袁術軍の十絶陣は、すでに第七陣まで打ち破られていた。 掲げられる呂の旗の前に、元々大混乱に陥っていたところを、さらに呂布の正面突破が加わる。 最小部隊(弩士一名、戟士二名、剣士二名)をいくら重ねても、いささかのその突進力は緩まなかった。呂布軍の一斉突撃は、集団の中に、四トントラックをいくつもぶつけているようなものだ。 ──ただ、理由もなく、粉砕される。 寄せ集めとはいえ、袁術軍の擁する40000の兵力をもっても、呂布軍の中で精鋭だけが集っている5000を止められない。 堅牢なはずだった、袁術軍の十絶陣が、混乱のなかで、ズタズタに引き裂かれていた。 ──呂布は思う。 突破力は、誰にも劣らない。戦場で死なせないために、苛烈な調練を強いてきた。この軍は四日間までなら、水と塩と、携帯したわずかな干飯だけで行軍できる。(ちんきゅの策は、すごい) 呂布は、舌を巻いていた。 自らの武だけでは、これほどまでにたやすく袁術軍の十絶陣を突破できない。 戦場を駆ける呂布の姿は、まるで鬼神そのものだった。後に続く騎兵隊を自らの手足のように使っている。迎撃に出てきた袁術の騎兵隊に、彼女は方天画戟の一撃を、返礼とした。 ──鎧袖一触。 鎧の袖が触れるだけで、周りのすべてが薙ぎ払われる。 血しぶきが舞う。 輪切りにされた人体が地面に落ちるよりも速く、呂布が方天画戟を振るうたびに、二桁に相当する数の歩兵が挽肉に変わっていく。 すでに確認していることだが、袁術軍に、対騎兵用の装備と準備はない。鹿砦(ろくさい)の設置には、場所の選定をはじめ、いくらかの時間がかかる。いくら大将軍張勲(七乃)が切れ者といえど、移動中にその類の準備を整えることは不可能だった。 それでも、このまますんなりと目的の首を取れるはずもなく、奥の手のひとつやふたつは、用意してあるはずだった。 そして、ここまでくれば呂布にも、相手側の切り札の想像はついた。 この時代における歩兵の最小の部隊人数は、五人。弩士一名、戟士二名、剣士二名である。しかし、見える範囲では、弩士の姿が極端に少ない。 攻撃の基本となる弩士を部隊編成から外すことは、まず考えられない。 時間をかければ、数に勝る相手に殲滅される。だから、こちらの策が袁術軍の頭を潰すことであるということは、すでに看過されているはずだった。 この情報を踏まえたうえで、大将軍七乃がとるべき策はなにか。彼女は、いくつかの可能性を思索した。(──想像は、ついた) そのあとで── 彼女は、自らの愛馬の鬣を撫でた。 龍蹄──赤兎。 詩に──九天より飛び降り来たる火竜と詠まれることになった──最速の汗血馬である。これに較べればどんな馬も見劣りするし、その威容は旗から見て、あまりに目立ちすぎる。天に向かうような鬣(たてがみ)には、雑毛が一本もない。全面埋伏の際には、全身に黒い布を被せていたせいで、あまり目立つ動きができなかった。ようやく、飛将軍といわれた自らの武勇が、十全に発揮できる。「──行くよ、赤兎」 乗り手の意志が手綱から伝わった。短い嘶きと一緒に、速度が上がる。 周りの風景が、斜線に落ちる。 空気の質が変わり、呂布は視線をあげた。 彼女の前方に、『袁』の大将旗が、聳え立っていた。 袁術軍の、本陣。 あそこを強襲すれば、袁術軍四万を、そのまま無力化できる。 本陣の抵抗は激烈だった。 ここまでくれば、どちらの兵士にも、後退は許されない。 左右の陣から一斉に放たれた矢の群れが、凄まじい勢いをもって飛来する。左右の方陣からの矢を、呂布軍はあえて、そのまま受けた。 ──三発目までは、撃たせる。 呂布軍の精鋭は、血を流し、声を上げずに死んでいく。致命傷を受けた馬が膝を折った。次々と脱落していく部下を前にして、呂布はただ耐えることで受け流した。ただ陣形をまとめ、小さくまとまっている。 ──けれど、四発目は撃たせない。 圧倒的な速度。敵の陣地がみるみるうちに近づいていく。