霧に一筋の光が差し込む。
陽の腕(かいな)が地へと伸ばされた様にも思える。
その腕に包まれて、僕は淡い感覚を覚えた。
それは本当に、何かに包まれているかの様な思い。
その事に僕はふと懐かしみを覚え、修練の動きを緩め、やがて止めた。
懐かしいが、しかし思い出そうとはしない。
圭からの忠告を忘れてはいないためだ。
―――― 君はもう、思い出そうとするな。
圭の見解では、僕の記憶には途切れがあるらしい。
その断線を手繰り寄せるのは、濡れ手で電線を引くような物。
ある種の精神的な傷害の様に、思い起こす事その物が害と成り得ると、そう言う事なのだそうだ。
精神分析を生業とする訳でもない、そんな圭の見解である。
無視しても構うまい。圭も気にしないだろう。
そもそも、例え話と言っていたのだから、そのまま受け取る事自体が間違いなのだ。
しかし一方で、僕は不思議と得心が行っていた。
思い出が、僕に害を為している。それが事実だと確信出来る。
まあ、そこに根拠が見出せないため、不思議ではあるのだが。
それゆえ、僕はこの懐かしさを追求しない。
ただ、ちょっと困った事がある。
この懐かしさは、いつぞや彼女の家で世話になった時に覚えた物と同じなのだ。
彼女の件は、ちょっと気に掛かっている。
付随して疑念も生じていて、考えて良い物やら、対応を決めかねているのだ。
冷えつつある汗を拭い、僕は首を傾げた。
どうした物なのだろう。圭に訊いてみようか。
身体の状態が落ち着いた頃、僕は思案を措(お)いた。
修練に必要なのは修練のための心身のみ。無駄な気は要らない。
僕がそうして五の手の準備を始めていると。
背後より近付く人影があった。二つ。
歩みの乱れからして、心身の一致が成っていない。多分、寝起きなのだろう。
僕は振り返った。
「簾平と宏平か。朝早いのだな」
「誰のからや思ぅとるんじゃ」
宏平の憎々しい言葉に、無言で簾平が頷いた。
から、とは原因を表す方言であった筈だ。
僕の知る語で訳せば、せい、が適当である。
つまり、誰のせいかと問われているのだが。見当が付かず、僕は首を傾げた。
宏平は顔に満面の怒りを浮かべたが、言葉を放たなかった。簾平が止めたのだ。
「真由」
「どうかしたのかい?」
「俺は非常に悲しい」
「……そうなのかい?」
僕が訊ねると、簾平は無表情を崩さずに頷いた。
「至福のときだったよ。布団は温かった」
「……寝ていた、と言う事だろうか」
「そう。眠いのに。昇さんに起こされた」
「昇小父さんに?」
二人や、小父さん一家は本家母屋で暮らしている。
朝起こしに来たと言うのは別段、おかしな事でもないだろう。
しかし、経緯が飲み込めない。
小父さんが起こした経緯もそうだが、その後に二人が神奈備まで足を運んだ経緯も、である。
また、話を聞く限りでは、誰のから、とは昇小父さんの事なのだろうか。
そうだとすると、それを僕に言う意図も読めない。
僕の疑念に答えるかの様に、簾平は再び頷き、告げた。
「見習えって言われた」
「おまはんが早ぉ起きとるけん、躾や言うてな、叩き起こされたで。
ほんで、おまはんとテダッて汗掻いてこい、ってな」
躾の語に、思い当たった事がある。
先日の朝、小父さんが言っていたのだ。
―――― ちっと躾が足らんと思うてなぁ。
恐らく、あの発言はこの事を意味していたのだろう。
とすると、誰のから、とは僕のせいに違いない。
僕の修練が、二人を起床に導いた様なのだし。
その事に、二人は不満を覚えているらしい。むべなるかな。
すっかり納得が行って、僕は頷いた。
「成程。経緯は把握した」
「ほうか。ほれはよかったで」
指の付け根を解しながら、宏平は片頬で笑った。
「ほんなら、相手してもらうで?」
「相手、かい?」
「この憤りを君に伝えたい」
