のように言い切ること。
「優遇されるのは女児だけです。これだけ血を交わし、王家のスペアとさえ言われるのに、直系王族が断絶した暗黒時代……後にランティス1世となったのはフェルディス公爵家の嫡男でした。……ダーディエを姓に持つ王族達をさしおいてなぜ彼が玉座についたのか……それは、彼の妻がエルゼヴェルトの公爵姫だったからなのではありませんか?」
「ああ……ほとんど満点だよ、ティーエ、素晴らしい」
陛下は手を叩いた。足を踏み鳴らす。まるで行儀の悪い酒場でのように振舞う。
「そうだとも。そなたの言う通りだ。ランティス1世が玉座についたのは、エルゼヴェルトを妻にしていたからだ。エルゼヴェルトというのは、本来、その血をつないできた女児だけを言うのだ」
「その血?」
「そうだ。……エルゼヴェルトの初代は、系図上では、建国王の王妃の弟にあたる。だが、我らの認識においては、エルゼヴェルトの初代というのは王妃殿下をいう。エルゼヴェルトの初代公爵は王妃殿下のお産みになられた王女を妻とした……この方が二代目だ。三代目というのは二代目の王女が産んだ姫だ」
「母系で考えている、と?」
「そうだ。男では、時に血が途切れることがあるからな……自身が知らぬ間に」
そうですね。
これだけ王家が代を重ねていれば、途中、そういうこともあったかもしれません。
「エルゼヴェルト公爵家というのは、真のエルゼヴェルトである姫達を守りはぐくむ為にある。だから、エルゼヴェルトは玉座についてはならないのだ。これは建国王の遺言でもある。エルゼヴェルトが王家のスペアと世間は言うが、それは物を知らない人間の言うことなのだよ」
すいません。私、それを信じてましたよ。もう絶対に口に出さないけど。
「そして、真のエルゼヴェルトの血というのは細いものだった。それはもう最初からわかっていたのだがね……」
女系ですから、男系に比べれば当然だと思います。ダーディニアのみならず、どの国においても出産は未だ危険を伴う。ましてや、血の濃い大貴族ともなればそれは更に危険度を増す。
「そして、その血はもう何代も、たった一人しかその血を継ぐ人間を生み出せていなかったのだ」
ああ、そうなのか、と。今、やっと私はわかった。
「……そして、私が、その最後の一人なのですね」
「そうだよ、ティーエ」
陛下は静かに笑った。
エレアノール妃、エフィニア王女、そして、わたし……祖母から母へ。母から娘へ……母系で守り継がれるエルゼヴェルト。
その名の本来の範囲は、随分と狭いものらしい。
「……その、今の事の発端となったその当時、エリザベート姫だけがエルゼヴェルトだったのですか?」
「正確にはもう一人いた。グラーシェス公爵妃だ。だが、彼女は女児を産まなかった……その当時、既に彼女は妊娠が難しい年齢になっていたから、実質、エリザベートだけだったといてもいい」
「一代も途切れずに母系でつながってなくてはならないのですか?」
「いや……建国祭の儀式で認められた乙女は、その資格があるとみなされる。といっても、先ほどのそなたの言葉を借りるとするならば、それは、『ほとんどエルゼヴェルトといってもかまわない血の濃さ』を持つ者の中のごく一部の者しか該当しないらしい」
このあたりはわたしたちにもわからないのだ、と陛下はおっしゃる。
「だから、私たちはそなたたちを……真のエルゼヴェルトの血筋を守ることを最重要視している。そなたたちは、間違いなく扉を開けるのだから」
「扉を開く?」
陛下が何を言い出したのかよくわからない。
「エルゼヴェルトとは、本来は、エル・ゼ・ヴェルートという。意味がわかるかね」
「姫と鍵……いえ、鍵の姫?」
旧帝國語で『姫(エル)』『鍵(ヴェルート)』だ。
私はそんな単語を聞いたことがなかったから、おずおずと答えた。
「正解。我らはその儀式を経た娘を『鍵の姫』と呼ぶ。それがエルゼヴェルトという姓の語源であり、本来の意味だ。……それは、扉を開けることからきている」
「扉?」
「そう……鍵の姫にしか開けない封印の扉があるのだよ」
「は?」
「この王宮に三箇所、地下にも二箇所。それから、大学都市にも判明しているだけで二箇所。ターフィッドの遺跡にもそれがあることが判明している。帝國時代の遺跡の最奥はだいたいがその封印の扉だ」
わたしたちだけが開くことのできる扉。
「なぜ、エルゼヴェルトだけがその扉を開けるのですか?」
「……さあ。仕組みはわからない。一説には、その扉は妖精王によって封じられたのだと言われている。妖精王の封印というのは、世界中にあるのだ。……どんな屈強な兵士にもあけることができず、何をしても決して破壊することができない。だが、鍵の姫がそれに触れればたちどころに開くのだ。……初代王妃が妖精の姫であったといわれるのはそのせいだ」
なるほど。おとぎ話にも理由はあるらしい。
「では、私が触れればすぐに扉は開くのですか?」
「いや。それには儀式が必要なのだ。建国祭の儀式を経ることによって、それが可能になる」
そんな意味のあるものだとは……ナディに聞いたときはただのセレモニーだと思ったのに。
っていうか、どんな仕組みなんだろう?
