――夕日が差し込む教室で、二人ぼっち。
私は一番後ろの窓際の席に座り、先輩はその前の席を陣取り、椅子に反対に座り私の方を向いていた。
放課後の見慣れた構図だ。
「伊織ちゃんはさぁ、ゴキブリのどの辺が気持ち悪いって思う?」
先輩はふと思いついたかのように、そんな突拍子もない事を聞いてきた。
急にどうしたのだろう、と思いつつも返答を考える。
「えっと、いきなり言われると難しいですね。……あえて言うなら、見かけですかね。あの造形はちょっと……」
私はゴキブリの形をじっくりと思い出してしまい、苦々しい気持ちになった。
「そう、そこなんだよ」
先輩は何時もの様にへらへらと笑いながら、機嫌よさそうに私を見つめてくる。どうやら私の答えがお気に召したらしい。
「ゴキブリは皆の嫌われ者だ。『気持ち悪い』から。――でも、その理由を誰もが即答できない。何故だか解るかい?」
「……いえ」
「本当は理由なんて無いからだよ。茶色くて素早くてカサカサ動いて空を飛べてしぶとくてベトベトしていそう――――、そんな物は全て後付けの理由にすぎない」
先輩は舞台の上の役者の様に大仰に手を広げ、口を開いた。
「皆がゴキブリの事を気持ち悪いと思うのはさ、心が、いや、本能レベルでゴキブリの事を拒絶しているからなのさ。だから、きっとゴキブリが子猫の様に可愛らしい外見をしていたとしても、僕らは気持ち悪いと忌避する事だろうね」
子猫の外見のゴキブリか……。でも実際に想像するとゾッとしなくもない。
「つまり、私達がゴキブリを気持ち悪いと思うのは、ただの本能ということですか?」
確かに言われてみれば、どんなに姿や特性が改善されたとしても、ゴキブリの事は好きにはなれないと思う。
一匹いれば五十匹いるとよく聞くけど、それは蟻や他の虫にも言える事だし、『ゴキブリ』だからこそ私達はこんなにも忌み嫌うのだと、先輩は言いたいわけだ。
「そういう事。理解が速くて助かるよ」
「それで、」
「ん?」
「つまり先輩は、何が言いたいんですか?」
そう、別に先輩だって気まぐれでゴキブリの話をし出すほど暇なわけではないだろう。
私の言葉に、先輩は両肘を机について顔の前で手を組むと、にやりと悪戯っ子の様に笑った。
「ん――、つまりさぁ。僕や伊織ちゃんが人から避けられるのは、外見とか中身の問題じゃなくて、人として終わってるって事。だから、もうどうしようもないよねー、って話」
……なるほど。今回はそう繋がってくるわけか。ていうか、
「……私たちはゴキブリと同列ですか」
流石に滅多な事では怒らない私も、ゴキブリ呼ばわりはいただけない。しかも先ほど散々脳内で貶した事もあってかとても複雑な気分になる。とんだブーメランだ。
私は不満げに先輩を見つめてみたが、当の本人は何処吹く風で気にした様子もない。
それどころか、一本取った!とでも言いたげな笑みを浮かべている。
「おいおい、一緒にしちゃ失礼ってもんだぜ? 彼らの方が僕らよりもよっぽど逞しい。それに、――人みたいにゴチャゴチャ考える脳が無い分、僕らよりよっぽど幸せ者だ」
先輩は事も無げにそう言って見せる。表情は変わらず何時もの笑顔のままだ。だが、その言葉に塗りこまれた自虐が嫌に目立った。
……あ、気づいてしまった。
先輩がこうやって自虐トークをする時は大抵――、それに類する言葉を他人に言われた時だから。
「先輩、また何か言われたんですか?」
私は遠巻きにされることはいつもの事だが、直接悪意をぶつけられることはあまりない。だが先輩は、違う。
何というか、私が『目を逸らしたくなる』存在ならば、先輩は『目を背けたくなる』存在なのだ。
恐怖と嫌悪では、周りの人々の対応も変わってくる。
