汜水関は、狭きを重きとして設計された、天下の要害である。 四方を断崖絶壁に囲まれた死地に存在しており、一塊が何十メートルもある大岩が、延々と積み重なって絶壁を作っている。 ここにいる全員が生を受ける遙か以前から、風雨に耐え、悠久の時間を経て、なおそのカタチを崩していない。見ているだけで、圧倒された。人の力では、何万人寄り集まってもこの自然の芸術は再現できないだろう。 それは、戦略的にも大きな意味をもってくる。 この汜水関だが、大軍を展開する隙間はそうなく、一度に送り出せる兵力は、20000が限界だった。包囲殲滅には相手の兵力の10倍。そして、城攻めには、防衛側の兵力の5倍の数が必要といわれている。 ──つまり、相手側は汜水関に最低で4000の兵力を貼り付けるだけで、こちらの反董卓連合20万の動きをすべて封殺できる。「それで、うちの軍師の意見を聞いてみたいんだが、この状況、どう思う?」「?」「いや、そこで不思議な顔されてもな」「ぐー」「寝るなっ!!」「おおっ。びっくりしました」 口調とは裏腹に、まったくもって、びっくりなどしていなかった。 なんだこのゴーイングマイウェイっぷりは。 同じ軍師だとしても、詠とタイプがまったく違う。いまいち、この不思議娘との距離感が掴めないところでもあった。 ──程昱(真名、風)。 俺が指揮する北郷隊5000の、軍師だった。 曹孟徳が、俺を監視するために貼り付けたとはいえ、三国志の中でも十指に入る軍師である。そう、程昱だが『まだ』──俺の味方だった。使えるところでは使っておくべきだろう。「……そもそも、籠城というのは兵法の中で、最も下策と言われています。援軍がこなければ戦略的に意味をなさないし、基本的にただ敵をそこに縛り付けられるのみ。そんな状況自体、戦史を紐解いてみてもそんなに多くありませんね」「ふむ」 程昱が、今の状況を分析していた。「でも、おにーさん。この場合は、その他もろもろの理由に目をつむってでも、敵は籠城策をとるべきなんです。なぜだかわかりますかー?」「籠城は下策っていうけど、こちらが相手よりさらに下の策を使っているからだろ。こっちは、大軍をただ集めただけで、結束どころか、他の勢力と協力しあう動きすらない。袁紹を盟主に仰いだとしても、いったい誰が従う事やら。というか、この場合、戦わないことが最上の策なのか。なにもせずに籠もっていれば、三ヶ月後にはこの軍勢は半分以下になっている。烏合の衆ってのはこういうのを言うんだろうなぁ」「あ、はい。そのとおりですねー」 詠が言っていた考えをそのまま言うと、程昱はコクコクと頷いていた。 つまり、こういうことである。 大軍に策など必要ないというが、それは裏を返せば、大軍はただ正面突破しかできない。 例えば、この場合、洛陽に至るにはこの汜水関、虎牢関を抜ける最短の方法と、ぐるっと南から迂回する方法がある。 けれど──ここまで軍勢が膨れあがってしまえば、事実上、南の迂回経路など方策に組み込めない。 補給の問題点もあるにしろ、一番の問題は統率だった。 そもそも、準備期間が短すぎる。兵の質にばらつきがあるし、そんな連中を率いて街を通り抜けて進むのである。悪夢としか思えない。略奪は起こるだろうし、最悪内紛でも発生し、洛陽にたどり着くこともなく全滅しかねないからだ。 これほどの大軍を総括する方法はただひとつ。 諸侯と兵士たちの目先に、常に攻略目標を吊り下げつつ、今、自分が行っていることに疑問を抱かせないようにすること。 こちらの方策は、正面決戦しかない。 なら、相手側はそれをスカせばいい。敵がまともに戦おうとしないこと。ただそれだけで、こちらは勝手に自壊する。俺たちが恐れているのは、それだった。 袁紹の檄文に応じ、大陸全土からこの汜水関に布陣している英雄諸侯とその兵士たちは、20万にも及ぶ。見渡す限りの中華の大地を、兵士たちが隙間もなく埋めていた。