だって、この世界には魔法とか、そういうどんな不思議もそれで解決!というような都合の良いものがない。
例えば、私の記憶の中にあるものでそれに近いものを探すとしたら、何らかの認証システムのある自動ドアだ。
そして、何らかの認証システム……諮問認証も、音声認証も、網膜認証も個人識別のものであって、血統を見分けるものではないはずだ。
(もしかして、建国祭の儀式の中で個人識別の登録するんだろうか?それを血筋と絡めてるだけ?いや、それにしては厳格すぎる)
母系でのつながりのみと限定されるほど、『エルゼヴェルト』という血統は厳しく守られている。一代でもそれを離れれば、基本、それは認められないものなのだ。よほどの例外……建国祭の儀式での認証……がない限り。
本当は、そんなにやりたがっているのなら、あの役目はナディに譲っても良いと思っていた。また翌年やればそれでいいと思っていたから。でも、ただのお祭りのセレモニーではないかもしれないとなると、私の一存で代わるというわけにはいかないだろう。
「……エリザベート姫はその儀式を済ませていたのですか?」
「ああ。そうだ。……鍵の姫が他国にあるなどと考えただけでぞっとする出来事だった。わが父は、何度エリザベートを殺そうとしたかわからない。そのたびに、エルゼヴェルト公爵が懇願した。エレアノールにはまだ
母が必要だと。エレアノールが乳離れした後は、この老いぼれに免じてエリザベートを助けてくれ、と。そして、彼が亡くなってからは、その息子が願った。そなたの曽祖父と祖父だがね」
そなたの曽祖父と祖父はちゃんと理解していた。だが、そなたの父はまったく理解していないのだよ、と陛下は嗤う。
「あれは知っているくせにわかっていない」
奇妙な表情だった。
皮肉げな笑みに、どこか憐憫の情が浮かぶ。
「この状態に、今もっとも責任があるのが私であることを私は否定しないが、だが、何よりも最も責任があるのは……自らの責任を果たさなかったエリザベートだ。そして、そのツケを払わされることになったのが、彼女の娘であったティーエ……君ではない。父の第四妃となったエレアノールだった。エレアノールは、母親が果たさなかった義務を果たす為に、生まれたその瞬間から、我が王家に嫁ぐことが定められていた。意地の悪い言い方をすれば、エリザベートは己が幸せの為にわが子を犠牲にし、祖国を裏切ったのだ。……我が父は彼女の帰国を絶対に認めなかった。当たり前だ。国を裏切り、現在にまで続くこの問題のそもそもの発端は、たかが小娘のはじめての恋とやらにあったのだから」
怒り心頭だった。私の父について口にする時とはまた違う。父に対する憎悪は内向きだが、このエリザベート姫に対する怒りは外向きだ。
(それは、この怒りが私人としてではなく公人……国王としてだからなのだろうな)
私は犠牲者の立場だが、似た様なことは言われている。
(エルゼヴェルト公爵は身分の低い女を妻に迎えたいがために、一人娘を王家に売った、と)
爵位があってもルシエラは、公爵の妻となれる身分ではないと民は見ているのだ。
私は、どちらかというと陛下が私のことを取り上げたのだと思っていたし、それはある意味では正しいのだけれど、でも、売ったというその言葉もまた正しいのだとわかった。
(だって、私に関するすべての権利と引き換えたのだから)
あ、と声が漏れた。
「どうしたんだい、ティーエ」
「いいえ。エリザベート大公妃といい、我が父といい、私の実家の人間は恋の為に道を過る傾向にあるのだなぁ、と」
それを過ちと言ってしまうのはちょっとアレかもだけれど。
「そうだね。……エルゼヴェルトは、実は情熱的な一族なのかもしれない」
陛下が今口にされたエルゼヴェルトは、実家の姓の方をさすのだと思う。
エルゼヴェルトと言われると鍵の姫を言っているのか、姓を口にされているのか判断に迷う。
「年齢から言えば、エレアノールは私の兄……王太子であった第一王子の妃となるべきだった……だが、王太子は拒否した。なぜ問題のない妃を離縁して他国の血が混じった女を妃として迎えねばならないのだ、と……彼は後でたいそう悔いたのだがね」
