西区の復興計画が始まって以降、縁の朝は今までよりも早い。 彼には未だ、地霊殿の清掃係という仕事と、自分のための朝食・昼食作りという生存のための食料確保の任務があるのであり、またそれは午前の間に一通り終わらせないといけないのだ。 こいしとの戦いで負った傷は、鬼特製の塗り薬のおかげで疲労と共に、かつての喧嘩の時よりも格段に早く回復し、焼かれた腕と足も数日経って少し動かし慣らしてみれば、違和感もなくなっていた。しかしそれでも、打ち身や刺し傷のようなもの、火傷の痕は残ってしまっている。 まぁそれも仕方のないことだと、目覚めた縁はベッドから起き上がろうとして、しかし左腕にかかる妙な重さに邪魔されてできなかった。何事かとそちらに顔を向けた。寝間着の胸元がはだけた美少女の寝顔がそこにあった。色素の薄いセミロングの髪。幼さが残る故に可憐さを感じさせる顔立ちには、眉、口、眼元が恋の妖精に愛されているように配置され、見る者の目を奪う。その無防備な吐息が、縁の生物の右腕にかかり、ほうと産毛を撫でる。 古明地こいし、縁が今回怪我を負った理由であり原因であり、しかし今は至って普通の妖怪少女になろうとしている、縁の同居人であった。頬にかかる髪の一本が、彼女が呼吸をするたびに唇に触れ、そのあどけない外見ながらも、異様な色気を発していた。少なくとも縁はそう感じてしまった。「これは……面倒なことになった」 思わず小声でフレッチャーの口癖を呟くと、なぜかいるこいしに疑問を抱きながらも何とか起こさないよう左腕から顔をズラそうとし、右腕でそっと持ち上げようとする。その時、こいしが「んっ……」と呻く。起きちまうか、と縁は懸念した通り、こいしはゆっくりと目を開け、縁の姿を認めた。いや違う、未だそこには眠気のものがあり、夢の中をさまよっているのが見てとれる。「あ、えにしちゃんだぁ……」 そのまますっとこいしの顔が縁の顔に近づき、吐息のかかる距離まで接近する。縁は思わず、この何歳も年下に見える少女の顔を至近で見ていて、ドギマギし、しかし身体が痺れたように動けなくなっていた。縁にはロリとかペドなどが似合いそうな容姿の少女に性的欲望を覚えるなどという性癖はなかったが、しかし寝起きという人の欲動が働きやすい状態で、現在進行形で不思議な色気を醸し出すこいしを見ていると、胸の異常な高鳴りを自覚せざるを得なかった。 こいしの口が開き、そこから伸びる舌が、縁の頬をぺろりと舐めた。顔を更に赤くする縁を余所に、こいしはそのまま。「……おいしそう」「へっ?」 縁が驚く暇もなく、ガブリと噛みついた。「イエ"ヤ"ァァァァァァ!!」 奇妙な叫びが地霊殿に響き渡って、寝ぼけ眼の妖怪たちやペットを起こしてしまった。第十話『門の守り人』「ふーん、へーん、そんなことがあったんだー」「えっとぉ、ごめんね縁ちゃん」「別にいいと思いますよ? 実際に食われたわけじゃないんですし」「お前ら、口と一緒に手を動かして俺の朝食を奪おうとするなコラ」 食道、隣りの厨房でフレッチャーが中華鍋を振り回している傍ら、朝の事情を話した縁はジト目の空と片手で念仏を唱えるようなポーズで片目を瞑り謝るこいし、呆れと嘲笑半々の燐の三人が繰り出す箸から自分の朝食のおかずを死守しつつ、食事をとっていた。 フレッチャーから提供されたマスの塩焼き、おろし大根付き。同じくフレッチャー作のぬか漬け。赤味噌の少し濃い味噌汁。そして旬とは言い難いが妙に香りのある筍の御飯。典型的な日本食の姿であるがしかし、朝食にしてはボリュームがある。だが最近は学業の代わりに肉体労働を主としている縁にとって、丁度いいどころか物足りないものであった。それ故に米の一粒でも多く身体の中に蓄えようとしているのに、なぜか話を聞いてる途中から不機嫌になり縁の食事を食べ始めた空、それに続いてこいしと燐も横取りを始めて筍を味わうなどという暇はなかった。 「むぐっ……で、そういやあんた、普通の弾幕とか出せたり飛べるようになったりしたの?」「あ、てめ。人のぬか漬けを……それはあんまり上手くいってな…て、こらこいし、塩焼まるごと食おうとすんじゃねぇ!」「碌に話が進まないね……」 こいしが丸呑みしようとしているマスを縁が奪い返しているのを余所に、着々とぬか漬けと筍を胃の中に放り込んでいく、元凶とその親友。何とか縁がその手から取り返すと、こいしがカエルのようにピョンと飛び、がぶりとその塩焼きの半分にかぶり付き、身の部分を丸ごと食べていってしまった。「はうあー俺の塩焼きがぁぁぁ!!」「うーん、でりしゃす。けどもうちょっと焼きが欲しいかも」「何でグルメになってるんですかこいし様……あ、このニンジン美味しい」 がっくりと項垂れる縁のその背中が見えないのか、もっきゅもっきゅと口を動かし味を楽しみ評価を下すこいし。そしてそのこいしの変わっていないようで変わった様子にため息を吐きながらニンジンを集中的に食べ始める燐。空が困った顔で味噌汁に口をつけたところで、ようやく縁は立ち上がり、微妙に涙を流しながら、この食事の悪鬼羅刹たちに対して罵詈雑言を吐き出すのであった。「この妖怪飯浚いどもめぇ……」「私、地獄鴉だよ?」「あたいは火車」「わたし、覚」「私も覚です」「……<偉大なカモメ>の化身だ」「マジに返すなっての! そして何気ない顔で会話に参加した上更に飯を食おうとしてんじゃねぇそこの一人と一羽!!」 元からいた三人、更には突然現れた、カチューシャを外しハート型のヘアピンで髪を留めたさとりと、空の中華鍋を片翼で軽々と持ち上げているフレッチャーに対してもツッコミを入れ、増えた食事横領犯たちから食事を守るべく朝食を猛スピードで口にかき込み始める縁。さすがに空たちもその必死さに哀れに思ったのか手をひっこめたが、しかしこいしだけは縁のスピードに追いつこうと躍起になって箸を動かしている。 それに対抗して更にスピードをあげる縁であるが、こいしの無意識はそれに追いつかんとばかりに箸と口を動かし食べ物を胃の中に放り込んでいく。「ほのおほれがほそい!? このほれがフローリぃ!?」「ほう、ほそいよ、フハジールをはいてにするしゃひょーなみにおそい!!」「貴方たち……口に物を入れた状態で喋らない!!」