私は今まで共に過ごしてきた中で、先輩の怪我一つない状態というのを見たことが無い。酷い時には通院までしていた頃もある。これまで普通に生きてこれたのが不思議なレベルだ。
そんな先輩と私が何故行動を共にしているのか。理由は簡単だった。
――お互い、色んな意味で精神が鈍かったのだ。
先輩から見たら私はただの目が死んでいる後輩女子だし、私から見れば先輩はよく笑う変人の先輩くらいにしかならない。
だからこそ私と先輩は、歪ながらもまともな『先輩と後輩』という関係を築くことが出来た。そう、少なくとも私は思っている。
「――別にそんなんじゃないよ」
「でも、」
「あ、そう言えばさ、橋の向こうに新しくクレープ屋さんが出来たんだってさ。折角だから行こうよ。暇だし」
追及を続けようとする私の言葉を遮り、あからさまなやり方で先輩は話を逸らしてきた。……言いたくないなら、無理には聞かないけど。
胸にドロドロとした思いが募る。――やっぱり信用されてないって事なのだろうか。
たまには弱音くらい言ってほしい。そう思うけれど、それを直接本人に言ったところではぐらかされるのが落ちだろう。
「先輩の奢りならいいですよ」
「え、ごめん。僕財布に二十円しか入ってないや」
「ちょ、それでどうやってクレープを買うつもりだったんですか!?」
「嫌だなぁ、誰も買うなんて言ってないじゃないか。僕は『行こう』って言っただけだよ」
そう先輩は悪びれもせず言ってくる。……このパターンは読めたぞ。いつもの如く私にたかるつもりだろう。仮にも先輩のくせに。
「だからと言って、行くだけって事にはならないでしょう。……半分しか分けてあげませんからね。前みたいに奪って逃走はしないでくださいね。次に同じことをしたら本当に怒りますよ」
「まぁ、考えとく」
「そこは素直にハイって言ってくださいよ……」
項垂れる私に先輩は笑い、私は苦笑した。
そんな、かつての日常。
ゆらりと、陽炎が揺れる。景色が歪む。――先輩の顔が見えない。
――――これは、夢だ。
『私』が先輩に会えるわけがない。
だって伊織はもう、――死んでいるのだから。
ピピピピッと鳴り響く携帯のアラームで、私は目を覚ました。
ぼんやりとした寝起きの視界が、見慣れない部屋を映す。――ベッド脇の赤い風船が嫌に目立った。
……それにしても懐かしい夢を見た。
先輩は元気にしているだろうか。あの人の事だから、私が居なくなっても飄々と日々を過ごしてるような気がする。
少し寂しいが、きっとそれが一番なのだろう。あの人の悲しげな顔なんて思い浮かばないし。
そんな下らない事を考えつつも、冷水で顔を洗って寝起きの頭を叩き起こした。
……さて、双子を起こしに行かなくては。
◇ ◇ ◇
地上、えっと何メートルあるだろうか、目測ではちょっと図りきれないのだが、それなりの高さのある筒状の建物の上に私たちは立っていた。
「此処は『トリックタワー』と呼ばれる塔のてっぺんです。ここが三次試験のスタート地点となります。
さて、試験内容ですが、試験官からの伝言です。
―――『生きて下まで降りて来る事』、制限時間は72時間です」
試験開始の宣言がされる。その後、案内人を乗せて飛行船がタワーから去って行った。
うーん、これからどう行動するべきか。
出来る限りは双子と一緒に居た方が良いのだろうが、そう簡単に人数分の扉が見つかる筈が無いだろう。
主人公組が入る扉は大方の条件を満たしているのだが、その扉を使う事には少し抵抗がある。
あと一人が誰になるか分からないしね。
……怪鳥を倒しながら降りていくっていうのも案外悪くないかもしれない。
そんな事を考えていると、グレーテルが私に駆け寄ってきた。あれ、ヘンゼルは?