何しろ、エレアノールは美しかった、と陛下は記憶を辿るかのように目を細める。
「生まれたときに我が王室に入ると定められていた彼女は、乳母も侍女も女官もダーディニアから派遣され、すべてダーディニア風に育てられていた。エレアノールは、夏になると避暑の為にエルゼヴェルトに滞在するのが決まりだった。私はそこでエレアノールと……ティーエと出会ったのだ」
うっとりとした声音。
思い出しているのは、その当時のエレアノール妃の姿だろうか。
(確かにそういう扱いでは、エレアノール妃は、リーフィット公女というよりはエルゼヴェルトの姫だ)
「それほど頻繁に会えた、というわけではないが、幼いころの思い出のいくつかを私たちは共有していた。楽しかった……私はダーディニアしか知らなかったから、ティーエの語るリーフィットの話が好きだった」
幸せな記憶なのだろう。陛下は、小さく笑みを浮かべる。
「それはティーエにも同じことだったのかもしれない。ティーエは、私から王都の話をきくことを好んだ。……私たちが恋に落ちるのに、時間はかからなかった」
それは、幸せな時間だったのだよ、と陛下はつぶやく。
「私は、陛下に願い出た。エレアノールを妃にしたいと。彼女を愛しているのだと」
私はそれを許されないなどとは思っていなかった。と、陛下は口元に自嘲の笑みを浮かべる。
「私は五番目とはいえ正妃腹の王子だった。しかも、私の母はエルゼヴェルトの姫であった。第一王子と第二王子を産んだ姉が早くに亡くなった為に再び王家に嫁いだ直系公爵姫だ。だから私は、幼いころから願ってかなわぬことなどなかったのだ」
正妃腹のこの上なく血統正しい王子……それは、何一つ欠けることない幸せが約束されていたのだろう。
「だが……許されなかった。私ではダメなのだと父上は言った。エレアノールは王太子に嫁がせるのだ、と。私は懇願した。エレアノールが……ティーエが欲しいのだと何度も訴えた。私は王太子と私に違いなどないと思っていた。ただ生まれ順が違うだけだと思っていた。だから、何でもすると縋ったのだ。……だが、父は冷たく突き放しただけだった。『そなたは玉座に就く器にあらず』と。そんなことはわかっていた。エルゼヴェルトの血をひく王子が四人もいたのだ……内心は父は姫を望んでいたのに違いなかった。その為に二人もエルゼヴェルトの姫を娶ったのだ」
陛下の表情は悲痛に翳る。
「当時の私はそんなことも知らず、王位に就くことなど考えたこともなく、ただ甘やかされて育っていた。早く大公となりわずらわしい公式行事から開放されることだけを願っていたのだ……」
私は、何一つ学んでこなかった。と陛下は己を哂う。
「政に関わることなど望まれていなかった。私に求められていたのは、王族として王家を支えること……その最も重要な役割は、血の保持だ。王族か四公家から妻を娶り、国を支える血筋正しい王族を育むことを求められていた。私は、勉強すると言った。ティーエが手に入るのなら、政を学び、この国の為に誰よりも力を尽くすから、と。だが、父は信じてはくれなかった。今にして思えば……私がどれほど学んだところで、ナシェルのようには到底いかなかっただろう。父にはその事がわかっていたに違いない」
殿下は別格だと思うと私は思ったが、言わなかった。
それをいったところで、陛下の慰めにはまったくならなかったから。
「だが、私は再び懇願した。第一王子がティーエの顔を見ることもなく拒んだことで、その身が宙に浮いたからだ」
だんっだんっと強く床を踏み鳴らす。
諦め切れなかったのだ、という呟きが聞こえた。
この方にもそんな情熱があったことを、私は不思議に思った。
「だが、私は再び拒否された。父王は言った。そなたでは守りきれまい、と。その時の私には、その言葉の意味がわからなかった。そして、私達は逃げ出した……二人でならば、どこででも生きていけると思っていた」
「駆け落ちを、なさったのですか?」
そんな話、聞いたことがなかった。
陛下が玉座についたから、なかったことにされたのだろうか?
