プロローグ
あやを見ていると、どうしても思い出す人物がいる。
人物なんて、ちょっと堅くるしい言いかただけれど、なんてことはない。
父親だ。
僕の父親は世間一般で言わせれば、優等で、立派で、冠たるものに見えたかもしれない。詳しくは知らないが、大手の企業に就職して、誰よりも早く出世したり、誰よりも部下に愛されていたり、卓越した存在に見られていたり、まあ簡単に言えばエリートと呼ばれる人たちの部類だったらしい。
そんな人だった。
いちおう言っておくが、これは決して自分の親を自慢しようとかそんなことじゃない。ただ周りの人、世間にはそう見えるだろうってことだ。
その父親の子供――つまりは僕のこと――の目線から見た父親はまったく違うものだ。
こんなことがあった。
僕が小学校三年生のときに算数のテストで満点を取った。僕はその答案用紙を黒いランドセルに入れて、帰りの道をウキウキしながら帰った。その日は木曜日で、普段なら遅くまで働いている父親だったけど、木曜日だけはいつもより早く帰って来ていた。この全部丸がついている算数の答案用紙を父親に見せつけたかったのだ。
よくやった、と。
そう褒めてもらいたかったのだ。
そして夜。夕食の準備を終えた母親とともに父親の帰りを待つ。このときの僕のウキウキした気持ちったらなかった。いつも見ていたテレビのアニメだって、つけていはいたけれど内容などはまったく頭に入ってこなかったくらいだ。
ガチャリ、と玄関のドアが開く。
僕は用意してあった丸しかない算数の答案用紙を手に取って玄関へと走る。玄関では父親が靴を脱いで家に入ってくるところだった。僕はその父親におかえりとも言わずにそのテストを突き出した。
満面の、期待に満ちあふれた顔だ。
父親は僕の突き出したテストを見る。テストを持っている僕の手が震える。だからテストが震えている。
父親は震えるテストをチラリと見た。
ほんの五、六秒ってところだ。そして、
「ふむ……」
スタスタと僕を置いてリビングに入っていった。
固まったさ、そのままの態勢で。
父親が僕のテストを見ていた時間よりはるかに長い時間僕はそうしていた。
つまりは、父親はそういう人だった。
そのあとクラスで満点だったのは僕だけだったことや、ほかの教科でも僕が一番だったことや、クラスだけではなく学年で一番成績がいいことをあらかた説明し終えたけれど、父親の返事は、
「ほお」
とか、
「そうか」
とか、
「……」
だった。
つまりは、そういう人だった。
この話だけじゃない。ほかにもテストの成績や通信簿、体力測定の結果などをなんども見せたけど、まったく、父親の反応は本当にまったく変わることはなかった。
だから僕は努力したのかもしれなかった。認めてほしくて、ほめられたくて。けれど、その努力は報われることはなかった。
父親が死んだからだ。
あっという間に。そりゃもう、本当に簡単に。びっくりする暇すらなかったくらいだ。
病院のベッドで横たわる父親。なぜだか父親はいつもより遠く見えた。
母親が涙目で父親の手を握っていた。握られた手は震えていて、いったいどちらの手が震えているんだろう、なんてことを考えていたときだ。
父親がこちらを見ていた。
僕はドキリと緊張してしまい、その場で背筋をピンと伸ばして、手は太股でピシッとまっすぐ伸ばしてきをつけをした。
父親の瞳は、普段の家に居たときや、会社の人と一緒に居るときの目とまったく違うものだった。だから僕はすごく緊張したのかもしれなかった。
今になって思えば、その瞳はきっと、死を覚悟した人の瞳なんだと思う。
父親が、そんな瞳で僕の右手を見た。僕の右手には、一枚のテストが握られていた。僕は今日もいつものように父親にテストを見せつける予定だったのだ。
理科のテスト。もちろん、満点だ。
父親が手を伸ばしてきた。やけに重そうに、ゆっくりと。僕はその手にテストを掴ませる。父親がそれを見て、また僕の瞳を見た。僕は父親のその瞳を見ていた。
怖かった。
慌てた。
けれど僕はきをつけをしたままだった。
父親の口元が、少しだけ、ほんの少しだけ綻んだ。
その瞬間、僕の緊張や恐怖は、一気に父親に対する期待に変わった。褒めてもらえると思ったのだ。僕は目を見開き、口元を大きく開けて微笑んだ。父親の口元が動いたときだった。
その動きはじめた口から、父親の声が聞こえることはなかった。
その代り、ピー、という機械の無機質な音が響き渡った。それと同時に周りにいた母親や大人の人たちが一斉にざわつきはじめた。
子供の僕は、父親の声が聞こえなかったことに呆然として、大人の人たちに部屋の外に連れて行かれた。病院の廊下のベンチに座って、僕は気づいた。
もう父親が僕を褒めることがないことに。
僕の今までの努力が無駄になったことに。
この時、もしかしたら僕の心は凍りついたように固まって、動かなくなってしまったのかもしれない。
そうして僕は、子供のまま大人になりはじめたのだ。
話がそれた。
あやを見ると思いだすのは、そんな父親のこととか、そのときの僕のことだ。
似すぎていた。
別にあやと父親が似ているなんてことはないけど、なぜか僕はそう感じたのだ。
だって――
あやの瞳は、父親のそれだったから。