目が覚めて三日目の朝だった、
(やっぱ、だめか……)
どうやら夢オチではなかったらしい。
この三日の間に、いろいろなことがわかった。
まず、この身体……というか、今の私は、正真正銘のお姫様だ。
アルティリエ=ルティアーヌ=ディア=ディス=エルゼヴェルト=ダーティエ。
この国の貴族の中の貴族とでも言うような四大公爵家の筆頭たるエルゼヴェルト公爵を父に、現王の妹であるエフィニア王女を母に持つ由緒正しいお姫様。年齢は、12歳になったばかり。
そして、ここは外国どころじゃなくて異世界だった。
異世界……異なる世界。ほんと、その通りだ。
目が覚めてから三日しかたってないけど、でも、ここが私の記憶にあるのとはまったく違う世界だということは、すぐに私にもわかった。
なんでかっていうと、電気がないのだ。
世界の中には、もちろん電気がない場所だってある。けれど、この室内の文化水準から考えて電気がないという場所は、おそらくは存在しない。
私だって世界中のすべての国を知っているとは言わないけれど、でも、この国はあの世界のどこにもないと断言できる。
……電気がないから、当然エアコンとか、照明とかもない。だってね、この部屋のシャンデリアはね、油でつくんだよ。夕方になると、ながーい梯子をもって油いれにくる人と火を灯しにくる人がいるの。
照明が、蝋燭とランプだって知った時、軽くカルチャーショックを受けたのは内緒だ。
何かするたびにカルチャーショックの連続なので、変な話、ショックを受けるのにもだんだんと慣れつつあるけれど。
「姫様、お目覚め……あら、もう着替えてしまったのですね」
入ってきたのは侍女のリリアだ。
彼女は、私についている侍女のまとめ役のようなものをしているみたいで、他の子たちは、いつもリリアに指示を仰いでいる。
黒いベルベットのシンプルなワンピースを白のレース衿とカフスで飾ったお仕着せを身につけ、ヘッドドレスももちろん白。いわゆるメイド服と呼ばれるデザインとよく似ているけれどコスプレでも何でもない。これは、彼女達にとっては、ごく当たり前の制服姿なのだ。
私はこくりとうなづく。
「朝食はこちらにお持ちしますか?」
もう一度うなづいた。
リリアはかしこまりました、と言って引き下がる。
状況がよく飲み込めるまでは口を開かないようにしようと思ったんだけど、未だにそれが続いているのは、状況がいささか複雑すぎてどうしていいかわからないからだ。
大事になってしまって口を開くタイミングを逸してると言ってくれてもかまわない。
(まさか、ここまで大騒ぎになるなんて……)
私の置かれている状況や周囲の事情がだいぶわかってから、まずかったかもしれないとは思ったけれど、でも……やっぱり、だんまり決め込む以外に手段はないような気もする。
(……どう考えても殺されかけたっぽいし)
あちらの世界で私が交通事故に遭ったように、こちらの世界でアルティリエはバルコニーから落ちたらしい。
『らしい』としか言えないのは、私がそれを覚えてないから。
現在の私は、事故の衝撃で記憶を失い、更に声も失っている、ということになっている。
リリアに限らず、私には何人かの侍女がついているのだけれど、彼女たちが私に話しかけたり問いかけたりする言葉から幾つかのことがわかっていた。
(事故、だとは思ってないんだよね……みんな)
侍女たちは、ベランダから落ちたことを『事故』と表現はするものの、みんな、どこかそれを信じていないようなところがある。
アルティリエが不注意でベランダから落ちたとは誰も思っていないのだ。
(それに、一人だけ……)
殺されかけた、と口にした子もいた。
でも、それも納得だ。だって、バルコニーから落ちたと言っても、このエルゼヴェルト公爵の居城は湖の小島の上に建っている城なのだ。
アルティリエが落ちたバルコニーは三階。三階っていっても普通の三階建の家とかっていうレベルじゃなくて、ビルで言えばその倍くらいの階数……五、六階にあたるのではないかという三階だ。それにプラス崖の分の高さがあると考えたら、10階建マンションの屋上から墜落したのと一緒くらいだと思う。
ちなみに、下は真冬の湖だ。
(ホント、よく生きていたと思うよ)
私が滞在している部屋のベランダ……ちなみに一階……から下を見てつくづく思った。
普通だったら絶対に助からない。アルティリエが助かったのは、アルティリエがまだ子供で体重が軽かった事と、とてつもなく強運だったからだ。奇跡的っていってもおかしくないと思う。
ただ、中身が今の『私』になっている点で本当に助かったかっていうところはいささか微妙ではあるけれど。