「「すぃませんっ」」 もはや食べることよりもどちらが先に食いきれるかの勝負になって二人だけの世界に入っていた縁とこいしを、二人の掛け合いの飛び火として米粒をつけられたさとりの一喝が正気に戻した。 二人は即座にさとりを見、そこに殺意の波動にも似た本能的恐怖をもたらすオーラを纏った地霊殿のヒエラルキー最頂点の姿の存在を認め、すぐさま平伏した。その隙に空と燐が残ったものを全て食べてしまっていたのだが、縁は知る由もなかった。 「で、いつの間にかこんな集まったわけだけど、俺の飯を奪う以外に何かようでもあるのか?」 閑話休談といったように間を置いてから、縁は水を口に運びながら食堂に集まった面子を見渡す。ちなみに縁は自分自身が出した問いを肯定されたら、即刻地霊殿を出て十一の家に逃げ込むつもりであった。「うーにゅ、私はフレッチャーに小腹が空いたから何かもらおうかなって」「アタイもおんなじ。けどフレッチャーに注文した直後にあんたがそれ持ってきたから頂いてたわけ」「だったらフレッチャーのを待ってろよてめぇら」 空と燐の返答は縁の食事を奪うにも一応理由(?)のようなものが認められそうなものだった。だがそれにしても朝食を奪われた立場の縁としてたまったものではなかった。何より。何となくではあるが、食事を奪う時に空の雰囲気が異常に怖かった気がするが、これはさすがに気の所為だと縁は思い込むことにした。「私は……そうですね。今日は掃除はしなくてもいいことを貴方に伝えるためですね」「へ、どうして?」「『誰か代わりがいるのか?』いえ、そもそも貴方が掃除係の代わりだったんですよ、覚えてないんですか? 「あー……そういや、そうだった気がする」「『色々ありすぎてて忘れてた』……まったく。とにかく、本来その仕事を任せていたペットが今日から復帰しますので、貴方は復興作業の方に集中してください」 どこか言いよどみながらも、フレッチャーが持ってきた『悟り』と書かれた湯呑に口をつけながらさとりが応えた。その言に縁はこれと言った不満はなく、むしろ今日から朝に余裕が持てることに僅かな安堵を覚え「わかった」と返答した。 その気の緩みのせいか、離れた位置から見るとその文字が『小五ロリ』という不謹慎なものに見えてしまった。意外にもその言葉がさとりの容姿に合っているような気がしてしまった縁は、しかし心を読まれたのか、さとりからの一睨みでその考えを心の奥底に仕舞った。 そのまま気を逸らすためにフレッチャーにも目を向けると、白いカモメは手に持っていた中華鍋をクルクルと回し、テーブルの上に被せた。そうして周囲の妖怪と人間が突然の料理長の奇態に注目する中、中華鍋がゆっくりと持ち上げられていく。その中から現れたのは。「……鶏肉の皮の春巻きだ」「「「うおぉぉぉーー!!」」」 縁がテレビの中でしか見たことがないような、高級中華料理店にでも出されていそうな皿とそこに盛りつけられたきつね色を越え黄金色にすら見える、見事という他ない揚げ加減の春巻きだった。白い陶磁のように輝く皿には、四方を囲む中国の幻想の生物たちが住み料理を護るように囲み、彼らが守る今回の王、湯気が赤く見えそうなほどの春巻きが座っていた。 声を上げた空と燐が真っ先に箸を伸ばし、次いでまるで手品のように現れたことに驚き声を出してしまっていた縁と、今は彼におんぶされるように背中にひっついていたこいしが、春巻きへと手を出す。 縁の腹はそろそろ満たされたと感覚の一つが告げようとしたが、春巻きの香ばしいと嗅覚をくすぐる香りがそれを吹き飛ばした。口へと運ぶ。一口目を噛み、スナック菓子のように外面がサクサクとした奇妙な、しかし旨いと食欲が告げる感触を味わおうと思った瞬間には、少し早いぐらいの秋野菜をふんだんに使い、更には妙に歯ごたえのある肉の中身が口内で化学反応を起こした。二口目を食べると、その肉の正体が塩で味付けられたエビであることがわかる。しかも噛めば噛むほど、その味と香り、そして野菜と鶏肉を使った皮との融合が起きるのだ。 絶品とはまさにこのことだと縁は素直に思い、周囲を見ると、さとりと料理人を除いた三人も恍惚とした顔になっていた。小腹が減っただけの空たちのためだけに、これだけの料理を作りながらも澄ました顔をしているフレッチャーに、先日のさとりに聞かされた話もあって、実はかなり優しいのではないかと思ってしまった。「ふふ、さすがですね、フレッチャー」「……面倒は嫌いだからな、追加分はある。腹が減ったら勝手に取りに来い」 さとりに褒められながらもフレッチャーは常の調子で答え、中華鍋を翻した。その瞬間には白いカモメの姿は一瞬にして姿を消し、あとには妖怪三匹が群がる春巻きだけが残されていた。縁ももっと食べたい気分だったが、しかしもう数もなさそうで、かつ時間も迫っていそうだ。 昼食のおにぎり、サケの代わりにマスを入れたそれを自作ポーチに入れ、十一のツテで紹介された呉服屋に形だけは直してもらった学生服のズボンに吊り下げる。「んじゃ、そろそろ行くわ」「あ、ええ、いってらっしゃ……」「えにひひゃんひょっとまって!」 椅子から立ち上がった縁に気づいて口ごもりながらも返そうとしたさとりであるが、しかし直前に縁の行動に気づき、振り返ったこいしにさえぎられてしまった。こいしはそのまま口に春巻きを咥えたまま縁に文字通り飛びついて、その背中が自分の定位置だという様に抱きついた。そしてそのまま、春巻きを口から出し、縁の口元に運ぼうとする。「はい、あーん」「いや、バッチイだろ。自分で食べろって」「あー、ダメだよ縁ちゃん。女の子はそんなこと言われたら傷つくんだから。それに縁ちゃんだって『もう少し食べたかった』んでしょー?」「うぐぅ……」 見事に心の内側を読まれ、思わず呻く。その口が空き、思考に僅かな空白が空いた瞬間、こいしの目が光った。「あーん!!」「ふぐぅ!?」 春巻きを口の中に捩りこまれる縁。春巻き自体はそのまま仕方なく食べるが、時々妙にねっとりしたものがくっついているような気がし、しかし無理やり気づかないようにして呑みこんだ。その様子にこいしはにへら、と口元を緩め、こういうのを見れたなら別に素直に食べてやってもよかったかな、と縁が思った直後、強烈な殺気が縁に叩きつけられた。 