駆けつけたときには、すべてが終わっていた。 折れた旗と、馬蹄にかけられて蹂躙された死体が、地面に転がっていた。ほどなく腐乱がはじまり、鳥たちに啄まれるのは明らかだった。 地獄絵図というのは、こういうのをいうのだろう。見ていて、吐き気を催すほどの光景。持ち主のいないあらゆる武器が地面に投げ出され、墓標のように打ち捨てられている。負傷兵は一カ所に集められ、下を向いている兵士たちの誰も彼もが、目に力を宿していなかった。 理解せざるをえない。 袁術軍は、終わった。 たった半刻ほどの戦闘で、袁術軍40000のうち、5000ほどを失う結果になった。趙雲と華雄の主力が丸々残っているにしろ、どれだけ戦えるものか。 呂布の武勇は、そこに居合わせたすべての人間の魂を打ち砕くのに十分すぎた。 あれから、一日が経過している。 死体を埋めている暇もなく、そんな気力のあるものは誰もいない。戦場で散ったものは、朽ちるのが道理。そうわかっていても、やるせないものがある。 七乃さんの死体は、結局見つからなかった。 生存しているという望みは、ない。 死体は残らなかった、 ただそれだけの話。 彼女は、最後まで袁術の無事を願っていたという。 それが、趙雲から聞いた、七乃さんの最後だった。 魂が、ささくれだっているのがわかった。 ──なんだこれ。 行き場のない鬱屈した気持ちが、胸のなかを反響している。七乃さん。殺してでも死なないと思っていた。 恋や愛ではなかったけれど、かぎりなく心を通い合わせられたと思っていた。 その想いも、ただ圧倒的な武力に、踏みつぶされることになった。それで終わり。いいのか。 それで。 七乃さんがいなくなっただけで、彼女の願いはすべて消え失せるのか。胸の中にわだかまっているのは、理由など必要としない類の怒りだった。 だから、義理は果たさないといけない。彼女がもしここにいたのなら、ただ──袁術の無事だけを願っているはずだから。 袁術は、ずっと食事も取らず、自分の天幕に閉じこもっているらしい。なにをしていいのか、わからない。そういうことだろう。 七乃さんの亡骸でもあれば、あるいは気持ちの整理でもついたのだろうか? トップだけがそれなら、まだいい。 トップの無能は、下が補えばいい。けれど──袁術軍は、将軍や文官たちもなにもかも、七乃さんがいなければロクに機能しないようだった。袁術軍は、七乃さんがいるかいないかで、まるで別の軍のようになっている。「我ら三人揃って、七乃殿ひとりに及ばぬ、か。情けないことだな」 趙雲が、空を見上げていた。「そおねぇ。七乃ちゃんがいなくなって、それで終わりじゃあ、私たちが将軍位を受けている理由がないわ。いくらなんでも、不甲斐なさすぎよぅ」 紀霊将軍(初登場)だった。 おっぱいの大きなヘビ皮とかがよく似合いそうなおねーさんである。袁術麾下のなかでは、もっとも古くから苦楽を共にしてきていて、袁術と七乃さんとの華雄将軍と同じタイプの脳筋らしい。愛用の三尖刀は、多くの賊たちの首を刎ねてきている。態度には出していないが、もしかしたら、七乃さんが亡くなって、一番辛いのは、彼女かもしれない。「いつまで、そうしているつもりだ?」 華雄将軍。 先ほどから、天幕の外を、落ち着きなく歩き回っている。もう二刻以上、彼女はそうしていた。 そして── 袁術軍全体が、黒い澱に沈むなかで、彼女だけが、自らの職務を果たそうとしていた。「もう、よい」「──よい、とは?」「もう、どうでもよい。もう、わらわにはなにもない。七乃がいないなら、わらわが戦う意味などないではないか。首謀者の首など、欲しいものにくれてやればよい。帰りたいものは帰らせればいいのじゃ。わらわは、もう、疲れた。……ひとりにしてたもれ」「それが、お前の答えか」「………………七乃、ななのぉ」 聞こえるのは呟きだけだった。 