24
「……ルティア」
西宮への回廊を通り抜けると殿下がいらっしゃった。
「殿下」
私は軽く一礼する。
「……騒ぎになったと聞いたが」
殿下は、私の前に膝を付いて私と目の高さをあわせてくれる。
(子供の扱いに慣れているのかな)
私はたぶん12歳の少女の平均身長より小さくて、殿下は180前後だと思われるので、こういう時、こうして膝をついてもらうか抱上げてもらわないとちゃんと顔を合わせることができない。
「大丈夫です。ナディア姫が皆にいじめられたの」
説明が長くなりそうだったので要約してみた。
「……ナディアが?」
その時点で初めて気付いたのか、殿下はナディア姫にちらりと視線を向ける。
「そうです。だから、私のところに泊まるの。良いでしょう?」
殿下の普通に冷ややかな視線にナディア姫は硬直している。これ、普通状態だから。別に怒ってないから大丈夫だよ。
「だからが、どこにかかるのかまったくわからないのだが……」
「ちょっとした家出です」
「……ここも、結局同じ家の中だ」
「いいんです。……虐められたから、一番安全な殿下の籠の中に逃げ込むの」
「……まったく、君は……」
その後の言葉を、殿下は口の中で小さく呟いた。何ていったのかわからなかったけれど、殿下が仕方がないという風に笑ったので、私も笑った。殿下が笑ってくれるのが嬉しい。
「良いですか?」
「……ああ」
殿下は私の頭をくしゃっと撫でる。頭に触れられるのって大嫌いだったはずなのに、それで嬉しくなってしまう自分が始末に終えない。
『嬉しい』が循環して、殿下にも伝わるといいのに。
「私から、母上とアルジェナ妃には連絡しておく。認めるのはそなたの滞在だけだ、ナディア」
「はい、王太子殿下」
ナディア姫はそっと頭を下げる。
ふーん、王太子殿下って呼ぶんだね。やっぱり異母兄妹だから?
「……それは?」
殿下が私のガウンの裾のシミに目をとめた。
「ああ……紅茶をこぼしました」
「紅茶?……その色が?」
なんか漂白に失敗したみたいな、黄色みがかった色になってる。
「腐ったミルク入りです」
だから飲みませんでした、と言ったら殿下が難しい表情になった。
「……そなたはミルクを使ったか?」
「いいえ」
問われたナディア姫の顔色は蒼白だ。
(ナディア姫はそれどころじゃなかったよ……たぶん)
「リリア、ルティアを着替えさせたら、そのドレスを私のところへ」
「何か問題がありますか?」
まさか、殿下がシミ抜きをして下さるわけじゃないよね。
「…………腐っていなかったかもしれない」
そこまで言われて何を示唆されているかわからないほど鈍くは無い。
いや、あの場でだってそれを考えなかったわけではない。でも、ちょっとあからさますぎるでしょう?
あの場にいた人間が疑われるのが濃厚なんだよ。あまりにも芸がなさすぎると思ったの。
ナディア姫が小さく震えている。
(……何をそんなに怯えているのだろう?)
「大丈夫だよ。死んでしまうほどの毒物じゃないと思うし」
「なぜそう思う?」
殿下の声は厳しいままだ。
「あそこでもし私が死んだり、何かあったら、あそこにいた人が疑われるの当然でしょう?それに、私を狙ったものかわからないし……誰がミルクを使うかはわからなかったんだよ」
アルジェナ妃殿下だってたっぷりいれてたよ。
「……貴女は、狙われていたの」
ナディア姫が首を横に振る。
「え、そうなの?」
「だって、ミルクたっぷりにハチミツか砂糖がないと飲まなかったじゃない。……記憶をなくす前は」
ああ、そうだった。
私より私のことに詳しい人がたくさんいるってどういう状態なんだとかちょっと自分で自分に突っ込みたくなる。
「それ、そんなに多くの人が知ってるの?」
「ルティア、君のその好みは誰もが知っている」
「なぜ?」
「……父上が貴女のその好みの為に農場で何種類もの牛を飼育させ、いろいろな場所のハチミツを取り寄せていらっしゃるからよ」
ナディア姫のその言葉に、国民の大半が君の好物は牛乳とハチミツだと思っているだろう、と殿下が付け加えた。
「…………………やりすぎ?」
「いや。その程度のことで揺らぐ財政ではない。……むしろ、その為に乳製品の市場が拡大し、養蜂技術がさかんになった。贅沢をするというのは別に悪い事ばかりじゃないのだ、ルティア」
それでも、元一般庶民は心苦しく感じるんですよ。
「……まあ、いい。しばらく宮の外には出ないように」
「朝のお茶もですか?」
唯一のプチ外出なのに!
