続いて第二試合の『夏侯惇VS鉄竜』が行われたが、結果のわかっていることを長々と話すつもりはない。ダイジェストでお送りしよう。 夏侯惇の相手は、鉄竜といった。身の丈八尺を越える大男であり、数々の大会で優勝をかっさらっているらしい。身体の構成物質の八割が筋肉ではないかと思われる体躯。脳まで筋肉が詰まっていそうだ。鋲のついたレザージャケットを着込んでおり、どこの世紀末からやってきたんだとツッコミを入れたくなる。刃を潰したマサカリは、直撃すれば人間を挽肉に変えることぐらいわけがない。 試合開始前に、ちょっとしたパフォーマンスがあった。鉄竜は、オブジェとして飾ってあった石像を、握力のみで粉々に砕いてしまった。はっきり言おう。化け物だ。チンパンジーの握力は300kgほどらしいが、鉄竜の腕力も、それぐらいあるかもしれない。 断言する。 こんなのと一回戦で当たっていたら、俺は試合を投げ出して、地の果てまで逃げていた。 ある意味、事実上の決勝戦といった感じである。 が、勝負は一瞬でついた、夏侯惇はマサカリをはじき飛ばすと、翻るように大薙刀を相手の喉に突きつけた。水の流れを思わせるほどに滑らかだった。最初の右足を踏み込む動作から相手に刃を突きつけるまでの終端の動作に、いささかの淀みもない。「ふん、あっけない。まだやるか?」 夏侯惇の呼びかけに、鉄竜が奥歯までを剥き出しにしたのが見えた。 鉄竜は突きつけられた大薙刀を無造作に掴むと、握力のみで砕き散らした。バキィ──という音がして、大薙刀の柄がふたつに折れる。「なっ──」 夏侯惇の動きが、一瞬遅れた。半分になった柄を握ったままで、なにができるわけでもない。鉄竜が夏侯惇の肩に、その丸太のような腕を伸ばした。その握力なら──人間の骨ぐらい、粉々に砕け散らすだろう。 チェックメイト。終わったと、男は思ったはずだ。 そして──男の命運は、そこで尽きた。「ぎゃああああああああっ」 野太い悲鳴があがった。見ると、鉄竜の丸太のような右腕が、どす黒く変色していた。「いい判断だ。だが、私に腕力で勝とうなどとは片腹痛い」 嘘だろ。 おい。 夏侯惇は、特別なことはなにもしていない。ただ、普通に自分を掴んだ腕を逆に掴み返して、そのまま関節と逆方向に捻り上げている。どれだけの圧力と圧力がぶつかったあげくの結果なのか、俺には想像すらできない。 ただ──ひとつだけ理解する。あれは、もう、人の領域にいない。細い身体に、圧搾機械並みの力を内包している。曹操旗下、第一の剣、あれが夏侯惇だ。 勝てるのか、俺? ──あれに? 気が変わったということで、今から逃げたらダメだろうか? 一騎打ちこそ戦場の華である、という曹操の布告により、俺と夏侯惇の試合は、互いの馬と馬を駆っての馬上戦となった。ここまでは、華琳との打ち合わせ通りだった。俺としては、この状況下で、活路を見いだすしかない。 ここから、貴賓席の、一段高いところから地上を見渡している華琳が見えた。 華琳は美しく、その瞳は、ここに集まった民を、這いずるアリの群れを見下ろしているようだった。彼女の周りには、顔を晒した黒騎兵の少女たちが、せっせと華琳のためだけに動いている。 そう、彼女は美しかった。 どれだけ周りの人間が、高慢で不遜な態度をあげつらおうと、それだけは絶対に否定できないほどに。 露払いのための者と、華琳の箱持ちと、彼女を満足させるためだけにいる侍女たち。曹の白地がくり抜かれた大傘が、華琳に当たるはずの直射日光を遮っている。 そして、華琳は周りの行動に、蝋細工のような無表情でもって応えていた。