華琳は、テーブルの上にほっぺたをくっつけて、『へにゃ』っとなっていた。 両手両足を伸ばして、完璧にくつろいでいる。俺の国でこんなものがある、と言ったら次の日には完璧に再現されていた掘りゴタツに座って、天下に名だたる勇将たちが、これからの方針を話し合う場だった。 あれから半月ほどたって、俺の怪我はほぼ完治した。優秀な医者がいるおかげだった。『元気に、なれぇぇぇっっ!!』と叫ぶやたらテンションの高い兄ちゃんであって、今は曹操軍で専属の医師をしているようだった。 そして、俺の境遇に話は移る。 あれから正式に、俺は曹操軍の将軍に、そして荀彧は軍師にとりたてられた。華琳は荀彧の策に目を輝かして、私以外に、こんなバカな策を考えつく人間がいたなんて、とえらくご満悦だった。それもそれでどうかと思う。──あとはそうだ。俺は、夏侯惇将軍の真名を呼ぶことを許された。試合という形式とはいえ、一騎打ちで勝った末であり、本人からも文句は出なかった。 会議の机上だ。 席次は、華琳の両翼に春蘭(夏侯惇の真名)と秋蘭(夏侯淵の真名)が並ぶほかは、特に決められてはいない。 だから、席を右から順に、ぐるっと見てみると、 華琳(曹操、総司令官)、 秋蘭(夏侯淵、第二将軍)、 桂花(荀彧、軍師)、 俺(北郷一刀、第五将軍)、 春蘭(夏侯惇、第一将軍)、 ──となって、また華琳に戻ってくる。 この時点での、華琳の黒騎兵は、200人ほどである。黄巾党の時は、大将軍から貸し与えられた5000ほどの手勢を(春蘭が)操っていたが、今は私兵が1500ほどいるだけだった。「では、これからの曹操軍としての方針を話し合うわ。準備はいいかしら」 荀彧が司会進行をつとめている。 この間、華琳は州牧に格上げされた。 この州には太守がいなかったため、華琳がそれを代行していた。だから、やることはさほど変わらない。 いまは後漢王朝の末期であり、毎年のように飢饉や地震やら干ばつやらが起こっている。 農民達はまったく下がらない税と、絶望的な収穫高に田畑を手放し、流民と化すか、盗賊に手を染めるか、宗教に救いを求めるか、という状況になっている。 官吏は自らの懐を暖めることだけを考え、帝には民の嘆きは届かない。それが黄巾党を生み出し、異民族たちの叛乱が横行する──そして、さしたる力もない朝廷が、叛乱の蜂起に対して、遠征して軍を差し向けることすら出来なくなっている。そもそも、朝廷にいる将軍たちは、匪賊討伐で功が成った者たちではなく、将軍の位を金で買った者たちだった。実際に叛乱の鎮定など、できる能力はない。 ──そのようなことを、荀彧が説明した。「そして、朝廷は考えたの。ならば、各地の刺史の権力を強化して、直接、叛乱を鎮圧させればいい、と」 ああ、なるほど。 ──それが、州牧か。 華琳の出世の裏側には、そんな事情が。 しかし──「なぁ、桂花。それって、まずいんじゃないか?」「なによいったい」 真名を呼ばれたことで、明らかに不快になっている。というか、苦虫を噛みつぶしたようになっている。死よりも辛い屈辱に耐えているような表情だった。真名を犯された、真名を犯された、とぶつぶつと呟いている辺りが凄く恐い。「それ、少数とはいえ、軍権が分散するってことだろ?」「ふぅん。あんたの蚤ほどの頭でも、それぐらいのことはわかるのね?」「え、どういうことなの?」「む、どういうことだ?」 華琳と春蘭が、頭に疑問符を浮かべていた。 ええと、別に華琳と春蘭の脳味噌が蚤以下だということを言いたいわけではない。「だって、あれだろ。地方に軍権なんて持たせたら、よからぬことを考えるやつらとかが増えるんじゃないか?」「北郷、その言い方は正確ではないぞ。増えるどころではない。すべての州牧が、集めた私兵を軍閥化させるだろう。太守や州牧の任に就いているもののなかで、漢王朝のために働こうなどというものは、ひとりも残ってなどいない。