「久しぶり、ですね」
懐かしい声の、その躊躇う様な、距離を測るような調子に物悲しさと、そんな声を彼女に出させてしまったふがいなさに、ユキヒトは悔しさをかみしめた。
「……元気そうでなによりだよ」
言いたいことはいくらでもあったはずなのに、初めに出たのはそんな気の利かない言葉で、やれやれとユキヒトは苦笑する。
「少し痩せたか?」
「心配をかける人がいたからでしょう」
緊張をほぐそうかとそんなことを言ってみれば手痛い反撃。しかしそれの方がかえって、無用な遠慮が薄れてきたようで嬉しかった。
「中隊長の仕事は忙しいのか、竜騎士殿」
彼女の昇進は、手紙で知っていた。称号で呼び掛けると、彼女は少し困ったように笑う。
「実のところ、それほどでもありません。……皆、どうにも私に遠慮がちで」
「それは……多少は、仕方ないんじゃないかな」
「私は為すべき事を為しただけです」
「知らないなら教えてやるけど、為すべきだからって言うだけで、普通は為せない事まで為してしまうやつの事を凄い奴って言うんだよ」
いつかしたような問答をしてみても、あの頃のようには笑えなかった。彼女の笑顔は、変わらず少し困ったようなそれだ。
「私が本当に凄い人物なら、守るべきものはすべて守れたでしょうに」
「それができたら、もう神様だろう」
「……神様にはなれなくとも、せめて本当に大切な人達を守れる人間でありたかった」
「……」
目を見つめながらそんな事を言われて、ユキヒトは言葉に詰まる。そんなユキヒトと、その背後に隠れるように佇むノルンに微笑みかけて、彼女……ヴァレリアは言った。
「お帰りなさい、ユキヒト、ノルン。ずっと待っていました」
「まだ、ちゃんと帰ってはこれていないよ。その前に、大切な事がある」
ユキヒトはそっと背中を押して、自分の背後に隠れるノルンを自分の隣に並ばせた。
「……あの時の話をしよう。それが出来てはじめて、俺とノルンはこの街に帰ってこれる」
そう前置きをして、ユキヒトは二年前の事を語りはじめた。
「ベルミステンは古い街です」
季節は晩夏。暑さがしつこく留まり続けながらも、どこか涼しさの漂い始める季節。
川辺に吹く微かな風に目を細めながら、ユキヒトはヴァレリアの落ち着いたアルトの声に耳を傾けていた。
今日は非番のヴァレリアは、さすがにいつもの制服と略式鎧ではないが、白いブラウスに青いスカートと、清潔感はあるもののやや洒落っ気には欠けた服装だった。それも彼女らしいと、そんなことをユキヒトは思う。
「確かにたどれる歴史だけでも千五百年以上に渡ります。百年前の『ダークエルフ戦争』までは大きな戦が絶えず、それ以降も小競り合いの続いていますので、街自体がそれだけ長い間残っていることが珍しいのです。それ以上に確かな記録が残っているのは非常に稀有な事です」
語られるのは、この街、ベルミステンの歴史。ユキヒトがそれを望むと、僅かに戸惑ったような顔をしたが、どうしてもとユキヒトがさらに求めると、ヴァレリアはそれを語りはじめた。
「要因としてはいくつかありますが、一つに、ユラフルス大陸の三大国のひとつである我が国、ロマリオ皇国の首都であったことがあげられます。我が国は少し特殊な国で……ロマリオ皇帝は『竜の末裔』を名乗っています。とはいえ竜は実際には竜以外の種族と生活を共にすることはなく、もちろん竜以外のヒトも住める国を作ったりはしません」
特に用意していたわけでもないはずであるにも関わらず、彼女の話はよどみなく流れる。
「端的に言うと、ロマリオ皇国初代皇帝は、竜を妃に迎えたと言う事になります。ただし、それではやや正確性に欠けます。正確に言うならば、かつて竜だったがその姿を捨てヒューマンとなった女性を妃に迎えた、と言う事になります」
当時の竜はヒューマンに変身すると元に戻ることができませんでしたので、とヴァレリアは補足する。
「へえ、ロマンチックな話じゃないか?」
「ええ、そうですね。竜とヒトの恋愛譚というものは各国に数多く存在するのですが、ロマリオ皇国においてはその数が特に多いのです。これは、初代皇帝とその妃の影響とも言われています」