発生源は唖然として口をあける燐の横、春巻きを口に含んだままこちらを睨む空である。その視線を受けていると何故かこの場にいるのが居た堪れなくなり、逃げるように視線を四方八方に飛ばしてしまう。しかし空の眼光は強まる一方だ。もはやこの場にいられない、縁はそう判断し、空へと背を向け。「そ、それじゃあ行ってくるぜ!」 状況がよくわからないがしかしひっつくのを楽しんでいるこいしを背中に乗せたまま、殺気には敏感だがその最奥にある感情にはまった気付かない縁は部屋を出ていった。その姿を見送った燐は、突然忙しなくなった縁に疑問を抱きながらも、新しい春巻きを口の中に入れようとした。しかしその手は春巻きを掴むことはなかった。「ご馳走様っ」「あーっ!? おくう!!」 いつの間にか、この一瞬のうちに、空が春巻きを全て食べてしまっていたからだ。そのままお燐が空の口から春巻きを出そうと躍起になって取っ組み合いという名のじゃれ合いを始めるのを見ながら、さとりは縁に見せたこいしの笑顔と、縁に一瞬向けられていた空の心境の表層を思い出し、そして本来の自分の目的があったことを思い返し、ふぅ、と溜息を吐いた。「ふ……随分と調子よさそうだねぇ、ご飯をたかられてるだけとも知らずに」「そういうお前らは随分と調子悪そうだな」 西区の復興作業場、その集会所となる仮設テントにこいしを背中に乗せたまま訪れた縁を迎えたのは、尻に一升瓶を刺したまま皮肉気な口調を吐き出すカドルを筆頭とする、酒飲みたちの夢の跡とでもいうべき、どうオブラートに言うおうとも隠しきれぬ死屍累々の光景であった。 カドルの両脇には樽の中にストローのように上半身が刺さったまま沈黙しているダンとカニス、そして人型の妖怪の中に沈んでいる十一の姿があった。おまけに、むせ返るような酒気。思わずしかめ面をしてしまうほどだ。「う~ん、どうしたのぉカドル?」「こ、こいし様……こ、これには深いわけがありまして……」「な~に言ってんだい。そもそもあんたらが自棄酒に付き合えっていってきたんじゃないか」 テントの外からの声にそちらを振り向くと、眼元に隈を作った勇儀が髪に水を滴らせながら入ってきた。その服もいつもの白い無地の、機能性を追求した簡素なものではなく、全体的に余裕を感じさせる薄い青の上着だ。顔を洗った様子だが、よっぽど酔っていたのか、その声には未だ不機嫌な酒気が混じっている。「聞いてくれよご両人。こいつらったら昨日の夜突然ここにきて『俺たちのこいし様が大人になっちまったぁぁ!!』なんて叫びながら『雷電削り』の『SOM割り』なんてものを持ち出してきやがったのさ」「何か、名前はよくわからんけど雰囲気からしてヤバそうだな……」「まったくだよ、さすがの私だってSOM割りを十杯もやるのは御免だよ」「いや、聞くからにヤバそうなのを十杯もいけるあんたもスゲーよ」 縁の言葉に何かを返そうとした勇儀であったが、しかし欠伸によってそれは遮られ、時を同じくして顔を地面へと落とし、完全に沈黙するカドル。そのカドルに刺さる一升瓶をこんこんと指でつつくこいしに「ばっちぃから止めとけ」と言う縁は、同時に今のまま仕事に移れるのかと疑問に思っていた。 そのことをそのまま口から吐きだし、眠たげな現場監督へと問いかける。「なぁ、今日は仕事できんのか? まぁ、見るからに全滅なんだけどよ」「あふ……あ~もうこりゃダメだよ。今日は休み、幸い昨日までにはめぼしいとこまでは片付いたから、区切りはいいさ。それじゃ、解散、私は家で寝る」 それだけいって勇儀はふわふわと危なげに飛び立った。ここはどうすんだよ、疑問の声を上げようとしたが、しかしその疲弊した顔を見ると余計な心労をかけるという気にもなれず、そのまま見送ってしまう。 そして残されたのは、空の一升瓶を筆頭としたゴミの山と二日酔いを併発してうなされながらも眠り続ける妖怪たち、今この場にきたばかりの縁とこいしだけであった。こいしがカドルの尻から一升瓶を抜き差ししながら遊んでいるのを傍目に、縁はこの状況を見てどうしようかと溜息をついた。「とりあえず……軽く掃除するか?」「ん、どうして?」「いや、何か……習慣?」「ん~変なの~、けど私も手伝うよ」「お、悪ぃな。後で何か奢ってやるぜ」「ほんと!? それじゃあねぇ……」 目を輝かせて様々な食べ物を想像しているだろうこいしに、選択を誤ったかと冷や汗をかく縁であったが、しかし今はもう掃除すると決めた以上、それをしながら対処を考えようと思考を逃避させ、目立つゴミを一か所に集め始めた。こいしもまたそれに倣い、頭の中で何を要求するかを考えながら、縁の後ろのちょこちょことくっついて回り、同じようにゴミを回収していった。 その作業は灼熱地獄での指示を終え復興作業の手伝いに空たちが来るまで続き、二人が降りてきた時には丁度粗方のゴミをテントの中にあった袋に纏め、空(から)の一升瓶を一か所にまとめた後だった。倒れた妖怪たちについては、明らかに身体の構造に悪い態勢のものだけ寝かし直し、他はそのまま放置である。 その二人のテキパキとした動きに、たった今来たばかりの空と燐は、テントのいくらかマシになった惨状を見てポカンと口を開けていたが、しかし空がうにゅぅ、と頭を抱え、疑問をそのまま口に出した。「え~~~とぉ……二人とも、何してるの?」「見てわかんねぇのかよ。掃除……つーか酒飲みたちの後始末してたんだよ」「は、何でよ? 人間がやる意味がわかんないわ」「そりゃ、なんつーか……こっち来てから掃除ばっかやらされてたからね、こういうスゲー汚れてる場所見てるとつい身体が反応しちまって……」「あ、それがさっき言ってた習慣だったんだ」「わかってなくて手伝ってたのかよ!?」 コップをテーブルの端にまとめたこいしが今更なことを口走ったことに対して思わずツッコミを入れてしまった縁であったが、「気にしな~い気にしな~い」などと無意識の少女は鼻歌でも歌う調子で別のゴミを取りにいってしまった。残された人間はとりあえずこいしのマイペースに慣れたのか、一度溜息を吐いて作業を再開しようとし、未だに口を半開きにしたままの二人に対し目を向ける。「つーかお前ら、そこでぼうっとしてるなら少しは手伝ってくれよ」「むぅ、何であたいたちが……」「こいしだって手伝ってくれてんだぞ」「う………」 そこで空と燐はちらりと互いの顔を見て、そのまま寄せ合い、縁へと背を向けた。