白い光に包まれたと思った瞬間、私は先生の目の前に立っていた。
目 に映る光景はまぎれもなく先生の部屋で、あの赤黒い世界の面影もなかった。
……あれ? さっきまで私は地獄のような場所に、……あれ?
「まさか戻って来るとは思わなかったわ……。信じられない……」
顔面を蒼白にさせて、有り得ないモノでも視たように先生は言った。
その先生の珍しい様子に、私は逆に少し冷静な気分にさせられた。
……あぁ、そういえば先生に何らかの『念』を使われたんだ。
今までの事全てが念による攻撃ならば、信じられないくらい凶悪な念だ。一つ選択を
間違えたら精神崩壊していたとしてもおかしくなかったろう。
私が一度『死』を経験していたおかげというのもあるかもしれないけど、普通の人間にあれはきっと耐えられないと思う。
……ていうか、先生私の事殺す気だったんですか?
私が劣等生とはいえ、いくらなんでもそれはちょっと酷すぎるのでは……。
「……参考までに聞かせてくれないかしら。何で、戻って来られたの?」
あの闇から出られた理由? なんだかよく分からないうちに出られたから上手く説明出来ない。正直あの少女の声が無かったら普通に墜ちていたと思うし。
考え付く事としては、弱者なりのプライドとか意地とか、なんか妙にハイな気分だったとか理由っぽい事は色々ある。
けど、一番は―――、
「……秘密です」
皆とまた一緒に居たかったから、だなんて恥ずかしくて言えない。
でも、幸せというモノが案外身近にある事に気付くことができた。それだけで私はきっと何よりも幸せ者なのだろう。
『光』が『闇』を打ち消した、簡単に言ってしまえばそんな感じなのではないだろうか。よく分からないけど。
使い古された言葉だけど、『愛が世界を救う』っていうのは強ち間違ってないかもしれない。
押し黙っていた先生は少し考え込むような素振りをみせ、私を真っ直ぐに見つめながら口を開いた。
「………そう。エリス、貴方は『答え』を見つけられたのね。誇りなさい、貴方はかつて『深淵の魔女』と呼ばれた私の念に打ち勝ったのよ。―――貴方は、私の自慢の弟子だわ」
先生は、今までに見た事の無いような清々しい笑顔でそう言った。
その言葉の意味を私が理解した時、先生が勝手に念で攻撃したとか、殺す気だったのかとか、そういった不満が全て吹き飛んだ。
――私は他の二人に比べて才能が無かった。
だから正直弱肉強食を地でいく先生は、こんな私に愛想を尽かしているんじゃないかと不安だった。……とても、怖かった。
―――でも、認めてもらえた。
そう思うと、嬉しい。ただ、どうしようもなく嬉しかった。
「先生、ありがとうございます」
私はそう言って深く頭を下げ、部屋を後にした。
あれ以上部屋にいたら私は泣いてしまう、きっと臆面も無く。
それは流石に恥ずかしかったりする。
頬を緩ませながら、自分の部屋に戻った。
念の相談の事なんて、その時はもうすっかり頭に残っていなかった。
◇ ◇ ◇
扉の奥に消えていくエリスを見ながらマリアはそっとため息をついた。
今までの人生の中で彼女は色々な事を経験してきたが、まさかこんなにも年老いた後で素晴らしい事に出会えるとは思っていなかったからだ。
――悟ったような振りをして今まで生きてきたけど、私もまだまだだったってことね。
彼女は少しだけ自嘲したように笑い、過去に思いをはせた。
私が子供たちに『念』を教えるようになって3年という月日が流れていた。
彼等に修行をつけ始めてから分かった事があるシンクとアリアには天性の念使いとしての素質があるという事だ。
特に四大行の習得のスピードが凄まじい、なんて末恐ろしい子供達だ。
しかし、悪い意味で予想外だったのはエリスの事だ。
格闘訓練については割と優秀な方で、ナイフの技術についてはシンクよりも優秀だった。
だが、纏の習得は半年以上かかり、四大行を含む応用技に云ったっては3年程の年月を要した。
全く才能が無いわけではない。だが他の二人と比べるとやはり見劣りしてしまう。
直接本人に対して口にだして言う事は無いが、期待が大きかった分、私は彼女に対しどうしても落胆をしてしまっていた。
それから暫くしてエリスに自身の《発》を開発させる段階に至った時、彼女自身から相談を受けた。
「この世の『闇』を教えて下さい」
その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍った。
何故、エリスが私の念の事を知っている?
私の念は、『この世全ての闇』という概念を再現した空間を作り出す事のできる『箱』を、具現化するという能力だ。
ある一定条件を満たしたうえで対象者を強制的に魔の世界へ引きずり込むある意味『最悪』と言っていい能力だ。
箱の中からは私が許可した場合と、対象者が条件を満たせば出ることはできるが、未だかつて自力で出てこられた者はいない。私が気まぐれで外に出した人間も、例外なく発狂してしまっていた。
だから、誰一人として私の念の存在を知る者なんていない筈なのだ!!