「……ちなみに、ヴァレリアもそういう話は結構好き?」
「なっ……! わ、私はそういうのは、その、に、苦手です!」
謹厳実直。質実剛健。清廉潔白。そう言った言葉がよく似合う彼女は、衛兵としては理想的ですらあるだろうが、それが異性へのアピールになるかと言えばなかなか難しい。ヒューマンの女性としては焦りもする年頃ながら、少女たちが恋の駆け引きを学んでいる間に剣の修練をしていた彼女は、剣では歴戦の勇士でありながらそちらの方面はと言えば初心な娘であった。
そんなヴァレリアを、ユキヒトは好ましいと思っていた。だから彼女に合わせ、手の一つもろくに握らないような清純な付き合いを当面は続けている。……どうにも、彼女の叔父であり、自分の師であるところのオルトや、彼女の実家からは少々過激な言葉も聞かれないではないのだが、ひとまずのところユキヒトはそれを雑音としてシャットアウトしていた。
「話を続けます! ……こほん。とにかく、竜が変化した女性がロマリオの初代皇帝と結婚したこと自体を竜種は事実として認めています。しかし、竜種は竜の姿を捨てた時点で彼女を竜の仲間から外れたものとし、ロマリオ皇帝の血筋に対しても、竜種の仲間ではなく、あくまでヒューマンの皇帝の血筋としています。そう言った意味で、竜種はロマリオ皇帝家を『竜の末裔』とみなしていないことになるのですが、ロマリオ皇帝家がそう名乗ることに関して、禁止することもしていません」
街や国を愛する気持ちは人一倍のヴァレリアであるが、彼女の語る歴史はあくまで公正な視点に基づくものであった。ロマリオ皇国には、皇帝家が「竜の末裔」を名乗る事を竜が禁止しない事をもって、竜はその事実を認めているのであると主張する者が大勢いる。しかしヴァレリアにはその手の偏りはない。
「また、ロマリオ皇国はファリオダズマで最も多数の『竜騎士』を抱える国でもあります」
竜騎士とは、竜種にその武勇や知恵を認められたものを意味する称号である。その称号は元々竜が個人的に認めたものに対して名乗ることを認めたものであり、それ自体によって何らの権利をもたらすわけではない名誉称号だ。しかし、竜が他の種族に対してそれほどまでの評価を下すことは稀であり、結果として竜騎士の称号を持つものはファリオダズマでは多大な尊敬を受けることになる。
「ロマリオ皇国が多数の竜騎士を抱えるのは、他でもなくロマリオ皇家が自国の騎士に対して竜騎士の称号を与えるからです。これは、初代皇妃がヒューマンとなって後、夫たる初代皇帝に竜騎士の称号を贈ったことに因み、それ以来竜の一族としてロマリオ皇帝は自国の騎士のうち功績大としたものに竜騎士の称号を与えることとなっています」
そう言いながら、ヴァレリアはその整った顔を、やや苦々しく歪めた。
「とはいえこれも『竜の末裔』同様自称に近いもので、他国からは『偽竜騎士』などと陰口を叩かれることもあります。竜種の対応はと言えば、やはりその称号の授与を禁止してはいませんが、かといって、ロマリオ皇国の竜騎士を、竜種が認めたものとして優遇することもありません」
話の内容は名誉あるものとはいえず、誇り高い性格のヴァレリアとしては忸怩たるものがあるらしい。
「個人的には、竜騎士の称号を授与するのをやめた方が良いのではないかとも思うのですが。……いずれにせよ、そう言った微妙な竜との距離から、ロマリオ皇国はなかなかに手を出しにくい国だったらしく、また資源などの魅力にも乏しかったことから、その首都であるところのベルミステンは、異例なほどの長い歴史を築くに至りました」
あるいはそう言った不名誉も、群雄割拠の時代を生き抜くためには必要な方便の一つであったのだろうか。そんな事を思いながら、ユキヒトはすらすらと続くヴァレリアの話を聞き続けた。