しかしすぐに縁と、その背後でちょこちょこと働くこいしを見て、互いの困惑とした感情を小声で吐き出し始めた。無論、距離を離し、縁にも聞かれない距離だ。「ちょっとおくう、誰あのこいし様? 偽物?」「ちょ、ちょっとお燐。さすがにそれはヒドイよ。いくらこいし様が今まで働かなかったからってさすがにそれは……」「けどねぇ、さすがにアレは……」「きっと縁が言ったからじゃないかな? こいし様、アレ以来縁に、その、べったりだし」「そうよねぇ。今朝だってあいつの寝床に潜りこんでたらしいじゃない、いくら何でも……て、ちょっとおくう、抑えて、抑えて!!」「……うにゅ? 何が?」「え、今の無自覚? ……別に隠し事もできないわよねぇ、⑨だし」「何か知らないけど⑨っていうなぁぁ!」「お前ら、内緒話で喧嘩するならテントの外でやれ!」 そのまま弾幕ごっこになりそうなのを縁が察知、二人をそのままテントからヤクザキックの要領で追い出した。しかし二人もこのまま待っているのは嫌なのか、それとも本当にこいしが偽物かどうか確認したいのか、すぐに戻ってきて掃除の手伝いをし始めた。作業人数が二人から倍の四人になったことで効率も上がり、また動きにくいところは宙に浮かびながら作業を行うことで滞りもなく、掃除自体はそれからすぐに終わってしまった。 そして、無駄に何もすることがなくなってしまった時間。しかしそれこそ縁には願ったり叶ったりの状況であった。 離れた位置からでも聞こえるテントの中で妖怪たちがうなされている声をBGMに、縁は瓦礫などが粗方撤去されたことで開いた空間に立ち、目を閉じ、全身に力を巡らせていた。力とは、有機質ではない右腕を通して現れたあの第三の腕を構成するものと同じもの。意思と魂の構成要素であり繋がるもの。腹式呼吸の要領で、血管にその力、教えられた名を霊力というそれを、空気と一緒に体中を巡らしていく。右腕にもそれが溶け込もうとするとき、あの藍色の巨腕が現れそうになるが、今回は用は別にあるので、それを抑え、ただ単純に右腕への霊力へと戻していく。その時、右腕の内側と外側とが、まるで皮一枚を無理やり乖離させ二枚にするような、痛みとも言えぬ感覚があったが、それを思考の隅に置いておき、教えられた工程を踏んでいく。 霊力が満ちる。妖怪たち、勇儀を筆頭とした、力の扱いに長けたものたちに聞いた、人間にも応用できる力を制御するための修行法の一つである。ただ単純に全身に妖力、人間である縁であれば霊力を全身に廻らせたまま、そのまま何もせず循環させ続ける。その循環速度、及び密度を徐々に高めていき、霊力の基本的なコントロール法を学ぶ、というものである。 こいしとの戦いの時はガムシャラに、無自覚に霊力を使い、結果として右腕だけに集中する形となっていた縁は後になってようやくその存在と名前を教えられ、今現在はそれの制御方法を学び、『飛行』という人間にはあり得ない現象を本当にできないかと思考錯誤を繰り返している段階である。 目を閉じたまま、霊力の流れを周囲の空間にわざと零し、自分と空間との間に繋がりを持たせようとする。その瞬間、循環の環が不用意に乱れ、縁の集中と霊力の流れを混乱させる。仮設休憩所として置かれたベンチの上に座り縁の様子を見ていた三人も、その変化に気づいた。 顔を顰める縁は周囲へと霊力を流すのを止め、循環を元の状態へと戻すよう働きかけることに集中する。その折、いや集中するという行為によって右腕への制御がおろそかになり、第三の腕が顕現した。その瞬間、循環の環が第三の腕に引っ張られ、ごっそりと霊力を持って行かれるのを理解する。 ただ無意識に出すのならいざ知らず、意識的に霊力をコントロールしようとしている現在、霊力を通すだけで出るようになってしまった縁の弾幕は、目の上のタンコブであった。 第三の腕を何とか霊力の流れに還元し、元の循環にようやく戻すことに成功する。そこで縁は一旦息をつき、コントロールを無意識へとバトンタッチする。いつの間にか汗をかいており、秋も暮れてきた現在、乾燥した微風が心地よかった。「ふ~ん、力の制御は元々センスよかったけど、そっから大分上手くなったわね。けど、飛ぶってとこにいくまではまだまだね」「ぐ……まだだめなのか?」「まぁねぇ。やっぱあんたは経験不足なのよ。このまま霊力をコントロールしてくのもありだと思うけど……何よりあんた、何でもいいから空を飛んだり宙に浮いたりしたっていう経験とかないのぉ?」 地霊殿の中でも妖力の制御に優れている燐の指摘に、縁は呻くだけだ。燐は先日の一件以降、基本は空と一緒ながらも、縁とそれなりには話すようになり、縁が他の妖怪に教えを乞うていることを聞いてその教える一員になっているのであった。もっぱら、縁が仕事の後や起きた直後、そして空いた時間でしか練習をすることができないので、その時に時間が合えば見る、という具合である。 なお、空は人に技術を教えるのはヘタな上、殆ど力任せに制御している節があるので自分が使う分ならまだしも教えるのは無理。こいしは無意識で妖力を使っているので論外。さとりに関してはそもそも弾幕ごっこが苦手らしく、しかもこと妖力の制御ならさとりより上手な燐がちょうど教えると言った直後だったので、辞退という形となった。 「そんなんある方が珍しいっての……落ちた経験ならあるけど」「? ま、いいわよ。じゃ、飛ぶのは一旦……」「ちょっと待ってお燐。縁ちゃんは空さえ飛べればいいんだよね?」 燐の言葉を遮ったこいしがベンチから跳ねるように立ちあがり、とてとてと縁の元へとやってきて、その背後に回った。その様子に、縁は何故か嫌な予感がした。「せ、正確には空を飛ぶイメージがあれば、ですけど……」「え、えーとぉ……こいし様ぁ、いったい何を……」「もちろん、飛んでくる!」 笑顔で言うが早いが、こいしはふわりと浮かんだかと思うと、そのまま縁の両肩に手を回し、その高度を上げていく。「ぬわーっ!?」と叫ぶ縁の、いきなり地面から足が離れ、重力の抱擁から逃れるという奇妙な体験による混乱など知ったことではないと、更に速度も速める。 