人里離れた郊外の大きな屋敷、その地下研究室で若い男がパソコンでプログラムを組んでいる。
男の髪は連日の徹夜ですっかり乱れ、やや目つきが鋭いながら端整な顔も目の下にできた隈で崩れていた。
髭だけは毎朝かかさず剃っているが、それでも少々不潔っぽく見える。
その高い身長も長い脚も、パソコンの前に座りっぱなしの状態では邪魔にはなっても利点はない。
身に纏った白衣やその他の衣服も薄汚れていた。
この男――天地 海人――は自身の恵まれた容姿を思いっきり無駄にしていた。
「う~む…どうにもこのままでは上手くいきそうにないな」
しばらく作業を続けていたが、唐突に手を止めてそう呟くと、
今まで作成していたプログラムのファイルを保存し、パソコンの電源を切った。
「…やはり人の感情を持つ人工知能というのは至難だということか」
現在彼は擬似的な人間の感情を持つ人工知能のプログラムに挑戦している。
そのためにありとあらゆる状況での人間の反応のデータを集めたが、
はっきり言って彼の求める物を作るためにはデータがまったく足りていなかった。
最大の理由はこの男の人間関係があまりにも希薄だからである。
今でこそ人工知能の研究をしているが、彼は子供の頃から様々な分野の研究を行い、
それぞれの分野で何らかの多大な成果を挙げてきた―――その中には軍事関係の研究なども含まれている。
そのために様々な国の諜報機関に研究と身柄を狙われているため、うかつに友人を作れないのだ。
なにしろ単に大学で研究を一度手伝ってもらっただけの男が、誘拐されて人質にとられた事があるぐらいだ。
ちなみにその時彼は脅しの電話に、馬鹿か? と短く答えて躊躇うことなく見捨てた。
結果としてその男は助かったのだが、こういう性格も人間関係の構築の阻害になっているのは間違いない。
もっともこの男は10代の頃から頻繁に誘拐されそうになったり殺されかかったりしている。
そのたびに自作の発明品などを用いて撃退していれば人格が歪むのも無理はないともいえるかもしれない。
といってもこの男にも数少ないながら一応友人はいる。
ただ殺人的に忙しい相手か普段どこにいるかわからない相手しかいないため、人間の反応のデータをとるのは難しい。
かといってへたなところに依頼すれば借りを作ることになり、何を要求されるか分からない。
天才と呼ばれるほどの研究者でも、作るための元になるデータがないのではどうしようもない。
彼は現状に凄まじい苛立ちを覚えていた。
「まったく、いっそのこと誰も私のことを知らぬ場所へ行きたいものだ…」
どうせこの世界にほとんど未練はないしな、と呟き机の上に飾られた二つの写真立てに寂しげに目をやる。
そしてため息をつく。
我ながら未練がましいにもほどがある、と自嘲しながら。
「そういえばもうすぐ…か、今年は花は…何にするか…」
スー、スー、と穏やかな寝息を立て始める。
数日間の徹夜で疲労が溜まっていたのだろう。
そのために気づかなかった。
熟睡する直前に屋敷全体が微細に揺れ、鳴動していたことを。
自身の体が穏やかな光に包まれ始めていたことに。
―――そしてその日、彼は生まれ育った世界から消えた。
青々とした空、見渡す限りの草原、そして時折吹き抜けていく涼やかな風。
そしてなによりも、いかなる人間も爽快な気分にさせてくれそうな清浄な空気。
―――実に心地良い場所であった。
それこそ普段であれば、草原の中心で白衣をたなびかせて立っている男も、何時間いても飽きないだろうと思えるほどに。
「…ここはどこだ?」
海人は誰にともなく呟いた。
周囲は明らかに彼が眠っていた研究室ではない。
というか、彼が住んでいる屋敷の周辺ですらない。
圏外の表示になってしまっている携帯で一か八か友人にかけてもみたが、繋がらなかった。
研究室で寝ている間に誘拐でもされたのか、とも思ったが、
それにしては拘束されていないし、辺りに人影もない。
そもそも彼を誘拐するためには、彼自作の凶悪な防衛システムを突破しなければならない。
侵入者の人権などまるで考えずに作られたそのシステムは、
以前彼の研究と身柄を狙って忍び込もうとした、とある大国の特殊部隊を進入から10分で全滅させた実績が存在する。
率直に言ってしまえば、仮に突破できたとしても彼を誘拐できるほどの体力がある人間が残っている可能性はほぼゼロといえる。
それを考えれば誘拐の可能性自体が限りなく低い。
「わけがわからん…が、こうしていても仕方ないな。
とりあえず、人を探すとするか」
とりあえずここから一番近くに見える―――それでも数kmはありそうだが―――街らしき影を目指すことにした。
―――が、5分もしないうちに足を止めた。
「…虎…か?」
彼の前方にはいつの間にか虎のような生物が立ちはだかっていた。
その生物は顔つき、体の模様、大きな体躯、ネコ科特有のしなやかな動き、全てが虎の特徴に当てはまっている。
ただその額に生えた長く硬そうな角と体毛の基本色が緑色だということだけが彼の知る虎とは違っていた。
ちなみに生えている角は突進されれば彼がほぼ確実に串刺しにされそうなほどに鋭くもある。
「グルルルルル……」
唸り声を上げながら、虎らしき生物はゆっくりと彼に近づき始める。
涎をたらしている様子からすれば、どうやら空腹のようだ。
―――そして目の前には餌になりそうな人間。
この生き物の目的は言うまでもないだろう。
「はっはっは、虎くん。まずは話し合わんかね?