「ロマリオ皇国の発展と領土の拡大に伴い、地理的に徐々に中心地から外れていったベルミステンは、首都の座こそ三百年前に明け渡したものの、ユラフルス大陸最古の街の一つとして名が残ってます。歴史的価値の高い建築物、古く希少価値の高い書物なども数多く残るこの街は、これと言う特産こそありませんが、学術の都市として発展を続けています」
再び誇れる内容になり、ヴァレリアはその頬をわずかに緩めつつ、一度ぐるりと辺りを見回した。
つられるように、ユキヒトも周囲を見渡す。
道路の石畳はきれいに掃き清められ、歩きやすく清潔な道だ。立ち並ぶ家々も、古くからそこにある風格を備えながら、一方で街に溶け込み親しみやすさを醸し出す。
街を歩くヒト達の顔もどこか穏やかで、この街が豊かで幸福である事を感じさせた。
「古い街である為に、古くからの住民は伝統を重んじる傾向が強く、やや排他的な側面もありますが、近年の学術都市としての性格を持つところから新しい住民にはリベラルな気質がありますね」
それは矛盾した二面性であるが、それをなんとなく包んでしまうような空気が、この街にはある。
「私の所属する軍隊と言うのは保守的な組織ですので、どちらかと言えば前者が有力と言うところです」
最後には極々身近な話題に戻ってきて、ヴァレリアは街の歴史をそう締めくくった。
「……ところで、このような話、面白いのですか?」
一通り話が終わったところで、少し不安そうにヴァレリアが尋ねる。それに対して、ユキヒトは少し意地が悪い笑みを浮かべた。
「同じような話をさせられる誰かさんも、いつも話が終わったら同じ様な事が不安になるから、今日は立場を逆にしてみた。……思ったより面白かったよ」
「……!」
そう言われて、時折自分がユキヒトに故郷の話をせがむ事に思い当り、ヴァレリアは少し頬を赤くした。
「興味がない街の歴史なら、確かにあんまり面白くないかもしれないけど、……この街の事なら、面白く聞ける」
「……言い淀んだ部分は、何を言おうとしたんです?」
「何でもないよ」
大切な人達が住んでいるこの街の事なら、面白く聞ける。そんなことを臆面もなく言えるほどに幼くはなく、ユキヒトは笑ってごまかした。
「良い街だよ。凄く」
「……色々と言われることがないでもないですが、私もこの街が好きです」
そう言って二人、穏やかに笑い合う。
ユキヒトの休日は、ヴァレリアと都合さえつけばこのように二人連れ立って、食事をしたりあるいはこのように語り合ったりという事が多かった。
実のところを言えばお互いに言葉にして伝えあうことすらしておらず、客観的に見れば男女の付き合い未満でしかないそれだが、気持ちは理解しあえている。自惚れではなくそう思っているし、周囲もそれを分かっている。だからこそ駆け引きの仕方も分からないヴァレリアに代わってユキヒトを焚きつけているのだ。
周りには周りの思いもあるようだが、彼女と自分には、それに見合った歩幅というものがある。それがユキヒトの気持ちだった。
「そう言えば、この間は魔法陣の施術をありがとうございました」
「結局、一年も悩んだな」
「……あれだけの剣ですから。悔いの無い選択をしたかったのです」
一年前、ユキヒトの提案で、ヴァレリアの叔父でありユキヒトの鍛冶の師であるオルトは、一振りの剣を鍛え、ヴァレリアに贈っていた。ユキヒト自身が初めて本格的に相槌を打たせてもらった作でもあるそれを、彼女はそれはそれは大切にしていた。
魔法金属であるオリハルコンを使用していることから、その本領は魔法陣を施してこそ発揮されるものであったが、ヴァレリアは付与する魔法陣にさんざん悩み、結局一年の時間をかけて結論を出したのだった。
「だったら、俺の施術で良かったのか?」
魔術学院を卒業したばかりで、到底の名のある魔術師などではない。師が最高傑作のひとつとまで呼んだヴァレリアの愛剣に見合うだけの実力がはたして自分にあると言えるのか、自信はなかった。
「あなた以上に、あの剣を安心して任せられる人を私は知りません」
何のためらいも見せず、かといって気負うでもなくただ自然にヴァレリアは答える。その信頼が、ユキヒトにはどこかくすぐったかった。