どれだけの犠牲を払おうと、ここで首をひとつとれば、勝ちがみえる。 呂布は、背負った強弓を構えた。弓弦が、半月を描き、限界まで引き絞られる。目方400斤の、大人五人でようやく曳けるそれを、彼女は自らの両手のみで扱っていた。筋肉が軋む。精神が深いところに沈んでいく。唸りを立てる空気も、周りで繰り広げられる戦場の喧噪も、向けられる殺気も、死にゆくものたちの断末魔も、呂布の耳には入らない。 二発目は、ない。 この厳戒態勢だ。一度目を失敗した瞬間、こちらの狙いを悟られるはず。(──、一撃で、終わらせる) 呂布の距離から、袁術の姿は伺えない。本陣には、流れ矢を防ぐために、小姓が大盾を構えている。狙える隙間などほとんどない。もとより、あの大将軍が、自らの主を危険にさらすはずがない。 けれど── その分、大将軍七乃本人は、無防備に近かった。 全軍の指揮のために、馬上で全身を晒している。弓の射程距離には、まだかなりあるという判断だろう。 ──けれど、この強弓ならばその考えの死角を突ける。呂布にとって、ここから彼女を狙撃することなど、飛ぶ鳥を射落とすよりも容易いことだった。(いいですか。恋どの。狙うのは、大将軍張勲の首ひとつ。彼女の首をとるだけで、袁術軍は終わるのです。なにせ、軍事の総指揮から兵糧、内政のすべてと、兵の調練から、軍師としての役割まで、彼女ひとりが総括しているのですから。あの大将軍張勲さえいなくなれば、たとえ袁術軍が何十万の兵をもっていようとそれは烏合の衆。恐るるに足りません。恋どのー。吉報をお待ちしておりますぞーっ) これまで、陳宮の策に、間違いはなかった。 そして、これからもだ。 呂布は、米粒ほどの的でも射抜く自信はあったが、全身を晒している七乃自体、大きな的だった。し損じることはまずない。ここから目標まで、およそ半里(200m)。この一射で、終わりだった。 ──風切音が、鳴った。 一条の矢が、大気を引き裂いて、呂布の手からはなれた。 誰にも視認できない速度。 ──的中。 放たれた矢は、狙いを過たず、大将軍七乃の鎧の中心に命中した。結果は見るまでもない。この矢は、鋼鉄にすら突き刺さる。あんな鎧で、この矢を防ぐことはできない。一秒後に、馬上から、ぐらりと、糸が切れたように、大将軍七乃が崩れ落ちた。 「──全軍、突撃」 呂布の合図と共に、全軍が、本陣に突撃をかけた。即席の柵を、縄をかけて引き倒す。障害物はない。袁術軍は、大将軍を失い、すでに組織という体を成していない。それでも、万が一がある。本陣にいるのは、袁術をはじめ、組織の中核をなすだけの力をもった人物だった。大将軍張勲に信頼されていないために、その能力を使いこなせていないにしろ、他の陣営に奔らせるわけにもいかない。 月(ゆえ)の障害になるものは、すべて取り除いておかなければならない。これからはじまるのは、戦争という名の、一方的な虐殺だった。(あ、恋どの。袁術は生かして連れてきたほうがいいかもしれないのです。捕虜交換として、交渉に仕えると思うのです) 出陣する前に、陳宮に言われたことを、思い出す。 前方は混乱して、すでに陣形もなにもない。歩兵はすべて逃げ去って、そして──そのあとの光景に、呂布は目を疑った。まるで陣形の薄皮を剥ぐように、整然と三列に並んだ弩隊が現れた。 ──完全な埋伏。 (──罠に、かけられた!?) 呂布の驚愕と同時に、「撃てッ!!」 ほとんど無傷で、立ち上がった大将軍七乃が、配下の弩隊に、命を下す。 かき集めた1000の弩兵が、一斉に矢を放った。ありとあらゆる方向から飛来する矢が、呂布の軍勢を横殴する。むろん、七乃には、万全の策を組む余裕はなかった。ここで、弩兵があと1000あれば、呂布の軍を一兵残さず殲滅することもできただろう。ゆえに、七乃の、『現時点での』策は、ここで尽きた。 「なんだ、その鎧?」 呂布が、探るような目を向けている。 