「駆け落ち、と呼べるほどのものではなかった。たった三日で連れ戻された。私とティーエが不在だったことすら、明らかになっていなかったよ。ただ、戻ったときには、ティーエが第四王妃となることが決定しており……私は外遊に出された。三年間、王都に戻ることをゆるされなかった」
あの時が一番苦しかった、と呟く。
「そして、旅の空で私は、ティーエが女児を出産して亡くなったことを聞いた。……絶望したよ。もう二度と会えないのだと……もうその声を聞くことも、その姿を見ることさえもできないのだと。葬儀に出席することすら許されなかった。だから、決めた」
「何を、ですか?」
この答えを、たぶん私は知っている。
「そなたは知っているはずだ」
陛下のまなざしが、私をまっすぐと射る。
「……ユーリア妃殿下との婚姻、でしょうか?」
「そうだよ、ティーエ、やっぱり君はわかっているのだね」
熱を帯びた瞳が輝きを増す。
ダーディニアの血を持たぬユーリア妃殿下と直系王子である殿下が婚姻することは、エルゼヴェルトの公爵姫が外に嫁ぐのと同じくらいありえないことだったのだ。
第五王子だから許されたと噂されていたが、本来は絶対に認められないことだったのだ。
これはもう、エルゼヴェルトがどうこう以前の問題だった。
わかりやすく言えば、ユーリエ妃殿下との婚姻は陛下にとっては貴賎結婚に等しい意味を持っていたということだ。
貴賎結婚。身分が大きく隔たる婚姻を言うが、これはユーリア殿下の身分を低いと言っているわけではない。
エルゼヴェルト……鍵の姫の血統を守ること、その血をしっかりと自家と重ね合わせることを目的としてきたダーディニア王家にとって、エルゼヴェルトの血をひかぬどころか、わかる範囲ではダーディニア貴族の血
すら流れていないユーリア殿下は、まったく論外であり、彼等の価値観外にあったということだ。
ユーリア殿下が今、王妃として誰からも敬愛され、貴族達の間からも自然に王妃としての尊崇を集めていることを考えると、どれだけのご苦労と努力をしてきたのだろう、と考えてしまう。
もし、陛下が玉座におつきになることがなかったならば、きっと、ナディル殿下の代からは、表面上は王族公爵家と遇されたとしても、その実、ダーディニア王族と呼べるほどの血の濃さはないとみなされただろう。
「私は王族であることを捨てたかった……でも捨てきれず……引き換えにユーリアとの結婚を認めさせた。これで、私は無理でも私の子供たちは血の頚木から逃れることができるのだと思った。君の言うとおりだよ、ティーエ。王家が表に出るエルゼヴェルトとはうまい言い方だ。王家の姓はエルゼヴェルトでもおかしくないほど、かつての王家とエルゼヴェルトは近しい血を持っていた……我が父王の時まで」
「ですが、陛下が玉座におつきになったことで、その様相ががらりと変わった」
「そうだ。元々、私は玉座につけるはずがなかった……だから、ユーリアとの結婚はその時の私のできるささやかな……でも最大の抵抗だった。私は私の血を、この国のためになど使うまいと思っていたのだ。だから、その抵抗の事実だけで、私は我慢しようと思った……ティーエを失ったことと引き換えにできることなど何もなかったが、子らを血統の檻から自由にしたという満足で私は生涯を終えるつもりだったのだ」
でも、私はとことん間の悪い男だったのだ、と陛下は口にする。
「間が悪い、というよりは運が悪いのか……あれほど望み、懇願し、全身全霊をかけて欲したのに手に入らなかった王太子位が私に巡ってきた。何という皮肉だと思ったよ。あんなにその地位があればと願ったときには
、望むことすらかなわずに拒絶されたのに、完全に諦めたその時になって転がり込んできた。……馬鹿共が女をとりあって殺し合いなんかした為に」
ガンガンガンと陛下は足を鳴らす。その怒りをこめるかのように。
この馬鹿共というのは当時の第一、第二王位継承権をお持ちだった陛下の一番目と二番目の異母兄君達のことだろう。
(フィル・リンは今も明らかにされない理由による大醜聞だって言っていたけど、女性をとりあっての殺し合いじゃあ、確かに言えない)
「……第三王子殿下は落馬ではないのですか?」
「公にはされていない事実だが、バカ共が取り合った女は、兄上の婚約者だった。そのせいで、王太子の家臣が兄上が企んで殺し合いをさせたのだと思い込み、馬に細工をしたのだ。結果、兄上は落馬し、お亡くなりになった。全ての原因が、女をとりあっての殺し合いだというのは間違ってはいまい」
陛下にとって、同母兄弟である第三王子殿下だけが兄上と敬称で呼びかける対象らしい。