「エル姉様ぁ、兄様が床下に降りてしまったのだけれど、どうしたらいいかしら?」
落ちた、じゃなくて降りた、なんだね。わざとか……。
この先の作戦を練っていたところだったのに、何でお前達はいつも私の考えている斜め上の行動を取るのだろうか。
私が魂を飛ばしかけていると、少し困った顔をしているグレーテルにミルキが話しかけた。
「ねぇグレーテル、ヘンゼルが何処の扉に落ちたのか案内してくれないかな?」
そうだ、まずは現状の確認が必要だ。現実逃避をしている場合ではない。
そう思い直した私は、グレーテルとミルキの後ろについてヘンゼルが落ちたらしい場所に向った。
◇ ◇ ◇
「兄様が降りたのはここよ」
彼女に連れられてこの場に来たはいいが、これからどうしたらいいか全然思いつかない。
……あー、取り合えずこの辺りにある扉を探すとするか。もしかしたらヘンゼルと同じ道に繋がる扉があるかもしれないしね。
―――辺りの捜索の結果、7つの扉が見つかった。
いや、いやいやいや多すぎだろう? どの扉を選べばいいのかさっぱりだ。
円で下の様子を探れればいいのだが、このトリックタワーの表層部分には探査妨害の念が掛かっているらしく、全然分からない。
……ここの試験官は結構優秀だなぁ。その事が今は非常に腹立たしい。
「……とにかく、下に降りよう」
うだうだ悩んでも仕方が無い。
あの子が取り返しがつかない事をしでかす前に止めなくてはならない、その義務が私にはある。
それに『ヘンゼル』は『グレーテル』よりも行動の幅が広く、突発的な行動が多い。
万が一この扉が主人公組と同じ扉だったとき、正直彼らの命の保証は出来ない。それは流石にまずいだろう。
ミルキとグレーテルが扉を選んで下に降りた後、私も残りの扉から一つを選び下に降りた。
◇ ◇ ◇
「それなのに何でこんな事になるかなぁ……」
降りた先には誰も居なかった。……どうせ私はクジ運が無いですよ。
連絡を取ろうにも当たり前だが圏外になっていて通じる気配がない。どうしろっていうんだ。
うだうだ過去の選択を後悔しても仕方がないので、とりあえず辺りの様子を確認する事にする。
……無造作に床に落ちているチェーンが長い手錠らしきものは今は気にしない事にした。
窓の無い部屋に、鉄製の扉が一つ。石の壁が圧迫感があって少し嫌な気分になる。地震とかがあったら死ぬかもしれない。
右の壁を見てみると、扉の横に文字が書かれた紙が貼ってある。
えーと、何々?
【協力の道】
君たち二人は互いに助け合い、ゴールまでの道のりを乗り越えなくてはならない。
扉は君たち二人が手錠で繋がれた時に開く事になっている。
……つまりこの道は二人で進む道という訳だ。あと一人がこの部屋に降りてくる事になるらしい。
さっき見ないふりをした手錠も、試験に必要なもののようだ。……私は手錠に繋がれる趣味なんてないんだけどなぁ。
まさかこんな所で手錠初体験をするとは思っても見なかった。
やれやれと溜息を吐き、壁に背を向けて目を伏せる。
どうせ後一人がここに降りて来ない限り何も出来ないのだ。それならば無駄な体力を使う事は得策ではない。休める時に休んでおこう。
他の皆は多分心配は要らないだろう。なんだかんだ言って実力だけはあるんだし。試験管や協力者に喧嘩さえ売らなければ。
……喧嘩さえ売らなければ合格できるはずなんだけど。やっぱりちょっと不安かも。
それから大体1時間が過ぎた頃であろうか、――上の壁が開く気配がした。
――やっと『相方』のご登場というわけですか。
閉じていた目を開き、天井を見つめる。
右奥の扉からガコン、と音をたてて人影が落ちてくる。
落ちてきた人物も現状を理解するためか、辺りを見渡す。
偶然にも私を背に向けて降りてきた彼―――金髪の民族衣装の様な服を着た少年―――は、後ろを振り向き、私を視界に入れるとまあ予想通りあのだが、すぐさま警戒しだした。
「っつ!!……お前っ!」
……どう見てもクラピカです本当にありがとうございまし(ry
えー、私としても何故キミがここにいるのか疑問でならないのですが? ゴン達と一緒の道に進むはずでは?