「つまり、貴方は『この世全ての闇』を識りたいと言うのね」
その時の私の声は、もしかしたら震えていたかもしれない。
――だが、教えるとはどう言う事だろうか?
彼女が私の念を知っているという事は、誰一人として生存者がいない事だって分かっている筈だ。
―――まさか私にエリスを殺せなどということではあるまい。
そう思った末の問いだったのに、彼女はこともあろうにそれを肯定した。
その目には、強い意志が見て取れた。
「後悔はないのね?」
これが最終確認だ。この中に入ってしまえば最後、彼女の精神は破壊しつくされる。
拒否してほしかった。修行についてこれないとはいえ、エリスは私にとっても家族同然の存在だ、好きで壊したりなんてしたくない。
しかしエリスはいつもの感情の感じられない表情の中に、確かな決意をこめて頷いた。
「……いいわ。何処でそんな情報を仕入れて来たのかは分からないけど、その気概だけは買いましょう。……十中八九いい様にはならないだろうけど、私を恨まないでちょうだいね。
―――さぁ、魅せてあげる。真の絶望を」
箱が彼女を飲み込む瞬間を、私は見ていられなかった。
◇ ◇ ◇
10分。それがタイムリミットだ。
時間以内に箱が要求する『答え』にたどり着かなければ、中の人間は大抵自殺する。
エリスに死んでほしいわけではない。――でもそれ以上に自分の能力の凶悪さを理解していた。
どう考えても出てこられるわけがない。これがエリスではなくシンクやアリアだとしてもこの箱を打ち破る事は不可能だろう。
だが、私はあの子をそれなりに評価している。
誰も知りえない情報をもち、死が確定する念に戸惑いもなく挑む。……かつての私には到底ありえない勇気の持ち主だ。
―――彼女なら、出来るかもしれない。
こんな考えは逃げなんだと分かっている。彼女の念のセンスはとても天才とは言えない。
でも彼女ならばやり遂げられるのではないかと思うのは、私が昔彼女に感じた《何か》を今でも信じているからだろう。
そう思い、祈るように目を閉じようとした瞬間、――私は《奇跡》を目撃した。
◇ ◇ ◇
「まさか、戻って来るとは思わなかったわ……。信じられない……」
何事もなかったかのように、エリスが私の目の前に立っていた。
見たところ精神を病んだ様子もなく、いたって平常通りだ。
―――私は夢でも見ているのだろうか?
そう思いエリスの事を凝で見てみるが、いつもの彼女と変わりはない。
強いて言うならば、オーラが研ぎ澄まされている感じがした。
「……参考までに聞かせてくれないかしら。何で、戻って来られたの?」
彼女を殺さないですんだ事に安堵して、思ってもいなかった事を口にしてしまった。
普通彼女の安否を気遣う言葉をかけるべきだろうに、私はつくづく嫌な人間だ。
「秘密です」
エリスは、蕩けるような笑顔でそんな事を言った。年相応の優しげな笑顔。それを間近でみて、少し硬直する。――この子はこんな顔もできたのか。
その言葉に、はぐらかすつもりかとも思ったがそれ以上に驚愕した。
昔から今までの10年の間見てきた彼女の表情なんて、顔の筋肉が少し動いた程度のものだ。
それなのに今はどうだろうか?
もしやこの表情の理由こそが、彼女のたどり着いた『答え』なのかもしれない。
―――それは、なんて幸せな事なのだろうか。
確かにエリスは天才ではないのかもしれない。
―――でも、彼女の心は強い。
今まで無駄に長く生きてきた私なんかよりも、もっと、ずっと、尊いモノを知っている。
単純な力などでは表すこともできないほどに、素晴しい《力》がある。
あぁ、大声で言ってやりたい。―――彼女は私の自慢の弟子なのだと!
「………そう。エリス、貴方は『答え』を見つけられたのね。誇りなさい、貴方はかつて『深淵の魔女』と呼ばれた私の念に打ち勝ったのよ。――貴方は、私の自慢の弟子だわ」
ただ、彼女の存在が誇らしかった。
自分の念が破られた事なんて、それに比べれば本当に些細な事だ。
その後、エリスが照れたように御礼を言って部屋から出て行った。
――この世界は弱肉強食。強い者しか生き残れない難易度S級の人生ゲーム。そんな中でなに不自由なく要領よく生きてきた私には、この世界はとても退屈に見えた。
大した努力もなく、信念もなく怠惰に獲物を狩る日々。手に入れた平穏さえ暇つぶしの一種にすぎなかった。……すぎなかったはずなのに、ね。
何故だろうか、――こんなにも満たされたような気分になるのは。
敗北とはとても苦いものの筈なのに、彼女が私を超えたことが嬉しくて仕方がない。
――きっと私は誰かに負けたかったのだ。
……この年になっていまさら気づくなんて、笑えない。
何時だって心の隅には罪悪感があった。才能でしか生きてこなかった私は、挫折なんてものをしらなかったから。
だから、誰でもいいから私の事を打ち倒してほしかった。
――あぁ、やっと肩の荷がおりた。
もう孤高である必要はない。ただ、私らしくあればいい。それでいいんだ。
―――――やっと、『マリア』として生きていける気がする。