地霊殿の屋根ほどの高さを超えるのもあっという間、こいしに引っ張られるように空へと浮かび上がった縁は、元の世界ではヘリでしか見られないような、しかしそれよりも遙かに危険で安全な、そして現代では存在しない光景に目を奪われていた。 地底中を一望できるほどの高さ。しかしそれは、以前地霊殿や勇儀の家から見たものとはまた違う、前後左右、足下全てが生きているものたちが築き上げた街並みが広がっているのだ。先ほどまで自分がいた場所がもはや箱庭の中の一部であるように見えると、感慨深いものがあった。「すっげぇ……な……」「うん、何が? あ、それより縁ちゃん、そろそろ手ぇ離していい?」「え、ちょっ待てタンマ!? 今離したら死ぬ! 落ちて死ぬって!!」「え~、けど縁ちゃんもう飛ぶ感覚わかったでしょ~。それに以外と面倒くさいし……死んじゃったらわたしがずぅっと閉じ込めとくし……」「最後の小声で言ったのはどういう意味だーッ!?」 そのままバタバタとこいしに掴まれたまま声に連動して動くが、しかしこいしの姿を確認しようとして上を見上げた時、いつも縁を見下ろす巨大な穴の存在に気づいた。妖怪たちがよく通るのを飛べない縁は地上から見るしかない、地獄の深道。こいしもそれに気づいて、上を見上げた。「なぁこいし。せめてあそこまで連れて行ってくれないか?」「ん、別にいいけどぉ……縁ちゃん、もう地上に行きたいの?」「いや、とりあえず下見だけ。地上に行くのは、せめて自力で空を飛べるようになってからだ」「……そっか。うん、わかった」 一瞬、縁に見えぬように顔を背けたこいしは、しかしすぐに朗らかに笑うと、縁を掴んだまま更に高度を上げた。そのまま何事も、会話もなく深道の入口へと至る。 地上から見えたとおり、また想像通りではあるが、まるで地上にそのまま通じているかのように広く長い縦穴だ。しかしその道は曲がりくねっているのか地上からの光は見えず、代わりに外縁部にある無数の横孔から、そこに住む妖怪や動物たちが目を向けてくる光だけだ。 横穴には幾つか看板が打ち付けられたものもあり、その中に『この先、迷宮と地底湖』などというものもあることから、居住区である以外にも何処かしかへの入口となるのもあるようだ。「ふ~ん、結構人気もあるんだなぁ……こいしはここに来たことあるのか?」「ん~と、たぶん、地底に降りたときだけだと思う」「そうか……じゃ、探検するか?」「あっ、それ楽しそう! けど縁ちゃん抱えたままってのはなぁ」「だったらそこらの横孔にでも一旦……」 縁がそうやって、誰もいないだろう横穴を指さした時だった。「……珍しいわね、人間が、妖怪に捕まってこんなとこまで降りてくるなんて」 不意に頭上からかかった声。こいしと縁が同時にそちらに振り向くと、腕を組み、肩口まで伸ばした輝く金髪を縦穴に吹く風になびかせる、見るからに年上とわかる女性が浮いていた。藍色と茶色の和装の上着と、白く太い線が走る青のスカート。アームガードのようなもので覆った腕の先についた手は白く、その指先にスペルカードを持っていた。白いマフラーをたなびかせる顔には、サファイヤと同色の、しかし深い色をし、胡乱気なものを浮かべた瞳があり、縁たちを見下ろしていた。 縁は一瞬、降りてくる、という単語に疑問符を浮かべたが、しかしすぐにスペルカードの存在を認め、誤解を解こうと口を開いた。「ちょっと待ってくれ。俺は地底から、この子に頼んでここまで飛んできたんだよ。だから、地上から降りてきたわけじゃない」「地底から? もしかしてアナタが、あの喧嘩の時の人間? たしか……ウミグニカメオだったかしら?」「全っ然違え!! 中邦縁だっ! で、こっちは古明地こいし!」「知ってるわよ、ただのジョークよ。有名だもの」「有名人なんだ、縁ちゃん」「……らしいな」 縁とこいしが些細なことに顔を寄せて話し合う間に、クルクルと指先でスペルカードを回す女性は、じろりとこいしと縁を舐めるように見、次いで街の方を見下ろして、ふんと鼻を鳴らした。そしてまた縁に顔を向けると、スペルカードを指に挟み、突然の好戦的な構えに驚く縁たちに突きつけた。「アナタ、ここを通りたい?」「え、いや、いづれは通るって気持ちだけど今は……」「そっ……なら、今から弾幕ごっこをしましょう。アナタが勝ったらここを何時でも好きなだけ通っていいわ。ただし負けたら通行禁止よ」「なっ! ちょっと待てよ、いきなりそんなこと言われたって! 理由はなんだよ!?」 突然の一方的な宣戦布告に縁は眼を見開き、こいしに持ち上げられているのも忘れて、女性に噛みついた。しかし女性は澄ました顔をしたまま、妖力を高めていく。「理由? そうね……人間のアナタにわかりやすいものを挙げるなら、私がここの守護者であるから。そして本当の理由は……」 そういって名も知らぬ女性はスペルカードを放った。縁が反応するよりも先に、無意識を察知でき、かつ妖怪であるこいしが縁の体を抱きよせる。その瞬間には、スペルカードは光を発し、後はその名を告げることによって、顕在する直前の状態へと移行していた。「アナタとアナタの周りが妬ましいからよ。『妬符「グリーンアイドモンスター」』」「縁ちゃん、掴まってて!!」「うわっ!?」 こいしが縁の背中を抱きしめるようにしたまま、体を上昇する。その直後、進行方向に緑色をした弾幕の帯が出現し、こいしは止む無く急停止、するのではなく身体を捻り、その隙間を通り抜けようとした。しかしそれを出来るのは、こいし一人の場合のみ。「っ、こいしっ!」「あ、縁ちゃんっ!?」 縁は体がこいしに追従するように曲がった瞬間、そのままこいしが何をするかを察知し、右腕に霊力を通す。第三の右腕を顕現し、自分とこいしを守るように掲げた。 その状態のまま、帯の中へと突入する。こいしは僅かしかない隙間をすり抜けるよう、そして縁はその隙間からはみ出すように出ている弾幕にこいしが当たらぬよう、自分の弾幕が触れるのを厭わず腕を掲げ続ける。そして、帯から抜けだすころには、縁の服はいつぞやよりはマシだが、再び裂けた状態になっていた。「くそっ、いい加減新しいのを買うのが早いって!」「ご、ごめんねっ縁ちゃん」「今は謝んなくていいっ、くるぞ!」 