おそらく私は運動不足で非常に不味い。
それはもう飢え死にした方がマシだというぐらいに不味いだろう。
それよりはむしろ他の獲物を探す方が健全だとは思わんか?」
じりじりと後ずさりながら、ヤケクソ気味に言葉による説得を試みる。
表情こそかろうじて笑顔を取り繕っているものの、全身から脂汗が滲み出ている。
彼は一応武術の心得もなくはないが、それはあくまで一般人相手の護身用程度のもの。
当然素手で虎殺しなど出来るはずもない。
つまり―――彼の命は今まさに風前の灯となっている。
「そもそもあれだ。 摂食とは考えようによっては究極の愛情表現かもしれんが、嫌がる相手に無理矢理はよくないと思わんかね。
相手が男だろうが女だろうが別の種族だろうがだ。
いや、そういうプレイを理想とするやつもいるかもおおおおおおおおおおおおっ!?」
焦りのあまり思考が変な方向にずれ始めた瞬間、捕食者の突進が襲い掛かった。
海人は咄嗟に思いっきり横に跳び、ギリギリでその突進を避けきる。
そして虎から視線を外さぬまま迅速に、かつ冷静に自分が生き延びるための方法を考え始める。
今の突進は運良く回避できたが、次同じことが出来るとは限らない。
というか仮に出来たとしても、避け続けている間に力尽きて最終的に食い殺される。
生き延びる方法は二つ。
脚力と持久力で圧倒的に勝る虎からこの隠れる場所すらない広い草原で逃げ切るか、
戦闘能力で圧倒的に勝る虎の息の根を止めるかである。
「って、できるかあああああああああああっ!!」
当然といえば当然の結論に思わず泣き叫びながら、再度突進してきた虎を再びギリギリで避ける。
「ん…!?」
避けた拍子に白衣が翻り、彼はポケットの中の不自然な重さに今更ながら気づき―――
ポケットの中に入れてあった物の存在を思い出した。
「……い、一か八かやるしかないか…っ!」
幸いというべきか、今までこの虎の動きは速いがかなり単調であった。
突進を回避し、それと同時にポケットの中の物を使えば倒せる可能性はある。
ただし失敗すれば、今度こそ彼はこのどことも知れぬ地で眼の前の生物の餌となる。
どんな些細な動きも見逃すまいと注視しようとした瞬間、虎が地を蹴り跳躍して襲い掛かってきた。
「んなっ…!?」
間一髪、地面を転がりながら圧し掛かられる前に虎の体の下から逃れた。
しかしそこに即座に身を翻した虎がその爪で追撃を仕掛ける。
「ぬ…おおっ!!」
その爪も更に転がり避けはしたものの、完全には避けきれずに黒のYシャツが裂かれ、その下の皮膚からは血が出ている。
たいした出血ではないものの、やはり自分の血が出ているとなると精神的には負担になる。
「ちっ、やはりそこまでうまくはいかんか…!」
舌打ちとともに虎の行動に関する認識を改め、更なる追撃が来る前に立ち上がる。
虎の方も彼を警戒し…というより今度こそ確実に仕留める為に体を丸め足に力を溜めている。
いざ飛び掛ってくるかと身構えた瞬間―――
「グゥオオオオオオーーーーッ!!!!!」
虎が鼓膜が破れそうな雄叫びを放った。
「ぐっ…! しまっ……!?」
反射的に彼が耳を塞ごうとした瞬間、虎が牙を剥いて襲い掛かってくる。
体勢が崩れているために反応が少し遅れ、今度はまともな避け方では間に合わない。
しかしその時彼は逆に虎に向かっていき、その下を潜り抜けていこうとした。
狙った動きではなく生存本能に突き動かされての行動であったが、とりあえず虎の牙は逃れることが出来た。
それでも彼の体は虎の下にあり、危険な状態には変わりない。
すかさず彼はポケットの中の物を虎の腹に押し当て、スイッチを押した。
バチィィッ!!