彼女への返事ではない。 薄っぺらな天幕ひとつが、今は鉄よりも厚く感じた。袁術は、なにも寄せ付けていない。ほんの数メートルの距離。しかし、今はそれ以上の距離が、袁術と華雄の主従の関係を、遮っていた。 「──そうだな、ならば、私ももうお前に言うことはない。ただ、私の願いも、七乃殿と同じだ。お前に仕えたことを、私に誇らせてくれ、とまでは言わない。ただ、私は変わってしまった董卓さまと、お前を天秤にかけて、お前を選んだ。──ただ、それだけを、後悔させないでくれ」「………………」 また、返事はない。 それでも、今の華雄の言葉が、袁術の心にまで届いたのだと信じたかった。 いまなら、まだ立て直しが可能なはずである。幸いといっていいのか、七乃さんの死体は残っていない。ずっとは無理だとしても、この連合による戦いが終わる間ぐらいは、七乃さんの死を隠せるはず──、という俺の甘い予測は、ブワッ──と、全身を襲う数千もの細い糸のような殺気を受けると同時に、コナゴナに吹き飛んだ。 ──敵意。 それを、そうは呼ばない。 敵意、というのは、数多の動物のなかで、人間だけがもつに至った感情である。 だから、こちらに近づいてくる一人の人間から放たれているものは、敵意ではなく、ただの純化された──俺たちのいる周りすべてをどす黒く塗りつぶすほどの、捕食者としての殺気だった。「どうしたの? まるで、お通夜のような雰囲気ね」 俺の耳に聞こえてきたのは、その場にはまるでそぐわない、空へ抜けるような、快闊とした声音だった。 浮ついているとすらいっていい。 自分自身の、膝が震えるような感覚がなければ、ピクニックに行くと言われても信じてしまっただろう。「──孫策、殿?」「ええ、あれから丸一日。なんの指示もないから、心配になっちゃって。なにか異変でも起きたんじゃないかって。どうしたの? 七乃ちゃんの姿がないことに、なにか関係があるのかしら?」 よくも、ぬけぬけと。 すでに、敵意を隠そうともしていない。 飢餓に狂った虎のようだった。長い間、檻に閉じ込められた末に、獲物を前に舌なめずりをしている。「──あいにくと、あるじは体調が優れないみたいなのよぅ。孫策ちゃん、できれば出直してきてくれるかしらぁ」 紀霊将軍が、一歩前に出た。「いいえ、なにか用があったわけでもないの。伝言で構わないわ。いいかしら」「……あら、ご機嫌伺いのハチミツは間に合っているわよぉ」「戦闘のあとで、丸一日、指示がないから私も困っているのよ。どうかしら、ずいぶんと痛手を受けたみたいだし、このあとの戦は私が引き継ぐというのは」「────わかった。それでいい」 趙雲がそう言った。 その答えで満足したのか、孫策は俺に一瞥もくれずに帰って行った。 後ろでは、最後まで周瑜がアタマを抱えていた。 うわぁ。 なにをしにきたのかまったくわからない。 彼女の叛意など七乃さんにとっくに捕まれていたにしても、今の時点での恫喝は彼女自身の首を絞めるだけのはずだ。 今までずっと、袁術の下で耐えてきた孫策にとって、ここでしくじったら元も子もない。今の会見に、意味があるとは思えないが。 ──周瑜は諫めたはずだ。 それを振り切っているあたり、孫策個人の問題なのだろう。 曹操なら、どんなデメリットがあろうと、自分を曲げず、この状況で100パーセント今の孫策と同じことをするだろうが、孫策ってそういうタイプだったか?「好きになれぬな。あれは。──まるで獣のようだ」「趙雲。そんなことを言っている場合か? ほぼ、七乃殿の死を確信しているようだったが。どこから漏れたのだ?」「いや、本人の勘──だろうな、多分」 蓮華が言っていた。 ──姉の勘は、決して外れないと。 孫策、さすが、三国志の主役級だった。