「そしてそれは間違っていませんでした。あの剣は思った通りの……いいえ、それ以上の剣になりました」
「……そりゃよかった」
「照れましたか?」
「うるさい」
ぷいっとそっぽを向くユキヒトに、からかうようにヴァレリアは笑いかける。ここのところ、自分のどんな態度がユキヒトを照れさせるのか把握してきて、反撃に出ることもあるヴァレリアだ。
「そう言えば、今度『森の迷宮』へ探索へ行くとか」
「ああ……調査に向かうとかで、先生に頼まれた。魔法陣に詳しい人間が欲しいんだと。卒業した俺に声をかけてくるあたり、どうもまだ諦めてないらしいな」
卒業の際にも引き留められたものだったが、ユキヒトとしてはそれ以上学院で学ぶよりは鍛冶師として本格的な修業を始めたいと考え断ったのだが、ユキヒトの資質はいまだに学院に惜しまれている。接点を絶やすまいと、定期的に何らかの声がかかるのだ。
「気をつけて」
「冒険者にも護衛を頼んでるし、別に深い階層まで潜るわけじゃない。問題ないよ」
何度か迷宮に潜った経験はある。いずれも本格的な探索ではないが、元々それが本職でもないのだから当たり前だ。
何の問題もなく、世界はただ穏やかだった。
「何だ、今日も晩飯が用意できる様な時間に帰ってきやがって。良いから朝帰りしろってんだ」
川辺での語らいを終えて工房へ帰ったユキヒトに、オルトはそんな言葉を投げてよこした。
「オルトさん……仮にも俺の相手はあなたの姪ですよ」
「だからだろうが」
とんでもない事を言ってよこして、オルトはユキヒトに向き直った。
「向こうの親も納得してるぞ。何が不満だ? 少しばかり年は行っているかも知れんが、器量よしで気性もいい。しかも丈夫で働き者だ。現にあれで、十四、五の頃は随分もててたんだぞ。気づきもせずに全部振ってたがな」
「何で世話になっている師匠とその娘さんの為に晩飯を用意しに帰ったらヴァレリアを気に入らないことになるんですか」
苦笑いをしてユキヒトは返事をする。どうにも色気のある話が全く出てこない彼女は、親族一同を大いに心配させているようで、この機会を逃せば他にないと思っているような節がある。
ユキヒトの感覚で言えば二十歳を少しすぎたばかりのヴァレリアに「年は行っている」などという言葉は違和感を覚えるのだが、この世界のヒューマンの常識でいえばそんなことはないらしい。
「……真面目な話、ヴァレリアの奴をもらってやってはくれないか、ユキヒト」
「……」
急に声のトーンを変えたオルトに、ユキヒトは真っ直ぐ向き直った。
「何だかんだで、あれは家庭を持って幸せになるタイプの女だ。とはいえああも生真面目で隙がないと、男も寄って行きにくい。まして、あの年で小隊長になって剣の腕前も並の男じゃ太刀打ちできないとまでくるとな。あれで人見知りと言うか……知らない人間は警戒する癖もある」
「相手のある話ですよ、オルトさん。本人のいないところで決まるような話じゃない」
逃げだなと思いながらも、ユキヒトはそう言って話を中断させようとした。
二十歳ちょうどという年齢は、ユキヒトの感覚としては身を固めるのに早すぎる。ヴァレリアをどう思うのかというのとはまた別の次元で、ユキヒトにとってこの話題は避けたいものであった。
「だったら、その相手と話をしたらどうなんだ」
「……」
ヴァレリアでは、自分を憎からず思ってくれていようと自ら話を進められるはずもない。ならばユキヒトが意思を固めない限りは話が進まない。当然の道理だ。
「……やはり……いや、いい、すまん。飯は何だ?」
言いかけてやはりやめて、下手な話題転換。こう言った不器用さはこの家系の特徴なのだろうかと、ユキヒトはそんな事を思った。
オルトが口にしかけた事が何なのか、ユキヒトにはなんとなく推測ができる。そして、それを言わないでいてくれたのはやはり、ありがたいことだった。
「……今日は川魚のフライです」
感謝の言葉を口にすることもできず、オルトが話題をそらすためだけに口にした話題に乗る。逃げているという自覚がある分、苦い後味が残った。