……あれが外出っていうのも哀しいけど。
「……私がそちらに行けば同じだろう?」
「回廊歩いたり、違う景色見たり……アーニャとおしゃべりできないじゃないですか」
アーニャは殿下付の女官。ちょっとだけえらい。確か、王太子付女官長補佐で、よく殿下情報を教えてくれるのだ。
昨日は夜遅かったとか、ちょっと体調が悪そうだとか、財務大臣と冷戦やってたとか。
「アーニャというのは、アンナマリアのことか?」
「そうです」
「何を話すのだ?」
「いろいろです」
「いろいろとは?」
「殿下、女の子の内緒話を聞き出すなんて無粋ですよ」
本人に貴方のこと聞いてますなんて言えるわけない!
そんな恥ずかしい事!
「……アーニャを問い詰めたりなさらないで下さいね。そんなことしたら、怒りますから」
「私にか?」
「はい」
私が怒ったところで何ができるわけじゃないけど、できる限りの強い決意を表しているつもりで睨みつける。
「…………わかった」
その微妙な間と微笑みが何か不安です、殿下。
「……普通なのね」
部屋着に着替えてくると、アリスがお茶をいれてくれていた。
こちらでは一般的なグリーンティ……つまり、緑茶。
ティカップに注がれるのが超違和感ある。お茶は湯呑みでしょう、湯呑み!妥協できるのは会社仕様マグカップまで!
でも、こちらでは普通にティカップ。緑茶は紅茶の種類の一つという認識なのだ。
「何のお話ですか?」
私はちょこんと自分の椅子に座る。
ナディア姫はちょっと疲れた顔をしていた。
「貴女も、お、王太子殿下も」
「……よくわからないけど、いつもあんなです」
最近、絶対にリリアにバカップル扱いされてると思う。
あの生温い目を見るたびにそう思う。
そんなんじゃないのに!
「あなたがそんな風に話せるなんて知らなかったし、王太子殿下があんな風にお話になるなんて驚きだわ」
「……記憶がね、ないのです」
リセットしちゃったんですね、と私は笑う。
「で、頑なに口を開かなかった理由も、他の事も、全部一緒に忘れてしまったんです」
だから、今は場所を選んでですが普通に話してます。と告げる。
姫は、どこか自分が傷ついたような顔をしていた。
「内緒にしておいて下さいね」
「誰に?」
「西宮の人ではない人たちに」
「……わかった」
真剣な顔でうなづく。説明しなくても、彼女にはそれを納得できる理由があるのだろう。
「……聞いてもいい?」
「何をですか?」
「以前も殺されかかったんでしょう?」
「そうです」
私に向けられた殺意を理解した瞬間を、きっと私は忘れる事がない。
「恐く、ないの?」
「……恐くないと言ったら嘘です」
いつも、恐いのを誤魔化してる。さっきだってそう。あれは毒じゃないって思いたくていろいろ言葉を尽くす。そうじゃない可能性を……逃げ道をいつも探してる。
「でも、ここにいれば大丈夫なんです」
殿下が守ってくれるから、と言うとナディア王女は少し不思議そうな顔をした。
「何ですか?」
「前のあなたは王太子殿下のことも避けていたから……」
「え、そうなんですか?」
「ええ」
「おに……いえ、王太子殿下の女官が、貴女の好みを探るのに、私のところに今時の女の子が欲しがりそうなものをリサーチしに来てたくらいだし……」
「なんですか?それ」
「つまり、それくらいあなたは自分の意志を表明しなかったの。見てて腹立つくらいに」
それでも、何とかあなたの気を引こうと貴女が関心持ちそうなものを調べに来ていたのよ、年齢が近いから……とナディア姫は複雑な感じの笑いを浮かべる。
「ほんとに、そこまでする何があったんでしょうね」
今更ながら謎だ。
何をどうすれば10歳にも満たない子供がそこまで思いつめる事ができるのか……。
だって、嫌なことなんか一晩寝ればだいたい忘れるよ。子供なら特に。
「……ごめんなさい」
いきなり謝罪された。
「はい?」
