宴の席の事。
僕の話を聞いて、先生は頷いた。
「四国か。なんてこった。先越された」
「先、ですか?」
「うどん食いに行きてぇんだ。向こう行ったらメールくれよ。食って美味かった店とか教えてくれ」
「了承しました。向こうで店を訊いてみます。しかし、僕は先生の携帯のアドレスを知らないのですが」
「おうおう。携帯出せ。赤外線いけるか?」
「はい」
教職の方の番号を教えて頂けるのは珍しい事である。
僕はそう思いつつ、学校の先生と名付けているフォルダに先生のアドレスを移した。
僕のその操作を見遣っていた先生は、ふと訊ねてきた。
「なあ、好奇心から訊くんだがな」
「はい」
「おれ以外で先生のアドレスとか、知ってんのか?」
「他の先生のアドレス、ですか」
僕は首を傾げた。
僕はよく分からないのだけど。
誰某(だれそれ)のアドレスを知っている、と言った情報は重要性があるのだろうか。
ここで伝えてしまうのに問題があるのであれば、僕は黙秘すべきなのだが。
僕がその疑問に答えを出すよりも先に、洵依が意見を言ってくれた。
「真由、誰のを知っているか、言っても構わないと思うよ」
「そうなのかい?」
「やっぱりそこで悩んでたんだね、真由。
勝手にアドレスを教えたら問題だけど、知っていると口にするくらいなら大丈夫だよ」
「成程」
僕は頷き。先生に真向かって、言い連ねた。
「では、お話します。
生物の秋月先生、書道の一柳先生、数学の蔵本先生、地理の永江先生、国語の西部先生────」
「ちょ、待て、佐藤、待て」
「はい、どうかされましたか?」
「多い多い。ってか、佐藤、一柳さんの携帯知ってんのか?」
「はい。先生の書画を拝見し、お話を伺いました所、教えて頂きました」
「……携帯持ってること自体、おれは知らんかったよ」
何故だか落ち込まれてしまった。
僕は戸惑いながらも、とりあえず訊ねた。
「先生。その、もう宜しいのでしょうか?」
「良いっつーか、なんだ、おい、まだ知ってんのか?」
「先ほど教えて頂きました先生もそうですが、他には音楽の藤先生、化学の────」
「待て、待て待て待てぃ! ふ、藤先生だと! 藤先生だと!?」
先生に話を止められたので。
それで見返してみると、今度は驚愕させてしまっていた。
何か不味かったのだろうかと僕が首を傾げていると。
何故だか菫が苦笑しつつ、言ってきた。
「先輩はまあ、たぶん聞いてないんすよね」
「ふむ。何の話だろうか」
「藤先生。相当告られてて、振ってるって話ですよ。アドも教えないとかって話です」
「告るとは、告白すると言う意味で合っているのかい?」
「そうっすよ」
僕は首を傾げた。
「告白を受けている話は、藤先生から聞いているよ」
「え、マジですか?」
「うむ。時折、話を聞いているのだが」
「その話、私も初耳だよ」
洵依が少しだけ目を細めて、言ってきた。
「いつ会っていたんだい? そんな様子はなかったのに」
「いや。その様な文を受けているのだ」
「ふぅん。メール、ね……」
「いやいや、そもそもだな佐藤」
洵依が更に目を細めて、言葉を止めると。
前のめりに先生が訊ねてきた。
「どこで訊いた。どうやって訊いた。あと、アドレスの最初十五文字くらい教えろ」
「いえ。その、申し訳ないのですが。アドレスの十五文字となりますと藤先生の許可を得ませんと」
「そこは冗談だ。いやでも、どうやって訊いた。それは教えろ。
いやいや、藤先生がどうって話じゃなくてな、おれよかお前の方が先生のアドレス知ってるみたいだからな」
「先生……その言い訳はどうかと思いますよ……」
「おう……言ってておれも凹んできた……」
先生に葡萄の果汁飲料を勧める菫を見ながら、僕は首を傾げた。
「その、先生。藤先生からアドレスを聞きました次第、お話しましょうか?」
「お、おお。そうだな。教えてくれ」
「篠笛を購入しに和楽器店に行った折、お会いしまして。小唄の事など話をしていて、その時に教わりました」
先生は崩れ落ちた。
「くぉぉぉお。おれには無理だ。くそ、共通の話題か……和楽器……カスタネットなら、なんとか……」
「いやいやいや。先生。無茶振り過ぎて、藤先生もドン引きですって、それ」
「う、おおう。そ、そうだな。焦りすぎだぞおれ」
思えば、なのだけど。
あの時は僕が話をし過ぎていて、洵依の意図を果たせなかった気がする。
僕は質問に答えていただけのつもりだったのだが。あれは不味かっただろう。
これは一つ謝らないといけないと思い。
飛行機が着いてから、文を送ろうと決めたのだった。
/
僕の四国での話 二十五日昼
/
飛行機とは偉大な物である。
そうそう乗る機会は無いのだが、こうして乗ると改めて実感する。