という音と共に虎の動きが一瞬止まり、ゆっくりと横倒しになっていく。
それを感じ、彼は慌てて体の下から逃れる。
それとほぼ同時に
ドサッ…
という音と共に虎の体が地面に完全に倒れた。
「……はあ、試しに作ったスタンガンが役に立つとはな。
世の中何が起こるか分からんものだ」
虎が完全に息絶えていることを確認し、手に持った自作のスタンガンを見下ろして呟く。
このスタンガンは護身用に作ってみたものの、科学者らしい…というかマッドサイエンティスト的な
こだわりを存分に発揮して作成したため、人間を気絶させるどころか象を感電死させる程の威力を持つ。
もはや人間相手では護身用どころか文字通りの必殺武器である。
欠点としては威力ゆえに消費電力が莫大で、フルに充電されていても2回しか使えないことや
そもそも威力が大きすぎて、気絶ですむ生き物が存在するのかという点がある。
「いまさらだが、もはやスタンガンではないか。
それにしても…この虎、随分と動きが鈍かったな」
冷静に虎の体を見てみると脚にも胴にも多くの傷が付いている。
古傷もあるが、ごく最近出来た傷の方が多そうだ。
元々の運動能力が高いわけでもない彼が何とか生き延びれたのはそれらの傷によるものが大きかった。
「まあ、なんにせよのんびりとはしていられんな。
早く人里にたどり着かなければ…」
虎の骸から視線を外し、当初の目的地へと向かって歩き出し始めた。
「お…おのれ…こんなところで日頃の運動不足を思い知らされるとは…」
そして虎との命懸けの戦闘から2時間ほど経過した頃、海人は四つん這いになり、自分の身体能力を呪っていた。
先ほど見えていた街らしき影は多少大きくなってはいるものの、依然として遥か先である。
もっとも彼の日常生活はここ数年間、そのほとんどが研究室内で費やされ、
出かけるとしても食料や実験に必要な材料の調達でしかなかったため、
この結果は当然といえば当然…というか運動不足のくせに異常なほどの体力といえるだろう。
ただ、このままいけば先ほどの虎の仲間や他の危険な動物に遭遇する可能性もあるため、
今度こそ食い殺されてしまう可能性は十分にある。
それを考えれば四つん這いになっている暇などない。
しょうがない、と立ち上がって街に向かおうとすると、地面に不自然な影がある事気が付いた。
しかもその影は段々色が濃くなっている。
「こんなとこでなにやってんの?」
訝しく思っていると頭上から女性と思しき声が掛けられた。
この場は見渡す限りの草原。
どう考えても頭上から声がかかる事などありえない。
「!!?」
反射的に上を見上げようとした途端
「どこ見ようとしてんのよこのスケベ!!」
なにやら白い布地と迫り来る靴底の映像を最後に、海人は気を失った。
「あ…あちゃ~、やっちゃった…なんか怪我してるみたいだし、さすがに放置しとくわけにはいかないわよね…」
海人を昏倒させた女性はそう言って天を仰ぎ、次いで彼の顔を覗き込む。
「あら? よく見るとけっこう色男ね…しかも身長高いし、足も長い…ちょっと薄汚れてるけど」
そういうこの女性も相当な美女である。
気の強そうな蒼の瞳が印象的な均整の取れた顔に、短く揃えた金髪が良く似合っている。
スタイルも胸はしっかり出ており、腰は細く、腰から尻のラインも綺麗な流線型で、お尻の形も美しい。
白いアウターの上に特殊な構造になった金属製の部分鎧を纏い、下は皮製のミニスカートと着る人間を選びそうな格好だが、
この女性の場合は全体的にややタイトな作りの服装がむしろそのスタイルの良さを強調している。
「街で普通に会ってたらラッキーだったのに…ま、しょうがないわね。よっ…と!」
そういって女性は海人を横抱きにすると、バサッ、という音と共に地面を蹴って空高く舞い上がった。
「…う…う~ん……っは…!?」
ガバッ、と布団を剥いで勢いよく起き上がる。
辺りを見回すと、見覚えのない木造家屋。しかもところどころ壁の木材が剥がれ落ち、
耳を澄ますまでもなくギシギシと不穏な音がしていて、それが不安を煽る。
「…ここは」
未だに目覚めきらない頭を動かして現状を把握しようとしていると、
ガチャッという音と共にドアが開けられ、トレイを持った女性が入ってきた。
「あ、気がついたの? お茶淹れたんだけどよかったら飲む?」
入ってきた女性はそう言ってティーカップを差し出してきた。
色からすると中身は紅茶のようだ。
「あ、ああ…ありがたくいただく」
思わず手を差し出してカップを受け取ったが、紅茶を啜る間も
彼の視線は女性に―――正確には女性のある部分に集中していた。
彼はその部分を初めはアクセサリーの一種かと思ったが、すぐに違うことに気づいた。
彼女がトレイを机に置こうと少し後ろを向いたとき、紛れもなく背中の生え際が見えたのだ。
「…どうしたの?」
そんな彼の視線に気づき、女性は不思議そうに首を傾げる。
「い、いや…そ、その背中の…」
「背中って…あ、ひょっとして私の翼に見とれてたの? 綺麗でしょ、結構自慢なのよ。
飛翼族の中でも有数の美しい黒羽だって言われてるわ」
大きな翼をバサッと広げながら、あっけらかんと語る。
翼の動きを見る限り作り物ではなさそうだし、何かの道具で動かしているような素振りもなかった。
たしかに彼女の背中の翼は美しい。
色として言うならば烏の濡れ羽色、上質な漆塗りの黒。
それほどに艶があり美しい翼だった。
