また季節は春。始まりの季節である。
鎧を身に纏った騎士たちの軍勢を、黒い竜の群れが蹂躙する。
影の色をした火竜の爪が鎧を引き裂き、吐く炎が騎士たちの身を焼く。
鉄よりも硬い竜の爪に金属鎧すら防具の役目を果たせず、その吐く炎は、自然のものでも魔法によるものでもないため、着込んだ鎧も鍛えられた騎士の耐魔の能力も意味を持たず、炎を浴びせられた兵士は焼け落ち倒れていく。
無論、騎士たちも黙ってやられるままになっているわけではない。
剣を抜き、その刃を竜に叩きつけ、騎馬を走らせ、その勢いのままに槍を突き立てる。
だが、竜の強靭な肉体を傷つけるに至った攻撃は少なく、また傷ついてもまるで痛みを感じていないかのような竜たちの前に、その抵抗は儚く感じる。
騎士たちも弱くはないのだろう。そうでなくて騎士を名乗れるものか。
だけど、足りない。竜と正面から戦い勝つためには弱くないというだけの実力では、まだ不足。
あるいは、その手にした武器がドラゴンキラーと呼ばれる竜殺しの剣であれば、もしくは火竜の弱点ともいえる氷結の魔法ブリザーを使う魔道士がいれば戦いになったのかもしれないが、その軍にはどちらもない。
つまり、それは戦いなどではなく虐殺でしかなかった。
はっきりいって、一般的日本人である俺には、刺激が強すぎて直視に耐えません。
犯人はマケドニアが世界に誇る規格外の火竜です。
戦争が始まった。
理由は幾つもある。
結局のところ、マムクートを追放せよというアカネイア聖王国の要求にマケドニアが応えなかったこと。
メディウスの復活を知った聖王国が、このままでは大陸全体の危機に陥るからドルーアを成敗せよと命じてきておいて自軍は動かそうとしないことに、マケドニアの軍が怒りと不満を爆発させたこと。
そして、もっとも重要な理由としてマケドニア王家とメディウスが友好的に付き合っていることが露見した。というか、ガーネフがその辺りの情報をアカネイア聖王国他多くの国に流したからである。
さて、ガーネフが、そんなことをした理由がマケドニアの勝利のためだと言って信じる者が何人いるだろうか?
だが、それが事実である。
聖王国の要求は、マケドニアには受け入れることが不可能なものであり、また秘密というものが、どれだけ厳重に隠したところで必ず漏れてしまうものである以上、遅かれ早かれ戦争になること避けられないものだった。
それならば、事態の重要性を理解しているか怪しい聖王国は別として、他の国が戦力を整える前に戦争を始めてしまうべきだというのがガーネフの考えであったのだ。
幸か不幸か、マケドニアはいつ戦争になっても良いように準備は怠らなかったので。
無論、人の心の隙をつく名人であるガーネフである。各国に、ただ情報を流したわけではない。
アカネイアには、その戦力を過小なものだと思わせ油断を誘い、グルニアやグラなどの国には、過大なまでの脅威と思わせ、アカネイアではなくマケドニアにつく方が、後々国のためであると情報を流した。
結果として、グルニアとグラの中にはアカネイアよりマケドニアにつくべきだと考える者が幾人も現れることになった。
とはいえ、どちらも、すぐにはマケドニアと同盟を組もうとは考えなかった。
例えば、ゲームであれば即座にマケドニアと共にドルーアに併合されたグルニアであるが、今回アカネイアと戦争になるのは暗黒竜メディウスの率いるドルーア帝国ではなく、十代半ばの少年王が率いるマケドニアである。
軍備が増強されていようが、ドルーアと友好的な関係を持ち、国民にマムクートを迎えていようが同盟相手とするには不足していると言わざるを得ない。
ドルーアとは友好的な関係であるとはいえ、軍事同盟を結んでいるわけでもないというのも、大きな理由である。
だから、グルニアは試してみることにした。
グルニアには、マケドニアを攻めるようにアカネイアから指示が出ている。
だから、一戦交えマケドニアの戦力を確かめてから方針を定めることを決めた。
そうして編成された対マケドニアの軍は、どちらかといえば反マケドニアの考えを持つ人間で固められた。