真顔のままであった簾平も笑った。
どこか洵依を思わせる、邪な笑みである。それも二人とも。
僕は首を傾げて問うた。
「……よくは分からないが、立ち合えば良いのだな」
「ほうや。よぉわかっとんな」
「尋常に、勝負」
尋常に、であって良いのかと。
僕は頷いた。
「了承した。では――――」
そう言い置き。
二人が動き出すよりも先に。
僕は一の手を用いた。
二時間ほどの追いつ追われつであったが。
立ち合いを終えてから、二人にはひどく文句を言われた。
やれ、卑怯だ、いきなり逃げるな、どこが尋常だと。
僕は納得が行かなかった。
──── 先ず、一は逃げる。
僕の家の作法では、逃げる事が肝心なのだ。
尋常に立ち合った結果、非難されると言うのはおかしいだろう。
納得が行かない。それならどうすれば良かったと言うのだろうか。
/
僕の四国での話 二十七日 午前
/
昨日の事である。
夕餉の折、惠が言ってきた。
「明日、本家と分家が総出で年越しの準備を致します」
「ふむ。要り様であれば僕も手伝うが」
「いえ。お気持ちは嬉しいですが、村の事ですので」
「そうか」
僕は頷いた。
秘儀に関わる物なのだろう。
神とは言え、外様の僕に見せられる物でもあるまい。
手隙になるなと考え始めた頃、再び惠が言葉を掛けてきた。
「その都合で、私は分家の子らを見ています。
きちんとした応対の一つも出来ず、申し訳ありません」
「いや。忙しいのであれば致し方ないだろう。気にする事ではないよ」
「有り難うございます」
頭を下げた惠に、僕は感じ入った。
つくづく丁寧な子であるな、と。
方言を解さない僕に、語の説明をしてくれる事もそうであるが。
惠の配慮と、丁寧な応対には助けられている。前回も、今回も。
この恩義は返したい物であるが。
そう首を傾げていると。
その惠は、関係ない様子で食事を続ける簾平に声を掛けていた。
「簾平兄さん」
「んん?」
「いえ。返事は構いませんので」
惠は淡く笑み、提案した。
「明日は手伝って下さいね」
「んん!?」
簾平は喉に詰まらせた飯を茶で飲み下し。
ぶんぶんと首を振って見せた。
「無理無理」
「無理ではないです」
「めんどい」
「面倒でもありません」
僕は首を傾げ、簾平に問うた。
「面倒な事なのかい?」
「もちろん、面倒も面倒。体力使うし」
「簾平兄さんはゴロゴロしたいだけです」
「む。そうなのかい?」
僕と惠の注視に、簾平は渋い顔をした。
「ぶっちゃけは良くない」
「……その表現も宜しくありません」
同じく渋い顔をした惠であったが。
突如、ハッとした様子で僕を見返した。
「真由さん。ぶっちゃけと言う語は――――」
「惠。その語については大丈夫だよ」
「あ、はい。そうですか」
頷くと、再び惠は簾平に提案を続け。
簾平はその都度、首を横に振った。
僕はその間に一つ思い付き、二人に訊ねた。
「もし、簾平が嫌ならば、宏平が手伝えば良いのではなかろうか」
簾平が即座に却下した。
「真由。それ無理」
「ご提案は有り難いのですが。残念ながら、その通りです」
惠も頷いた。
「宏平は元服の儀で、明日の正午から三十三時間、籠もります。
午前の間もその準備がありますので」
「ふむ。確かに無理だな」
僕は納得し、別の提案を述べる事にした。
「ならば、僕が手伝おう」
「真由さんを働かせたりしますと、方々から叱られてしまいます」
「俺も叱られそう」
二人に反論に、僕は首を振った。
「そうすると、僕も籠もっているぐらいしか、する事がないのだが」
「しかし……働かせるわけにも……」
「でも、真由の希望を妨げるのも無礼」
あっさりと意見を翻した簾平に、惠は再び渋い顔を見せた。
が、ややあって、一つ溜め息を吐いた。
「そうですね。では、真由さん、お手伝いをお願いします」