しかしそれは彼にとっては些末事でしかない。
なぜならそれ以上に、そもそも彼のいた場所では翼の生えた人間などおらず、
世界のどこかにそんな人種がいると聞いたことすらないのだ。
「あ、そうだ。自己紹介がまだだったわね。
私はルミナス・アークライト。ルミナスって呼び捨てでいいわ。 あなたは?」
「天地 海人だ」
「テンチ・カイト? 変わった名前ね」
「うちの親が変わり者だったのでな。
初めは苗字の天地から思いついて、名前を人にすることで万物全てを表す古語『天地人』
となるようにしようと思ったそうだが、万物全てなら海も入れるべきだ、ということで名前が海人になったそうだ」
「あ、じゃあ名前がカイトなのね」
「ああ。ところでここはどこなんだ?」
「フォレスティアの森にある私の家。
つい蹴り飛ばしちゃったあなたを介抱するために連れてきたのよ」
「急に声をかけておいて、ついで蹴り飛ばさんでくれ。まだ頭が痛いぞ」
嘆息し、いまだに痛みを訴える額を撫でる。
鏡が無いため本人は知らない事だが、いまだに蹴られた場所が赤くなっていた。
「うっ…悪かったってば。介抱したんだから許してよ」
海人の額の赤い靴の跡を改めて見、後ろめたそうに視線を逸らす。
美形と言って差し支えない部類に入る顔だけに彼女の靴跡が余計に目立っているのだ。
「ああ、というかべつに元々怒ってはいない」
「そうなの? そりゃよかったわ。
そういえば、あなたあんなとこで何してたの?」
「うーむ…どう説明したものだろうな…」
「なに、複雑な事情でもあるの?」
「そういうわけではないのだが…私自身どうしてあそこにいたのかわからんのだ」
「は?」
「いや、普段と同じように研究室で眠り、起きたらあの草原にいたのでな。 正直わけがわからん」
「転移魔法の研究でもしてたの?」
「…いやそんな研究はしていないし、眠っている間にあんなところにいる可能性もほぼないはず・・・なんだが」
魔法、という言葉が彼女の口から自然に出てきたことに内心驚きながらも表面上はなんとか平静を取り繕う。
無論その心中は次から次へと起こる理解不能の出来事に混乱を極めているのだが。
「ふ~ん、変な話ね~」
「まったくだ…ところで君はどんな魔法が使えるんだ」
確認の意味で訊ねる。
魔法というのが何らかの茶番であるなら言葉に不自然さが滲み出るだろうし、
もし言葉に出ずとも態度に出る可能性も十分にある。
「ん? あんまり得意じゃないから、補助魔法と後は生活必需品の魔法、それに攻撃魔法を少しね。
あ、日が落ちてきたみたいだから明かりつけるわね」
そういうと彼女は枕元に置いてある照明器具らしき物に向かって手をかざし―――
「光よ、我が声に応え小さき灯火となれ『リトルライト』」
唱えた瞬間、曇りガラスの円筒の中に小さな光の玉が出現し、部屋の中が明るくなった。
海人がやや呆けながらルミナスを見ていると…
「いや、必要無い時は少しでも魔力を温存しとく事にしてんのよ」
私って貧乏性なのよね~、と付け加えて少し恥ずかしそうに頬をかいた。
「そ、そうか」
「あ、そうそう。今日はそろそろ魔物が活性化し始めて危ない時間だから、泊めてあげるわ」
「感謝する」
「もしイヤらしい事したら即刻魔物の群れに叩き込むけど」
「…了解」
とりあえず今日の宿は確保できたものの、海人は内心頭を抱えていた。
魔法などという物は彼が育ってきた環境には実在しなかった。
ひょっとしたら実在したのかもしれないが、少なくとも世間一般では眉唾と思われている。
だが彼女の様子からすると、ここでは魔法は当たり前のように実在していてしかも生活に根ざした物ということになる。
しかも彼女に嘘をついている兆候は見られなかった。
そのうえ魔物というファンタジー小説にありがちな、人間に害なす生き物も存在するという。
彼を襲った虎も魔物の一種だということなのかもしれない。
「ちょっとこの明かりを見せてもらってもいいか?」
「…? かまわないけど?」
不思議そうな顔をしたルミナスはとりあえず視界の端に置き、
海人は手品の類かもしれない――というかそうであってくれ――と思いながら、
明かりを少し調べて唖然とした。
電球はおろか、コードやその代わりになりそうな物もない。
というか、ただの曇りガラスの瓶にしか見えない。
中を覗き込むと、眩しい光の塊が支えもなくフワフワと浮いている。
試しに瓶を軽く振ってみる。
するとゆっくりと光の塊もそれに追随するかのように動き、停止させると少し遅れて中央に戻った。
「…………」
ここまでくると、彼も真剣にある可能性を考え始めていた。
―――どういうわけかファンタジーな世界に迷い込んでしまった、という可能性を。
「ど、どうしたの。急に黙り込んじゃって」
「ふむ。とりあえず…これは何だと思うかね?」
そう言って彼は胸ポケットから電卓を取り出した。
実験で細々とした物が必要な時の計算に使うので、彼の胸ポケットには常にこれが入っている。
「なにこれ? 数字が並んでるけど…他の記号みたいなのは?」
彼女は数字は読めるようだが、計算記号がわからないようだ。
となるとここでは算用数字は共通の文字が使われているが、計算記号は別の物が使われているということになる。
しかし、念のため海人はルミナスに確認する。
「…聞いておきたいんだが、掛け算、割り算、足し算、引き算ぐらいはできるな?」