実際のところ、ユキヒトにはヴァレリアに対して不満などない。関係を深めることに不服があるどころか、積極的にそうしたいと思う。
それではなぜ自分から動かなければ関係が変わらないと自覚しながら、ままごとのような付き合いを続けているのかと言えば、元の世界への未練が原因だった。
ファリオダズマに来てしまった原因は結局のところ分からずじまいで、元の世界への帰還の目途も全く立っていない。せめて他にファリオダズマに迷い込んだ異世界人でもいれば何かのヒントになるかも知れないが、そんな話も全く聞かない。すがる思いで習得してみた魔法にしたところで、やはり帰還のあてには出来そうにもない。
現実的に考えてファリオダズマで生きていくしかないのだろうと頭では分かる。だからこそ真面目に鍛冶の修行もしているし、この世界での足場を着実に築いていっている。
それでもまだ、決定的なところでユキヒトはこの世界の人間になりきっていない。自分をこの世界に縛り付けることになるような関係を築くには、ユキヒトにはまだ覚悟が出来ていなかった。
仮に何かの奇跡が起こり、元の世界に戻れるという事になれば、ユキヒトは自分が帰還を選択するだろうと思っている。悪くない世界ではあるが、やはりここは自分の世界ではないのだ。
その様な気持ちでいるために、ヴァレリアに対して踏み出すことができない。ユキヒトはそんな自分を正しく自覚していた。そしてそれをオルトに見抜かれていることも分かっていた。
「不誠実だよなあ……」
「何か言ったかね」
ユキヒトの呟きに反応したのは、ケイガルド。ユキヒトの魔術学院での指導教官であった人物で、皇国でも名の知れた魔法陣の専門家だ。魔術の行使を旨とする学院の教官だけあって、五十歳を超えた小柄なヒューマンでありながら足腰は一向に衰えを見せておらず、日々フィールドワークに勤しむ魔術師だ。
「ああ、独り言です」
「……学生時分から君は優秀だが時々ぼんやりしたところがあった。迷宮内では気を引き締めてくれよ」
「気をつけます」
気難しく偏屈なところがあるのは承知のことだ。言っていることは正しいが深刻に受け止めることもない。魔術学院での二年間の結論だ。
「そもそも、何故鍛冶師になろうなどと言うのかね。ヒトは己の才にあったことを仕事にすべきと思わないかね」
「思いますが……思った結果が鍛冶師なんです」
「ふん」
あり得ないとでも言うように、一つ鼻で息をしてケイガルドは大げさにため息をついた。
「自己を正しく認識できないのは、それがどの方向であれ不幸な事だ。君が正しい自己認識を獲得したならばいつでも言ってくればいい」
こんな言い方ではあるが、ユキヒトの魔術の才を高く買っているという事を意味している。何とも面倒なヒトだとユキヒトは苦笑した。
「後悔するようなことがあればご相談しに行きます」
「ふん」
分かっているなら良い、それとも口先だけでこざかしい、どちらかの意味だろうと当たりをつける。いちいち気にしていても仕方がない。
「ところで聞いているかね、ここのところのモンスターの発生については」
「ええ……。このところ、街の近くでモンスターの目撃情報がちらほらと出ているとか」
ヴァレリアに聞いた事だ。治安をつかさどる衛兵である彼女には、その手の情報が集まりやすい。
まだ特段どうするというほどの事にはなっていないようだが、念のために注目しているとヴァレリアは語っていた。
「奴らの生態はいまだ謎に包まれている。解明できればいくらか安全も増そうがな」
「モンスター研究にも手を出すつもりですか」
「まさか。寿命が足りんにもほどがある。私の生まれがエルフかドワーフだったなら考えたかもしれんがね」
ファリオダズマでは、種族ごとに「時間」と言うものに対する捉え方が大きく異なる。当然というべきか、寿命の長い種族ほど時間に対しておおらかであり、短い種族ほど時間を貴重とする傾向にある。