思いつめた顔をした姫は、勢いよく頭を下げる。
「何ですか?」
「……あたし、知ってたの」
ナディア姫、本当は一人称「あたし」なんですね。
なんか気を許してくれてるみたいで嬉しい。
「何を?」
「……貴女が恐くて、辛くて、泣いてたこと」
でも、見て見ぬフリしたの、とナディア姫が言う。
「いつのことです?」
「……子供の頃」
「そんなの時効ですよ。……そもそも、覚えてませんし」
「でも……たぶん、そのせいだと思うから……」
「私がしゃべらなくなったのですか?」
「そう。……だから、あなたが、王太子殿下に連れられて後宮を出て行った時、少しだけ安心した」
やっぱり戻すって話になった時も、戻ってこなければいいって思ってた、と言う。
「なぜですか?」
「だって、あなたは避けてたけど、王太子殿下のところに居た方が後宮よりずっといいと思った。あたしが言うのも何だけど、後宮はあんまり居心地いいとこじゃない。……皆が、お父様の関心をひくために見えないところで張り合ってるから……」
王の寵愛を競う……それが後宮の女の宿命だ。
「でもね、おかしいのよ。どんなに頑張っても、皆、貴女には絶対に敵わないの」
「私?」
「ええ。……お父様の絶対の一番は貴女なの。ユーリア王妃だって貴女には敵わないわ。だから、あなたは後宮中から妬まれてた」
(たぶん、それは違うと思いますよ……)
陛下の絶対の一番は私ではなくて、エフィニアだ。
「口さがない者の間では、あなたはエフィニア王女とお父様の子だっていう噂もあったくらい」
「……え?そんなことありえるんですか?」
「ありえないわ。……だって、お嫁に行った王女は死ぬまで王都に帰ってくることはできなかったし、お父様はその間、ラーティヴになんて行ってないもの」
噂は無責任なものだが、あまりにも酷すぎないだろうか。
「………………よく、そんなことが噂になりますね」
「宮廷雀っていうのは無責任なの。……でも、その噂を広めた人間は処分されたわ。あまりにも不敬がすぎるってね。噂の元になった貴族だけじゃないわ、後宮の女官も処分された」
「そうですか……」
でも、ある意味、当たり前だと思う。だって噂どおりなら、わたしは異母兄妹間に生まれた子で更に異母兄に嫁いだことになってしまう。
『血』ないし『血統』を神聖視する傾向にあるダーディニアだ。普通よりも過敏に対応するのは当たり前だろう。
「お父様は貴女を侮辱する人間は絶対許さないのよ」
「……やりすぎですよね」
「否定はしないわ。……でも、ずっと羨ましかった。ううん、正直言えば今も羨ましい」
私ももっとお父様に構って欲しいと思うもの。と、口にするちょっと淋しそうな横顔。
私がここで言えることは何もない。何を言っても、陛下の一番だと言われている私が言ったら、嫌味にしかならないもの。
「でも、それと同じくらい貴女じゃなくて良かったとも思ってた」
だって、私には耐えられないもの、と力ない声でつぶやく。
「貴女は何もかもを与えられていたけれど、何も持ってなかった……」
遠い眼差し……私が覚えていない過去を見る瞳。
「どういう意味ですか?」
「貴女が大切にしているものはいつも失われるの。……最初はお気に入りだったリボンや靴……それから、よく着ていたドレスが破られたり……大事にしていた金魚がテーブルの上でひからびていたこともあった。……陛下にいただいたカナリアが羽を折られて死んでいた事もあるわ」
陰湿だなぁ。でも、女同士ってこういうのアリだよね。
いつの時代もどこであっても変わらないんだね。
「リボンをなくした侍女も靴をわざと汚した侍女もクビになったわ。……ドレスを破ったのはその当時、後宮にいた女性の侍女で、主もろとも追い出された。金魚は誰だったかな……どっちにせよ、処分されたのは間違いないわ。……勿論、一番の大事件になったのはカナリアだったけど……」