「あの年は、ダーディニアにとってまさしく『魔の一年間』であった……王太子の地位が転がり込んでき私にとってもだ。私は、何度も固辞した。固辞というよりは、話に耳を貸すことすらしなかった。ユーリアを妻にしている私には国王の資格はないのだと。父王とて、私は玉座につく器ではないと言ったはずだ、とね」
あの時の言葉をそのまま返してやったのだ、とつぶやく陛下の横顔は、驚くほどに邪気がなかった。
「だが、父王は冷静な方だった。ユーリアを離縁しろとは決して言わなかった。それを言ったら絶対に私が玉座にはつかないことをわかっていたのだろう。それを言った人間とは、私は今もって口をきいていないのだからね」
陛下は好き嫌いが激しいのだと言われる。たぶんそれは、こういうところからきているのだろう。
「それが、なぜ一転して玉座におつきになられたのですか?」
「ユーリアを認めるといわれたのだ。正式に第一王妃に任じてかまわない、と」
「……それは異例中の異例では?」
ダーディニア王室は血統をとても重視しているのだ。
それを、貴賎結婚に等しい間柄を認め……エルゼヴェルトどころかダーディニア貴族の血すらひいていないユーリエ殿下を第一王妃にだなんて、随分と思い切ったものだ。
ダーディニア王室史上、四公爵家の血をひかぬ王妃は……エルゼヴェルトの血をひかぬ王妃はユーリア殿下だけだ。
「その通りだ。……父上は、私の数段上手をいかれる方だった……最初から私がかなうはずもなかった。私は秘密を明かされ、玉座につくことも、他の妃を迎えることも拒むことはできなくなっていた」
「秘密、ですか?」
鍵の姫以外の王家の秘密とは何なのか。
「王家の秘密……そして、建国の真実。建国の真実とは鍵の姫と表裏一体のものだ。私はうなづくしかなかった。私は強くない。建国以来、連綿と繋いできたものを私の手で断ち切ることができなかった。そして……どれほど疎んじたとしても私は王子だった。王の子として生まれたのだ……この国に対し、責任がある。それを捨て去ることができなかった」
大事なことだ、と思った。
陛下の言葉の一つ一つが、真実の欠片だった。
「だが、私は最後の抵抗をした。……私が玉座についたとき、ナディルの立太子を認めるのならば、王太子になると言ったのだ。私は、頑強な血統主義者の父をはじめ、彼らは絶対に許さないと思った。だが……父はうなづいた。それでいい、と」
私は泣きたくなったよ、と陛下は肩を落とす。
「他の妃に子供が生まれても、絶対に私は王太子はナディルしか認めないといったのに、彼らもまたそれにうなづいた……自分の娘や妹たちに子が生まれても決してその立太子を望まないと。私のささやかな抵抗は無駄に終わった」
世間で流布している話とはまったく違っていた。
だって、先王陛下はナディル殿下の優秀さに目をつけたのではなかったのか?
「いや、確かに血統主義者である父の意識を変えさせるくらい、あるいは、老人たちが期待をかけるくらい、あれは……ナディルは優秀だったのだ」
陛下の口から殿下の名が出たこと、そしてそれが殿下を褒める言葉であることに喜びを覚える。いや、だから何だっていうんだけど。
「大学に入学を許される人間はある種の異能者だ。卒業した者などは、頭の中に図書館が丸ごと入っていると言われるほどなのだぞ……そなたは、王太子やシュターゼンが身近にいるためにわからないのかもしれないが、ヴェラ……大学の卒業資格を持つ者など、人としての種が違うのではないかとまで言われるほどの頭脳を持つのだ。そしてそんな人間がごろごろといる大学内にあってさえ、ナディルは天才と言われた……そもそも、十歳にもならぬうちに入学が許可されるなど、前代未聞だったのだ」
殿下が想像以上に天才であったことを聞かされるが、それでもピンとこない。
すごい!とは思うものの、殿下は殿下だ。
「父は考えたのだ。普通に考えれば、ナディルに王座に就く資格はない。だが、そもそもダーディニア王家とは何なのだ?と。父はどこまでもこの国の王だった。我が王家は鍵の姫を守るためのものなのだと考えた。……鍵の姫を守るのは、血のみにあらず、というのが当時の父王の結論だった。当時の鍵の姫はエフィニアだ。そしてそのエフィニアを守るのに一番ふさわしいのは私だと父は考えた。私に足りない能力は息子であるナディルに埋めさせればいい。そして次の鍵の姫を守るに足る技量をナディルは持っている、と認められていた」
「反対はなかったのですか?」
「あったさ。だが、彼らだって納得した。これまで、直系王族が途切れたことは二度ある。その時だってそうしてきた……王族の血も四公爵の血も、しょせん、鍵の姫を守るためにあるものだ。だから、エフィニアから生まれる最初の女児は、絶対にナディルの妻になると定められていた」