「えっと…ひょっとして私凄い馬鹿にされてる?」
彼女はかなり引きつった表情で聞き返した。
その反応で一応最低限の計算は出来ると確信した海人は本題に移ることにした。
「そういうわけではない。これは電卓といって計算に使う道具だ。
そうだな…論より証拠か。 試しに何か計算問題を出してみろ、難しくてもかまわん。
ああ、それと自分でも計算してみてくれ」
「186×91×15÷3は?」
「…84630だな」
そう言って電卓に表示された答えをルミナスに見せる。
それと同時に白衣に突っ込んだままのもう片方の手でこっそり携帯を操作し、リダイヤルを行う。
これが手の込んだ茶番劇であるならば、周辺にアンテナぐらいはあるだろうと思っての行動である。
「へ? ちょ、ちょっと待って…あ、合ってる!?」
海人の答えを聞き、ルミナスは慌てて近くにあった紙とペンで筆算し、計算結果に唖然とした。
文字通り開いた口が塞がっていない事が彼女の驚きを良くあらわしている。
「と、こんな具合に数字と記号を入力すれば簡単に計算ができる道具だ」
「凄いじゃない! こんな簡単に計算ができる道具なんて聞いたことないわよ!?」
「そうかもしれんな…ちっ、繋がらんか」
海人は何の反応もない携帯に舌打ちしつつ、操作の手を止めた。
隠れて操作した携帯も繋がらないとなると、ますますここが彼の生まれ育った世界ではない可能性が高くなってきた。
無論手の込んだ壮大な茶番劇の可能性は捨てきれない―――というか捨てたくない―――が、いずれにせよ
当面はその前提で行動するしかない、と海人は判断していた。
「あの、何やってたの?」
「ただの確認作業だ。ところで魔法のことについて詳しく講義してもらえないか?」
「は? 講義って…自慢じゃないけど私、魔法は苦手なのよ?
教えられるほどの知識なんか――」
「いや、実は私の住んでいた場所では魔法がまったく使われていなくてな。
有り体に言ってしまえば魔法に関しては何の知識も無いのだよ。
だからこそ魔法というものに非常に興味がある」
とりあえず海人は嘘は吐かないことにした。
嘘をつけばどんなに念入りに考えてもどこかで確実に思わぬ綻びが生まれる。
その綻びを繕い続けるのは難しいし、完璧に繕うのはさらに難しい。
ならば最低限の事実のみを話し、尋ねられたら明かしていない部分を少しずつ明かしていくほうが得策だと彼は判断した。
「ちょっ…魔法が使われてないって…どんなド田舎に住んでたのよ!?
つーか、どうやって生活してたわけ!?
魔法が無きゃ水を調達するのも時間かかるし、火を点けるのも一苦労じゃない!」
「様々な魔法を使わなくていい道具を作り、それを使って暮らしていた。
その延長線上でさっき見せた電卓のような道具も発明されたのさ」
「…とても信じられないんだけど」
かなり疑い深そうな目で見られる。
ルミナスの瞳は下手な嘘などあっさり見破られそうなほどに疑心に満ちていた。
「まあ無理も無いな。が、私としてはこの電卓ぐらいしか証明する手段がない以上、信じてもらうしかない」
これはなんら隠すところのない彼の本心である。
なにせ、あと証明になりそうなのはスタンガン(もどき)ぐらいだが、あと一回しか使えないうえに彼女に使ったらまず死んでしまう。
かといって全てを話せば頭の中身を疑われる危険性のほうが高い。
彼女に信じてもらわないことにはどうしようもなかった。
「むー…まあいいわ。説明しても良いけど、途中で笑って嘘ついてましたなんて言ったら、蹴っ倒すからね」
「無論だ。もし私がそんな血迷ったことをするのであれば遠慮なくやってくれ」
「…じゃあ、最初に聞くけど魔力は分かる?」
「魔法を使うために必要な力か?」
「そうよ。この魔力ってのは一定以上の知能レベルの生き物全てに宿ってるらしいわね。
ただ、魔力にも人によって個性があって、それで魔法の属性ごとに得意不得意があるのよ」
説明しながら話している間に温くなってしまった紅茶を一口すする。
やっぱ淹れ立ての方が美味しいわね、などと愚痴りながら。
「魔法の属性は何があるんだ?」
「基本は火、水、風、土、光、闇の6個ね。
これは得意不得意を別にすれば基本的には誰でも使える魔法。
あとは無属性魔法って言って、魔力を凝固させて武器や防御壁にする魔法。
一応例外として『創造』『治癒』『空間』って属性もあるみたいだけど、
これは特殊属性っていって、これが使える人間は無属性以外の他の魔法が使えないらしいわね。
ま、使えるのは何百年に一人って割合らしいから無いのと大して変わらないと思うけど」
「ふむ……魔力の量などはやはり個人差があるのか?」
「ええ、そうよ。
で、続けるけど、魔法を使うためにはその魔法の術式を頭の中に浮かべて、それに魔力を流し込まなきゃいけないの。
このときに浮かべる術式のイメージが強く正確であればあるほど、より少ない魔力で高い効果が得られるわ。
普通はこのとき呪文の詠唱をしながらやるんだけど、これは主に魔法の効果をその呪文で増幅するためね。
他にも消費魔力が少なくなるって効果もあるわ」
「ということは最大限の効果や効率を求めないのなら、詠唱はしなくてもいいということか?」
「ま、そうなるわね。ただ、無詠唱魔法は下位魔法ならともかく中位以上だと魔力消費が多くなりすぎてキツくなるわ。
上級魔法なんか詠唱した時の10倍以上の消費になるのよ?