人は、本来為し得ない移動をその知恵で成し遂げた。
海を越え、空を渡って。物を届け、人を運び、人と人とを繋げる。何と偉大な事であるか。
いや、これは飛行機に限らない事だろうが。
電車もそうであるし、あるいは車だってそうである。
とは言え、中でも飛行機はその偉大さが際立っているよう思うのだ。
飛行機より降り立った僕は、そんな感慨に耽っていた。
手荷物一つで、ロビーを歩きながら、僕はふと硝子張りの壁の先を眺め遣った。
この地に落ちる光は、僕の街のそれと異なる。
同じ太陽から来た光で、僕自身も何を言っているのだと思うのだが。
しかし、矢張り違うのだ。その柔らかさと、強さとが。確かに違う。
また、空気も違う。地の匂いも違う。並び立つ植木の個性も違っている。
飛行機で運ばれてきた僕は、異人であり。
硝子の向こうの世界は確かに異界なのだと、僕は思い、一人目を細めたのだった。
ロビーの一角に座り、僕は携帯の電源を入れた。
昨日の帰り、洵依から、四国に着いてから連絡を入れるよう言われたのだ。
飛行機の中で謝ろうと思った事もある。好都合であった。
文面を練り、送信すると。
ややあってから携帯が鳴った。ラミンシュの風よ吹けで、彼女の電話の呼び出し音である。
「もしもし。どうかしたのかい?」
『どうかしなかったら、電話しちゃいけないのかい? 例えば、誰かに告白されたとか、そんなことがないと』
「いや。文を送って直ぐの事だったからね、何かあったのかと思ったのだ」
『……悪かったね、変な言い掛かりを付けて』
「言い掛かり、かい?」
僕は首を傾げた。
彼女が言い掛かりを付ける、と言うのは、些か想像し難い。
先程の問いにしても、僕の不躾な態度を諷諫した物だと思うのだが。実は言い掛かりだったのだろうか。
この場合、まず言い掛かりと言う概念から掘り下げるべきだろう。
僕がそう思案を始めていると、電話口から彼女の呼ぶ声が聞こえた。
『真由、真由ー』
「……うむ。何だろうか」
『あ、繋がった。なんだい、また考え込んでいたのかい?』
「言い掛かりなる物は何であったのか、少し考えていたのだが」
『真由。その、悪かったから、そのことは忘れてくれないかな?』
「構わないが」
『ありがとう』
僕は小首を傾げ、訊ねた。
「そうすると、君は何か用件がある、と言う訳では無いのだな」
『そうだね。強いて言えば、真由の声が聞きたかった、かな』
「ふむ。僕の声を、かい?」
『そうだよ』
僕は再び首を傾げた。
「僕には、人の声を聞きたくなった経験が無いのだが。
そういう事は、度々ある物なのかい?」
彼女はくすくすと小さく笑った。
『真由。そうだね、女には時々、あるかも知れないね』
「とすると、僕に体験するのは難しいのだろうか」
『その内、体験するかも知れないよ? 人の心なのだから、分かったものじゃないしね』
成程と、僕は一つ頷いた。
心の問題であれば、人それぞれ体験する機に違いはあるだろう。
しかし、そうすると。
声を聞きたいと言うのは、心に左右された物。単純な欲求とは異なるのだろう。
初めて聞いた欲求であるが、中々興味深い。
話ではなく、声が聞きたいと言うのだ。声質に何か惹き付ける条件があるのだろうか。
僕がそう考えていると、再び呼び声が聞こえた。
『真由ー、聞いてるかい?』
「む。済まない。少し考え込んでいた」
『君は電話に向かないね。電波も悪くないのに、すぐに電話が遠くなる』
「本当に申し訳ない所だ」
彼女の揶(からか)うような言葉に、僕は反省した。
どうにも直らぬ悪癖である。いずれ、抜本的な解決手段を考えねば。
僕はそう思いながら、外を見、立ち上がった。
「済まないが、洵依」
『なんだい?』
「待ち合わせている方が来られた」
『ああ、うん、分かったよ。
また色々、そっちの話を聞かせてほしいな。君からの連絡、待ってるよ?』
「了承した」
僕は頷いた。
外では一台の車が待機していた。他の車は見当たらない。
飛行機の乗客もそう多くは無かったから、僕が待っている内に出てしまったのだろう。
ワンボックスカーと言っただろうか、銀塗りのそれに乗るは見知った女性。
髪を短く切り揃え、眼鏡を掛けたその姿は、二年前と変わらない。
浮かべた笑みの温かさもそうだ。思わずこちらも顔を綻ばせるような笑みである。
ただ、昔と違い、立った姿が幾分低く思われた。
僕の身長が伸びたためだろう。と言っても、僕の方が未だ拳一つ分は低いのだが。
車より降り立ったその女性に、僕は頭を下げた。
「お久しぶりです、千代小母さん」
「ほんまやなぁ。えっとぶりやけんど、マヌの坊ちゃんも元気やったんえ?」
「元気です。小母さんも健勝のご様子、安心しました」
そう言って言葉を止め、僕は首を傾げた。