これは、後に同盟を組むことになった場合のことを考えた編成であり、ゆえにマケドニア側としても遠慮なく叩き潰せる相手である。
そして、この軍勢に対して送り込まれたのが、一人の幼女を背に乗せた、ただ一頭の火竜であろうとは、グルニア軍は考えもしなかったに違いない。
「マケドニアに進軍してくるグルニア軍を、一人で叩いてきてくれ」
最初、その指示がミシェイルの口から出たときに俺が考えたのは、いかにして速やかに逃げ出すかであった。
当然だろう。
俺は、『敵は2億4千万、挑むは八匹の狼たち!!』のキャッチフレーズで謳われる八玉の勇者ではないのだ。単体で、一つの軍に立ち向かう気概があるはずもないのである。
それ以前に、俺には、殺したり殺されたりの戦場に出て行く覚悟なんてものはないわけだが。
真なる竜の力を使えば殺される心配はほとんどないとは言え、それでも怖いことに違いはない。
そんな俺は、ミシェイルに直接戦う必要はないと言われ、どういうことかと考えてみた。そして、分からなかった。
なら、俺にどうしろと?
そう尋ねてみると、前にバレンシア大陸で覚えてきた、魔法を使うように言われた。
俺が、はるばるバレンシア大陸まで行って覚えて来た魔法に、イリュージョンというものがある。
それは、シャドーという影の兵士を召喚し戦わせる魔法で、術者によって出てくるユニットが違うのだが、俺の場合は大量の竜が出てきてしまった。
俺がこの魔法を覚えたのは、影の兵士という労働力を手に入れ自分はニート生活を満喫するつもりだったので、労働力として不向きな竜が出てきたことに不本意だったのだが、まあ何かの役に立つかなと儚い希望に縋ってしまったのが大きな間違い間違いでした。
シャドーは、戦うためにのみ生み出された使い捨ての兵士である。
これに、細かい制御など意味を成さない。
呼び出せば、自動的に敵を求めて驀進するこれらには、敵味方を判断する機能はあっても、術者の命令に従うような知性はない。
つまり、試しに召喚した時、シャドーたちは敵を求め自立行動に走り、これらを味方だと認識しない王宮の竜たちと激しく殺し合い潰しあったのである。あっさり負けたけど。
まあ、王宮の竜たちの中には、カーマインがいるからね。シャドーたちは速やかに全滅させられたよ。
しかし、怪獣大決戦の舞台となった王宮は半壊したりなんかして、その原因である俺は説教の上、強制労働に従事させられたのもいい思い出……、なわけもなく、ちょっとしたトラウマです。
閑話休題。
やるべき仕事は、イリュージョンで召喚した影の竜たちに、グルニアの軍を襲わせることのみで、直接戦う必要はないというのが、ミシェイルの指示である。
シャドーの最大の欠点は、手加減というものができないこと。
つまり、自分が倒されるか敵を殺しつくすかのどちらかまで止まらないという、狂戦士にも似た戦うためだけに存在する自立兵器なのだ。
そんなものは、軍の一部に組み込めない。戦争とは、敵を服従させるため行為なのだ。敵を殲滅しつくすためのものが入り込む余地などないのだから。
だけど、長所もある。
シャドーは、術者の魔力で編まれた偽りの生命である。死を恐れず、倒されてもいくらでも替えの効く消耗品。
しかも、これを戦力とするのなら、術者だけを戦場に送れば済むので、糧食の心配も行軍にかかる時間も最小限で済む。
まあ実際のところ、この魔法を使えるのは普通は戦闘力に劣るシスターだけなので、単独で行動させたりすれば野生の獣や盗賊の類に襲われてしまいそうなものなのだが、俺の場合はその心配はない。
なにしろ、空を飛んで移動する怪獣である。
そんなものに襲撃をしようと考える獣も賊もいない。
術者が倒されれば消えてしまうという欠点もあるが、そもそも戦う気のない俺が倒されるということもありえない。
イリュージョンの魔法でシャドーたちを召喚した後は、空中で待機。
あとは、弓や魔法で攻撃されても大丈夫なように見えざる手で壁を作っておき、シャドーが減ったらまたイリュージョンの魔法を使う。
それだけで、敵を殲滅できるのだから、これほど楽なことはない。