研究などの分野では、時間に対する貪欲さ故なのか、短期に集中力を発揮するヒューマンなどの短命な種族もかなりの成果をあげている。むろん、知識量や長期の観測が必要な分野などにおいては長命な種族の貢献が大きく、それがこの世界のバランスだった。
ケイガルドとしてはそれほど気にしている事象でもなかったらしく、すぐに別の話題になる。
話題はベルミステンの時事をはじめ、ロマリオ皇国の政治、魔術研究に関する近頃の成果、その他雑多に移る。
ケイガルドは偏屈である。その為彼の近くには人が集まらない。そんな中ユキヒトは彼を疎まない。人付き合いの下手なヒトだとは思っているが、魔術研究に対する熱意は本物であるし、何だかんだで正しいものは正しいと見抜く目がある。
「……さて、ついたね」
ベルミステン近郊の森の中にある『森の迷宮』と呼ばれる迷宮は、都市であるベルミステンから徒歩で二時間という近さから、探索がすっかりと終わった迷宮だ。
迷宮とはファリオダズマに点在する「不自然な洞窟」を総称したものである。それを作成したという記録はいかなる種族、いかなる国家の記録にも残っていないが、内部は恣意的なものが働いたとしか思えない構造を持ち、多くはモンスターの巣窟となっている。また一般的に迷宮には特殊な魔力が充満しており、その為に内部に長期間置かれた物質や生物に異変を起こすことがあるとされている。
ファリオダズマに存在する魔術的要素を持つ武具を総称して魔術武具と呼ぶが、その大半はヒトが武具に魔法陣を施すことによって人工的に作られたものである。例外として、迷宮から発見された武具が極稀に特殊な魔力を帯びている事がある。そう言った「天然」の魔術武具の中でもごく一部は人工的に作られた魔術武具など及びもつかないほどの性能を秘めている事がある。しかしながらその生成過程については全く解明が進んでおらず、現在のところ偶然の発見を待つ以外にそれを入手する術はない。その事がまた、迷宮の探索が職業として成り立つ一因ともなっている。
「それでは、気をつけて探索開始だ」
護衛として雇った冒険者たちを引き連れて、ケイガルドは迷宮へと入って行った。
探索の目的は迷宮の魔力により変質をきたした生物ないし物質の発見だったが、結果としてそれは果たせなかった。
もっとも、ケイガルド自身がそう簡単にそれを発見できるとは考えておらず、複数回の探索を考えていたうちの一度目に過ぎなかったため、さほどの落胆もなかった。
昼下がり、太陽が傾いてきたところでベルミステンへ引き返していく。都市ではその内部を囲って城壁が設けられ、城壁の外側には堀がめぐらされるのが普通だ。夕方の定刻に城門は閉じられ、堀に架けられた跳ね橋は上げられる。ヒト同士での争いは少なくなったとはいえ、モンスターのはびこるファリオダズマでは、当然のことだった。
夕方の閉門に間に合うように、一行は進行した。その時点では、まだ異変は何も起こっていなかった。
それに気づいたのは、護衛として雇った冒険者の一人だった。迷宮のある森を出る直前、騒然とした気配を察知し、念のためにと一行をその場にとどめ、周囲の探索に出たのだ。
「……街がモンスターに襲撃されている!?」
探索に出た彼がもたらしたのは、そんな情報だった。
「……もう城門は閉じられてるし、橋も上がっちまってる。街を囲っちまうくらいの大群だ。あんなモンスターの群れ、見たこともない……」
そう報告するベテラン冒険者であるはずの彼は顔面を蒼白にしており、その表情にはとても冗談とは思えない真実味があった。
「ふん。となると我々は街へ近づかず、モンスターから隠れておくべきか」
「……そうなるでしょうね」
そこまで大規模なものではなくとも、モンスターの街への襲撃は数年に一度はある事だ。街を守る常備軍ではその対策訓練も十分練られており、ベルミステンにおいてモンスターに城壁を突破された記録は、五百年前までさかのぼらなければ存在しない。
大規模なものであれ、対モンスターの戦闘は下手をすれば対ヒトのものよりも練度が高い。信頼して勝利してくれるまで待つ以外に、彼らにできることなどあるはずもなかった。