生まれる前から私と殿下の結婚は決定されていたというその事実に軽くめまいがする。
ちなみに、それを運命だなんて喜ぶような能天気さを私は持ち合わせていない。
「もし、女児が生まれなかったらどうなさったのです?」
「その為の第二王妃だ。もし、ナディルの妃になる姫が生まれなかったら、ナディルは廃嫡になることが決まっていた」
ぶるりと身体が震えて、私は自分自身を抱きしめる。
「……殿下はご存知なのですか?」
「さて……あれのことだから、知っているのかもしれないし、知らないのかもしれない。どちらにせよ、今となってはどうでもいいことだ」
そなたはここにナディルの妃としているのだから、と陛下は哂う。
「そなたはこの世でただ一人の『鍵の姫』。そして、ダーディニアの王権をナディルに与える姫である」
建国神話と一緒だな、と陛下はおっしゃった。
「……鍵の姫がイコール王権を与える者なのですね」
「そうだ」
眩暈がするような気がした。
何というか……映画や小説とかで言うならば、設定盛りすぎ。どれか一つで十分ですよって思う感じ。
「王家は鍵の姫を……そなたを守るためにこそあるのだ」
「……陛下は守ってくださいませんでしたね」
つい、皮肉が口をついてでる。
だが、陛下は口元だけでわらった。
「そんなこともない。傷つけもしたが、守りもした。差し引きゼロにはならないだろうが」
「なりませんから」
こんな風に軽口を叩けるのだ、と思ったら、何かもうそれでいいかなという気になってくる。
「鍵の姫の……その最初の方、初代国王の王妃というのはどういう方なのですか?」
エル・ゼ・ヴェルト……ヴェルトは『鍵』と訳すが、古くは『宝』という意味もあった。
『宝の姫』……彼女を自分の宝と建国王は思ったのではないだろうか。
それはもう歴史の彼方の話だけれど。
「妖精の姫と言われている初代国王の妃について、伝えられていることはほとんどない」
陛下は、そなたはどこまで気付いているのだろうね、と苦笑して口を開いた。
「はい」
だからこその妖精の姫なのだ、と私は解釈した。
身分らしい身分がないから、おとぎ話でごまかしているのだろうと。
「だが、私たちは知っている。……建国王は、彼女を守護するためにダーディニアという国を興したのだ」
建国史の最初にはこう書かれている。
『建国王は、地が荒れることを嘆く妖精の姫の心を守るために立った』と。
歴史だよ?おとぎ話とか物語ではないんだよ。
妖精の姫はない、と誰もが思うだろう。
「秘されている初代王妃の名はアルティリエ=ルティアーヌ……姓はない。彼女には姓など必要なかった」
「なぜですか?」
背筋がぞくりと震えた。
何か、予感のようなものがあった。
「この世界を統べし一族の生まれだったから……私はエフィニアがそなたにその名をつけたと聞いて、運命の皮肉を感じずにはいられなかった」
ぞくぞくとしていた。
逆なのだ。まったくの逆だった。
『この世界を統べし一族』その言い回しを私は知っている。それは、失われた統一帝國の皇室のことだ。
「彼女は……アルティリエ姫殿下は、統一帝國の最後の直系皇女だった。その名は歴史書には必ずのっている」
帝國では直系皇女を姫殿下という敬称で呼ぶ。直系皇女と認められるのは、四后妃から生まれた皇女だけ。ダーディニアの王室体系というのは、統一帝國のそれを一部取り入れていたから、似ているシステムがいくつかある。
「最後の皇女……」
「そうだ。……あの恥知らずの帝国が自らが統一帝國の後継であるとどれだけ名乗ろうとも、それはただの僭称だ。寄せ集めの帝国貴族が建国した国の自分勝手な言い分にすぎない。だが、ダーディニアは違う。最後の皇女殿下の血と鍵とを今日まで正しく守護してきた。我らは鍵の姫を守る影の騎士であるのだ」
我らがそれを声高に語ることはないがね、と陛下は言う。
とまらない足踏みは、陛下が実は興奮していらっしゃるからなのだろうか。
「なぜですか?」
「ダーディニアは帝國直系の血を守るために建国されたのだ。決して後を継ぐためではない。降りかかる火の粉を払うことはするが、何もわざわざケンカを売ることはないのだ。名前などどうでもいい。我らのもとには鍵があるのだから」
名より実を取るということなのでしょうか。
「そして、鍵があるからこそ、大学がこの地にあるのだよ」
「大学、ですか?」
思いがけないことをいわれた気がした。
「そうだ。まあ、これは王太子に聞きなさい。あれのほうがずっと詳しいのだから」