敵が降伏しても止められないという欠点はどうにもならないが。
そう、楽なのだ。
楽なだけに、俺はそれを見続けなければいけない。
自分の仕業で、人が死んでいく光景を見るというのは、想像以上のストレスを感じさせてくる。
元々スプラッタは苦手だというのもあるが、戦争だからといって容赦なく人の命を奪う今の自分は、心まで怪物になったのではないかという気がして、内臓から広がる冷気が全身を冷たく侵していく。
だけど、目を逸らすわけにはいかない。
散発的に飛んでくる弓矢や魔法の攻撃を止める見えざる手の壁を張り続けなければいかないし、シャドーの数の確認も怠るわけにはいかない。
それに、目を逸らしたところで、シャドーによって命を散らしている騎士たちを殺しているのが俺だという事実が変わるわけではないのだから。
「大丈夫?」
尋ねてくる言葉はミネルバのもの。
俺が戦場に出ることを忌避していることを、誰よりも理解しているミネルバには、この光景を作り出している俺のことが心配でならないのだろう。
ミネルバが、そんなだから俺は逃げられない。
どれだけ苦しくても、この優しい少女を見捨てられない俺は、この戦争に最後まで関わり続けなくてはならなくなるのだ。
などというイベントは起こらなかった。
「また独り言か?」
尋ねてくるミネルバに、「まあね」と答えて土を掘る。
俺が何をしているのかというと、貯水池作りである。
国民が増えて、開拓地も増えた現在のマケドニアに必要なのは、農耕のための必需品である水源の確保である。
本当なら、国民総出で行われるはずのそれは、戦争のための勃発で屈強な若者が兵士として連れて行かれたために人手不足となり、結果、この国でもっとも暇な労働力である俺に回ってきたわけである。
戦争には行かないのかって?
もちろん行きませんよ。行けとか言われたら、即座にこの国から逃げ出す自信があるね。
俺が逃げたら、竜が言う事を聞かなくなって、あっという間にマケドニアが滅亡することになりかねないとか、この戦争の始まる原因の一つが俺だとか知ったことじゃありません。
徴兵制度のない日本の国民舐めんなって感じです。
イリュージョンを使えば、自分は戦わなくてもいいなんて誤魔化しに騙されるほど、俺の想像力は貧困ではないのです。
ミシェイルも、それを知ってるんで俺に戦えとか言わないしね。
だけど、独り言の全てが俺の妄想ってわけではなかったりする。
たとえば、マケドニアとグルニアが戦争状態になったのは事実だし、アカネイア寄りの騎士が遠征してきたのも、それを迎え撃ったのがたった一頭の火竜だというのも事実だ。なにせ、それが妄想のネタ元だしね。
違うのは、グルニアの騎士を迎え撃ったのが、レナだけを背に乗せたカーマインだということだけである。
そんで、それを遠く離れたマケドニア王宮で、視界を風に乗せて見ていた俺をミシェイルが「なんでもありだな、お前は」とか言ってたけど、どうでもいいよね。
王宮を半壊させたイリュージョンの魔法に興味を持った人間は多かった。
まあ細かい制御が利かないのは問題だが、たった一人の術者がいれば、使い捨てにしても心の痛まない一つの部隊が作れるのである。戦争に使うにしろなんにしろ覚えておいて無駄になる魔法ではあるまい。
が、これが簡単に使える魔法ではなかった。
まあ、本家バレンシア大陸でもシスターの専用魔法である。この大陸に置いて、大賢者ガトーに次ぐ魔道の使い手であるガーネフにすら、結局使えるようにはならなかったと言えば、その難しさが分かってもらえるだろうか。ゾンビやガーゴイルの、モンスター召喚魔法であるメサイアは使えるようになったが。
そして、王宮の住人たちの中で、俺以外にこの魔法を使えるものが一人というか一対だけ誕生した。
レナとカーマインである。
特にシスターになる修行を積んでいないレナにも、獣程度の知能しかないカーマインにも、魔法は使えなかったのだが、何故かこの一対が協力した場合に限り、魔法が発動したのだ。
どういう理屈でやっているのかとレナに尋ねてみたが、考えるのではなく感じるんだ的な説明をされてしまった。もちろん、理解はできなかった。