それはそうだ。彼女は、高慢なお姫様を演じている。華のような笑顔は、限りなく一部のものにのみ見せられるべきだ。──それを守っているから、華琳は、あれだけの瑞々しいほどの美しさを保っていられる。 あれは、観賞用の美しさではない。人の心を捉える魔性のそれだ。地べたに這いずる人々を配置することで、相対的に輝くような、残酷な美しさだった。あの外見の高慢さをともなった容貌を一度見てしまえば、中身の馬鹿さ加減など、大粒の宝石についた傷にすら及ばないものだと思えてくる。 ──まあ、あいつは中身の方が本体なのだけど。 史実の曹孟徳は、熱狂的な人材コレクターだったことで知られる。けれど、最後に、彼の周りに残った人間は、誰がいただろう? これはあくまで、史実の方の三國志を読み、ほんの一瞬思った、俺の解釈だ。曹操は寂しかったのではないかと。戦争で、次々と消えていく幕僚を見て、天下を掴んで、なお埋まらない己の空白を埋めるように、それが人材発掘というかたちをもって現れたのではないか? だから今の彼女が、どこにでもいる普通の寂しがり屋で素直じゃあない女の子が、ただなんの悩みもなく笑顔でいられるということが、とても貴重に思えてしまう。 俺が、その笑顔のために、命を賭けてもいいと思えるほどに。 開始位置について、夏侯惇は刃を潰した大薙刀を頭上で振り回している。うん、一撃まともに当たられたら、全身の骨がバラバラになって死ぬな。俺の戦闘力を仮に50としたら、多分夏侯惇は1500ぐらいはあるはずだ。当然、負ける気はない。華琳から貰ったアレは、その実力の差を埋めて、なお余りあるものだ。 俺は、馬を開始位置につけた。準備は終えている。深呼吸して、棍を握りしめた。じっとりと、両手が汗で湿っている。勝つための算段はすべて整えた。やり残しはない。だから、これで負けたら、きっと悔いだけが残るだろう。『双方とも、無様な戦いは許さないわ。この、曹孟徳の名を辱めぬよう励みなさい。天下に覇を唱えるものとして、私の誇りに相応しい戦いを──』 真っ直ぐに夏侯惇の大薙刀と、俺の突きだした棍が直線上に結ばれた。 視線が交錯し、あとはそこから目を離さなければいい。 俺は、華琳から下賜された『切り札』に語りかけた。「行くぞ。──絶影」 ──絶影。 史実における、曹孟徳の愛馬である。 速度だけなら、赤兎馬と並ぶ。 俺を乗せた黒い影が、軽やかさすら感じさせる動作で、足下の土を蹴りあげた。「はじめっ!!」 華琳の号令とまったく同時だった。俺の全身に、爆発するような推進力が加わり、馬上にて、俺は一条の稲妻となった。 名の通り、影すら追いつけぬほどの速度で、夏侯惇の首めがけて斬り混んでいく。見た者が仙術の使用を疑うような神速。俺が棍を振りかぶる一動作で、すでにその身は夏侯惇の刃圏内に肉薄している。「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」 双方の気合いが爆発した。 俺の振りかぶった棍と、夏侯惇の大薙刀が、正面から激突した。 絶影の速度と、夏侯惇の力が拮抗し、火花が散って、双方がはじき飛ばされた。 俺は襲いかかってきた衝撃に耐えながら、奥歯を噛みしめた。やはり、正面衝突は分が悪い。 武器を合わせた衝撃で、掌に虫が這い回っているような痺れが襲ってきている。長期戦は不利だ。今の一撃で決められるのが理想だったのだが、やっぱりそうはいかないか。 俺を乗せた絶影が、なんのダメージも受けていないように、夏侯惇の間合いの外を走り始めた。弾き飛ばされた衝撃で、夏侯惇の馬は、まだ動き始められない。