陛下のまなざしに、どこか私をからかう色があったように思えた。
「あと、そなたはもう一つ覚えておきなさい」
「はい」
私は姿勢を正す。わざわざそんな風に言うなんて、大事なことなのだと思ったから。
「王太子には継承権がない。王太子の継承権はそなたと婚姻するから生まれるものだ。だからこそ、この国はそなたが持つと言った。エフィニアが亡い今、王太子に継承権を与えることができるのはそなただけだ」
「でも、そんなことは……」
「国王以外は四公爵だけが知る。彼らもまた、鍵の姫を守る者達である。だが、それは当主しか知らぬこと。たとえその嫡子であっても公爵位に就くまでは知らされない。……そなたが妃にならなくば、王太子は玉座に就くことはない。双子のどちらかが玉座に就く。それは決定事項だ」
陛下は、やはり国王陛下なのだ。と、不意に思った。
自分を無能だ何だとおっしゃるけれど、ちゃんと国王陛下の仕事をなさっているではないか、と。
(殿下は、ご存知だったのかな)
だから、いつも国王たる重責は我が身のものにあらず、と言っていたのだ、と思う。
「王太子殿下は陛下の御子であるのに……」
「ああ。私はそれを疑ったことはないな……ただ、我が国の国法でそう定められているというだけだ」
「……それを、王太子殿下はご存知ないのですね」
「ああ。……万が一、王太子が玉座についたとしても、王太子の子はそなたの子以外に王位継承権が発生しない。たとえ、相手が正式に第二王妃となったとしてもだ」
「『エルゼヴェルトを母にも妻にも持たぬ王は存在しない』」
脳裏に浮かんだ言葉を、私は無意識になぞる。
「そうだ。もはや、エルゼヴェルトはそなたただ一人だ。そなたが子を産まねば、この国は終わる。他の女が産んだ子を玉座になどつけてみろ。それだけで内乱突入だ。我らは鍵の姫の騎士たる誇りを持っている。鍵の姫の血以外を守る気などない。……まあ、滅びるのなら、滅びてしまえと私は思っているがね。つまるところ、この国の行く末はそなたの選ぶ先にあるということだ」
何でこの国の行く末とかという大それたものを、私が選択しなければならないのか。
「我らはまもるためにこの国をつくった。……まもるべき者が無くなれば滅びるが道理」
陛下はやわらかく微笑う。
「……滅びたりはしませんから」
「そうかい?」
「はい。……子供、いっぱいつくりますから!今はまだ無理ですけど!」
この身体はまだ幼い。だからこそ、まだ結婚式が行われていないのだ。
……いったい何の羞恥プレイなんだろう。自分で子作り宣言なんて。
「それは楽しみだね」
くすくすと陛下は笑う。
からかわれているとわかっているけれど、それでも顔が赤くなるのがとめられない。
でも、私は更に告げた。ここで退いてなるものか、だ。
「子供なんて、いくらでも作りますとも。殿下だってきっと協力して下さいます。それで、この王宮中に子供の声を響かせてあげます。うるさいって言われるくらいに」
「おやおや……それはすごいな」
「だから、安心なさってくださいね……」
私は笑った。それから、小声で囁くように言った。
「おじいさま」
この方に、いろいろと思うことはある。
けれども、人形の顔ではない心からの笑顔を覚えておいてもらいたかった。
陛下は目を見開いて、それで、同じように笑ってくださった。
「……そろそろ行かねば」
「はい」
私も立ち上がった。
少しだけ凍えた身体でそっと礼をとる。
「……ではな」
「はい」
陛下は、祭壇を降りて扉に足を向けた。ちがうルートでお戻りになるらしい。
私はその後姿を見守った。
涙でその姿がにじむ
どうにもならなかった。
そう。もう、どうにもならない。
誰も何もできない。
だって、終わりは、もう、ずっと前に決まっていたこと。
陛下が最後の賭けをはじめたそのときには決まっていたこと。
私は、ただ最後を決めただけ。
陛下の死で終わるはずのそれを無理やり今にしただけ。
これでよかったのだと思う反面、これでよかったのかとも迷う。
(ううん。これで、いい)
無理やりな終わりであっても、終わりなのだと決めれば物事はそこに向かって流れてゆく。
陛下だって明るい顔をなさっていたと思う。
妃殿下がどうなるかはわからないけれど、きっと、陛下に最後まで寄り添っておられるだろう。
何が変わったわけではない。
なのに、私の中で確かに何かが終わって、そして何かが始まった。
だから、私はまっすぐと顔をあげる。
もう、人形姫ぶりっこは必要ない。
「……フィル=リン?いるのでしょう?」
私は暗がりに呼びかける。
コンと小さな音がして、祭壇の影からフィル=リンが姿を現した。