この一心同体コンビには、レナに槍を持たせて二つで一体の妖怪と呼んでやろうと思ったが、なんとなく後が怖かったのでやめておいた。
いや、カーマインは、ゴジラかお前は! ってくらいぐんぐん成長してて、そいつが更にイリュージョンの魔法で影の火竜の軍団を出せるようになったとか、恐ろしくて怒らせるようなことはできません。俺が召喚できるのは、竜は竜でも飛竜だから、シャドー同士で戦わせたら負けるしね。
なんか最近、カーマインが本当に火竜なのか疑問を感じてきましたが、見えざる手でいっぱつ制圧できる俺が言っても説得力に欠けるらしく皆にはスルーされます。
カーマインのシャドーは飛べないから逃げるのも簡単だしね。
そんなこんなで、前線にでる機会もないので、前足を器用に動かしてモグラのように土を掘る俺。
見えざる手は使わないのかって? 使ってたよ。でも、すぐに飽きたよ。
見えざる手は便利だけど、黙って見てるだけなんで肉体的には楽だけど精神的に疲労するのよね。そもそも俺の肉体は、疲労知らずの火竜だしね。
というわけで、肉体労働に勤しむ俺です。効率とか知ったことか。
「それはいいが、モグラの真似はやめろ。井戸を掘ってどうするつもりだ貴様」
おや、ミネルバからクレームが入りましたよ?
毎回同じ作業じゃ飽きるじゃないか、少しは遊ばせろよ幼女。
「幼女いうな! 大体、なぜ私まで、こんな地味な仕事に回されねばならんのだ」
なによ。国民の皆さんのための大切な仕事じゃないか。こういう仕事こそ蔑ろにしちゃいけないんだぞ。
「その大事な仕事で遊んでいる奴が言うな!」
むう、イライラしてるな。カルシウムが足りないんじゃないか? 小魚と牛乳、持ってこようか?
「いらん! 大体、私が言っているのは、何故、国の興亡を賭けた戦いの最中に王女である私が、こんなところにいなくてはならんのかということだ」
何故って言われてもねえ。
俺の飼い主だからとしか言いようがないよ。
答えてあげたら、くそっ、と呟き苛立たしげに頭をかき始めた。
対外的に、現在マケドニアはグルニアとの戦争状態に入っているんだけど俺は戦場に出て行くつもりはなく、その俺を乗騎にしたミネルバは他の竜に乗る気はないので必然的に戦争に参加できなかったりするのだ。
国王である兄ミシェイルや、その側近のカチュアまで前線に立って軍を指揮している現在、それを本人は重大な裏切りのように感じているらしいが、客観的に見ると十代前半の年齢の少女であり現国王ミシェイルにもしものことがあった場合に次の王として立たなければならない王女が前線に出るなど、俺のことがなくても認められることではない。
とはいえ、ミネルバに言わせれば、年齢に関しては自分より年少のカチュアやレナが、身分で言えば自分より重要な位置にいるミシェイルが戦場に出ることが許されて、自分はダメだということが納得できないでいるらしい。
真面目な子は気苦労が多くて大変だよね。
たんなる反抗期って気もするけど。思春期の子は難しいわ。
「分かっているんなら、少しはこちらの苦労も考えてくれませんか?」
そんなことを言ってくるのは、最近ペガサスに乗る練習をしているパオラです。
俺に乗せられるがというか触るのが嫌だからと頑張っているらしいが、その身についた竜の体臭のせいでペガサスに恐れられて難儀しているらしい。あきらめて竜騎士を目指せばいいのにね。
「ほっといてください。というか、レッド様の、そういう心無い言動のせいでわたしたちがどれだけ苦労をしているか自覚してますか?」
おや、なんか説教が始まりそうですよ。
さーて、仕事仕事。国民の皆さんのための大事な仕事は真面目にやらないとねー。
と、ちょこちょこと石を運んでいるチキに頷きかけると、同じように「ねー」と頷き返してきた。
和むなあ。
チキが何をしているのかというと、本人は仕事の手伝いをしているつもりのようです。実際には、幼女の手でできる程度の作業量じゃ大して足しにもならないんだけど、俺の精神的疲労を和らげるという意味では役に立っている。パオラは、一向に俺に慣れないし、ミネルバはイライラしてるしね。