まぁヒソカやイルミが来るよりかは100倍はましなんだけども。むしろある意味では当たりと言っていいかもしれない。
ていうか、そんなに警戒されても困るのだが。私が此処にいるのは、先に一人では進めなかったからだし、好きでいるわけじゃない。
そう思い、私は扉の前に貼ってある紙を指差す。
別に説明が面倒だった訳ではない。私が口で説明するよりも見た方が早いと思ったからだ。
彼は警戒しながらも貼ってある文字を目で追うと、信じられないといった表情で私を見てきた。
「つまり、私と君が手錠に繋がって初めて先に進めるという訳か……」
そういう事です。
そのクラピカの問いに私は頷いて返すと、足元に落ちていた手錠をおもむろに右手に嵌めた。
……あ、間違えて利き手に嵌めてしまった。
なんで私はいつもこんな些細なミスをしでかすのだろうか、一応A型なのに。
そんな事を考えつつも反対側の手錠をクラピカに投げて渡し、とりあえず自己紹介をしておく。
一応この試験で一緒に進まなくてはならないのだから、互いの名前くらい知っておいた方がいいだろう。
私は知っているけど、その辺はフレーバーだ。まぁあっちは私の名前なんて興味ないだろうけど。
「―――私は、エリス。……君は?」
「……私の名はクラピカという。 その、――これからよろしく頼む」
「……こちらこそ」
初対面の人物に警戒されるのはいつもの事だ。
別に今更傷ついたりなんて、――しないと言えば嘘になるが――もう慣れてしまった。
クラピカが多少躊躇いながらも左手に手錠を嵌める。何故かその際に此方を伺ってきたが、私が目を向けた瞬間、直ぐに目を逸らされた。
……これから最長で三日間一緒なのに、最初から詰んでる気がする。双子よりもまず自分の心配をするべきだったかもしれない。
カチャリ、と静かな部屋に金属音が響く。どうやらクラピカが手錠をはめた事により、扉の鍵が開いたようだ。
まぁ、とにかく扉が開いたわけだし前に進むとしますか。
私とクラピカは、何を言うでもなく無言のまま三次試験をスタートさせた。前途多難である。
◇ ◇ ◇
時を遡る事、5分前。
ゴン、キルア、クラピカ、レオリオの四名は床下に続く扉の前にそれぞれ立っていた。
その中の金髪の少年――クラピカはこれからの事に思いを馳せた。
自分は今、下へと通じる扉の前に立っている。ゴン達が見つけてきた扉のうちの一つだ。
何だかんだと彼らと行動を共にし、此処までの試験をクリアしてきたが、三次試験の結果次第ではここでお別れという可能性もなくは無いだろう。彼等ならば受かるだろうという漠然とした信頼はあるが、やはり、少し感慨深いものがある。
「此処でいったんお別れだ。……地上でまた会おうぜ!」
しんみりとした空気を吹き飛ばすかのように、レオリオがそう宣言する。
彼は気遣いと空気が読める男だ。その代り頭は少し残念だが。
だが、御蔭で一歩踏み出す不安も消えた。
出来る事ならば彼らと共に行動したいが、そんな奇跡は滅多に起こらないだろう。
掛け声とともに扉をくぐる。眩暈にも似た浮遊感と、僅かな落下の衝撃。
――落ちた先は小さな部屋だった。
辺りを確認しつつ、危険な物が無いかを調べよう。
そう思い振り向いた瞬間、私はようやく後ろに人が居たという事実に気が付いた。
「っつ!!……お前っ!」
私はそう言いながら武器を取り出して戦闘態勢をとる。
――こいつ、こんなにも近くにいたのに気配が感じられなかった。
部屋の壁に寄りかかるようにして立っていたのは、黒髪に黒いコートの少女。ヒソカに次ぐ要注意人物、220番。
……よりによって、彼女と居合わせる事になろうとは。
トンパやキルアが言う限り、この220番はヒソカと同等の実力者であり、――危険人物でもある。
湿原に出た時に220番を正面から見たが、その時初めて『異端』である事を理解した。
―――彼女はあまりにも闇に染まりすぎている。
暗く研ぎ澄まされた闇色の瞳、。そして死者に対する異常なまでに無関心な態度。……どれをもってしても彼女が全うな人間ではない事が伺える。
ヒソカのように狂気が透けて見えるならば判りやすいのだが、この220番は違う。
例えるならば、不安定なのだ。
人は誰しも、行動を起こす際に『事前動作』がある。ヒソカが暴れる際にも、わかりやすく殺気が漏れていた。
だか彼女はそれが何もないにかかわらず、――次の瞬間私の首を刎ねたとしてもおかしくない。そんな気持ちにさせられるからだ。
これはもしかしたらただの被害妄想で、実際はそんな事は無いのかもしれない。だが、そんな不安を抱いてしまうほどに彼女の纏う空気は揺らいでいた。
彼女は今までの試験の間、一度も無作為に暴れたりはしていないが、今後いつスイッチが入るかが判らない。私は、――それが酷く恐ろしい。
だが220番は警戒態勢を解かない私に対し、特に攻撃を仕掛ける様子もなくぼんやりとその場に立っている。
何も映していないかのような瞳が私を捉え、彼女は無表情で扉の前にある貼り紙を指差した。
警戒状態は解かず、視線のみで貼り紙の文字を追う。
【協力の道】
君たち二人は互いに助け合い、ゴールまでの道のりを乗り越えなくてはならない。
扉は君たち二人が手錠で繋がれた時に開く事になっている。
……ちょっと待ってほしい。まさか私は地上に降りるまでの間、この220番とずっと鎖で繋がって過さなくてはならないのか?