縁の視線の先では帯が次々と、まるで虹の橋が泡ができるように出現していき、その緑の弾幕がカーブを描きながら縁たちへと向かってこようとしていた。「悪いけど、こいし。俺は飛べないから、その、このままどこか地面のある場所に離して、お前だけ先に降りててくれ。そうすりゃ、あの人は俺だけが目当てっぽいから……」「やっ!」 こいしは縁の言葉を遮ると、後ろから強く縁を抱きしめた。女性が顔を顰めているのにも気付かず、こいしは縁の耳元で囁く。「わたしは前に縁ちゃんに助けてもらったんだ。だから縁ちゃんを置いてくなんてできないよっ。このまま一緒に戦う!」「こいし……」「茶番はそこまでよ。二人で戦うってなら、さっさとしなさい」 女性が悪態を吐き捨てるように言葉を投げると同時に、帯の生成速度が速まり、結果としてこいしたち目掛けて迫るスピードが上がった。しかしこいしはそれを見ていて、横へと飛ぶ。「わたしが飛ぶから、縁ちゃんは弾幕で戦って。もうさっきみたいなことはしないから!」「……わかった、頼む。いきなり名乗られもせず喧嘩振られたんだ、仕返ししてやろうぜ!」「うんっ!」「何だか悪役みたいね、私……」 縁とこいしが二人で話に決着をつけている間に、女性はスペルカードを制御する手とは反対に、もう一方の手を差し出す。そうしてそこから五つの光球を作り出すと、手の中で先端を尖らせ、指の間に挟み込み、振りかぶる。「まあいい、わっ!!」 投てき。その先は、こいしが飛ぶ進行方向。こいしはあえてそこに突っ込もうとするが、しかし縁を抱えていることに気づき、急ブレーキ。しかし背後から緑の弾幕が近づいていることも察知し、真下へと向かう。縁はその突然の方向転換に三半器官と内臓を揺さぶられるが、しかしこいしを信じて耐える。 女性は再び眉をひそめた。それに気づいた縁は、縁の心を読むさとりの姿を思い出し、重ね、その直後に縁への直撃コースだったそれを、再びこいしの急停止で回避して、疑問を吐き出す。「おい、いきなり人に喧嘩売る理由が妬ましいの一言ってどういう意味だよ、答えやがれ!」 少女の姿をした妖怪に抱きかけられたまま叫ぶ人間の姿に女性はある種の情けなさを見ながら、しかし妖怪を理解しきれてないだろう人間に対し、だが妖怪とこうまで信頼関係を築けたことに対して興味という好意を持って、それに応えることにした。無論、スペルカードの制御は怠らない。「……私の能力は嫉妬心を操ること。けれど、嫉妬ってのは誰かとの間、何かとの間でしか起こり得ないわけ。だから私は限定的だけど、そいつが誰かをどう想ってるかわかってしまうのよ……おかげで、他人のいいとこ悪いとこばっかり見て、妬ましいということだけが膨れ上がってしまっているの、よ!」 再び通常の弾幕を投げる。しかしこいし/縁はそれを回避。第三の腕を巨大化させる。「つまり、嫉妬してるってだけかよ!」「ま、そうよ」「だったら嫉妬なんかしてないで、あんただって遊べばいいじゃないか!」「その遊びが、これってこと」「ざっけんな! こいし、あいつに向いてくれ!」「う、うんっ」 こいしが帯を一度切り返し、交差するように避けたところで、縁は右腕を振りかぶる。第三の腕は変化を終え、ロケットパンチの形となり、回転を開始していた。女性が顔をしかめ、その手に弾幕を生成、この一瞬、動きを止めている縁とこいしに対し、ダーツのように投げ放った。「だあっ!」 まったく同時に、縁は第三の腕を射出する。無理な姿勢で、かつ空中であるがために力の全てを乗せられなかったそれは、女性のそれと衝突すると、ひび割れたと思った瞬間に砕けちってしまった。しかしそれは向こうも同様、一か所に集中するように投げられた弾幕を破壊されていた。 だがそれでも、女性の気だる気な目つきは変わらない。「どうしたの、その妖怪に勝ったんでしょう? それともそこの妖怪が実は弱かったの?」「むぅ、わたしのことバカにしてるっ!」「にゃろっ!」 縁が再び第三の腕を生みだすと同時に、帯の接近に気づいたこいしが再び移動を開始。その時、縁は何事かをこいしへと囁き、こいしはそれに一瞬気を取られ、帯に掠ってしまう。すぐに体勢を立て直し、帯と距離を取りながら縁へと再確認。そして頷き、上へと飛ぶ。「なんのつもり……?」 女性は帯を追跡させながら、再び弾幕を、今度は数を増やして、その先へと放る。それを確認した瞬間、縁は叫んだ。「今だ!」 その叫びの直後、こいしは縁を高々と放り投げた。その軌道上には女性が投げた弾幕があるが、しかしそれも先に飛び越えているのなら意味のないものだ。帯はターゲットが二つに別れたことで一瞬迷走するが、すぐに女性は帯を制御、弾幕ごっこを買った人間へと、その落下予測位置へと潜り込ませようとする。 しかしそこで彼女は、縁を運んでいた妖怪の存在を失念した。いや、突然に行動によって、させられていたのだ。「やぁ!」 縁というデットウェイトがなくなったことで自由となったこいしの両腕が振るわれる。途端、女性の周囲を覆う様に花弁の如く開く弾幕が生じ、女性の動きと意識を制限する。舌打ちをし、回避と迎撃に集中する女性、こいしはさらに女性の動きを封じるべく、弾幕を増やし続ける。「『螺旋「スパイラルファントム」』!!」 そしてまた縁も、落下をしながら帯を突破するために、いや、こいしに動きを止めてもらった妖怪目掛けて、自らの持つ唯一のスペルカードを取り出し、発動する。 金髪の妖怪は気づいた。これが、こいしへと一旦目を向けさせ、更にその弾幕で気を取られ、そちらが本命と意識を向けた瞬間、本当の本命である縁がスペルカードで強引に『グリーンアイドモンスター』を突破し、一撃を与えることだと。 しかしそれに気づいたのは、縁の作りだした仮想の巨大削岩機が、帯を切断しながら突破し、女性のスペルカードを捉え、その反発力を強引に押切り、そのまま車にでも轢かれたように外縁の岩肌へと吹き飛ばされた時だった。 女性を弾き飛ばした縁はすぐさまスペルカードを解除、縁の落下位置へと予め回りこんでいたこいしに受け止められ、しかし一度勢いを殺すためぐるりと回って、元の態勢へと戻る。そして二人して、女性が吹き飛ばされ、叩きつけられたであろう岩肌へと目を向ける。そこは今、スペルカードの破壊の余波なのか、岩から巻き上げられた濃い埃と砂の煙によって遮られ、女性の姿を確認することができなかった。