呂布は、すでに本陣に踏み込んでいる。後方はともかく、本陣に一度踏み込んでしまえば、矢など射かけられるものではない。すでに、七乃の命は呂布に握られているといっていい。 それでも──呂布が手を下せないのには、理由がある。 七乃は笑った。 呂布の軍は、敵の本陣で、孤立した形になっている。真っ直ぐに本陣を突かれたが、時間を稼げば稼ぐほど、袁術軍が有利になる。 それは呂布もわかっているはずだ。だが──その千金のような時間を消費しても、呂布には、確かめておかなければならないことがある。 自らの武勇を誇るような人物ほど、なぜ──自らの一撃が通用しなかったのか、その疑問に耐えられないはずだった。ハンパな一撃ではなかった。強弓での遠距離射撃は、呂布の切り札に等しい。どんな例外でも、認めるわけにはいかない。 偶然なのか。 必然なのか。 二度、同じ事ができるのか。 それとも、あれは七乃だけに許されるのか。 ──その秘密は、七乃の着ている鎧にあるはずだった。 「さすが、呂布さん。気づきましたか。この鎧は、矢なんて通さないんですよ」 呂布は、ここで今すぐ、大将軍七乃を討ち取るべきだった。 それでも、一度口を開けば、最後まで聞かずにはいられない。戦場の雰囲気を塗り替えて、そういう空気を作り出すのも、駆け引きのひとつである。「なぜ?」「はい。答えてあげます。これは、曹操さんの倚天剣や、北郷さんの青釭の剣と同じ材質である百煉鋼で作られた、筒袖鎧(とうしゅうがい)という鎧です」 呂布の連環鎧や、曹操軍に正式採用されている魚鱗鎧とも違う。 いわゆる西洋のスケイルアーマーだった。それも、三国志最高の切れ味を誇る青釭、倚天と同じ材質で作られている。 百煉というのは、鋼鉄の品質のなかで、最上のものとされる。 鉄を折りたたんで鍛打する工程を『煉』といい、良質のものを『三十煉』、皇室やときの為政者のために献上する最上級のものを『百煉』という。特に、『百煉』の鋼でつくられた武具は、宝剣やそれに等しいものとして、扱われることになる。 一刀の使う青釭の剣なら、一枚の鋼をひたすら鍛えればいいが、この鎧は筒状の袖のすべてがオーダーメイドで重ね合わせてある。国を傾けるだけの金と気が遠くなるほどの複雑な工程と、領土すべての職人の数を注ぎ込んで、ようやく完成した代物である。「私が彫り上げた美羽さま人形を売って作った軍資金で、お嬢様はこれを送ってくださったんですよ。私が戦場で傷を負わないようにって。私としては、杏仁豆腐でできた城とどちらにしようかすごく迷ったんですけど。──ああっ、七乃はお嬢さまの愛で、できていますっ!!(← 七乃、ヘ ブ ン 状 態 ッ !!)」 七乃は、キラキラと瞳の中に星を飛ばしたままで、自分の腕で自分の身体を抱きしめていた。思わず、背筋を奔り抜ける快感に、身を震わせている。「わかった。──おまえ、もういい」「はぁ、呂布さんが風情がないですねぇ。お断りします。さて、お嬢様がさびしがっていると思うので、私はこれで失礼します。後悔は、冥土でやってもらえますか?」 ほんの少しの、時間的な空白。 ギリギリだったが──間に合った。 援軍。 左翼の指揮をつとめていた華雄隊5000と、右翼の指揮をつとめていた趙雲隊5000。そのふたつが、左右からそれぞれ、真っ直ぐに呂布の首をめがけて、つっこんでいった。「呂布か。同じ戦場を駆けたのも昔の話。今の私は、袁術軍の将だ。是非もなく、首をもらう。死んで恨むなっ!!」「七乃殿も、無事なようでなりより。洛陽で会って以来か。呂奉先。天下無双の技の冴え。この常山の趙子龍が受けてやろうっ!!」 左右二方向からの同時攻撃。 すでに、七乃の手のひらの上で、状況が推移している。華雄の金剛爆斧。人の背丈ほどの大岩を、コナゴナに打ち砕く一撃が、凄まじい勢いで迫る。それと同時。右から来たのは、趙雲だった。手に馴染んだ朱槍が、呂布に光の速さで襲いかかる。