そりゃあ、国王陛下からの贈り物のカナリアが普通でない形で死んでたら問題になるだろうね。
「あなたが気に入ってたティカップは翌日には粉々になってたし、あなたの為に花を捧げた庭師は知らないうちにいなくなってて……噂では、理由ともつかぬ理由でクビになったって聞いた。……そうそう、あなたと仲の良かった侍女が、不寝番の翌朝に貴女の枕元で冷たくなってたっていうのもあったわ」
確かそれ、貴女が発見したはず、と姫は思い出しながら並べる。
「……毒物ですか?」
「わからないわ。急な心不全で病死として処理されてしまったし……」
対象が人間とかになってくると不穏だ。アルティリエの周囲には死の影がちらついていると思ったけど、案外的を射てるかもしれない。
(これ以上に、ナディア姫の知らない事件がもっとたくさんあっただろうし……)
それらの出来事の一つ一つだけでなく、それに対して行われた処分もまた、幼い心に深い傷を与えたのではないだろうか?
まあ、私が忘れてしまった今となってはもうそれを確かめる術はないけれど。
自分が大切にしていた物、心をかけていた人……それらのすべてが失われていく……そんなことが延々と続いていたら、頑なに心を閉ざしてしまっても仕方がない気がする。
「……命令していた人間が、全部処分されたとは限らないんですよね」
「……うん」
ナディア姫の感情が揺れる様が目に見える。
彼女の危惧していることが、私にはわかってしまう。
(向いてないなあ……)
きっと、ナディア姫は素直すぎて辛いことが多いだろう。
何せ私と違って正真正銘の少女だ。身体にひきずられてどれほど幼い言動をすることがあっても、私はあちらでの33年間の記憶を持ち続けている。
……私は、覚えていない過去の話で怯えるほど、かわいい女の子ではない。
(あと一つ、知りたいことがあるんです……)
私は立ち上がり、ナディア姫に近づいて背後からそっと抱きついた。
「アルティリエ姫……?」
顔は見えないけれど、怪訝そうな表情をしていることがわかる。
これで私がそれなりの年齢の男だったりしたら、超絶いかがわしい情景だよ、この体勢。
ナディア姫が警戒心を抱かないのは、私が自分より幼い少女だからだろう。
「………何を、ご存知なの?」
耳元で、囁くように問い掛ける。
ビクッとナディア姫が震えた。
ごめんね、と、謝らなければならないのは、たぶん私の方。……ズルい大人でごめんなさい。あなたの素直さを利用してしまう。
「……わ、私……」
「なぜ、私の紅茶がおかしいって思ったの?」
抱きしめる腕にそっと力をいれ、ふきこむように耳元で囁く。
傍目からみれば、私がナディア姫に甘えているように見えるかもしれない。
「………………」
動揺。……そして、狼狽。
癇癪おこしたのは本当だっただろうけど、テーブルクロスひっぱるのはちょっと不自然だった。
私のガウンにこぼれた紅茶を見て、すぐに後悔していたから、わざとだと思っていたの。
リリアはすごいね、私の目を見ただけでちゃんと私の望みをわかってくれた。
「……確かに隣の席でしたけど、姫にわかるほどひどい匂いはしてなかったです」
あの部屋は花の匂いがきつかった。
「……わ、私……ミルクを……」
「使ってないってさっきおっしゃいましたよね?」
小さくクビを傾げて微笑む。
「……見ちゃったから……」
震える、声。
「……何を……?」
震える、身体。
「……お母様が……自分が使った後、何かミルクにいれたの。もし、何か悪いもので、あなたが飲んでしまったら……それをお父様が知ったら……」
まあ、ただでは済まないでしょうね。これまでの前例から言って。
それはきっと、忘れてしまった私よりナディア姫の方がずっとよく知っている。
「……本当ですか?見間違いとかではなくて?」
「…………本当よ」
ほとんど泣きそうな表情でナディア姫が振り向いた。
気が強い美少女の泣き顔……絵になるなぁ。