「つまり、私と君が手錠に繋がって初めて先に進めるという訳か……」
そう自分に言い聞かせるように呟き、眉を顰める。
これからの事を不安に思っていると、カチャリ、という金属音が小さな部屋の中に響いた。
何事かと思い音の発生源に顔を向けると、右手首に手錠を嵌めた220番が手錠の反対側を私に投げてよこした。
「私は、エリス。……君は?」
……少し、予想外だった。まさか彼女の方から私にコミュニケーションを取ってこようとは思いもしなかったからだ。
いくら試験で共に進まなくては行かないとはいえ、他人に関心を抱くような人物だとは思っていなかったのに。
「……私の名はクラピカという。その、――これからよろしく頼む」
「こちらこそ」
その瞳は先程と変わらず何の感情も移していなかったが、攻撃性は無い様に思える。
220番、――いや、エリスは私が思っていたよりも危険では無いのかも知れない。
少なくともこの三次試験の間は、私が彼女によって命の危機に追い込まれる事はないだろう。
……私が彼女の逆鱗に触れなければの話だがな。
そう思い、手錠を嵌める段階になって初めて、彼女が右手に手錠を嵌めている事に気が付いた。
彼女が右手ならば、必然的に私は左手に手錠を嵌める事になる。
人の心理として、動きを制限されなくてはいけない方を選ぶ時、大抵の場合は利き手ではない方を選ぶはずだ。
彼女が左利きでもない限り、右手を封じる理由は一つしかない。
―――私が右利きと知って配慮したのか?
先程の構えを見れば、多少の武道を嗜む者は私が右利きであると気づくことができるだろう。
利き手が自由になる事は喜ばしいのだが、はたして彼女はその事までを計算に入れていたのだろうか?
そう思い彼女の方を伺ってみたのだが、目が合った瞬間、つい目を逸らしてしまった。何故私はこんなにも彼女に忌避感を抱いているのだろうか。……これが、実力の差というものなのか。
少しだけ釈然としない思いを抱きつつも、私は左手に手錠を嵌めた。それと同時に閉ざされていた扉が開く。
黙っている私を見て無言で目配せをすると、エリスは扉に向って歩き出した。
私もその後に続く。
―――とんだ相手とパートナーとなってしまったな。
戦闘関係の事に関しては心配いらないだろうが、どう転んでも前途多難の未来しか見えない。
そういえば、ゴン達はどうなったのだろうか? 罠に引っ掛かってなければいいのだが。
……――――それにしても、
最初の試験の時から思っていたが、あの風船は一体何なのだろうか。
◇ ◇ ◇
そして場面は四人の落下時まで遡る。
――掛け声と共に扉から落ちる。
少しの浮遊感の後、キルアは難なく着地し辺りを見渡そうと顔をあげた。薄暗い室内に目を細める。そこには―――、……ゴンがいた。
互いに呆れながらも笑みを浮かべる。いやぁ、まさか同じ場所に繋がっているとは思わなかったな。
そう思い部屋の中を確認したが、おっさんは居るけどクラピカの姿が見当たらない。
「……おい、クラピカがいねぇぞ」
「多分違う場所に落ちたんだろ。俺たち3人が同じ場所にいるってだけでもすごい事だと思うぜ?」
不満そうに言うおっさんを宥める。
ある意味クラピカはこのメンバー唯一のストッパーだったのになぁ。こいつ等が暴走したら止めるのってもしかして俺の仕事?え、マジで?