「やったか……」「きっとダメだと思うよ。縁ちゃんのセリフ的に」「ここでそういうこというなっての!」 一瞬解れた緊張感が、こいしの無意識な言葉に対しツッコミを入れさせた。その瞬間を狙ったかのように、煙の中から、スペルカードを発動する光が差した。そして、それを宣言する声も。 舌切雀「大きな葛籠と小さな葛籠」』「ほら言ったとおりだよっ」「んなこと言ってる場合かっ!」 煙の中からそれを吹き飛ばすように、薄い膜に包まれた巨大な緑の大玉が大量に撃ちだされ始めた。こいしはそれに即座に気づき、すぐに回避行動をとるが、その途中に煙が晴れた位置から無暗矢鱈に弾幕を展開し続ける女性の姿に気づき、しかし彼女がまったく動かないことにも気付いた。縁もそれ気づき、チャンスだと、第三の腕に霊力を集中させようとした。「縁ちゃん、いけるよ!」「わかった、突っ込む!」 この時縁は、なぜか悪寒がしていた。このまま突っ込むのではだめだと、そんな感じがしたのだ。しかしそれはこいしの無意識とはまた違う直感、不確定要素だらけのものだ。また、縁自身、これで終いにするといき込んでしまったのだ。第三の腕を肥大化、ただ射出するだけでは、先ほどのように弾かれるだけだ。ならばと、こいしにもその意志が伝わり、突撃姿勢をとる。 そのまま、突貫。こいしが最小限の動きで弾幕を避けるのに任せて、縁は右腕をいつでも振りかぶり、スペルカードに叩きこめるようにする。そして、女性の頭上を取る。女性は動かない、縁とこいしを見上げるだけだ。先ほどとは打って変わって、虚ろな目で。「これで、終わりだぁっ!!」 そして右腕を振り落とし、第三の腕が女性を捉えようとした。その瞬間、女性の全身から、弾幕の溢れだした。驚愕の声を上げる暇すらなく、振りかぶった体勢のままの縁と、それに張り付いていたこいしはその弾幕の波に飲まれるような勢いで被弾していき、吹き飛ばされ、離れ離れとなる。 そうなれば宙を飛べも浮かべもしない縁はただ落ちるだけだ。こいしの時ほどではないが、しかし常人の痛覚を持つ縁には、至近距離からのマシンガンパンチの衝撃は意識を揺さぶるには十分だ。そのまま体勢を整える間もなく落ちていこうとする縁。「はい、私の勝ち」 そしてそれを片手で受け止めたのは、弾幕を一切出していない金髪の女性だった。縁は眼を見開き、首を強引に回して今まで自分が正対していた女性を確認しようとした。未だ、いる。もはや弾幕は出していないが、たしかにいる。そして視線を元に戻せば、縁を受け止めたもう一人の女性。「な……」「何がどうなってるかって? それは簡単よ。私の姿形に見立てたデコイを配置し、私という本体はあなたたちがデコイに気を取られている隙に、弾幕に紛れてここまで来ただけよ」 そういって女性は、周囲に浮かんでいたスペルカードの光を消した。その瞬間、残っていた岩肌の女性の姿は消え、地獄の深道は静寂を取り戻した。 やられた、と縁は心の底から思った。縁の中に分身をする、というスペルカードの概念がなかった故に、そのようなものに対する警戒心がなかった。しかしそれを差し引いても、デコイに弾幕のトラップをしかけ、かつ自分自身はデコイの巨大な、身を隠せるほどの攻撃に紛れて後ろに潜み、攻撃のタイミングを待っていた。先ほどのこいしとの即興合わせ技などではない、戦術の領域の技術だった。 そうして内心で関心していると、わずかに体を汚しただけのこいしが、ぎらりと女性へと目を向け、スペルカードを取り出していた。だが女性は相変わらずの顔で、冷静沈着とも言える声で、それに対応する。「縁ちゃんっ!」「ああ、心配しなくても大丈夫よ古明地の妹さん。けど、勝負は私の勝ちね」「ぐ………」「わたしはまだ戦えるよ!」「だめよ、今ここで私が彼を離したらどうなるか、わかってるわよね?」「う……」「ふふ、素直でよろしい」 縁、こいし、両者ともに撃沈。女性はここでようやっと口元を緩めると、不意に何かを思いついたのか、縁をぐいと持ち上げ、その肩に手を回して落ちないように固定すると、そっと顔を寄せた。 その突然の行動と、美女の顔の接近に思わず顔を赤らめる縁。朝にこいしの顔を間近で見た縁であるが、しかし目の前の女性は、また別の魅力を持っていた。いうなれば、引きこまれるような色気、というべきか。吐息にかかれば、まるで食虫植物の匂いを嗅いだ虫のように、不可抗力的にそこに入り込んでしまうような、どこか危なげな空気の、しかし抵抗し難い魅力。縁はそこまで考えて、ごくりと、今まで喧嘩腰で戦っていた相手に対し唾を呑みこんだ。どこかで、びしりと何かに罅が入る音が幻聴として響いた。「それにしてもアナタ、噂通り面白かったわ……そういえば自己紹介がまだだったわね、水橋(みずはし)パルスィよ」「えあ、は、はい……」「ふふ、急に畏まるのね……とりあえず、私の勝ちだからここは通さないわ。けどね、私に勝ったら通してあげるのはこれからも一緒。ただし、今度はあなた一人でここまでこれるようになってから来なさい」「い、言われなくてもわかってるっての!」「あら、顔が真っ赤ね……そうね、今、面白い条件を一つ思いついたわ。アナタ、私の家で主夫やってみない?」 そこで女性、パルスィはちらりと横目でこいしを見た。そしてこいしの様子に顔を満足げに微笑みと、また縁に近づいた。縁の顔は、シリアスな戦いの後だというのを忘れたように、真赤になる一方だ。こういう経験は今までなかったからだ。またどこかで、ビキビキと何かに罅が入る音がした。「しゅ、主夫ぅ?」「そ、家事その他をアナタがやる。その代わりアナタは私が責任もって地上に連れていくわ。これでどう?」「い、いやそれ、結局はあんたの家に住まなきゃいけないから意味が……」「大丈夫よ、ちょっとの間だけ……けどその間」 そうして、パルスィは縁の耳元に顔を持って行き、甘い菓子のようにねっとりとした声で、囁いた。「たっぷり可愛がってあげるから」 縁の顔が更に赤くなり、青少年特有の妄想が一瞬にして脳内に沸き上がりイメージ映像となった。そしてついに、ひび割れの幻聴は、崩壊、いや爆発のそれへとなって、現実へと現れた。「え~に~し~ちゃ~ん~~の~~~~~っ!!!」 