関羽と呂布の死闘は、すでに百数十合を交えるまでになっていた。 方天画戟と青龍堰月刀の光が、あらゆる武将の理解を越える速度で乱れ飛んでいる。その光景は本人たち以外には視認できず、近づくものは、自分が死んだということにも気づかぬままに全身を切り刻まれることになる。 このふたりの戦いは、まさしく大陸最強を決めるに相応しい。 最強と最強の激突。 万夫不当と万夫不当。 力も技も速度も、すべてが神の領域。 俺の目に映るのは、甲高い衝撃音と、互いの獲物が擦り合わされる青白い火花のみ。使っている技術も、そこに至るまでの研鑽も、なにもかもが理解できない。 呂布が、方天画戟を振りかぶる。 一降りで、戦場そのものを薙ぎ払うとすらいわれる、呂奉先の方天画戟である。 受け止めたものは、未だかつていない。 本来、これを受け止めるという発想すらない。 が── 大降りの一撃を、関羽は正面から迎え撃った。「ぐっ──」 ミシリ──、と。 背骨の軋むような音が、聞こえてくるようだった。 地面に超加重がかかった証明である、地面にめり込んだ靴のあとが、遠目からでもわかるほどだ。 呂布も、関羽も小細工のようなものはない。 懐に隠し持った道具など最初から持たず、ふたりの武将は自らの獲物のみを恃みにしていた。 邪魔も入らない。 戦場の音も絶えて、息を呑むように皆、たったひとつのものに視線を注いでいた。戦場の中心に、呂布と関羽だけがいる。 猛獣の共食いに似た死闘。 そこには神話説話に彩られるような音光明媚な一騎打ちの情景など存在していない。関羽の太刀筋も、翻る鮮やかな黒髪も、たしかに目を惹くものだ。しかし──実力が伯仲しているからこそ、互いが受ける反動は凄まじかった。 受け止める一撃に、肩が外れそうになり、握る獲物から伝わる衝撃が、筋繊維を断裂させている。向けられる刃物に精神をすり減らし、直撃どころか、受け止めた衝撃だけで、全身が軋んでいる。 尋常でない自らの武を支え続けながら、自分の命を削っている。呂布も関羽も、文字通りに、『身を削りながら』戦っている。本来は、すでに終わっているはずだ。 見ていられない。 消耗は凄まじいだろう。 100キロの速度で正面衝突したダンプカー同士が原型を留めないように、人の姿など保てないぐらいに、グチャグチャになっているほうが、物理法則としては正しい。 すでに双方とも、獲物を握っていることすらできないはずだ。 それでも、絶え間なく方天画戟と青龍偃月刀は火花を散らしていた。雨霰のように降り注ぐ一撃一撃が、大岩を破壊させるだけの威力をもっている。 限界まで振り絞られた握力が、ギリギリのところで一線を繋いでいる。 どちらも、武器を離した瞬間に負けが決定する。 こんな戦いに、矢を射かけられるような、勇気あるものはいない。 ただ、俺の含めて、なにか、途方もない瞬間に立ち会っているという実感だけがあった。民衆の口の端に語られ、唐や宋や明の時代を超えて、現代にまで語り継がれる伝説。三国志の一騎打ちにおいて、一番に有名になるのは、おそらくこれなのだろう。 ──しかし、徐々に優劣は傾いてきている。 ここ数日の戦場を、ほぼひとりで支えているといっても過言ではない呂布と、これが反董卓連合に参加してからの初戦闘である関羽では、あまりに前提条件が違いすぎる。利き手の指三本を失い、趙雲に刺された脇腹の傷も癒えていない呂布にとって、持っている戦力の六割を出せればそれで感謝しなければならない。 そして、それを踏まえた呂布と関羽の戦力比は、わずかに関羽に傾いていた。 互いに傷を負い、消耗を繰り返しながら、じりじりと、呂布が防戦一方に押し込まれていくのが、素人目にもよくわかった。このままの調子で状況が推移するのなら、あと数十合後に、青龍偃月刀が呂布を刺し貫くだろう。 が── 結果的に、そうはならなかった。 戦闘はそこで打ち切られる。さっき俺を救ってくれたブタの大軍が、砂塵をまき散らしながら、戦場になだれ込んできていた。 ギリギリでつなぎ止めていた集中が、切れる。 