「でも……お父様には言わないで。お願い」
ぎゅっと私の両手を握り締めて、頭を下げる。
「お願い……もう二度とさせないから」
私が止めるから。
まるで祈るようにそう言われて……縋りつかんばかりの様子で……これで、断れるほど鬼畜ではない。
「言いませんよ。……大丈夫」
そうか、アルジェナ妃かー……。
(後で殿下にあの毒が何だったのか聞こう)
どれだけの分析技術があるかはわからないけれど、調べられるからこそ、殿下はガウンを届けるように指示したのだと思う。
「本当?」
濡れた目で見上げられた。
私が男だったら間違いなく揺らぐね。ほんと、可愛い。
「本当です」
あのミルクの一件はこれで解決か……。
でも、アルジェナ妃とは思わなかった。ちょっと見込み違い。
単純に考えれば、一番怪しかったのはユーリア妃殿下だ。
苦い紅茶をいれ、ミルクをいれるように仕向けることができたし、さらには飲むようにもすすめていた。そうでなくとも、あのお茶会はユーリア妃の主催なので、何かあれば全部ユーリア妃の責任ということになる。
まあ、それではあまりにも単純すぎるから、そうなってたらなってたで疑っていただろうけど。
(ユーリア妃はそんな単純な方ではないよね……たぶん)
何となくそう思う。
「で、アルジェナ妃殿下はなぜ私を?」
「たぶん、だけど……今度の建国祭で陛下は貴女に『女王』をやらせるつもりだから」
「……何ですか?それ」
「初代陛下の妻となった妖精の女王の役」
「は?」
妖精?なぜ、いきなりおとぎ話?
「建国祭の一番大事な儀式は、妖精の女王が国王陛下に王権の象徴たる聖剣を与える儀式なの。妖精の女王の役は、王族か大貴族の15歳以下の娘が一生に一度だけやることを許されるの」
「……未婚じゃなきゃダメとかっていう規定はないんですか?」
「規定はないけれど、暗黙の了解としてそうなってるわ。……でも、貴女の場合は結婚してるって言っても、乙女なのは間違いないでしょ」
「そうですけど……」
もし、そうじゃなくなったらみんながそれを知ってるとかっていう事態になりそうだなってちらっと思った。恐い、それ。……考えるのやめよう。
「私、今年が最後の機会なの。……建国祭の一週間後に誕生日だから。だから、お母様がお父様にお願いしたら、貴女にやらせるつもりだからダメって言われたんですって。……そのことを三日くらい前から、お母様、ずっと怒っていたの」
別に私はこれからもチャンスがあるのだし、やらなくてもいいんだけどな。
でも、国王陛下が言い出したのでは、誰も反論できないのだろう。
(私に拒否権ないだろうし……)
「…………建国祭っていつですか?」
「来月の五日から約二週間」
「あれが何だったかはわかりませんけど、あの薬をもし私が飲んでいたらどうなっていたんでしょう……?」
私的には下剤程度と思っているけど……例えば下剤だったとしたら、今飲ませてもまったく意味が無い。だって、今、おなかを壊したところで、来月の五日にはあっさり元通りだよ?
「例えば、私がそれを飲んで……命に関わらない程度だったと仮定します。……でも、建国祭のそれをナディア姫ができるようになるとは思えませんが……」
「ええ……その通りよ」
それは、まったく別の話だ。
「むしろ、成功した場合は大騒ぎになりますよね、犯人探しで」
犯人と特定されてしまったら、第二王妃であっても無事で済みそうにない。……これまでに聞いた話から判断すると。
「浅はかなのよ……」
再び顔色を悪くした姫が、吐き捨てるように言う。
憎しみにも似た愛情……母を心配するからこそ、愚かな行動に怒りを覚える。
(健やかだなぁ……)
ナディア姫は、後宮で育ったにしては奇跡的なくらい健やかな心の持ち主だ。すごく真っ当だと思う。
でも、だからこそ生きにくいところがあるのだと思う。
(……あれは毒薬……だったのかな?)