殺気、と思って縁がこいしの方を向いた瞬間には、時既に遅く、そこには意識と無意識の衝突と崩壊をしようとしていた時よりも、遥かに恐ろしいオーラを纏ったこいしが、その手に八枚のスペルカードを持って、その全てを発動させようとしていた。否、今にも発動するのを強引に抑えている、という暴発を超えた恐ろしい状況であった。その状況にも関わらず、パルスィはほくそ笑み、縁は逆に顔を赤から青へと変えていく。「ちょ、ちょっと待て、何でお前がそんなに怒ってる……て、ごめんさすがにその量はマズいってーの!!」「ふふ、計画通りね」「何か知らないけど計算付くかよこんちくしょー!!」「ドスケベぇぇぇぇぇぇ!!!!」 弾幕が放たれた。パッ、とスペクトルの輝き。それだけだ、それだけとしか言えない弾幕の密度。パルスィは直前に縁を離し離脱し、残された縁にそれを受け止める暇もなく、甘んじて受けるしかなかった。悲鳴は弾幕の光にかき消され、その光が収まる間もなく、縁は重力の網に再び引っ掛かり、そのまま目を回しながら落下をしたのだった。 こいしにもうそれを追う気持ちはないのか、ふんっとそっぽを向いてしまい、パルスィは「ああ、妬ましいのが晴れたわ」と縁を虫を弄った後の猫のような目で見下ろしながら微笑んでいた。 そのまま哀れ、縁は地面と赤い花を咲かせてキスをしようとするかもしれない矢先、地上から何かが縁向かって飛んでくるのが見えた。「え~に~し~!」「う、うつほ……た、助かったぁ」 縁はそこで正気を取り戻し、安堵しようとした。しかし気付かなかった。こいしが何も知らない空が縁を助けようとして昇ってきたのを確認したのを、そして彼女に今ありのままに起きたことを伝えるべく、無意識を操る能力を存分に使って縁の横に来ていたのを。「いったいどうしたの! 何だか二人で飛んでいった時はこいし様がいるから大丈夫ってお燐がいってくれたけど、けど心配で待ってたら突然地獄の深道の方で弾幕ごっこの光が見えて、えっとそれで一際おっきな光の後に縁が落ちてくるのが見えて……」「お、落ち付いてくれ! とりあえず先に俺を……」「止めなくていいよおくう。縁ちゃんがすっごく綺麗な妖怪にでれでれ~になって、そのせいで弾幕ごっこに負けちゃったんだから! これはその罰ゲームなの!」「あ、こ、こらこいし! 何ねつ造を……」「……ふ~~~ん」 真っ逆さまに落下する縁は、同じく落ちながら話している空が、突然低い声を出したことに悪寒がした。今までで最大の恐怖、それが今、空から放出されている。重力とは逆さまなのになぜか湧きだす汗が頭から頬に流れていく。 ギギギ、とブリキ人形のように空の方を見ると、そこには何かの黒い熱を後光のように背中に背負った空が、冷たい視線を縁に向けていた。朝に向けられたものとはケタ違いの密度。しかもこいしからも空よりも小さいが似たようなものが発せられているので、負の圧力のサンドイッチ状態である縁の精神的なストレスとダメージは計り知れなかった。「う、うつほ……さん? は、話を聞いてくだ……」「こいし様、その妖怪ってどんな感じでした」「金髪で、スタイルがよくて、すっごく大人な感じ!」「へーほーふーーん……」 落ちているせいで縁には強風が吹き当り、寒いはずだった。しかし今、それよりも寒い、絶対零度の如き視線がぶつけられ、その強風を味わう余裕は、縁には存在しなかった。 不意に、空は笑った。縁もそれに釣られて、ひきつった笑みを作ってしまった。「ねぇ、縁ぃ。もうちょっと飛ぶって経験すれば、後でイメージしやすいよねぇ?」「え、あ、それはどうだろうなぁ……ははは、どうしたんですか空さん、そんな右足に妖力を集中させて。さすがにまさかそれは……」「それじゃ、ちょっと逝ってみようか~」 振りかぶられる右足。その射線上から退避するこいし。縁の落下軌道上に待機する空。そして、もはやただの人間ボールと成り果てた縁。「字が違うってさすがにそんなツッコミをする前に何か知らんがすまんかっ……」「縁のぉぉぉ、バぁぁぁカぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」 縁はこの瞬間誓った。絶対に自力で空を飛んであの嫉妬心ではなく悪戯心を操る妖怪を叩きのめしてやると。そして、二度と地底に自分の涙で出来た流れ星を生み出さないと。 縁はそう固く固く誓って、最後にどうやって空とこいしの機嫌を直そうか考えながら、地底に住む幼い妖怪たちの願い星となった。「……まるでファルスね」 地上に一人残っていた燐が、地底に駆ける流れ星を見上げながら、誰に言うでもなくそう呟いたのは、また別の話である。 あとがき 最近理想郷にも東方SSが増えてきましたね。穴<いい傾向です。 前回が「中島かずき先生ごめんなさぁぁい!!」の回であったなら、今回は「西条真二先生&赤松健先生ごめんなさぁぁい!!!」の回でした。読者の方々もマジごめんなさい、やはり作者にはラブコメとかほのぼのの才能が皆無です。あと、話を作る能力も……orz<ウツダシノウ とりあえず今回は言い訳が多いです。まずお燐が妖力の制御が得意ってのは、地霊殿の中で唯一、自分のパワーアップ方法を言っていたこと、自分の力で猫への姿になれる事からの推測です。 穴<いわゆる独自設定です。 パルスィがお色気姉ちゃんなのもそんな感じです。どうにも作者の脳内ではパルスィはこんな感じだったので…… そして今回の一番のあれな部分。餅焼き職人と化してしまったおくうですが……すんません、何度書き直してもおくうがこうなってしまい、もうヤケになりました、サーセンorz しかもやらんといっていた戦闘……ああくそう、しばらく先が恋しいぜ……その前に(現実が)ここからが本当の地獄だ……(レポート的な意味で) よくわからんけど追加してみたい設定: SOM割り: 名水、SOMで酒を割る手法。SOM自体は古い湧水からしか汲み取れないので、実は稀少。SOM自体、酒との相性はかなりよく、特に『雷電削り』や『怒尾挫阿』『鬼畜王小龍』などは他の酒よりもマッチする。ただしその分アルコールの回りは速くなるという副作用のようなものがある。 尚、SOMが何の略かは近くのコジマ汚染患者に聞いて欲しい。ドミナントとの約束だ!