限界まで達した疲労が、一瞬の空白を与える。 そして、それは呂布にとって、致命的な隙になった。 ──呂布の首が落ちる。 そう間違いなく確信できるタイミングで、関羽が青龍偃月刀を横に薙いだ。 え──? 外した? 青龍偃月刀が、なにもない宙空を狩りとっていた。 関羽の表情に、わずかの逡巡が見えたのを最後に、呂布が赤兎に跨った。ふたりの、おそらくは歴史的な邂逅は、終わりを告げる。両者の姿は砂塵に覆い尽くされるように見えなくなった。「なんだ、今の?」 ──関羽が、呂布を救ったように見えた。 俺の見間違いだろうか。ここで、最大の手柄を見逃す理由は一切ないと思うが。いや、そんな場合じゃない。まだ戦闘は完全に終わったわけではない。凪と真桜と沙和と思春を回収しないといけない。 片目を貫かれた春蘭とか、怪我人も数多くいる。「それに、華琳は、どうした?」 疑問に答えたわけではないだろうが、華琳はそこにいた。 ぺたんと土の上に腰を下ろして、精神をまわりから切り離している。彼女は、目はうつろで、名残惜しそうに先ほどの戦いの後を見ていた。 戦場の空気は、普通の少女には、耐え難いものなのだろう。 張りつめた心が切れてしまったかのように、彼女はただ関羽を見ていた。「うふふふふふふふふふふ」 とか思ったら、なにか不気味に笑い声をあげていた。 ええと、戦場の殺気にあてられて、幼児退行でも起こしたか、とか思ったが、そういうわけでもないようだった。「はぁ──」 華琳は、なにやら顔を紅潮させて、うっとりしていた。「──ああ、関羽さま。どうしてあなたはそんなに美しいの?」 顔を赤らめてぼーっとなっている華琳を、俺はとりあえず蹴り倒しておいた。「わざと逃がした?」「はい。そうなります」 虎牢関の戦いから、三日が過ぎていた。 曹操軍の指揮官クラスのほとんどが傷を負った。兵士たちの犠牲もかなりのものだ。呂布の黒騎兵を正面から受け止めた犠牲は、かなり大きい。 事実、曹操軍の戦力は半壊している。 俺と程昱は、天幕のなかで、これからのことを話し合っていた。 春蘭と秋蘭が指揮を執れない以上、俺がこの軍のナンバー2に繰り上がっている。 「関羽の名はこの一件で広がりを見せました。あのまま戦闘を続けていれば、呂布を討ち取ることができた可能性を、諸侯たちすべてに見せつけたからです。しかし、戦場に呂布を討ち取ることより、あえて討ち取らないことに、劉備軍にとっての利があるとすれば?」「すまん、言っていることがわからん」「簡単なことなのですよ。この曹操軍に、呂布の突撃を受け止められる武将が、もういない」「そうだな。片目を失った春蘭、未だ死線をさまよっている秋蘭、季衣と流琉もしばらく戦えないし、俺の手勢も半壊した」 凪は両腕を砕かれ、思春は全身ズタボロ、真桜はお手製のカラクリを動かすのに使う気を使い果たしたとかで、一週間はもう前線には立てないとか言ってきたし、一番怪我の軽い沙和だって、骨が何本か折れているらしい。 いや、問題はそんなところにはない。『──お前達の動きは、もう見切った』 とか言っていた。あれは誇張でもなんでもないだろう。 もしかしたら曹操軍全員が万全な状態であったとしても、今度はどうなるかわからない。おそらく、勝つことはできないだろう。「つまり、呂布を止められるのが、反董卓連合に、関羽しかいないとなると──?」「ああ、そういうことか。関羽の価値が上がるな」「はい。それに反董卓連合は袁紹閥です。華琳様と袁術以外は、まともにやって、手柄が転がってくるとは思えません。それとの兼ね合いもあるはずです」「たしかに、呂布を倒してしまえば、狡兎死して走狗烹らるになるな。獲物のウサギを取り尽くした後は、猟犬も煮て食べられるのみ。 関羽は用済みか。 俺が袁紹なら、わざわざ外部の人間に最大の手柄をくれてやる気には、ちょっとならないな。無名の武将と互角だったなんて、もしかして呂布って大したことなかったんじゃないのか、とか難癖をつけて、手柄をうやむやにすることを考えるだろう。あのガキ(田豊)。