あと、魔法の術式は高度な魔法になればなるほど複雑化して巨大化していくわ。
だからよほど正確な記憶力と集中力がないと高度な魔法は使えないのよ……」
そう言って溜息をつく。
実はルミナスが魔法を苦手とする理由は術式が覚えきれないためだ。
一応一般的には高難度とされる魔法もいくつか習得してはいるが、覚えるためにどれほど時間を掛けたか思い出したくもないほどだ。
ちなみに彼女の記憶力は決して悪くはない。
単に上位魔法以上の術式の複雑さが常軌を逸したレベルなのだ。
上位魔法の術式は千を軽く越える文字と図形により構成されており、遠目に見れば絵画のようにも見える。
使用するためにはそれを文字の配置から図形の形状からほとんど全て狂いなく覚えきらなければならない。
常人の記憶力では無理がある、としか言いようがない。
「…あー…そのー……なるほど、他には?」
なにやら落ち込んでいるルミナスにかまわず、海人は先を促す。
一応慰めようかと逡巡したようではあるが、どう言葉をかけるべきか見つからなかったようだ。
ルミナスは嘘でもいいから慰めてくれてもいいのにな~、などと思いつつも残り少ない紅茶で喉を湿らせると気を取り直して話を続ける。
「……あとは魔法ごとに発動時間ってのがあって、高度な術式になればなるほど術式の完成から発動までの時間が長くなるの。
例えばさっき使った《リトルライト》は発動時間ほぼ0だけど、上級の攻撃魔法の場合は発動に一時間以上かかる物もあるわ。
最上位魔法にいたっては術式完成から発動まで最低半日近くかかって、その間ずっと術式を維持してなきゃいけないから
使用に当たっては術者の多大な精神力とその間に妨害が入らないのが絶対条件になるわね」
そこまで言ってまた少し喉の水分が足りなくなったのか、ほとんど残っていないカップに紅茶を注ごうとする。
しかしティーポットにはもう残っていなかったらしく、わずかにポタポタと1、2滴しか出なかった。
「………簡単な魔法はともかく、最上位魔法とやらは随分気が長い話だな」
「まったくね。ただ、その分効果は凄まじいから、戦場で最上位の攻撃魔法を使う場合は発動すれば一気に形勢逆転って事もあるわ。
ま、他にも色々あるけど基本的なのはこんなとこよ。あとは、魔法とはちょっと違うけど魔力を使って肉体の強化ってのもあるわね」
肉体労働だとほぼ必須の技術ね、と付け加え最後の紅茶を飲み干した。
空になったカップを皿の上に乗せ、机の上に置く。
「肉体の強化というのは、単に体が頑丈になるということか?」
「他にも足を速くしたり、腕力を高めたりも出来るわよ」
「…便利だな。…なあ、魔力による肉体強化とはどうやるんだ?」
おそらく自分に魔力は存在しないであろうと思いながらも、念のために聞いておく。
とりあえず知っておいて損にはならないことは間違いないのだ。
「ん~、教えても良いけど、本当に魔法を使ったことがないんだったら魔力を叩き起こさないと駄目かもよ?」
「魔力を叩き起こす?」
「ええ。何年も昏睡状態になってた人が目覚めると、魔力が上手く使えなくなるのよ。
一時的なもので、外から魔力で刺激してやれば元通りになるみたいだけど」
「ふむ…魔力を使っていないことが原因だとすれば、私の場合もその可能性があるな」
「で、その魔力の刺激は私でもできると思うんだけど…滅茶苦茶痛いらしいのよ」
「…い、嫌ではあるが…頼めるか?」
冷や汗をたらしながらも頼む。
もし彼に魔力が存在し、肉体が強化できるのであれば痛みを耐えるぐらいの価値はあるだろうという判断だ。
―――この際、痛みだけ味わって魔法も肉体強化も使えない程度の魔力しかなかったという、最悪のオチは考えないことにしたらしい。
「いいの? 聞いた話だとドラゴンと一人で戦った猛者が恥も外聞もなく泣き叫んだらしいけど…」
「恐怖を煽らんでくれ!! ……かまわん、覚悟は出来ている」
「わかったわ。じゃ、いくわよ」
ルミナスがあからさまに虚勢を張る海人に苦笑しながら、
魔力によってうっすらと白く輝いている両腕で海人に触れた瞬間…
「ガッ…!? あぐっ……グガ…があッ…ぐあああああああああッ!?」
海人の全身を激痛と表現することすら生温い痛みが襲った。
まるで全身に大量の太い釘が一斉に打ち付けられ、それと同時に燃え盛る火炎の中に放り込まれたかのような、
あるいは血液が唐突に猛毒に変化し、同時に全身の皮を一気に剥かれたかのような、