事実、太守(注、大名)たちは、与えられた郡を私領のように扱っている」 今まで黙っていた秋蘭が前に腕を組んだ。 桂花の意見も、それと同じようだった。 「ええ──、おそらく、高祖(注、劉邦)の時代から漢王朝が成って400年、その400年の中で、もっとも愚かな制度といっていいでしょうね。各地に跋扈する魑魅(ちみ)を狩りとるのに、魍魎(もうりょう)をもってするようなものよ」「嫌われているなぁ。漢王朝も」「当然だろう。褒められるところがない。政治は宦官に支配され、派遣された監察官は賄賂をとって、威張り散らすばかりではないか。皇帝は民に生かされていることもわかっていないのだろう」 春蘭が言った。 やるべき事をやっていないどころではない。漢王朝は、すでに大陸に巣くう手の施しようのない病巣のようだ。肺や胃なら、病魔に冒されても、摘出すれば生きていられないが、漢王朝はただの害以外の何者でもない。 あ、そうか。 ここまで聞いてようやく、劉備の異端さがよくわかった。流石、三國志の主人公。漢室の復興を旗印に戦い続けるような奇特な人間は、劉備ぐらいしかいなかったということらしい。「英雄の資質は、多くの兵隊さんに、どれだけ多くのごはんを食べさせられるかで決まる、ということよ」 華琳が、えっへん、と威張った。 うーん。なるほど、王朝が瓦解するのが時間の問題だということを、俺は三國志の知識として知っている。これはまあ、打倒されて当然だった。たしか、皇帝の崩御から、事態が動き始めるんだったか。「ということは、だ。俺たちはしばらく朝廷の命を受けて、盗賊退治に精を出しながら、力を蓄えろってことか」「ええ、盗賊退治に使える兵は1500にまで増やしたわ。……っていうか、今の状況で、これ以上の増兵は無理よ。治安を完璧に守る代わりに、高い税金とってるんだから」 曹操軍は、すべて常備軍である。 今の俸禄で、盗賊退治に貼り付けるために養える兵数は、1500が限度だった。あとは有力な名士からの寄付や、華琳のおじいさんの蓄えを切り崩すことで軍を成り立たせている。華琳のおじいさんは、宦官の最高位を勤め上げた相当な名士だったらしい。巨万の富を築き上げ、華琳の父親は、その金を使って大尉(三公のひとつ。軍事の最高責任者)の地位についたこともあったという。家には唸るほどの金が眠っているのだろうが、それでも軍隊というものはべらぼうに金を喰い潰す。華琳が使える金などたかが知れているだろう。「あとは、西園八校尉だな。せっかく与えられた肩書き。これをどう使うかだろう」「ええと、偉いのか。その肩書き」 なんかピンとこない。 俺は秋蘭に説明を求めた。「西園八校尉は、霊帝直属の近衛兵だ。ゆえに、華琳さまの独断では動かせない。必ず、なにかの名分がいる」「……ええと、皇帝の親衛隊ということか?」「──表向きはそうだ。先の話と密接に関係するが、西園八校尉は、軍権をもった州牧たちを牽制するための軍隊だ。他に、皇帝の威信を現実として見せつけるため、というのもある」「地方の州牧が叛乱を起こせば、西園八校尉が立ちふさがるってことか?」「それも少し違う。西園八校尉は近衛だ。軍事的にはそれ以上の意味はない。地方が叛乱を起こした時に、立ちふさがるのは大将軍(武官の最高官職)の任を務める何進の軍隊だろう」「ええ、そして、西園八校尉は、その大将軍の何進に(政治的な意味で)対抗するための軍隊よ」 桂花が付け足した。「なんだそれは。わけがわからないぞ」 春蘭が呟いた。まったくだ。 桂花が説明を続ける。つまり、派閥争いよ。宦官と何進とのね。西園八校尉の筆頭は、宦官の蹇碩だもの。宦官と大将軍は仲が悪いの。隙あらば、どちらかを殺してやろうと思っているぐらいに。 あと、ついでに軍の再編って理由もあったわね、と桂花が言った。 ついででいいのかそれ。そっちをメインにもってこいよ。