殺す気だったのなら、目的は果せる。けれど、簡単に足がつきすぎる。
「もし、ただ脅すだけのつもりなら、前もって何らかの形で辞退しろって私のほうに脅しておかなければダメな話ですよね」
「……あなたが、その話を知らないのに?」
「ああ……すぐに犯人がバレますね」
アルジェナ妃が何をしたかったのか、まったく意味不明だ。
「……あの、ね……たぶん……ただ、あなたが酷い目に遭えばいいって思っただけだと思うの。ちょっと意地悪してやろうって思ったっていうか……お母様、そういう単純なところがあるから……」
「……………充分、酷い目に遭ってると思うんですけど」
真冬の湖に落ちて記憶をなくし、侍女は身代りで毒死してるんですが、まだ試練が足りないとおっしゃるんでしょうか。
「ご、ごめんなさい……」
ナディア姫は居たたまれない様子で視線を泳がせる。
「後宮って恐いですね」
姫に言っても仕方が無い。
「恐いわよ。……お茶会の席でみんな和やかに話してたでしょ?でも、あの人たち、みんな仲悪いから」
「そうなんですか?」
「そうよ」
きっぱりと言い切る。
あんなににこやかな笑顔を向けてくれてはいても、裏では恐いことになってるんですね。
「……ネイシア様とアリアーナ様は犬猿の仲って言ってもいいくらいだし……お母様はアリアーナ様を白ブタって呼んでて、アリアーナ様はお母様を赤毛ザルって罵ってるの。表面上は誰もユーリア様には逆らわないけど、裏に回ればババアのクセにでしゃばるな、とか、若作りしすぎ!とか、酷いものなんだから」
思い出すだけで歪む表情……女の争いは恐い。
「ネイシア様はちょっとアル中気味なの。お酒で紛らしてるのね。でも、それを隠してる。ネイシア様の侍女達は大変なの。すぐ物を投げたりするから」
「バイオレンス……」
「……でも、やっぱり、一番恐いのはユーリア様。ユーリア様は、いつもにこやかで、決して醜い顔をみせたことがないわ。……ママみたく口汚く罵ったりしないし、癇癪起こして侍女にあたったりもしない。いつも本当に穏やかで美しい笑顔ばかり。ユーリア様の侍女たちも口を揃えて言うの。ユーリア様の侍女でよかったって……でも、でもね…だからこそ、私は、ユーリア様が恐い」
同じだ、と思った。彼女の感じているそれは、私の感じている恐さと一緒だ。
「……私も、そう思います」
「………貴女も恐いと思ってるの?」
不思議そうに私を見る緑の瞳。
「はい」
こくりとうなづく。
「そっか……」
ナディア姫は小さく笑った。
「妃殿下、おやつですよー。焼きたてです」
アリスが、トレーをもって満面の笑顔でやってくる。器用なアリスは、最近私のお菓子作りの良い助手だ。簡単な作業ならだいぶ任せられるようになった。
「おやつ?」
「……さっき、いろいろ食べそこないましたから」
腐ってるミルクの出たお茶会でそれ以上何か口にする気にはならなかったの。
「ナディア様も、どうぞ食べて見てください」
「何なの?これ」
さっきまでの気弱げな表情が幻だったかのような、不機嫌そうな表情……見事なまでの変貌。侍女には、泣いていたことなど欠片も見せない。
きっと、それがナディア姫のプライドだ。その意地っ張りな誇り高さがひどく愛おしく感じられる。
「ちょっと甘めのスポンジの皮に豆を甘く煮たものを挟んであるんです」
平たく言えばドラ焼きです。餡は前もって私が煮ておきました。瓶詰めで保存しておけば、今の季節ならアイスボックスにいれておけば五日くらいは余裕で大丈夫。
「濃いグリーンティでいただくとおいしいんですよ」
ジュリアは最近、お茶をいれるのがとても上手になった。
おやつにあわせて、いろいろ研究しているんだって。
「……おいしい」
皆の注目の中、ふわりとナディア姫の頬が綻ぶ。
「……これってバター?」
「そうです。普通のと、バターを挟んだものと、生クリームをはさんだものがあります」