いちいち能力がハンパない。俺たちがない知恵を絞って考えつくした偽装を、勘の一言で見破られてはどうしようもない。 ええと、考えたくないが、読み合いに関しては、曹操を上回るんじゃないのか、もしかして。「ふぅ」 こんなときに、皆の気持ちをほぐしてくれる七乃さんは、もういない。 袁術は、まだひとりで閉じこもっている。 だから、もし、この世界で、彼女に気持ちを届けられる人間がいるとするならば、たったひとりしかいないはずだった。 ──華琳なら、袁術に、どんなアクションをとるだろうか? 俺は、まだ曹操の中で眠り続けている主を思い返して、問いかけてみた。 世界が紫を重ねたような顔を見せて、大地のすべてが眠りについている。 いわゆる草木も眠るような時間。普通なら天幕の中で眠りたいところだったが、敵の本隊が虎牢関にいる以上、夜襲の備えは絶対に必要だった。篝火で辺りを照らし、見回りのみならず、付近の哨戒もしなければならない。 本日は、俺の軍が夜番だった。 昼によく寝ておいたのだが、警戒すべきことは多い。 まあ、沙和と真桜と凪と思春と蓮華に任せれば、うまくやってくれるだろう。虎牢関に依らず、外に埋伏を置いているようなケースをはじめ、考えられる想定外については、詠がすべて挙げて説明してある。不意をつかれなければ、そうそう、この警戒を抜けられるものではない。「おにーさん。まずいことになったかもしれないのですよ」「ん、程昱。なにかあったのか?」「曹操さまが、内通者を疑っているようです」 内通者。 スパイ。 裏切り者だった。 だれかが、こちらの機密情報を、敵に流していると、そう言いたいらしい。「それは、あまり考えたくないな」「しかし、確実にいるといっていいはずです。なにしろ、敵に迷いがなさすぎますし。それぞれの軍において、誰がどれだけの力をもっているかを知っていなければ、大将だけをねらい打ちにして首を狩っていくようなことはできないはずです。こちらがわから情報が流れていると仮定すると、それでいろいろなことが説明できます。すくなくとも、将軍レベルの高位にある人間が、意図的に情報を流しているはずだということですねー。私も同感なのですよ。あとは十六諸侯の誰かが裏切っているのか、それとも曹操軍と兗州軍に裏切り者がいるのか、曹操さまは今、洗い出しにかかっている最中なのです」「裏切り者、か」「おにーさんも容疑者のうちですよ」「……うへぇ、公明正大に生きてる俺に、随分な仕打ちだな」「……疑われても仕方ないと思うのですけど。おにーさんなら、曹操軍と兗州軍、それに孫策の軍と袁術軍と袁紹軍で、それぞれの中心人物と役割がわかっているはず。そのまま、誰を取り除けば効果的か、きちんと理解していますよね」 程昱の言葉に、俺は真剣に考えた。「まあ、そうだが。それだけで犯人扱いは無理がないか?」「いいえ、そうでもないですよ。相手は、ほぼ複数の諸侯の性格から配下の性格まで、完璧につかんでいるみたいですし。それだけの情報をもっている一定以上の地位がある人間、となると、数人まで絞り込めます」 そうだ。 袁術軍において、組織のアタマである袁術ではなく、七乃さんを狙うということ自体、袁術軍にそれなりに食い込んでいなければ出せない結論だった。たしかに、そうなれば、俺も容疑者のひとりとして席を埋めることになる。 ──だれが、やった? こちらの策も陣営もすべて筒抜けなのに、相手側のことは、ほとんどなにもわかっていない。というか、俺はずいぶんとやばい立場にあるということだろう。曹操陣営についている程昱が、泳がせる間もなく、俺にそれを忠告してくれている以上、曹操はさすがに俺がそんな馬鹿な真似をしないと、それぐらいはわかってくれているということか。 しかし、それでもまずい。 俺は、元、董卓軍の軍師である詠をかくまっている。 