「姫さん、あんた、俺を殺す気かよ!なあ、あんた、俺のこと嫌いだろう?そうなんだろう!」
なんで陛下がくるんだよ。そんなこと、俺聞いてない。全然聞いてない!とぶつぶつと呟く。
何でだろう?軽くパニックを起こしている。
「そんなことないよ。別に。……ああ、でも、今夜のこれは内緒ね」
私はそっと唇の前に指をたてる。
シオン猊下もユーリア妃殿下も、私が一人で来たと思っておられたようだが、あれだけいろいろ言われていて一人で宮の外に出るほど私は無謀ではない。
(保険なんだけどね)
見た目どおりの少女ではない私はズルいのだ。
フィル=リンという保険をかけておいた。
壇上にあがったのも単に温かいからというだけの理由ではなかったのだ。
「はいぃ?」
「だって、抜け出したことがバレたら殿下に怒られるかもしれないもの」
「そりゃあ、当たり前」
「だから、内緒」
ね、と私は上目遣いに見上げる。
「いや、内緒にったってさぁ」
「……ねえ、陛下も同じ秘密の通路を使って来たのでしょう?どうしてみつからなかったの?」
渋るフィル=リンに、私は話をかえる。
「そりゃあ、必死でほっせえ隙間に隠れたからだろ。あのな、中は広いの。別に上と変わらない。迷路みたいになってんし、隠れるとこ少ねえけど。……くっそ、ほこりまみれだ」
髪や背中にクモの巣や埃がまとわりついていた。
「やだ。ここではらわないで。汚れるわ」
今夜、ここには誰もいなかったんだから、と私が言うと、フィル=リンは憮然とした表情になる。
「なぁに?」
「あのよ。姫さん、あんた、陛下が来るって知ってたのか?」
「まさか」
でも、予測はしていた。
五分五分だと思った。
たぶん、妃殿下から本音を引き出せたから、陛下が現れたのだろう。
「ねえ、話、どこまで聞いていた?」
「あー、妃殿下の話はほとんど聞こえたけどな……陛下の話は前半はともかく、後半……姫さんが陛下を追い詰めてからはほっとんどアウトだ」」
「どうして?」
「陛下の貧乏ゆすり?あの足踏み鳴らすのが、隠れてたとこにおっそろしく響くんだ。耳の奥がまだガンガンとしてやがる」
「……そう」
良かった、と思った。王家の秘事がいろいろな人の耳に入るのはよくないだろう。
これまで真実だと思っていたことが、実はまったく正反対の意味を持つこと。そんなことは誰も知らなくていい。
「……目に見えることだけが真実ではない、か……」
私は心優しい王子様の言葉を思い出す。
確かにその通りだった。
「何の話をしてた?……最後、何か和解みたいなことになってたのはわかってる。でも、ひどいこと、言われたりしたんだろう?」
フィル=リンは……殿下は、陛下が私に対する感情が愛憎半ばすることを承知していたのだ。だからこそ、こんな風に心配をする。
「ううん。大丈夫。私、結構強いから」
私はにこっと笑ってみせる。
愛想笑いといえど、この顔で笑うのはとても有効なのだ。
多少なりとも『私』を知るフィル=リンでさえ、頬が緩むくらいに。
(陛下は、やはり陛下なのだ……)
フィル=リンの努力は無駄なものだったらしい。
せめてもの情けで私はそれを言わないことにした。
「で、これからどうすんだ?姫さん」
「……とりあえず、戻ります。それで、私は熱をだしたことにしてください。元々、風邪をひいたことになっているのだから問題ないはずです」
「何するんだよ」
「寝るんですよ。何だかすごく眠くなりました。……一睡もしていないんですよ」
難しい話はもう終りだ。
フィル=リンが胡散くさげな表情で私を見る。
「なあ、俺はいいけどよ、ナディルには話してやってくれよ」
「え?」
「陛下との話」
「どうしてです?」
どこまで殿下に話していいか、ちょっとまだよくわからない。
あまりにも情報量が多すぎて、何か飽和しちゃっているとこがあるから。
「どうしてって……姫さん、あんた、ナディルの嫁なんだから!」
フィル=リンは深い溜息をつく。
「わかってますよ。私、殿下、大好きですもん」
私は笑う。何か惚気てるっぽいかなぁと思ったけれど、いいんだ。惚気でも!
「ちょっと待て。なんで俺に言うんだよ。ナディルに直接言ってくれよ」
「殿下には恥ずかしくて言えません」
だって、本人になんていえるわけないじゃないですか。
すっごくテレます。
「なあ、あんたやっぱ、俺のこと嫌いだろ!」
「別にそんなことありませんよ」
「俺、絶対にナディルに殺されるだろ、これ」
「言わなきゃいいんですよ」
多少の秘密があったほうがスリリングでいいですよ、と言ったら、そんなもんいらねえと言い返された。
そして、この夜が、私が陛下と言葉を交わした最後となった。
2013.10.26 更新