そういうのが専門だろうしなぁ」「だから、劉備軍は、呂布をあえて討ち取らないことで、自分の価値を示した、ということですねー」「なるほど」 ──よくわかった。 物騒な話だ。 戦場の華であるはずの一騎打ちにすら、各々の諸侯の利害と、緻密な戦略構想がかぶさってくるあたり、一瞬の気も抜けないところである。 さすが劉備軍。 武と知略で、最高ランクの部下を揃えている。 関羽にそこまで洞察する知能はないはずだが、誰の策かは論じるまでもない。諸葛孔明の策は、この世界でもまったく鋭さは変わっていないようだった。 さて。 少しだけ、状況を整理してみよう。 関羽、あるいは張飛にしか呂布を討ち果たせない、と決めつけるのは、それはそれで危険だった。「ふむ」 どちらにしろ、呂布を取り除かなければ先へは進めないわけで、だったらこの反董卓連合だけではなく、三国志の登場人物そのものに、呂布を討ち果たす可能性のあるヤツはいない、か? ──コーエー的にステータスを並べてみると。 ええと、呂布の武力を100として、 張飛が98、関羽が97、趙雲が95、馬超が同じく95、黄忠が94、文醜が92、華雄が91、顔良が90、張遼が90、夏侯惇(春蘭)が89なんだろうが片目を失ったことで、武力は10は下がるか。夏侯淵(秋蘭)は87、甘寧(思春)が同じく87、楽進(凪)が86、許緒(季衣)が85、典韋(流琉)83、というところか。 かなり適当に数値化しているが、大きく外れることはないだろう。 ──ダメだな。 在野かなにかに、まだ出てきてない武将がいるかなと思ったが、三国志における上位陣はほぼ埋まってしまっている。 しかし、武力1の差が凄まじくでかいなーこれ。「ちょっとふたりとも。さっきから訳のわからないことを言っていないで、どうでもいいから、はやく関羽をわたしのものにするための策を考えなさい」 この間まで、曹操がいたはずの席に座っているのは、当然のように華琳だった。「なぁ、華琳。お前、ノーマルじゃあ、いや、女に欲情する性癖とかあったか?」「ないわよそんなの。わたしはただ純粋に、関羽に憧れているだけよ」「……えーと、レズと百合の違いか」「なにをわけのわからないことを言ってるのよ」「しかし、関羽をこちらに引き抜くのは、不可能とは言いませんが、むずかしいところではありますよ」「風(程昱の真名)ちゃん。そこをどうにかするのが軍師の仕事のはずよ」「無茶言うな。劉備と、件の関羽と、張飛は、義姉妹の契りを結んでいるらしい。お前と袁紹と袁術みたいなものだ。引き抜けるわけないだろう。そう簡単に引き抜けるなら、俺だってとっくに張飛を引き込む手段を考えてる」 張飛。 あれは凄まじい。なにせ、呂布が亡き後の、まぎれもない三国志最強である。俺には凪がいるので、高望みする気はないのだが、敵にするべきではないことだけはわかる。「むー」 華琳がむくれていた。「ひとまず、劉備軍に対する情報が足らないのです。そうですね、助けていただいた恩に報いたいということで、劉備たちを迎えての宴会でも企画するのはどうですか?」「それはいいわね。どうせしばらくやることもないし」「まあな」 今では落ち着いているが、華琳は恐ろしく多忙で、先ほどまで寝る間もないぐらいだった。兵を纏め直すのは俺たちに丸投げだったが、片目を失った春蘭に泣きついたり、潰れた目のために手製のアイパッチを作ってみたり、袁紹のところに行って存分に愛でられていたり、袁術のところに行って、いろいろ姉として相談に乗っていたり、桂花となにやらを画策したり、俺とベッドの中でいちゃついたり、蓮華に後ろから蹴りをいれたり、と──溜め込んだ宿題を一日で片付けるぐらいあちこちを飛び回っていた。 ちなみに、虎牢関は、未だ堅固にこちらの行く手を阻んでいる。 戦況は進むもできず、退却するにも犠牲がでかすぎる。すでにもう千日手に陥っているのだが、そのことについてはあまり心配していない。 これについては、田豊がそのうち陥落する、とか言っていた。詳しいことはわからない。 あの腹黒なちびっこ軍師が、根拠のないことを言うわけがないので、またロクでもないことを考えているんだろう。 