アリスが説明する。
ドラ焼きは、餡さえあれば銅パン一つで簡単にできるのでアリス達もだいぶ上手になった。挟むもの次第でバリエーションは無限だ。原理はパンケーキサンドも一緒なので生地の配合を変えれば、パンケーキサンドも作れる。
「……おいしい。腕をあげましたね」
生地は表面がちゃんとキツネ色で、ふんわりもちもちしてる。餡はどうせすぐに使い切ると思ったから、砂糖控えめの甘み控えめ。小豆が大粒でおいしいからそれで充分なの。
こだわりは、こし餡じゃなくてつぶし餡にしたこと。黒砂糖がないのがちょっと残念だったけど、いつか手に入れたいと思う。
「本当ですか?わー、嬉しい」
「今度、婚約者に食べさせてあげるといいですよ。……甘いものが苦手だったら、パンケーキサンドにして、甘さ控えめのほんのりブランデーをきかせたクリームを挟めばいいです」
「それ、私も作りたいです」
『婚約者に』の言葉にジュリアも反応する。
さすがだなぁ、二人とも。『婚約者』が関わると、ちょっと目の色変わるよ。
「じゃあ、次のお休みの前の日はパンケーキサンドで」
「はい」
「お願いします。……あ、私達は片付けをしてまいります」
二人はいそいそと退出する。
部屋の中には私達しかいなくとも、窓とドア……出入り口になるような場所には護衛の騎士達が立っている。ここにいる限り、私が真実の意味で一人になることは絶対にない。ここは私にとって絶対に安全地帯だ。
「仲が良いのね」
「……いろいろ、ありましたから。……本当によくやってくれているんです」
エルゼヴェルトのあの城で目覚めた時から、どのくらいの時間がたったのだろう……まだ2ヶ月もたたないと思うけれど、気分としてはもう何年もたった気がする。
「……少ない人数で、この宮を維持するのは本当に大変だと思うのです。下働きがいるとはいえ、この棟に関しては彼女達の手だけで運営されていますから」
「四人だけしかいないの?」
「そうです。……私も掃除くらい手伝うわって言ったら、リリアに怒られました」
リリアには妃殿下のすることじゃないと怒られ、主に掃除をさせるなど女官の名折れだとミレディには悔し泣きされそうになったので諦めた。
「……ねえ」
「はい?」
「……………」
ナディア姫が何か言いたげな顔で私を見る。
「何ですか?」
何か見たことのある表情だな……誰だっけ?
記憶の片隅をかする光景がある。
(ああ……王太子殿下だ)
昨日の朝、顔を合わせた時の殿下の表情によく似ていた。
「…………わ、私のことはナディアって呼んで良いわよ」
「じゃあ、私のことはアルティリエって……長いですよね……?」
でも、ティーエと呼ばれるのはちょっと……遠慮したい。
「ルティって呼ぶわ。良いでしょ?ルティアだと王太子殿下と一緒になっちゃうから」
「良いですよ」
(……あれ、もしかして、あの時、殿下は名で呼ばなかったからあんな顔をしたのかな?)
それに気が付いたら、何だかそれが正解な気がした。
(うわ、そんな単純な事?)
おかしくなって自然に笑みがこぼれた。
「なあに?」
「いいえ、何でもありません、ナディア……いえ、ナディにしましょうか。その方がお揃いみたいです」
「い、いいわよ。る、ルティがそれがいいんなら」
ナディが耳元をほんのり赤く染める。
意地っ張りなとこが何かツボに入りそうです。噛んでるとこも、可愛い。
「では、ナディ。……お茶のお代わりをもらいましょうか。私、今、殿下からいただいたサギヤの紅茶がお気に入りなんです」
「ぜひ、いただくわ」
ほんのり頬を染めたナディの笑顔は、とっても可愛かった。
2009.06.09 初出
2009.06.11 手直し
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なんか、新しい世界を見た気がしました。