やれやれと思っていると、いきなり背後から人の気配がした。
「やっと人が降りてきた。――待ちくたびれちゃったよ」
俺もゴンもおっさんも、一斉に声のした方を見る。
―――どういう事だ? 俺たちが降りてきたとき人影は見えなかったし、その後に誰かが降りてきた筈もない。
振り向いた先には俺と同い年くらいの少年が立っていた。
受験番号221番。此奴と222番の少女は、ヒソカの奇行に紛れて目立っては無かったが、裏で受験生を嬲り殺していた筋金入りのキリングジャンキーだ。
何より、染みついている血の匂いが半端ない。俺と同等か、もしくはそれ以上か……。何にせよ、ゴン達には荷が重いかもしれない。
だが、警戒している俺達の様子なんて気にもせずに奴はニコニコと笑っている。
……なんか、ムカつく。
「お前、何処から出てきたんだ!」
レオリオが221番を睨みながら言う。
そりゃ、俺がコイツの存在を探知できなかったんだから、当然レオリオにも何故いきなり此処に現れたかなんてわかる訳ないだろう。
「僕はずっと此処にいたよ? ――気づかない君たちが鈍いだけじゃないかなぁ」
馬鹿にしたかのように発せられた言葉に、ピキっと青筋が浮かぶ音を聞いた気がした。舐めやがってこの野郎。
レオリオに至っては今すぐにでも殴りかかりそうだ。
アンタはやめとけよ、絵図的にどう見ても加害者にしかみえないからさ……。
すっかり頭に血が上ったレオリオをゴンが宥めるのを横目に、俺は221番を観察した。
奴は憤慨する俺たちの様子を見てニヤニヤと笑っている。
表情から察するに、俺たちを驚かす為だけにそんな行動を取ったのだろう。……ふん、餓鬼の思考だな。
―――ただ、俺がこいつの気配を察知できなかった事だけが腑に落ちない。
それにあの違和感、……まるで兄貴から感じる『あの気配』に似ている気がする。
「さっきのどうやったわけ?気配が全然わかんなかったんだけど」
素直に個体るわけがないだろうが、聞くに越した事はない。
俺のその言葉に221番は顎に手をあて、少し考え込むと、小首を傾げた。
「えーっと、エル姉様が『誰にも言うな』って言ってたから教えられないんだ。ごめんね?」
そう言って謝ったはいいが、やはり釈然としない。疑問は結局解決してないし。
「えー、俺も知りたかったのに」
そう言ってゴンが残念そうな声を出す。
ゴンは既に221番への警戒は解いているらしく、平時と変わらぬ態度を取っていた。いや、何でだよ。
……お前、危機感ってものが無いのか?
「バカかお前らは、もう少し警戒心を持てよ。どう考えても明らかに怪しいだろうが!!」
レオリオが声を荒げて叫ぶように言う。そうだ、もっと言ってやれ。
……ん? お前ら? 俺も馬鹿の枠に含まれてんの?何で?
――それはともかくとして、まずは現状確認が先決だ。
「大丈夫だと思うんだけどなぁ。あ、そうだ、俺の名前はゴンって言うんだ。右がレオリオで、左がキルアだよ。君は?」
ゴンが俺に初めて会ったときのようなノリで221番に話しかける。
……ていうか俺とおっさんの名前まで勝手に教えるなよ。
何処かずれている奴だと思ってはいたが此処までとは思いもよらなかった。だが今ならはっきり分かる、真性のバカだコイツは。
「名前?『僕』はヘンゼル。姉様はグレーテルっていうんだよ」
「お前の姉さんの名前まで聞いてないっつーの。それと『姉様』っていうのは一緒じゃないわけ? ……それと、220番も」
そもそもコイツが一人で居る事自体がおかしい。コイツを見るときはいつも片割れと一緒に居たというのに、今は一人きりだ。
「姉様達とははぐれちゃったみたいなんだ。まぁどうせ下で会えるだろうし、問題ないよ」
その試験をなめているとしか思えない台詞にレ、オリオが憤慨した様子を見せたが、面倒だからスルーする事にする。
確かにハンター試験は思っていたよりもちょろい。その気持ちは分からなくもないけど。
「そもそもなんでお前は此処にいるんだよ?さっさと先に進めばいーじゃん」
「うん、それなんだけどさ。――一人じゃ駄目みたいなんだ」
そう言って奴はこの部屋に唯一ある扉を指差した。その扉には貼り紙のような物がはってある。
そこに書いてある内容はこうだ。
【多数決の道】
君たち5人はここからゴールまでの道のりを多数決で乗り越えなくてはならない。
5人の人間が手にタイマーを着け次第、扉が開く事になっている。
「あ、ホントだ。タイマーも5つ用意してある」
「つまり、5人揃うまでここからは出られないってわけか……」
ゴンとレオリオがタイマーを確認する。
どうやら此処の道は他者との協調性が問われるらしい。
しかもよりにもよって221番と一緒に行動しなくてはいけないというのが嫌だ。
俺が言えた義理ではないが、コイツに協調性があるとはとても思えない。この手の人間は大抵自分本位の我儘だと相場が決まってる。第一印象も最悪だし。
「わかってくれたかな?」
相変わらず奴は笑みを崩さない。
何がそんなに楽しいんだか。いや、楽しいわけではないんだろうけど。
笑顔がデフォルトの奴というのは実は結構多い。そして、その大半が後ろ暗いものを隠し持っている。だからこいつも見た目通りの馬鹿ってわけでもなさそうだ。
「うーん、じゃあ後一人降りてくるまで俺たちは此処から出られないの?」
《その通り》
いきなり会話に試験官らしき声がスピーカーから聞こえてきた。……ていうか今までの会話全部聞いてたのかよ、趣味悪いな。
《このタワーには幾通りものルートが用意されており、それぞれクリア条件が異なるのだ。
そこは多数決の道、たった一人のわがままは通らない!