モンスターがそうやってヒトの街を襲う理由についても、実のところ解明はされていない。街を破壊したところでモンスターの利益になる要素は見当たらず、その過程で双方に被害が及ぶばかりだ。
そう言った不合理で不条理な点からも、モンスターはヒトに対する敵として認定される。
結局一行は、来た道を少し戻り、森の中でキャンプを行うこととした。見晴らしの良い場所に出てしまえばモンスターに発見される恐れがある以上、やむを得ない。
しかし、問題もある。
元々日帰りの予定であり、用意もそれに合わせたものでしかない。モンスターは街を囲うほどの大群だ。ならばそれの排除にも相応の時間がかかると考えるのが妥当だ。それまでじっと街の外で待機しておけるほどの用意がない。食料や水、野宿に必要なもろもろの装備がない。かといってベルミステンの近郊には身を寄せられる街もない。下手に移動をしてモンスターに発見されても厄介だ。
状況は悪い。まさかこんなことになろうとは、一行の誰も想定していない事態だった。
ひとまずはキャンプ地点を決め、見張りの手順や交代順を決める。焚き火をするかどうかでは少し議論になったものの、結局季節的に凍死は心配ない事、また火が目印になりモンスターに見つけられる事を避けるために焚き火はしないこととした。モンスターにも、明りの無い真夜中の森を歩きまわれるほどに夜目のきく種類はほとんどいない。
「……明日以降はどうするべきと考えるかね」
ケイガルドにそう問いかけられ、ユキヒトは少し考え込んだ。
「難しいところですね。食料を探しながら現状維持か、そうでなければアルテノまで歩いていくべきか……」
ベルミステンに最も近い街の名前をあげてみるものの、その街まで徒歩ならば一週間はかかる。その間都合よく食料を調達し続けられるかと言えば難しいところではある。現状維持にしても、食料を見つけられるかどうかという問題に加えて、近くに大量にいるというモンスターたちに見つかる可能性もある。
「……個人的には現状維持かと思います。移動はやはりリスクが大きい」
「ふん。私も同じ意見だ」
決断には不安がつきものだ。特にこんな状況下では、判断の間違いが自分を含む全員の命の危険につながる。信頼するものに意見を聞くのも、当然のことであった。
冒険者たちにも意見を求めれば、やはり同じように現状維持という答えが返ってきて、一行の方針は決定した。
その日の夜は、特段何も起こらなかった。周囲をモンスターがうろつく気配もなく、ひとまずは体を休めることに成功した。
翌日は、冒険者たちを中心に森で狩りをおこなうことにした。冒険者たちは流石に手慣れたもので、森に住む小動物をいくらか狩ることに成功し、昼食にもありつけた。
五十を超えているケイガルドはともかく、若いユキヒトは何もしないわけにもいかず、午後からは狩りの手伝いをすることにした。
「……全く、ついてない」
冒険者たちのリーダー格らしい、初めに異変に気づいて偵察に出た男がぼやく。
名をランクースと言い、年は三十少しのヒューマンだ。ベテランと言っていい経験を持っており、ベルミステンの組合に所属する中では上位の実力を持つ冒険者だった。
「あんな大量のモンスター、生まれて初めて見たぜ。ベルミステンに住んでりゃ、モンスターの襲撃で困ることはないと思ってたんだがなあ」
「モンスターの動向は予測困難ですからね」
不条理と不合理の塊ではあるが、ほぼ例外なくヒトを害する行為をとる。それがモンスターだ。ファリオダズマでは他のあらゆる災害よりもモンスターによる被害が大きいものであり、対策に注がれる力も他の災害とは比べ物にならない。
「大体、意思疎通をはかってる様子もないのに、なんで人の街を襲うときはいろんな種類が襲ってくるってんだ……」
「……本当に」
ぼやきながらも、ランクースは周囲に動物の残す痕跡がないか調べていく。ユキヒトも見よう見まねできょろきょろとあたりを見回すものの、そう簡単に動物の気配など見つけられるものでもなかった。
「……ん?」