ミネルバも、昔は今のチキみたいに素直だったのに、時の流れは残酷です。
とりあえず、仕事を再開する俺の邪魔をしてまで説教をするわけにはいかないパオラは、それで口を噤む。
うむ、計画通り。
しかし、憤懣やるかたないミネルバはそれでは収まらず、剣の練習をするぞとパオラを連れて行ってしまった。
仕事はいいのか? 俺がサボらないか監視する仕事は。
「今もサボってるようなものでしょう。本当なら、あっというまに終わらせることができる仕事を時間をかけてやってるわけですし」
まあね。と、声の方に顔を向けると、そこにはハイキング用に作ったカーペットに横座りした紫色の長髪を背中に流した一人の少女。聞いて驚け、アリティアの王女エリスがいる。
何故ここにエリスがいるのかといえば、そこには話せば長くもない事情がある。
エリスをマケドニアに連れてきたのはガーネフ。
大賢者の死後、ガーネフが最初に向かったのは自身の師匠ガトーの根城である。
気の遠くなるような長い年月を生きてきたガトーが知る魔法は多く、彼は幾人もの弟子にそれぞれ別の魔法を伝えた。
それは、一人の人間だけに継承させるには膨大に過ぎる量があったからであるが、自身の優秀さを信じるガーネフは自分ならばそれら全てを継承できると信じ手に入れようと考えた。そして、そこで出会ったのだ。ガトーの教えを受けシスターとしての修行をしていたアリティアの王女エリスと。
エリスが、ガトーの元で修行し使えるようになるのは、死者の蘇生を可能にするオームの杖。
本来であれば、ガーネフはこれを利用しようと考え、それが理由でエリスを拉致したのであろうが、この時の暗黒司祭は心中の闇を抜き取られ、綺麗なガーネフになっていた。
その魔法で、ガトーを蘇らそうと思わなかったのかって?
うん、それ無理。
死者蘇生の魔法は、損壊の少ない遺体と儀式のための祭壇を必要とするんだけど、遺体は埋葬済みで掘り返したりしたらえげつない物が出てきそうだし、祭壇の用意もない。
ついでに言うと、餅が喉に詰まったままなので、蘇生しても即窒息死する危険性もある。
だから、エリスをどうこうしようという考えは持たなかったのだが、ならば放置しておけばいいのかというと、そういうわけにはいかなかった。
なにせ、ガトーはもういないのだから、少女を一人で残しておくのには不安が残るし、そこがエリスの故郷から遠く離れた地であり、少女一人の足で帰すには治安の意味で無理がありすぎた。
かといって、ガーネフがアリティアに送っていくわけにもいかない。
知る人ぞ知る悪名の高い暗黒司祭が、王女を連れてアリティアの城に行くというわけにもいかないし、アリティアはいずれ起こる戦争においてアカネイアの側につくことが確実な国である。
ここでアリティアの王女の身柄を押さえておくことは損にはならないし、それがなくても多くの竜を抱えたマケドニア側の負けはないとガーネフは判断している。
ならば、落とされることが確実の城に送り、そのドサクサで命を落とすかもしれないような危険を冒させることが正しいとは思えなかったのだ。
だからといって、少女を誘拐してくるのは如何なものかと思わなくはないが、そんな理由で連れてこられたエリスは俺に預けられた。
理由は幾つもある。
見えざる手を使う俺の手から逃げ出すのは不可能に近いということ。
逆に、俺の傍にいれば、どんな危険も回避可能なこと。
いざ戦争になってアリティアが敵対すれば、そこの王女であるエリスにも敵意と警戒の目が向くことになるだろうが、俺の傍にいればそれも和らぐだろうし、直接危害を加えようとする者も現れない、現れても取り押さえるのが容易なこと。
そして、なによりも俺という竜を恐れないのが大きい。
王宮に火竜が住み始め、それらに慣れ始めたマケドニアの国民たちの中にも俺という喋る竜はいまだに恐怖の対象であると考える者は多い。ミシェイルのマムクート受け入れ政策なんかも、俺に操られてのことだと考え苦々しい思いをしている者もいるくらいだ。
警戒心の薄い子供にはそうでもないんだけど、分別のある大人には人気のない俺です。子供にだって、好かれるのと怖がられるのが半々くらいだけどね。