互いの協力が絶対条件となる難コースである。
―――それでは諸君らの健闘を祈る》
一方的にそこまで言うと、放送が切れた。
難コースねぇ、……試験とか楽勝って思ってたけど、今回はちょっとヤバいかもなぁ。
……つーか既に内部分裂的な感じなんだけど?収集つかねーよ。
「くそ、待つしかねーか」
そしてレオリオ苛立たしそうに頭をかきながら、壁を背にして座り込んだ。
この場で一番年上のくせに、頼りにならない。
俺の方が強いのは当然だが、なんかこう、もう少し威厳というものがあってもいいんじゃないか。……まぁレオリオにそれを求めるのは無茶か。
つくづくこの場にクラピカがいない事が惜しくてならない、アイツならレオリオが納得するような理性的な説得が出来るというのに。まぁ、基本アイツもレオリオに対しては煽り属性だけど。
はぁ、と溜息を吐きながら俺もその場に座る。……なんかもう疲れた。
それから30分。ラスト一人のメンバーとなる受験者が落ちてきた。
落ちてきたのは406番、眼鏡を掛けた女だ。
見た目はかなり弱そうだが、ここまで残っているのだから見た目通りの実力というわけじゃないだろう。
「おー! 貴女はシズクさんじゃありませんか! またこうやって一緒に行動する事になるとは思っていませんでした、これってもしかして運命!?」
406番に嬉々とした様子でレオリオが駆け寄る。……知り合いなのか?
ていうか気持ち悪い。キモいの方じゃなくてホントに気持ちが悪い。俺が女だったら迷わず殴り飛ばすレベルだ。
若干女の方も引いてるように見える。さりげなく手を振り払ってたし。
ゴンは苦笑いのような表情でレオリオの事を見ている。……気持ちはよく判るぞ。
女はレオリオの事を見て、怪訝そうな表情で首を傾げた。
「えっと、どなたですか?」
「え、そんな、俺のこと忘れてしまったんですか!?」
どうやら女の方は全然おっさんの事を覚えてないらしい。マジ笑える。
冗談ですよね! と騒いでいるおっさんの事はさておき、ゴンはあの女の事を知っているのだろうか?
「なぁゴン、アイツ誰?」
「試験会場に降りるエレベーターで一緒だったんだ。名前はシズクさんだよ」
ふぅん、偶然居合わせただけで、知人と呼べる間柄でも無いわけだ。じゃあ実力はわからないか。
レオリオの事を気にもしていない様子で、女は辺りを見渡すと、――ヘンゼルが居る方で目を留めた。
「あ、君も居たんだ。確かエリスと一緒にいた子だよね」
そう言ってシズクと呼ばれた女はヘンゼルの方に向って歩いていった。――おいおい、こいつ等もまさかの知り合い同士かよ。
ていうかエリスってもしかしなくても220番の事だよな。ミルキの奴もそう呼んでたし。
「お姉さんも一緒なんだ。偶然だね」
「一緒? 何の事?」
そういってヘンゼルは先程俺たちにした説明を繰り返す。まぁ説明って言っても貼り紙を読むように言っただけであるが。
その後、自分を忘れられて凹んでいたレオリオが再度自己紹介をし、俺とゴンも一応名乗った。
どうせこの試験だけの関係なんだからそこまで執着する必要ないと思うぞ。だからアンタはモテないんだよ。しかもあの220番の知り合いみたいだし。絶対碌な奴じゃないからやめておけって。
それに見るからにおっさんの事眼中にないみたいだぞ、あのシズクって女。さっきからヘンゼルとばっかり話してるし。まぁ話の内容は220番の事みたいだけどな。
色々あったが、やっと5人揃ったのでこの先に進む事が出来る。
いやぁ、俺待つのって苦手なんだよね。
腕輪を嵌めて、現れた扉を開ける選択肢を押して、新しく現れた道に足を踏みだす。
―――やっと試験開始だな。
だけど、どうにも不安の残る出発であった。
◇ ◇ ◇
薄暗い部屋の中に二人の人間がいた。
一人は頭を抱えて座り込み、もう一人は悠然とした笑みを湛えて立っている。