おー、こわいこわい。あれも敵にするには強すぎる。あの謀略の切れは、俺の詠とほぼ同等だった。ここは流されるまま、黙ってみていることにしよう。「うーん、これは。でもねぇ。ああすればいいのかしら」 華琳は、床をごろごろと転がりながらなにかを考えているようだった。 さて。 ──俺が当面考えなければいけないのは、当然のように曹操軍内の派閥争いだった。曹操本人がいなくなったところで、まだ郭嘉や程昱がいる。 程昱は華琳を操縦するために、性格の把握に努めるだろう。 が── 程昱が、華琳の性格を把握するまでに、それなりの時間がかかるだろう。 とりあえず、董卓ちゃんを助け出すまでに、それを引き延ばしたい。 華琳がなにも騒動を起こさないということはありえない。この三日、俺は華琳に監視をつけず、彼女の思うままにさせてきていた。 騒動をダース単位で起こしているはずである。「ちょっと一刀。とても素敵なことを思いついたのよ」「なんだその聞く前からロクでもないと確信させるような前フリは」「関羽を手に入れる方法よ。一番確実な方法を思いついたわ」「あー、なんだそれ?」 そして、次に言った華琳の台詞が、周りの時間を停止させた。「──劉備を殺しましょう」「え?」 最初、俺は華琳の台詞を理解できなかった。「………………」 程昱の表情が変わる。今、初めて、『華琳そのもの』を見た、と──そんな表情だった。「だって、劉備を殺さないと関羽が私のものにならないじゃない」「ああ、そういうことか。うーん、まあ悪い策ではない、のかな?」 仮にも曹操なら、自らのプライドに縛られて、絶対に打てない一手である。 意外に悪くないのかもしれない。関羽と張飛、それに孔明が守っているだろう大将を殺すことが、ほぼ不可能に近いという現実を加味しないならば。 いや、ダメか。 失敗したリスクもでかすぎるし、呂布との兼ね合いもある。関羽が、劉備を越える忠誠を捧げるだけの価値を、華琳に見いだせるかどうか。「しかし、どうする? 口で言うのは簡単でも、やるのは不可能だろう。軍の大将を殺すことがどれだけ困難か」「ああ、それなら心配ないわ」「え?」「もう殺してあるから」「は?}「よいしょっ、と──」 ずるずると音をたてて、天幕の奥の方から、華琳がズタ袋のようなものを引きずってきた。 袋を縛っていた、糸をほどく。「………………」 ──劉備だった。 本当に、劉備だった。 後頭部を鈍器のようなもので殴られたらしい。 うつぶせに地面に倒れたまま、どくどくと地面に血が吸い込まれ続けている。ときおり、ぴくぴくと痙攣していることから見るに、生きてはいるらしい。「どうしたんだ、これ?」「えーとね。十分ぐらい前かしら。劉備が私に挨拶にきたのよ。護衛もつけずに。ほら、最初は殺すつもりなんてなかったんだけど、後ろ姿を見ていたら、つい、ほら殺意がよぎってね。ちょっとばっかり。大丈夫よ。姿は見られていないし、死人に口なんてないしっ。あとは近場に埋めてしまえば証拠はなくなるわ」「………………」「というわけで」 華琳は、親指と人差し指を咥えて、ピィーーッという音を鳴らした。「はいっ。華琳さまの衣服を暖めておきましたぁっ!!」 がばっと。 天幕の華琳の衣装箱の中から、桂花が飛び出してきた。 うわぁ、飼い慣らしてやがる。「………………」「ねえ桂花。劉備を埋めるための、いい感じの穴とかあるかしら?」「はいっ。北郷を落とすために堀りすすめていた、特製の落とし穴が、この下に」 衣装箱の中が、空洞になっている。 深さ一メートルほどの落とし穴がそこにできていた。「よいしょ」 華琳が、そこに劉備の死体(?)を投げ込む。 ところで、華琳と桂花が劉備の上に土をかけ始めたんだが、そろそろ止めたほうがいいんだろうな。これ。 華琳を蹴り飛ばしながら、考えを進める。 よって、 劉備の王道と、華琳の覇道。 このふたつがどれだけ混じり合わない水と油なのか、俺はこれからさんざんに思い知らされることになる。 次→ 『北郷一刀 VS 劉備玄徳』