それはさておき、俺を恐れないのであれば、預けておくことになんの問題もないということである。
体よく子守を押し付けられただけの気もするけど。
そんな大人の都合に、当のエリスが何を思っているのか俺には分からない。
心を読めば済む話なんだけど、子供相手にやろうとは思えない。子供が何を企んだところで大した事はできないしね。
「どうしたんですか?」
黙り込み考え事を始めた俺に、不思議そうな顔で問いかけてくるエリスに「なんでもない」とだけ答えて俺は穴を掘る。
黙々と掘って掘って掘り進み、そしてジワリと土から染み出す水が爪を濡らすのを感じる。
あれ? 地下水脈? 本気で井戸を掘り当てちゃったのか?
考えてる間にも、こんこんと水が湧き出してきたので、とりあえずチキとエリスを見えざる手で持ち上げて離れてみます。
カーマインみたいな大怪獣と比べると小さく見える俺も、人間から見れば普通にバカでっかい巨体の生物なので、移動したりすると遠くから丸分かりです。
というわけで、気づいたミネルバとパオラが、どうしたのかと帰ってきたので教えてあげます。
「本当に、井戸を掘っちゃったんですか」
呆れたよな声音で言ってくるパオラ。
ごめんね。期待を裏切らなくて。
「でも……」
どうしたのさパオラ?
「へんな、においするよー」
「そういえば……」
「これは、卵の腐った臭い?」
チキ、エリス、ミネルバが、パオラに続く。
むう、卵の腐ったような臭いというと硫黄か? つまり温泉か? 俺は温泉を掘り当ててしまったということか? そういえば、なんか温かいぞ。
「おんせん?」
チキは知らないのかな。温泉というのは、火山帯に湧くお湯を使ったお風呂のことです。これに浸かると血行が良くなったりと体に良かったりします。
飲料水や、農耕用の水源には向かないけどね。
「つまり?」
うん。ここでの貯水池作りは失敗だね。でも、俺のせいじゃないのに冷たい目で見るのは止めてよ幼女。
「だから幼女と呼ぶな! レッド以外の誰のせいだというのだ。火山など、一つとしてないこのマケドニアで温泉を掘るなんて、お前が何か変なことをしなければありえないだろう」
そうなんだよね。たしか氷竜神殿に行く途中には溶岩地帯があったような気がするけど、それ以外にはアカネイア大陸のどこを探しても火山とかそれに関するものは見当たらないんだよね。
でも、俺が何をしたってわけでもないことで怒られるのは不本意ですよ。
世の中には、火山帯じゃなくても湧く温泉だってあるさ。知らんけど。
というか、ついでだから皆、温泉に入ったら? ミネルバはパオラと剣の修行とかしてて汗かいたわけだし。
言ってみたら、悩みだした。
温かくなってきたっていっても、春先は冷えるからね。汗をかいたままじゃ風邪を引きかねないしね。
それ以前に、単純に汗で濡れた服が気持ち悪いんだろうけどね。
とりあえず、ミネルバが考え込んでる間に、温泉作りに精を出してみよう。
広さは、直径10メートルくらいがいいかな。
火竜の俺にとってはぬるいくらいでも、人間には熱湯って温度だからね。適温に冷ますためには広く浅く掘るのがコツです。
しかし、水温が低すぎると温泉の醍醐味がなくなるんだから困った話だ。
どっちにしろ、俺にはぬるすぎて温泉の醍醐味なんか味わえないけどね。
魔法や火竜の吐く炎が平気な俺が、温泉気分を味わえるお湯ってどんな高温なんだろう。
どんだけ熱くても、お湯も水だからそれが理由で俺とは相性が悪いんだよね。いっそ、溶岩にでも浸かれば温泉気分が味わえるかもね。怖いからやらないけど。火山に落とされて、しばらくしたら出てくるとか、そんな怪獣王みたいなことはカーマインにやらせておけばいいと思うよ。
考えながら作業を続けていたら、いつの間にか温泉が完成してチキが全裸になって湯に浸かっていた。
はえーなオイ。物怖じしないっていうか、将来が心配なレベルの即断即行っぷりだわ。
そして、そんなチキを困った顔で見てるミネルバたち年長の三人。
で、きみたちは、どうするんだね?