「うむ。了承した」
淡く笑んだ惠は、視線を横へと移し、言った。
「では、簾平兄さんもお願いします」
「どうしてそうなる」
「真由さんを働かせて、自分だけのんびりが許されるとお思いですか」
「……騙された」
恨めしげに見遣る簾平が印象的であった。
そんな次第で。今現在、翌日の午前。
僕はオニサンゴなる遊びを行っている。
一般には鬼ごっこと言うのだそうだが。僕はオニサンゴでしか遊んだ事がない。
その乏しい経験から、僕は疑念を覚え、惠に訊ねた。
「どこまで本気を出して良い物だろうか」
「何故か簾平兄さんがやる気ですので、手を抜く必要はないと思います」
「ふむ。では気を入れて頑張ってみるよ」
僕は安心して、逃げに専心する事を決めた。
と言う訳で、小一時間ほど走ってみたのだが。
追い駆ける簾平の方が先に限界を迎え、途中、崩れ落ちる様に倒れ込んでしまった。
「も……むり……」
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ、だっただろうか」
拍手を打って、僕が首を傾げていると。
預かる少年少女の二人を連れて、惠が歩み寄ってきた。
顔に浮かんでいるのは、いつもの薄い笑みではなく、紛れもない苦笑。
「真由さん」
「どうかしたのかい」
「捕まえました」
肩に触れられてから気付いた。
連れている少女は確か、鬼だった筈だ。
とすると、惠は既に鬼に変わっていたらしい。
「しまった。迂闊だったな」
「いえ。むしろ、真由さん、強すぎます。もうみんな鬼になってます」
「いつも通り走っていただけなのだが」
息も絶え絶えに、簾平が口を挟んだ。
「……あさ、から……まゆ。つ……す……」
「つす?」
「これは私も分かりません」
二人で首を傾げていると。
惠の後ろに隠れていた少女が、声を掛けた。
「惠ちゃん」
「どうしたんえ?」
「飽きた。糸取りしよ」
惠より顔一つ分は小さい彼女。
気付いたのだが、惠と同年輩ではなかろうか。
呼び名や、親しみ方から思ったのであるが。
失礼な話であるが、改めて、惠も少女なのだなと感じ入っていると。
簾平を突いていた少年が、声を掛けてきた。
「兄ちゃん。兄ちゃんはワシらと遊ぼうで?」
「うむ。他の皆は?」
「向こうでサッカーやっとる」
「サッカーなら僕にも分かるな」
そう頷き。
未だに立ち上がれぬ簾平を立ち上がらせ、連れて行った。
「ちょ……ま……」
当初は僕だけが遊戯に参加し。
ようやく簾平が回復した頃には、一時休憩と相成った。
「簾平、大丈夫かい?」
「納得いかない」
腕組みを解かず、胡坐を掻いたまま簾平は言った。
「俺より真由が体力がある。これはいい。
でも、サッカーまでやってその涼しげな顔は納得いかない」
「涼しげだろうか」
僕は首を傾げた。
確かに、火照った身体に冷気が快いが。
それを涼しげと言うのだろうか。どうも違う気がするのだが。
僕の様子を眺めていた簾平は、ふと腕組みを解いた。
小さく頷いて、前の言を捨てる。
「まあ、いいか」
「良いのかい?」
「悩み、忘れてたみたいだし」
悩み。
一瞬、何の事を言っているのか分からなかったが。
継ぎ足された言葉に、僕は得心が行った。
「昨日、籠もってた。昼も夜も元気なかったし」
「その事か」
悩みと言えば、そうだろう。
心配を掛けていたらしいと、僕は反省した。
「済まない。心配を掛けたのだな」
「俺はそうでもない。惠が心配してた」
「そうか」
率直な言葉であるが。
それだけに惠の心配振りが窺われた。
「だから、昨日は惠も折れた」
「昨日、と言うと、今の件かい?」
「そう。節を曲げた」
立ち上がり、簾平は続けた。
「話は聞かないけど」
「……けど?」
「兄貴分は妹に心配掛けないように」