えっとぶりが久しぶり、と言う事は覚えているのだが。
僕の呼び名らしき物が、どうも違っていたのだ。
「しかし、お言葉ですが。僕の名前は真由なのですが」
「うん? ……そうやそうや。そうやった。済まんなぁ」
「いえ。構いません」
小母さんは僕の傍まで歩み寄って、僕の頭に手を置いた。
「坊ちゃんもよう大きなって。次会うたらきっと、うちより高ぅなっとるで」
「どうでしょうか。小母さんも随分と高いと思いますので、難しいかも知れません」
僕の応えに、小母さんはにっこりと笑った。
「えっとぶりでも、坊ちゃんは変わらんなぁ」
「そうでしょうか」
「そうや」
小母さんは一頻り笑ってから、腕時計に目を遣った。
「もうえぇ時間やな。坊ちゃん、昼は取ったんえ?」
「いえ。未だです」
「ほな、街の方で食て行こか」
「ご面倒をお掛けします」
僕が頭を下げると。
運転席側に回り込んでいた小母さんは、再び笑って言った。
「坊ちゃんは真面目やなぁ。気ぃせんでえぇよ」
「有り難うございます」
そう再び頭を下げてから、僕は助手席に乗り込んだ。
車に乗るのも、思えば久方ぶりである。
シートベルトを着けていると、小母さんが言った。
「坊ちゃん。奢るけん、食いたいもん言てみぃ?」
「有り難う御座います。出来れば、うどんが食べたいのですが」
「うどんなぁ」
目を瞬かせ、小母さんは問うた。
「ほなけんど、坊ちゃんも若いけん、ラーメンやかの方がえぇん違うか?」
「実は、僕の学校の先生で、四国に来てうどんを食べたいと仰っていた方が居りまして。
こちらでうどんを食べて、感想を伝える事を約しているのです」
「ほうかほうか。約束やったら大事やな」
小母さんは二度三度と頷き、応えた。
「時間も時間やけん、人も多かろうな。人の来んえぇ店連れてったるで」
「ご配慮、有り難う御座います」
住宅街の、暖簾も掛からぬ店に入り。
昼餉として、たらいうどんなる物を小母さんと突いた。
小母さんの宣言通り、あまり混んで居らず、それでいてうどんは美味かった。
歯切れ良く、しかし噛み応えも良い麺。
汁は薄味ながら味わい深く、どこか野趣の風情を感じた。
聞けば、山魚を出汁に用いているのだそうだ。然もありなん。
再び車に乗り込んでから、僕は礼を言った。
「小母さん。有り難う御座いました。これで先生にきちんと報告出来そうです」
「ほうかほうか。ンまかったえ?」
「はい。出汁の味わいが豊かで、ついつい食べ過ぎてしまい、申し訳無かったです」
盥(たらい)一つを突いたのであるから、僕が食べた分だけ、小母さんの分が減ったのだ。
その事を、僕は反省していた。
僕の言葉を聞き、小母さんは声を上げて笑った。
「ははっ。気ぃせんでええよ。子ぉは食うて育つもんやで」
「ご寛恕、有り難く思います」
「坊ちゃん。なんや固いで。他人行儀やで?」
「申し訳無いです。恐らく緊張しているのでしょう」
僕は首を傾げ、言葉を続けた。
「先の訪いと違い、今回は僕が主賓ですから。礼を逸さぬ物かと怯えている物と思います」
車の鍵を捻った小母さんは、首をも捻って僕を見遣った。目を丸くして。
「坊ちゃんが、礼儀知らずやて?」
「そうならぬよう、気を配ってはいるのですが」
「ほ、ほうかほうか。ほれ、は、まあ……」
顔を歪めたかと見えたその次の瞬間には。
小母さんは呵呵大笑していた。
ハンドルに顔を埋めたかと思うと。
苦しげに笑いを続けながら、小母さんはハンドルの端を幾度と無く拳で叩いた。
その力は存外、強い物で、車全体がかなり揺れた。
弾けるような笑声に同調出来ないでいる僕は、小母さんを見ていたのだけど。
ふと、その声に、肩の辺りにあった力みが取れた様な気がした。
言葉通り、僕は緊張していて、小母さんに返す言葉もそれが伝わっていた。
しかし、今ならばその様な事もあるまい。そんな気がするのだ。
僕は己を異人と思い、この地を異界と思ったのだが。
その事に緊張していた僕は、確かに異質な存在だったのだろう。
ただ、そんな事はたった今、小母さんに一蹴されたのだ。
心の澱を灑掃するかの様な。胸の透く様な。
そんな笑いで有り、そんな声であったのだから。
ようやく、僕は釣られて表情を緩め。
ついで、破顔したのだった。
「坊ちゃん、坊ちゃん」
「はい。何でしょうか」
「さっきは変わらん言うたけんど、あれは嘘やったわ」
「そうなのですか?」
僕が首を傾げると。
晴れ晴れしい笑みを浮かべたまま、小母さんは深く頷いたのだった。
「ほうや。坊ちゃん、おもっしょーなっとる」
「おもっしょー、ですか?」
「ほうやほうや。ほんまにおもっしょーなって」
くつくつと笑う小母さんとは別に。
僕は小首を傾げていた。
おもっしょーとは何だろうか、と。