本格的に調べられたら、隠し通すことはできないだろう。胸を張って、潔白だといえないところに、俺の後ろ暗さがある。 今の時点で、尾行ぐらいはついているかも。 ならば、なにか疑念をもたれるような行動は慎むべきだ。「隊長。ちょいと見てもらいたいものがあるんや。こっち来てや」「ん、なんだ真桜」「ちょっとウチの軍の編成のことなんやけどなー」「あ、ああ、すぐに行く」 俺は程昱との話を打ち切って、外に出た。 見張りの目を避けて、死角にまわると彼女に、耳打ちされる。 俺は、眉をひそめた。「──それは、たしかか?」「まちがいないわ。隊長。ふたりじゃ足りないし、だれか連れてくるのはどうや?」「あまり大ごとにするべきじゃないな。なにが飛び出してくるかわからない。思春、そこにいるな?」 ──ちりんっ。 呼びかけに答えるように、鈴の音がした。「前からおもっとったんやけど、思春さんって、どこに潜んどんのやろ?」「そういうのは考えるだけヤボだと思うぞー。ときたま俺への殺意を感じるあたり、夜道に気をつけるようにと思うけどな」 俺は、息を殺して、真桜がマークしている兵士達の後をつけていた。 まだ断定はできないが、これはさっき言っていたスパイと無関係だとは思えない。 ──三人か。 一人一殺の計算になる。 いや、情報を引き出す必要があるので、殺さずに無力化しなければならない。こういうのは陳留の警邏で慣れているし、真桜に関しても、一流ではないにしろ、戦闘力は常人を遙かに凌駕している。 問題はないだろう。 気配をできるだけ無に近づける。 俺たちが目で追っている三人は、この軍に溶け込んでいた。そして、近くにいた少女と話し出す。その会話は、俺の位置からは聞き出すことはできない。 目立つことは目立つ。 事実、それを見とがめた周りの兵達に誰何されるが、彼女の顔をみて、警戒を緩めたようだった。 しばし会話を続けたあとで、三人は元の配置に戻った。 そして──その三人と会話していたメイド姿の少女の足音を確かめると、彼女の口を塞ぎ、俺はそのまま死角へと引き込んだ。「──なんのつもり?」 俺の腕の中で行動の自由を奪われても、彼女は、いつも通り、不敵な表情を崩さなかった。「なに、大したことじゃない。真桜が、自分が調練している部下の顔を、全員覚えていてな。見慣れないのが三人ぐらいいるって報告してきたから、後をつけたまでだ」「そこまで気がまわらなかったわ。驚かないのね?」「いや、驚いているよ。 ただ、華雄に言われて、見当はついていたからな。はじめは陳宮の策だと思っていたが、華雄の話だと、陳宮にあんな精密で効果的な策は練ることができないらしい。──策ってのいうのは、隠そうとしてのその軍師本人の性格が滲み出るもので、彼女の話だとああいった策は、知る限り、賈文和ひとりしか実現できないということだ」「へえ、長く隠せるようなものではないと思ってたけど、それでももうちょっとごまかせるとおもってたわ。まあ、手抜きして、この時点で恋(呂布)を失うわけにもいかなかったし、ボクのミスってことでいいわよ」「で、──詠。なにをしている?」 俺は、詠の身体を解放した。 後ろでは真桜が見張っているので、逃げることはできない。 詠の戦闘能力は、絶無に近いので、噛みつかれることもないだろう。 後ろでは、ドサッと砂袋が落ちたような音がした。 思春の仕業だろう。さっき詠と会っていた三人が、地面に投げ出されて、気絶していた。真桜が懐を探ると、封をされた封筒が出てくる。さっき、彼女がこの三人に渡していたものだった。送り先は、当然、董卓陣営だろう。「……ああ、ほんの少しだけ、誤解と行き違いがあるみたいね」「──誤解?」「あんたのことだから、私が月(ゆえ)のために、この軍に死間(殺されることを前提としたスパイ)として潜り込んで、董卓陣営に情報を流していたと思ってるんでしょ?」