ふと、遠くから何やらヒトの声のようなものが聞こえた気がして、ユキヒトは立ち止った。ランクースも何かに気づいたらしく、視線を鋭くすると、腰に挿した剣に手を当てた。
「……あっちだ。あんた、腕に覚えは?」
「……自分の身を守る程度なら」
念のためにと、ユキヒトも剣を持ってきている。ランクースはユキヒトの返答に頷いた。
「ついて来てくれ。さすがに一人はまずい。でも、無理はするな」
「はい」
先に立って走りだすランクースをおいながら、ユキヒトは心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
モンスターと戦うのは初めてではない。しかしモンスターは今この周辺に大量に徘徊しているのだ。どれほどの数がいるのか、自分はそれと戦えるのか。不安は隠しきれなかった。
走って行くと、徐々にはっきりと音が聞こえる。やはり、ヒトだ。それもどうやら、何かと争っているらしい物音がする。恐らくは複数対複数。自分たちと同じように街へ戻れなかった者達か。推測しながら、さらに足を速める。
すぐに、物音のする地点に到達する。そこには、予測したのとは微妙に異なる景色があった。
確かに争いはあったようだった。しかしそれはもう収まりかけていた。
複数対複数、その推測も当たっていた。しかし一方は集団行動になれた訓練された集団だったらしく、一方を迅速に制圧していた。それぞれが纏う鎧には、揃いの紋章。それはベルミステンの正規軍の一隊が、モンスターの集団を制圧している現場だった。
ユキヒトがたどり着いた時には、ベルミステン正規軍はモンスター集団の最後の一匹を斬り倒すところだった。そして、その最後のモンスターを斬った人物を見て、ユキヒトは叫んだ。
「ヴァレリア!」
「ユキヒト! 良かった、無事だったのですね!」
凛々しい顔をほころばせて、ベルミステン騎士団治安維持部隊小隊長、ヴァレリア・ロイマーが声をあげた。
「……あの時は嬉しかったよ。何だかんだで、不安だったから。一番見たい顔を見られて、本当に嬉しかった」
「私も、あの時は不覚にも一瞬任務を忘れました。あなたがどうなってしまったのか、一切分かっていませんでしたから。無事な姿を見られて本当に安心しました」
「……」
言葉を交わす二人と、黙ったままのノルン。ユキヒトは、ノルンがつないだ手にギュッと力を入れるのを感じて、少しかがみこんでノルンと顔の高さを合わせた。
「大丈夫か? ……少し、休むか?」
ノルンとはよく話し合ったうえで、ベルミステンへと戻ってきた。あの時誰よりも傷ついたのは間違いなくノルンであったし、彼女はまだほんの子供に過ぎない。事件から二年という時間は、彼女の心を癒すのに十分な時間とは言えないであろう。
向かい合うという決心はノルンに伝えた。ノルンもまた、ユキヒトのその決心に賛成してくれた。とはいえ彼女が本当にそれと向き合うだけの準備ができているのか、それはユキヒトには分からないことだった。
「……辛いなら、ノルンはここでおしまいにするか?」
それも一つの道だと思う。その場合はまたあの山奥の家に戻ることになるだろう。ベルミステンに戻るのは早すぎたという事だ。それも仕方のない事、今回は自分とヴァレリアの心の整理だけにしても良いだろうとユキヒトは考えた。
つないだ手が震えて、ノルンの動揺を伝えてくる。
「……」
しばらくは言葉も発さず、ノルンは震えていた。仕方のない事だとユキヒトが思った瞬間、ぎゅっと強くノルンが手を握ってきた。
「……大丈夫です。続きを話しましょう」
「……」
その言葉を聞いて、ヴァレリアがノルンに近付いてきた。そして何も言わないまま、ノルンをぎゅっと抱きしめた。
「……強い子です。ノルンは本当に、強い子……」
その言葉を聞いて、ノルンが泣き出しそうな表情になる。しかし涙をこぼすまいとするように、ノルンの閉じた目に、強い力がこもった。
「……分かった。続きを話そう」
ノルンの強さに応えるためにも。ユキヒトは再び、口を開いた。