その初動が、致命傷になった。 絶影が背後をとる。 背中を晒した夏侯惇に、俺が再び棍を構える。 瞬間── 夏侯惇の身体が、馬上で捻転した。 ──即座に、衝撃がきた。 回転力を加えられた大薙刀の一撃を、俺は縦にした棍で防いだ。全力で奥歯を噛みしめる。棍を持った両手から、衝撃が電撃となって全身を貫き、一瞬意識が飛んだ。遠くなった意識を、意志の力で引き戻す。俺は馬から落ちなければいい。あとは絶影がサスペンションの役割を果たしてくれる。 馬上では背後をとったものが、絶対的に優位にたてる。背後を取られた夏侯惇は、今のように攻撃に多大な予備動作を必要とする上、不自由な体勢からの一撃は、本来の威力に遠く及ばない。当然、連続攻撃など不可能だ。「くっ、この、逃げるなっ」 また、攻撃の方法も悉く限定される。馬に乗った体勢から、どうやっても背後に突きは放てない。上段や下段から攻撃も然り。俺は、右に捻るか、左に捻るかの二パターンだけに備えればいい。あれだけ大がかりな動作だと、フェイントも意味がない。いわゆる、これは形を変えたドッグファイトなのだ。背後をとった時点で、九割九分、勝ちは決まっている。 流石に、稀代の軍師ある荀彧の立てた策略だった。まったく歪みがない。俺の策を悪辣極まりないと言っていたが、これだって大差ない。鬼、変態、鬼畜、と罵詈雑言を受け続けた、その結果が出ている。「ええいっ、黙って私に打たれんかっ!!」 速度の差は歴然だった。 夏侯惇の馬が方向転換するより、呆れるほどに遠回りした絶影が、彼女の背後を取り直す方が早い。華琳は絶影の速度を通常の三倍と称したが、まったくもって、その言葉に偽りはない。 俺はただ馬を狙っていた。 それが、俺がずっと考えていた、基本方針である。 背後から馬の尻を突くだけだ。あらかじめ、実験済みである。痛みでパニックになった馬が、乗り手を振り落としてくれれば、それで勝負がつく。馬に対して、良心が咎めるが、あとで存分にいい餌をやっておくとしよう。 夏侯惇将軍が、馬のコントロールを失う。 会場は仕切りで覆われているだけだ。会場から出ても、即失格となる。上手く人波の薄いところまで誘導できれば── 決して、驕っていたわけではない。 けれど、夏侯惇は九割九分決まっていた盤上から、逆襲に転じた。「え──?」 夏侯惇の持っていた大薙刀が、彼女の手を離れる。俺が疑念を差し挟むまもなく、俺の腹部に衝撃が来た。「か、はっ──」 逆手に持ち直した大薙刀の石突きが、俺のアバラを砕いた。 衝撃が、背中まで突き抜けた。目眩と共に、俺の全身から、気力が根こそぎ刈り取られる。まともに、空気が吸い込めない。呼吸困難となって、視界がなくなる。空気が足りない。意識がブラックアウトしかかった。 絶影の上下運動が、一秒ごとに傷口を抉られるほどの痛みを与えてくる。「ぐ………」 油断、ではない。 わかってて躱せなかったから、なお始末に負えない。 まずい。 体力の前に、まず集中力が持たない。 全身に力が入らない。棍を握っているだけで、精一杯という有様だった。相手の一撃にやられる前に、確実に絶影から振り落とされる。 俺は、最後の力を振り絞って、腿に力を入れた。「頼む──」 即座に俺の考えを読み取ったように、絶影が夏侯惇から離れた。柵と仕切りでひし形に切り抜かれた武道会場の、その一角で、絶影はその脚を止めた。端っこである。背後にも、左右にも逃げ場がない。完全に、前に進むしかできない。見た者は、韓信の背水の陣を思い浮かべるだろう。