「──違うのか?」 ──公孫賛の軍と、兗州軍と、袁術軍を壊滅させた。 ある意味、そんなことをできるということが、逆説的に彼女が犯人だということを示している。 ここでの密会を押さえたこともあり、動機も十二分にある。 状況のすべてが、彼女が犯人だということを示していた。 どのような奇蹟を使っても、ここから逆転できる要素など、見つかるはずもない。「言うべきことは、よっつほどあるけど。 まずひとつめ。たしかにそうよ。この虎牢関の戦いの絵図は、私が描いたものになるかしら。あえて、もう少し分かりやすく言いましょうか。大将軍七乃は、ボクが殺した。ええ、それで間違いないんじゃない?」「なぜ──?」 多分、それは一番否定してほしかったことだった。 問いに対する返事はない。 俺の問いに、詠はただ首をすくめただけだった。 「そしてふたつめ。私が届けようとした、この三人に今渡した封筒。あんたはこれを董卓陣営への内通文書だと思っているようだけど、それは間違いよ」「だったら……」「中身、見てもかまわないわ」「………………」「宛て先はたしかに董卓陣営だけれど、そこからさらに陳宮に、別のところに送れと書いてあるわ」 俺は、無言でその封筒の封を破いた。 詠の言ったことに、矛盾も、間違いもなかった。 封筒の中には、たしかにそう書かれた指示書と、そして、もうひとつは、馬超の軍にあてられた、手紙だった。いや、宛先は、韓遂となっている。 韓遂。 馬超の父の馬騰と義兄弟の契りを結んだ仲であり、この世界では、馬超の後見人となっているらしい。 書かれている内容を見る限り、ご機嫌伺いの手紙のようだった。 差出人の名は、陳宮となっていた。ただ、異様なのは、その手紙は、大事そうなところの文章が、一部、墨で、黒く塗りつぶされていた。「偽手紙、か」 史実に、そのまま、馬超と韓遂の仲を引き裂くのに、賈駆がそのまま『偽手紙』という謀略をつかったとされている。 ──離間を仕掛けるということだろう。 馬超と韓遂の、ふたりの仲を裂けば、西涼軍の戦力は半減する。 これにより、史実においては、馬超と韓遂の仲は修復不可能なものになった。「策は、こうか? 陳宮に任せて、あえて不必要な大人数で、韓遂のところに使者を送る。どんな馬鹿でも、明らかな敵が、腰を低くして韓遂だけを尊重すれば、どうやっても、同盟相手の馬超に疑念を抱かせることができる。止めにこの手紙。 あからさまに馬超にこの手紙を渡す場面を見せておけば、馬超は韓遂に手紙の内容を見せることを要求する。 そして、手紙はこのとおり、ところどころ不自然に塗りつぶされた後がある。韓遂は最初から塗りつぶされていたと主張するだろうが、まあ、それを信じるやつはいない。誰でも、自分にとって不都合な内容を塗りつぶしたと解釈するだろう」「……よく、わかったわね」 詠が目を剥いていた。 自分の策を、ここまで完璧に言い当てられるとは思わなかったのだろう。 俺も、この世界にきてようやく、はじめてマトモに、三国志の知識が役立った気がしていた。 しかし──その手紙の内容は、疑惑をより深めるものだった。 信じたい気持ちは強い。 短い間でも、ずっと一緒に戦ってきた。 裏切られたなんて思いたくはない。けれど、どう検分しても、詠が裏切っているとしか思えない。「そして、みっつめ。ボクは、別にあんたを裏切ってはいない。というより、陳宮が勝手に袁術軍を攻めたのよ。北郷一刀と大将軍七乃の仲は陳宮に報告を挙げておいたから、陳宮はそれを逆利用したつもりなんでしょうね。 結果的に見れば、ボクが大将軍七乃を殺したようにみえるもの」「だから、それがどうしたんだ?」 それは、あまりに稚拙な言い訳だった。 