聞いてみたら、少し考えた後にエリスが服を脱ぎ始めた。入るのね。物怖じしない子だわ。
残る二人はどうするのかと思ったら、なんかミネルバが怒り出した。なにゆえ?
「何をジロジロ見ている!」
え? 何が?
「女の子の裸をジロジロ見るなと言っているんだ!」
ああ、そういうこと。でも、今更だよね。エリスはともかく、幼女の裸なんてミネルバたちで見慣れて……。
ゴスンッと頭に何かが当たった。
ミネルバの投げた拳大の大きさの石だね。
なにさ?
視線を向けると、顔を真っ赤にしたミネルバがいますよ。どうしたんだろうね。
「うるさい! あっち行ってろ!」
えー、俺にはエリスを監視するという仕事も。
「行けと言っている」
据わった目で、すらりと剣を抜くミネルバ。
怖っ、子供の剣じゃ傷ひとつつけられないと分かっていても怖っ。
はいはい分かりましたよ。まったく思春期の女の子は難しいわ。
「いいから、さっさと行け!」
へいへい。ついでに、城まで一ッ飛びしてタオルと着替えも持ってきてやるから、感謝するがいいわ。
一応、護衛を置いて行こうかね。イリュージョンでシャドーの飛竜を作ってと、よし。
マケドニア城に戻ったら、ミシェイルが帰って来てて金髪の少年と話してました。
グルニアとの戦争はもういいのかと聞いたら、問題なく同盟関係になったとのこと。そりゃよかった。
ま、実質的な戦争はカーマインの活躍で終わってたしね。ミシェイルのお仕事は外交方面です。俺も骨を折った甲斐があるってもんです。
「お前が何をした?」
鋭いツッコミだよねミシェイル。
カーマインがグルニア騎士団を蹂躙してる間、頭の上のレナに万が一のことがないかと見守ってたよ。
いざという時は、見えざる手を使って守る心積もりだったさ。やったら、カーマインが不機嫌になるからギリギリまでやらないつもりだったけどね。
「そして、万が一のことが起こらなかったから黙って見てたと?」
まーね。
そんなことより、さっさとミネルバたちの所に戻らないとね。
ミシェイルの友達らしき少年のことも気にならないでもないけど、あんまりミネルバたちをほっとくのも問題なので、温泉の事を話してタオルと着替えを用意してもらおう思ったらなぜかミシェイルと少年もついてくることになってしまった。王としての激務の疲れを温泉で癒すつもりなのかな。どうでもいいけど。
しかし、その後温泉にて金髪の少年とエリスの間にフラグが立つことになろうなどとは、この時の俺は知る由もなかったのである。
うん、知らないよ。
俺が置いていったシャドーが、ミネルバたちやマケドニアの国民は味方に設定してたんだけど、ついてきた少年がグルニアの騎士だったりしたんで攻撃しかけたとか、正義感を見せたエリスが少年を庇おうとして、逆に守られて色々とか、予測できるわけないよね。
もちろん、その後は説教大会でしたよ。他国の将来有望な少年騎士が命の危機に陥ったとか、普通に外交問題に発展しそうな事件だしね。
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マリクとニーナを涙目にするフラグが立ちました。