「どうやら、きさまも馬鹿なようだな」 夏侯惇は、追ってくることはしなかった。 彼女は、俺と絶影から一直線上の、もうひとつの端、ぎりぎりに布陣した。 夏侯惇将軍は、おそらくこう思っている。絡め取ったつもりだと、俺はこれから、やぶれかぶれの突撃を仕掛けてくると。ここまで手こずったのは、馬の性能差もあるが、武器が悪いからだ、と。ルールに縛られていなければ、最初の一撃で勝負はついている、と。 それはひとつを除いて正鵠を射ていた。 彼女のひとつだけの誤算。それは、絶影の性能を見誤っている。絶影にとって、この会場は狭すぎる。まるで、檻の中にいるようなものだ。この広さでは、トップスピードに乗れても、制動距離が足りなさすぎる。スピードを殺しきる前に、壁に激突するからだ。 このひし形の端からの距離は、この狭い会場で描ける、一番最長の線だった。最初から絶影がトップギアを使えていれば、勝負はここまで長引かずに済んだ。「夏侯惇将軍、ひとつだけ、言いたいことがあるんだが」「ほう。冥土の土産になるかもしれん言葉だ。話すがいい」「避けろ。あるいは、防げ。──死ぬぞ」 それは、本来、一笑に付されるべき発言だった。「は、ははははははははははははははははは。 おもしろい冗談だ。その満身創痍の身体で、なにかができるというのなら、それを私に見せてみろっ!! ただし──貴様に逃げ場はないぞっ!!」 夏侯惇は、馬の腹を締め付ける。 そのまま馬上にて、一陣の疾風となった。 一秒。 二秒。 三秒。 四秒。 夏侯惇が、会場の中心を越えた。 さらに加速。 ──疾風。 それは。 俺と絶影にとって、止まっているのと同じだった。 絶影が動き始める。周りの観客の喧噪と野次と叫喚が、すべて雑音に落ちる。絶影から伝わる力とともに、正面以外の風景が斜線に変わった。 ──音を、越えたと思った。後から思えば、それは近づいてくる夏侯惇の相対速度の差が見せる錯覚だったのだろう。耳から聞こえてくる叫び声に、自分が叫んでいるのだと思った。 ──振りかぶる。 俺は、夏侯惇の首筋に、全力で棍をふるった。 人間の急所のひとつ。呼吸器官だった。どんな英傑でも、ここだけは鍛えられない。 ──ガアアアアアッンッッ!! 肉と骨を抉った衝撃はなかった。手に残ったものは、ひどく金属的なものだった。影の交錯の後で、俺は右手に残った手応えのみを証拠とした。 手応えはあった。 ふたつに折れた棍を手に、俺はそれだけを考えた。 速度的にいえば、新幹線と普通列車の正面衝突だった。その速度の差に慣れていた分、俺の初動の方が早い。 振り返ると、 落馬した恰好のまま、信じられないという顔で、こちらを見る、夏侯惇将軍の姿。尻が地面についている。攻撃自体は凌いでも、絶影の速度をまともにうけて、馬上から弾き飛ばされたという感じらしい。 ──勝った。 どっと、冷や汗が出た。同じ事をもう一度やれと言われても、まったく自信がない。 けれど──勝ちは勝ちだ。『な、なんという大金星。私は、そしてここにいるすべての人々が、奇蹟を、そして歴史の変わる瞬間を、目撃しましたっ!! この第三回武道会まで、無敗を誇った夏侯惇将軍、ついに敗れるっ!! 北郷一刀選手、満を持して、三回戦へ進出ですっ!!』 夏侯惇将軍が、悔しさを噛みしめるように、立ち上がった。 うわぁ。あれだけやって、ほとんどダメージを受けてないように見えるところが恐ろしい。こちらは、もう戦えないというのに。 しかし、勝負には負けたけれど──試合には勝った。「はふぅ──」 俺は糸が切れた人形のようになって、馬上で絶影の鬣(たてがみ)に顔をうずめた。