共に必殺。どちらを喰らっても、ただではすまない。 そして、正面から、だめ押しのように、 七乃の差し出す、閃光がひらめく。 ──袁術親衛隊正式採用鋼剣が、呂布の喉元に向けて、突き出された。「──どう、して?」 口から血を吐き出しながら、七乃は呆然と呟いた。 完璧なはずだった。 負ける要素は、なにもない。 大岩を粉々に砕く華雄の斧を、呂布はたった二本の指で止めていた。だがそれで──終わりだ。 たとえ呂布といえど、この態勢から趙雲の槍の神速は躱せない。 たとえ避けても、二発目、三発目が、矢継ぎ早に繰り出される。故に、右からの趙子龍の槍を、呂布は、あえて無視した。 目的を見抜かれたということだろう。 ここは、呂布の足を止められれば、それでよかった。ふたりの率いてきた趙雲と華雄の騎兵隊で押し包めれば、それで呂布はともかく、呂布の軍に、生還の目はなくなる。 ──詰みだった。 ここで、ただ呂布を足止めするだけで、袁術軍の勝ちは決まる。 血しぶきが舞う。 趙雲の槍が、呂布の腹を貫いた。 が、致命傷には遠い。 ──脇腹を、急所を避けてわざと貫かせていた。それに、どれだけの速度をもっていても、一度完全に突き刺した槍は、引き戻せない。 そして、この時点で、呂布の利き腕はなんの拘束も受けてはいない。趙雲の槍を受けるのに使うはずだった利き腕で、呂布は正面の七乃を迎撃した。 この角度ならば、突きはない。 呂布はただ、横に払うしかない。 一撃なら、耐えられるはずという七乃の確定予測を裏切って、方天画戟の刃は筒袖鎧を泥の塊のように刺し貫き、彼女に致命傷を与えていた。「──え?」 それは、彼女の予測にはない。張力750キログラムの超強力弩でも射抜けなかった、稀代の宝鎧。たとえ、呂布の方天画戟が、同じ百煉鋼で作られていたと仮定しても、これほどの切れ味を付加することはできない。「おまえ、強かった」 呂布は、華雄の金剛爆斧を二本の指で横に捻った。それだけで、彼女の体が宙に投げ出される。最初の一撃に全力をこめていた華雄に、それに抗うすべはない。 呂布は趙雲から距離をとると、血で塗れた腹腹を触った。思った以上に、傷が深い。すぐに動けなくなるということはないが、手当てしなければ、命が危ない。「目的は達した。撤収する」 大将軍、七乃の死は、袁術軍の壊滅と同義である。 袁術軍に軍師はいない。それは、曹操軍に死間(死ぬことを前提としたスパイ)として、入っている詠からの報告でわかっている。 呂布は、七乃に対して、心のなかで、最大の敬意を抱いた。 彼女が、『切り札』を、戦場で使ったのは、これがはじめてである。こんな些細な負傷も、七乃の首を天秤にかければ、充分におつりがくるほどだった。 結論を言うならば、七乃の判断に間違いはない。油断があったわけではない。ただ──彼女は呂奉先が、なぜ『飛将軍』の名を冠されているのか、そして──数々の異名の中から、なぜその異名を好んで使っているのか、そこまで洞察が及べば、あるいは別の可能性もあったかもしれない。 ──とある、伝説がある。 ──虎となして、これを射る。 『前漢の飛将軍』、李広の逸話であり、呂布の飛将軍という名は、ここからとられている。李広は、代々弓術の家系に生まれた。そんな彼がある日、狩猟にでると、草むらのなかにうずくまるものを見かけた。てっきり虎だと思い、矢を射かけると、矢はそれに突き刺さった。李広が落ち着いてそれを見てみると、虎だと思ったものは、ただの石で、矢はそれに突きささっていた。 石に矢が突き刺さる。こんな話は聞いたことがない。が──しかし、それから、いくら同じ事を繰り返しても、二度と石に矢が突き刺さることはなかった。 矢が突き刺さったのは、獲物が虎だという確信からで、信念さえあれば石をも貫けるという故事となって、現代にも残っている。一心、岩をも通す、という言葉は、この逸話からでた言葉である。 