実際にはこれらの形容ですら足りぬかもしれぬほどの痛みに彼は襲われていた。
しかもたちの悪いことに強烈過ぎる痛みで気絶することすら許されないという最悪の状態だ。
「ちょっ…カイト! 大丈夫なの!?」
彼の形相と凄まじい悲鳴に思わずルミナスは叫ぶ。
正直、彼女は海人が魔法を使えないという話を未だに半分信じていなかったし、
昔聞いたドラゴンと戦った猛者が泣き叫んだというのもホラ話だと思っていた。
だから問題はないだろうと思っていたのである。
が、現に目の前で彼は彼女が今まで見たことがないほどの苦しみようを見せている。
彼女は深く後悔をしていた。
「ぐ…う…だ、大丈…ぐ…あ…がああああああああっ…!?」
彼女の悲痛な表情を見て少しでも安心させようと僅かに笑顔を見せた瞬間、激痛で再び悲鳴を上げる。
「くっ…どうすれば……」
ルミナスはかなりの焦燥に駆られている。
海人は体にこそ傷一つないが、このままでは痛みで発狂しかねない。
鎮痛剤を使おうにもこの家には置いておらず、医者を呼ぼうにも最短でも往復一時間はかかる。
気ばかりが急いてどう行動するか決められずにいると…
「そ…そんなに心配しなくても…大丈夫だ」
凄まじく消耗した様子ながらも、今度こそ海人が笑顔を見せた。
「何言ってんのよ! 今だって大丈夫だって言おうとして…!」
「い…いや、く……こ、今度こそ…本当に…大丈夫…だ。
先程までに…比べれば、痛みは…かなり、引いた」
「それでもまだ顔が真っ青…! って、えっ…!?」
明らかに虚勢を張っている海人に彼女はなおも言い募ろうとするが、
その瞬間、彼女は自分の目を疑った。
「…ふむ、急に楽になったな…これが魔力か?」
海人は本当に何でもなさそうに立ち上がり、自身の体から激しく立ち上る純白の光を見る。
「た、たしかにもう平気そうだけど…あんたとんでもない魔力量よ…!?」
彼女は目の前に立ち上る光の奔流とも呼ぶべき強大な魔力に目を剥いていた。
魔力が垂れ流しになっているだけなので部屋が壊れたりはしていないが、それでも天井が僅かに軋んでいる。
「そうなのか? 自分ではよく分からんのだが…」
「ひょっとすると宮廷魔術師クラス以上かも…って、んなこと言ってる場合じゃないわ!
早くその魔力抑えなさい! 魔力を全部放出し尽くしたら当分昏睡よ!?」
ルミナスが慌てて叫ぶ。
同時に彼女の言葉を証明するかのように彼の体から僅かに力が抜け、膝をつきそうになる。
まるで限界まで全力疾走した時の如く膝に力が入らなくなっていた。
「んな…!? ちょ、ど、どうやって抑えればいいんだ!?」
「え、えーっと、その周りの光を自分の中に吸い込むイメージをしながら深呼吸!
慌てずゆっくり落ち着いてそれを繰り返して!!」
「す…すーはー、すう、はあ…すううう…はあああああ…」
海人の深呼吸に合わせて放出されていた魔力が徐々に収まり始めた。
息を吸うときに多くの魔力が彼の中に取り込まれ、吐く際に僅かに魔力が外に漏れている。
十数回の深呼吸を行った時にはもうほとんど魔力の光は消えていた。
「その調子…はい、もういいわよ」
完全に魔力の光が消えたところでルミナスがそう言ってパン、と軽く手を叩いた。
「ふう…この調子だと魔法を使うというのも大変そうだな」
筆舌しがたい激痛にみまわれた挙句、昏睡に陥りかけ、前途多難そうだと肩を落とす。
たしかに普通に考えれば魔力を使えるようになるだけでこれだけの目にあうのなら、
魔法を使うとなったらどんな苦労が待っているのか分かったものではない。
が、ルミナスが疲れきっているうえに先行きを想像して沈んでいる海人に、救いの言葉をかける。
「そんなことないわよ。基本的な魔法なら子供でもすぐ使えるし、
そんだけの魔力量があるなら多少術式が荒くても強引に使えそうだし」
「そうなのか?」
「ええ、得意な属性の簡単な魔法だったら、術式をおおまかに覚えればすぐ使えると思うわよ」
「得意な属性か…自分の得意な属性を知るためには実際に魔法を使ってみるしかないのか?」
「いいえ、少しお金はかかるけど、魔力判別所ってとこに行けば調べてもらえるわ。
そこだと魔力量の測定もしてくれるし、無料で貰えるパンフレットに子供用の初歩の魔法も書いてあるから、
魔法を使うのが初めてならちょうどいいんじゃない?」
「…ふむ…聞きたいんだが、魔法が無くても働けるような場所はあるか?