(顔見たこと無いけど、三番目のお兄さん助けてくれてありがとう……)
冬の湖でボートを浮かべて、どこぞの貴族のお嬢さんとデートしていた三番目の兄が即座に掬い上げて助けてくれたのだと噂できいた。彼がいなければ、墜落からは助かっても湖で溺死、あるいは凍死だっただろう。
その点でも幸運が重なった。
こんな奇跡のような幸運は、本当だったら宝くじを当てることに使いたいくらいだ。
(贅沢は言わないから、命の危険のない安全なところで生活したい……)
ここは、アルティリエの生家だけれど、でもアルティリエにとって絶対に安全な場所ではない。
(だって……)
つまり、アルティリエであるところの私は、かなり複雑な立場に置かれているのだ。
この国では、フルネームを聞けばどういう血筋の誰なのかがわかるようになっている。
簡単な区別だけど、名前が長ければ長いほど身分が高いと判断していい。一般市民は名も姓も一つずつだし、称号もない。
今の私のフルネームは、アルティリエ=ルティアーヌ=ディア・ディス=エルゼヴェルト=ダーティエという。
アルティリエ=ルティアーヌというのが名前。アルティリエ=ルティアーヌ……これは『光の中で輝く光』を意味する。
古代語で書かれた聖書の冒頭部分からとっている。
つけたのは、私の母だ。私を産むのと引き換えのようにして亡くなった母と私のたった一つの絆が、この名前だ。
そして、ディアというのは、王族を意味する称号。
『ディア』は、王の子・孫に与えられる。例えば、王子や王女と結婚してもその配偶者には与えられない。私の『ディア』は王女である母の子であり、ひいては前王の孫であるから。
『ディス』は、妃という意味で、王族と四大公爵の正式な結婚による配偶者にのみ与えられる称号。つまり、アルティリエは既婚者なのだ。
アルティリエの夫は、現国王の王太子、ナディル殿下。
王太子ということは未来の王様がほぼ確定。その正妃だから、女性の身分としては最高の部類に属すると思う。
でもね、政略結婚に年齢は関係ないというけど、アルティリエはまだ12歳だよ、何なの12歳の人妻って!私なんて、33歳独身だったのに!
まあ、個人的な事情はさておき、アルティリエが結婚したのは生後7ヶ月だったというから、もう何もいえないというか……私にはどうこうできるレベルの話じゃない。良いか悪いかを論じるとこ通り越してると思う。
最後に姓。女性の姓は、結婚後は生家と婚家を結ぶからエルゼヴェルト=ダーティエ。
これが未婚だと母の生家と父の生家を結ぶ。私の場合は順番が入れ替わるだけで組み合わせは一緒だ。
エルゼヴェルトというのは父の姓になる。
アルティリエの父は、現エルゼヴェルト公爵レオンハルト=シスレイ=ヴェル=アディニア=エルゼヴェルト。
エルゼヴェルト公爵家はダーディニア王国有数の大貴族で武門の誉れ高い家柄でありながら、一族のうち必ず一人は教会に入り高位聖職者となる。
また、学問にも秀でた者を多く排出し、学者として名を馳せる者も出るほど。
現公爵は将軍職を預かり、彼の従兄弟は教会で大司教の地位にある。
(つまり、とっても有能な一族だってこと)
だからこそ降嫁が実現した。
母の姓であるダーディエ。それは、このダーディニア王国の王家の姓だ。
私の……アルティリエの母は降嫁した前王の末王女エフィニア=ユディエール=ディア=ディス=ダーディエ。
直系王族だから母の姓は一つしかない。
王の子は、どこにいっても王の子であるという意味だという。
エフィニアは先王ラグラスⅡ世の王妃エレアノールの産んだ末姫にして、エルゼヴェルト公爵妃だ。彼女は、アルティリエを産んですぐに亡くなっている。
それが自分かと思うとちょっとどうしていいかわからなくなるけど、アルティリエは、王女と国内有数の大貴族の当主との正統な婚姻の間に生まれたこの上なく由緒正しい血筋のお姫様なのだ。しかも、幼いといえど王太子妃である。
で、複雑なのは、今の私が王太子妃でありながら公爵家の唯一の後継者だってとこにある。
それだけでも私が命を狙われるには充分だろうことがわかる。
(私にはどうしようもないんだけど……)
廊下の方からカタカタと音がしてる。
何度か聞いた音……朝食のワゴンが運ばれてくる音だ。
わーい、朝ごはん!と思ったらおなかが小さく鳴った。
こんな時でもおなかだけはしっかりすく。
(とりあえず、食べてから考えよう……)
私は問題を先送りにした。……逃げたわけじゃない、決して。
2009.05.07 初出
2009.06.09 手直し
2012.01.11 手直し