そう言って僕の額を指で弾き、集まる少年らの方へと歩いて行った。
僕が動くよりも先に。
少女らから離れ、惠がやって来た。
「どうなさいましたか?」
「簾平から意見を貰っていたのだが」
「意見、ですか?」
首を傾げる彼女に、僕は言った。
「惠にあまり心配を掛けるな、と」
「……簾平兄さんは、無口の癖にお喋りです」
顔を顰め、惠は小さくこぼした。
その言い口におかしみを感じ、僕が小さく笑むと。
彼女も表情を改め、淡く笑んで返した。
返してくれた言葉は、常の物と違って些か胡乱ではあったが。
「心配は、その……そんなには……いえ、その」
「矢張り心配を掛けたのだな」
言葉を詰まらせる惠に、僕は苦笑し、頷いた。
「済まない。昨日は少し考え込んでいたのだ」
「……昨日は灯も点さず、考え込んでおられたと聞きました」
「ふむ。そう言えば、刀自様に見られたのだったな」
「母も見たそうです」
僕は首を傾げた。
考え込んではいた。しかし、悩んではいたのだろうか。
「しかし、悩んでいた訳でも――――あるか」
そうだ、思い悩んではいたのだ。
思索に耽っていただけとはとても言えない。僕は確かに悩んでいたのだ。
いや、未だに解決していないのだから、現在形か。
僕が一つ頷くと。
惠は眉根を寄せて僕を見遣り、言った。
「その、今日は気晴らしにと、思ったのですが」
「いや。気持ちは有り難く受け取ったよ」
僕は首を直し、頷いた。
「ただ、案件が解決していない。今もだが。それだけの事なのだ」
「……お悩みはどのようなものなのですか? 差し支えなければ、お聞かせ願えませんか?」
「差し支えはないが」
僕は目を細めた。
透かして、何かを見遣るかの様に。
「僕は、ある人を怒らせてしまった。
その原因がはっきりとしないのだが。この事は自分で考えたいと思ってる」
「詳しく聞くのは控えるべきでしょうか」
「解決してからなら構うまいが。僕はその人から、言われていてね」
一度言葉を切り、少し笑んで見せた。
「言葉の意図は己で考えろと。己で飲み込めと。金言だと思う。
もしかしたら、君は答えを知っているかも知れないが。それ故に、僕は話さない」
「……そうですか」
ややあってから、頷いた惠は笑みをこぼした。
いつもと違って、はっきりとした笑みを。
「真由さん」
「どうかしたのかい?」
「母も言っていましたが。私も思いました」
くすりと、小さく笑いの吐息を漏らして、惠は続けた。
「真由さん。お変わりになりましたね」
「そうなのだろうか」
自信が持てない。
粗忽な身に変わりはなく、ここ数日は迷惑を掛けてばかりだ。
また、変われたとしても、その良否が計れない。
僕がそう顔を顰めていると、惠は再びくすりと笑った。
「だって、真由さん。選択されているじゃないですか」
「選択、かい」
「話さないと。そう選択されている」
「それが変化なのか」
「そうです。二年前とは違っていると思います」
僕は首を傾げ、問うた。
「この変化は良い物なのだろうか」
「良いものだと思います」
「……今一つ、僕自身は自信が持てないのだが」
笑みを淡く薄め、惠は言成した。
「では、私が保証します」
強く放たれたその言葉に、僕は目を見開いたが。
ふと、嬉しさが湧き上がり、ややあって僕は頷いた。
「それは、有り難い事だな」
結局、そのまま、昼餉の頃まで惠と話し込んでしまった。
子供らは簾平に任せ切りになってしまい、後々申し訳ない思いを抱いた物だが。
ただ、おかげで、僕の心を覆っていたらしい霧が晴れた。
悩みは尽きないが、僕は悩みに向き合う力を得たのだ。
戸惑う事など何一つない。ただ、僕は悩みと向き合えば良いのだから。
/
参照。(前のエピソードで関係している物)
彼女の家で~:前のエピソードの[14]。