呂布のその力は、彼女自身にとってもわからないことだらけだった。李広がその神技を残せたのは生涯にたった一度きりで、矢は二度と石に刺さらなかった。 だが、呂布の神技にそのような制限はない。 彼女の人生の中で、この『切り札』が必要なほどに、自らが追い込まれたのは、さきほどが初めてだった。 陳宮が調べてくれた逸話と、彼女の能力が符合しただけの話。 故に、呂奉先が、李広『ごとき』の異名である『飛将軍』の名を名乗っているのは、そのためだった。 そして、呂布は煮えたぎる悔恨の中にいた。 ──はじめの一撃。 半里(200m)先からの遠距離射撃。あの時点で、彼女がこれほどの精神状態に達していたのなら、油断も慢心もなく、筒袖鎧など貫き通して、最初の一矢で終わっていたはずだ。 すくなくとも、敵の射線に引きずり込まれて、騎馬隊の四割近くを失うような無様はやらかさなかった。(次は、ぜったいにないッ!!) 三国最強、呂奉先。 これほどの力を従えても、できないことはある。部下を救えないこともある。まだ彼女は、果ての見えない、武の途上にいた。 黒い塊が動き始めた。 弩の一斉射撃で数は減らしたにしろ、まだ呂布軍は、半分以上が無傷である。あれの一斉突撃を喰らった瞬間に、今度こそ、袁術軍は壊滅する。「七乃っ!! 七乃っ!! しっかりするのじゃっ」 薄れゆく意識と、冷えていく自らの身体を理解しながら、七乃は複数人の手で馬上に押し上げられているのがわかった。筒袖鎧は、すでに脱がされている。もう、自分一人で自分の身体も支えられない。筒袖鎧を裂いて、刃は心臓にまで届いていた。だから、渇いていく自分を自覚しながら、七乃は思う。最後に、最後に、ひとつだけ、お嬢様に、気持ちを伝えさせてください──と。「……お、お嬢様? お怪我はありませんか?」「わ、わらわのことなどどうでもよいっ!! て、敵がすぐそこにきているのじゃ。いまなら、まだ逃げることができる」「……お嬢さま、──七乃は、ここまでです。私を置いて、ここから逃げて……くださ……い」「なにを言う、そんなことができるわけがなかろうっ!」「いい人生でしたよ。お嬢さまと寄り添えて。だから、お嬢さまも、答えを……出さないといけないです」「な、ななの?」「お嬢さまは人の上に立つひとです。生まれたときから、それを強制されてきましたよね。かしこいお嬢さまなんて、お嬢さまじゃあないとずっと思ってきましたけど……さいきん、考えがかわってきたん……です」「………」 袁術は、黙って聞いていた。 おそらく、七乃と最後に交わすべき会話を、このまま終わらせるわけにはいかなかった。「だから、……あの世で、私の主人を誇らせてください……ね。私のお嬢さまはすごいんだって。だから、お嬢さまに仕えたことを、私に、後悔させないでください」 そこが、リミットだった。 趙雲は、馬上に袁術を引き上げた。懐に抱く。 背後からの圧力だけで、心臓が止まるようだった。ここにいるだけで、心臓が切り刻まれているような気がしている。 馬を奔らせた。 振り返る余裕はない。 呂布の騎兵隊は、もう目と鼻の先にいる。「七乃。待て、七乃が、まだ──」「お嬢様は、もう、七乃がいなくても、大丈夫ですよね?」 それが、彼女の、 最後の、言葉になった。 ふっ──と、七乃の体が、糸の切れた人形のように馬上から転げ落ちた。 視線だけが、つよい意思をこめて、ただ忠誠を誓った主を見つめていた。 追撃してくる2000の騎兵に、抗う気力も方法もなかった。七乃の身体が、地に落ちた。地面に横たわった彼女の身体が、馬蹄にかけられて踏みにじられていく。「あああああああああああ──」 袁術は、たしかに、その一部始終を目に焼き付けていた。七乃の身体が、ただの肉泥になるまでに、さして時間はかからなかった。あとは、黒の大軍に蹂躙され、彼女の死体すら見えなくなっていった。 以上が、袁術軍、壊滅までの一部始終である。