座り込んでいる青年、――ミルキは自分の運の無さに絶望していた。
「エリスと離れた……」
もう駄目だ、鬱だ……。三日間ずっと一緒にいられるとばっかり思ってたのに。これからやっていける気がしない……。
やっぱり念を使えばよかった。俺の能力なら一緒の扉を引き当てる事くらい容易だったろうに。出し惜しみするんじゃなかった。
「もう、メソメソしては駄目よ。お兄さん男の子でしょう?」
膝を抱えて蹲る俺を、グレーテルが頭をなでて慰めてくれている。――どう贔屓目に見ても、俺って情けない。
でも、分かってはいるけど気持ちが付いて行かないんだよ。
てっきり此処が原作の多数決の道で一緒に進めると思っていたのに。こんなのってないよ……。
「どうせ下に行けば会えるのだから何の問題も無いじゃない。……私だって兄様とエル姉様と一緒なりたかったのに」
……グレーテルが珍しく正論を言っている。
失礼な話だが、そう思うと一気に頭が冷静になった。
あぁ、彼女がそこまでするほどに俺の状態がおかしかっただけか、…反省しよう。
「……うん、ゴメン。ちょっと取り乱した」
あはは、と笑って誤魔化してみたが、グレーテルは少し呆れたような顔をすると仰々しく肩をすくめて溜息を吐いた。
……悪かったよ、ホントに。
「お兄さん、あれを見て」
そう言って指差された先を見ると、一枚の貼り紙が貼ってあった。
【隷属の道】
君たち二人は『主』と『奴隷』の役割を互いに課し、ゴールまでの道のりを乗り越えなくてはならない。
そして、一人は首輪を、もう一人はその首輪が繋がった手錠を片手につけなくてはならない。なお、『主』から『奴隷』への命令は絶対である。
…………。
……なんでこんな悪ふざけみたいな道に当たってしまったのだろうか?
あぁぁぁ、やっぱり念を四次試験まで取っておこうなんて色気を出さなければよかった!!
俺の念の内の一つ、『因果率の支配(デウスエクスマキナ)』は因果律を捻じ曲げて自分の都合がいい様に動かす能力だ。
ようは幸運値を神レベルまで引き上げる事が出来る訳である。
ただ、一月に一回しか能力を使えないので、使いどころを考えなくてはならないのが難点だ。
……今更後悔しても仕方が無い、とにかく目の前の問題を解決しなくては。
「あら、首輪は久しぶりね。――お兄さんはどっちがいい? 私は別にどちらでもいいのだけれど」
……普通の神経を持った人間ならば迷わずに手錠の方を選択するだろう。
それに幼女に首輪というのは多くの男達が夢見るシチュエーションなのだろうが、――相手はこのグレーテルである。
万が一グレーテルに首輪を着けさせたなんて事がエリスに知られたら、俺は生きていけない。
ていうか想像すると死にたい気分になる。
……まぁ俺が首輪をつけたとしても死にたい気分になるんだろうけど。
……………………、腹を括ろう。
「俺が、――首輪をつけるよ」
◇ ◇ ◇
「わぁ、お兄さんとっても似合ってるわ。あ、そんなに動くと写真がぶれてしまうわ、ジッとしていて」
「……あの、ホントマジで勘弁して下さい」
携帯を構えながら、グレーテルが嬉々として言う。
嬉しくない。首輪が似合うなんて言われても全然嬉しくないっ。
あと写メは止めてください。そんな事されたら俺マジで泣くよ?
はぁ、ていうか何なんだよこの試験内容は……。これじゃあ奴隷っていうか女王様と下僕みたいじゃん。
ここの試験官って何なの? 馬鹿なの? 死ぬの?
……誰か俺に試験官暗殺の依頼をしてくれなかなぁ、今なら90%オフで引き受けるよ。
俺が俯きがちに試験官抹殺の内容を考えていると、痺れをきらしたグレーテルが話しかけてきた。
「扉も開いた事だし、先に進みましょうか。……お兄さん? 大丈夫?」
「……うん、平気だよ。……多分」
―――グレーテル・ミルキ組、ようやく試験開始。
後書き
年長組が頼りないでござる。