「そうそう、十常侍の連中は、どうせ肉屋のおばさんが軍権のすべてを握っているのが気に入らないのよ」 どうでもよさげな華琳の一言が、もっとも正鵠を突いているような気がした。「おばさん、ねえ」「うん。おばさん。元はお肉屋さんだったんだけど、美人の妹が皇帝に嫁いで、子供を産んだから太后になったわけ。それにともなって、その何進おばさんも大将軍に推挙されたのよ」 華琳は拳を握っていた。 おばさんと呼ぶことで、なにかを発散しているように思える。「……おばさんおばさんと繰り返しているところからして、なにかその大将軍に恨みでもあるのか?」「うむ、何進大将軍は、黄巾討伐の際の、華琳さまの上役だからな」 春蘭が複雑そうな顔をした。 ええと、つまり何進大将軍に華琳が無茶苦茶言われて、華琳が更にその下の春蘭に当たり散らしていたりするわけか。なんて不毛な連鎖だ。「──今の王朝は、放っておけば、つけいる隙もでてくるわ。十常侍を中心とした宦官の専横、弁皇子と協皇子の皇位継承問題、民の叛乱は民衆のみならず、豪族に燃え広がっている。今動いてもいいことはないから、待ちの姿勢を取るべきでしょう。どうにかして帝を庇護できれば、そのまま近衛軍すべてを握れるのだから」 桂花のまとめで、本日の会議は終了となった。「ぬう、華琳さまは最近、北郷ばかりをかわいがるな」 今の今まで会議場になっていた掘りゴタツで、猫のように丸くなる華琳を、穴の開くほど見つめながら、春蘭が言う。「え、どういうことだ。俺が華琳をかわいがるというのなら、わかるが」「なんだと、それはどんな風にだ」「いや、普通にこうやって」 俺は華琳を両手で引き寄せると、懐に抱き込んだ。 ひぁっ、という声が出た。ちみっこい身体が、すっぽりと俺の両腕のなかにおさまる。華琳が、ちょっと一刀、なにするのよいったい、と俺の腕のなかでばたばたと暴れているが、俺の腕を振り払うところまではいかない。華琳がかわいい。このかわいさはおかしい。「うう、おもちゃにされてる、私」 やがて、暴れ疲れたのかおとなしくなった。「う、うああああああああああああっっ!! 北郷、貴様っ、私を殺す気かああああああああああっっ!!」 春蘭が、華琳のあまりのかわいさに発狂しそうになっている。「姉者、北郷、なにを遊んでいるんだ」「………聞いてくれ秋蘭。華琳さまがかわいいんだ」「やれやれ。それはいいが、少し北郷を借りるぞ」 あ、流した。「うむ。勝手に持って行け」「なんでそこで春蘭が胸を張るんだ?」 俺は腕をほどいて、華琳を解放した。俺は立ち上がると、無言で先立って歩く秋蘭の後をついていく。彼女は振り返らない。玉座のある建物を抜けて、庭園に出た。庭師の整えた植物が、季節の花を咲かせていた。 ここから、他の人の姿を見ることはできなかった。 ここまで無言だった。秋蘭とは華琳の次に付き合いが長い。俺が華琳にいろいろ入れ知恵していたことは、かなり最初からばれていて、それどころか俺の思いつきを実行できるところまで修正してくれていたのは、他ならぬ秋蘭だった。──ある意味、華琳と同じぐらい気心が知れている。 けれど──張り詰めた雰囲気は、今までのなかで、覚えがないものだった。 「話しておきたいことがある。いや、違うな。私が勝手に話すことだ。北郷は、ただ聞いてくれていればいい」 秋蘭が、目を閉じていた。 それは、寂寞の戻らない日々を、思い返しているようだった。「話したい事って、華琳のことか?」「ああ。そうだ、いや、やはり違うのか、よくわからない」「ええと、華琳にお菓子を与えすぎだ、とか、そんな注意じゃないよな」 いまいち、何の話かがわからない。 秋蘭は目を伏せていた。怜悧な表情は、より鋭く。より悲しげだった。「そうではない。これからするのは、私が、一生の忠誠を誓った──たったひとりの主の話」 「──もう一人の方の、華琳さまについてだ」