それもできれば住み込みで…」
海人は魔力判別所に行くべきかと考え……すぐに致命的な事実に気付き、それを解決するためにルミナスに訊ねた。
彼は今までこんな状況に陥った事が無かったために気づかなかった事だが、何よりも最優先で解決しなければ問題がある。
「なくはないと思うけど、どうしてそんなこ…あ、そういえば寝てたらいつの間にかあそこにいたって言ってたっけ。
ってことは…」
「ああ、金が無い。完全無欠に一文無しだ。
しかも家にあった道具すらも無いから、道具を使って仕事をすることも不可能だ。
となるとこの体と頭脳で稼ぐしかない」
彼は自嘲するように笑った、
そう、今の彼は文字通りどうしようもないほどの無一文なのだ。
状況的に見れば最初は体力に頼って金を稼ぐしかないが、その体力に致命的なほどに自信が無い。
しかも彼女の話を信じるならば、ここの人間は魔力による肉体の強化が可能、
つまりただでさえ大きい差がさらに大きくなってしまうということになるのだ。
このままでは生活さえままならない可能性が極めて高かった。
「う~ん…あんた、家の修理はできる?」
「道具と材料さえあれば、人並みにはな」
ルミナスの問いに軽く肩をすくめて答え、軽く唇の端を吊り上げて笑った。
人並みというわりには少し自信ありげな様子だ。
「ならこの家の修理をしてくれれば、一ヶ月食事付きで泊めてあげる。
それに一ヶ月じゃ住居は無理だろうから、住む所が見つかるまでは一ヶ月すぎても食事なしで泊めてあげるわ。
見てのとおりちょっと内装が古くなってきてるから、とりあえず内装だけお願い。
勿論必要な物は私が用意するわ。
それに、修理の出来によってはそれとは別にお金を払っても良いわよ」
「…こちらとしては願ってもない好条件だがいいのか?」
海人にとっては地獄に仏のようなありがたい話だが、若い女性の家に恋人でもない若い男が居候というのは外聞が悪い。
それに普通なら女性は彼に押し倒される危険性も考えてこんな提案はしないだろう。
「ええ。もちろん不埒なことしようとしたら即出てってもらうけど」
「…ああ、わかった。その条件、ありがたく受けさせてもらおう。
修理は明日からでかまわないか?」
「当然でしょ。私からみてもあなたかなり消耗してるわよ?
手落ちがないように修理してもらうためにも、ちゃんと体力回復してからやってもらわないとね。
それじゃ、私は明日は朝早いからもう寝るわ。
出かけるときにドアの前に工具と材料置いておくからやっといてね」
「了解し…っと! ちょっと待った」
部屋を出て行こうとするルミナスを見送り、ドアが閉められそうになった瞬間
ある問題に気付き、慌てて彼女を呼び止めた。
「なに?」
「内装の修理といってもどこをやればいいんだ?
やれというなら全ての部屋をやるが、勝手に君の部屋に入るわけにもいかんだろう?」
「あ~そうね。それじゃ私の部屋以外…つってもわかんないか。
う~ん、じゃとりあえずこの階だけやっといて」
ルミナスは少し考え、様子見も兼ねて家の一部だけを頼む事にした。
海人の自身有り気な様子からして修理が下手という事はなさそうだと思っていたが、念の為である。
「わかった。他にも雑用があれば遠慮なく言ってくれ」
「ん~、特にはない…あ、リビング散らかってるから片付けておいてくれると嬉しいかな」
「やっておこう。他には?」
「ないわ。それじゃ、おやすみなさ~い」
「おやすみ」
笑顔でそう応え、ドアが閉まるのを見届けると枕に頭を落とし、天井を見上げる。
「…はあ、どうしたものか。
いずれにせよこのままでは研究の続きもできんし…当面はどうやって生活するかだな」
ルミナスが提案してくれた条件は初対面としてはたしかに破格―――というか彼女が聖母に見えるほどの条件だったが、
完全に人脈も金も経歴もない状態で仕事と住居の両方を見つけるのに一ヶ月という期間は短い。
彼女は住居が見つかるまで住んでいいと言ってくれているが、その厚意に甘え続けるわけにもいかない。
「とりあえず最低でも一ヶ月以内に仕事は見つけなければならんな」
この際苦手な仕事だの、賃金が安いだの、割に合わないだのと文句は言ってられない。
とりあえずどんな仕事でも雇ってもらえるものを探すしかないだろう。
なにしろ今の彼は無一文なうえに、魔法が使えない分他の労働者よりも条件的には間違いなく不利。
仕事を選ぶような贅沢を言っていられる状況ではないのだ。
ひょっとしたらここにはない商売を思いつく可能性もあるが、それよりは仕事を見つける方が確実である。
それに加え、もし商売をするにしてもどのみち元手は作らなければならないということもある。
ただ、今まで彼は親の残した財産や、自分の研究の特許料などで十分すぎるほど豊かに暮らしてこれたせいで、
就職はおろかアルバイトさえほとんどしたことはなく不安は非常に大きい。
やるしかないが、やれるのか? と言われるとあまり自信はないと答えざるをえないのだ。
「…まあ、いずれにせよ今日は体調を万全にしておかねばならんか」
そう結論を出すと、彼は目を閉じて少しでも早く体力を回復させるために眠り始めた。
―――こうして後にこの世界で《白衣の英雄》《変革者》《生ける伝説》など
様々な異名を持つ事になる男は、見知らぬ世界での初日を終えた。