そうだ、言い訳にしか思えない。 自分が悪くないなどと主張されても、その策の犠牲になって、七乃さんは死んでいる。「ええ、だから、万が一にでも裏切らないように、陳宮としては、ボクの退路を断った、そういうつもりでしょう。保険をかけるあたり、陳宮も侮れないわね。まあ、ボクはたった今、その陳宮の策を逆利用しているわけだけど」「──逆、利用?」「ええ、あなたが、今、ここで、大将軍七乃を殺したことを許してくれれば、それだけで陳宮の策は意味をなさなくなる。ええ、とても簡単なことでしょ。まさか、七乃さんを殺したことを、あんたが許すなんて、陳宮は夢にも思っていないだろうし、それを基盤にして、陳宮の裏をかくこともできるわ」「俺が、そんな取引に応じるとでも思うのか? あれだけの犠牲を出しておいて」「あれだけ? だから、最小限の犠牲に止めておいたじゃない。『ボクとあんた』の、個人的な私憤で、そうなんの罪もない兵士を殺すのもはばかられたし、将の首をいくつか貰って、軍ごと壊滅させただけで、一般の兵士にはほとんど被害は出ていないはずよ。 別に、あなたを除け者にしたわけではないし、あなたが信頼していないわけでもない。あんたの心ひとつで、これから何人死ぬかが決まる。私としては、あんたをこれ以上なく高く評価しているのよ。 ──ここで、激情にかられてボクを殺すようなら、最初からボクだって、こんな策をたてないもの」 俺は、それで覚悟が決まった。 詠の、その喉もとに剣を突きつける。「言いたいことは、それだけか?」「………………」 彼女の、冷ややかな瞳が、俺を見つめていた。 詠は、俺の口を塞ぐのに、これ以上の理屈を積み重ねなかった。 彼女は、 これ以上言い訳をするのでもなく、 命乞いをするのでもなく、 ──ただ一言だけを呟いた。 そして── その後の、たった一言で、俺の喉まで出かかっていた呪詛と、反論のすべてを封殺した。「──裏切る気?」「なに──?」 一瞬、なにを言われているのが、わからなかった。「そして、これがよっつめだけど、勘違いしているみたいよね。曹操軍にもぐりこむ関係上、表面上はあんたの部下っていうことになっているけど、ボクとあんたの関係は対等なはずよ。あんたとボクが交わした契約は、全力であんたの勢力作りに協力するってことだけだもの。ボクがどんな裏工作をしようが、それがあんたの邪魔にならない限り、ボクの策に口を出せない。そういうものだと、思っているけれど」「………………」「ボクは、絶対に妥協なんてしない。どんな手段を使っても、月(ゆえ)を助けてみせる。かつての仲間を裏切ろうと、どんな悪辣な手を使おうと、いざとなったら、どれだけの兵の屍を晒してもよ。大将軍七乃の死ひとつで立ち止まる、あんたとは違うわ」 ああ──そうだ。 俺よりは、彼女のほうがずっと、天秤に乗せているものは多い。 この先に立ちふさがるのは、すべて彼女の、かつての仲間と、その部下だった。悪夢じみている。想像するだけで、全身がふるえた。「──あんたとボクは共犯関係にある。誰が死のうが、どこの軍が壊滅しようが、どうでもいい。私には、もう、どうでもいいのよ。 反董卓連合も、張遼の洛陽本隊も、馬超の西涼軍も、呂布の虎牢関防衛軍も、最後には──すべて共倒れにさせるつもりなんだもの」 凄まじい宣言だった。 あらゆる諸侯が頭脳と血を振り絞るなかで、彼女だけがただひとり安全な場所から戦局を眺めている。 詠の策がどれだけ無残に打ち破られようと、彼女にはなんのダメージもない。「そして、最後に勝ったひとりを、ボクたちで始末する。とても現実的で、一番楽な方法でしょう? だから──」 ボクに協力するつもりがないのなら、せめて邪魔だけはしないで。 夜の闇に消えていく彼女の背中に、俺は、なにを言えなかった。 次話 → 『断金』