地平の向こうまで、翻る旗の数と尽きることのない人の群れは、俺にただ危うさしか感じさせなかった。 ──この反董卓連合を、壊滅させる方法。 詠は、今の時点で20を越える方策があると言っていた。 うちの軍師ながら、相変わらず想像を絶するほどの有能さである。 詠があのまま董卓ちゃん側についていれば、こちらはただの烏合の衆、あっさり壊滅させられていたような気もする。 あ、ちなみに、俺が詠に一番効果的な手段は? と、訊くと──「一番犠牲が少ないのはもちろん離間だけど、一番効果的というなら、洛陽の街に引き込んでの決戦でしょうね。統率もろくにとれていない兵士たちに洛陽を略奪させ、その隙に攻勢に出る。古今東西、首都に兵を入れて統率を保てたのは、高祖の軍ぐらいよ。洛陽を灰燼に化してもいいなら、こんな寄せ集めの兵ぐらい簡単になぎ払えるわ」 ──わあ、さすが謀臣。 言うことがいちいち物騒だった。 ちなみに豆知識だが、史実だと賈駆は、董卓の死後に壊滅状態にあった漢王朝を、ほぼひとりで切り回していたとされる。董卓と賈駆は、史実において、取り上げるほどのエピソードがあるわけでもない。この世界において、詠が董卓ちゃんの軍師をしているのは、その功績を買われてのことなのだろう、おそらく。 とりあえず、詠と程昱をそのまま使えるのが、俺の最大のアドバンテージだった。これだけで、相手が名の知れた英雄だとしても、互角以上にやりあえる。 指揮官には、後の、魏五大将軍である凪(楽進)と、沙和(于禁)。それに存在がチートそのものの真桜(李典)と、単独の武力のみなら呉の将軍の、いや、今の曹操軍のなかでも最強である思春(甘寧)、三国志最大の内政能力をもつ蓮華(孫権)。 今の時点で、我ながらよくこれだけかき集めたなと思うほどの、最強の布陣だった。 俺は、汜水関の城壁の上に腰掛けながら、思った。 確たる理由も、率いる主もなく、本気で漢王朝の未来を考えている人間などどれほどいることか。誰もが、貧乏くじを引かされることを恐れている。結束にヒビを入れてやれば、簡単に終わるだけだった。 袁紹の檄文に応じ、皇帝の勅命という大義があるにしろ、本当に命を賭けて洛陽を奪回する諸侯がいるのかどうか、疑問符がつくところである。 さて── 前置きが長かったが──ここからが本題である。「で、問題は」「はい。なぜ、その上で、汜水関がこれほど簡単に破れたのか、ですねー」 急展開で、悪いが。 ──つまり、汜水関は、すでに陥落していた。 俺たちは、まだ飛び散った血痕が真新しい城壁の頂上にいる。 敵はすでに四散して、近くに見えるのは、輜重を運び、陣を作って兵を休める味方の兵士たちだけだった。亀の甲羅に閉じこもった敵を、どう炙り出すのかを散々議論したのだが、それはまったくの徒労に終わった。 先鋒である孫策の軍が、三日かからずに抜いてしまったからである。 むろん、孫策の軍勢が精強であったわけでもなく、相手側にそれほどこの汜水関を守る気がなかったような様子だった。 むしろ、敵の罠の一環ではないかと思われる。 で、なければイゼルローンや、ア・バオア・クーや、ラピュタなみ(イメージ的に)の防衛ラインを、こうも簡単に落とせるわけがない。 ──余裕か、油断か、もしくは、後方でなにか不確定な様子でもあるのか。それとも陳寿あたりの介入か。「うむ、まったくわからんな」 俺は程昱と、メイド服姿で後ろに控える詠に向けて、そう言った。「………………」 詠はただの曹操軍の将軍付き侍従のひとりとして、この戦に付き添わせている。こっちの軍で、顔を知っているのは、曹操と季衣と流琉のみ。使い古されてはいるが、その分効果的な策だった。 メイドが実は黒幕の軍師だったんだよ、と──むしろ、これを見破れるのなら、それは賢いとか神算鬼謀とかを通り越して、ただの精神異常者である。「まあ、出立は明日だ。情報収集というか、見知った顔に挨拶してくる」 大陸のほとんどの群雄が、ここに集まっている。 華琳の妹である袁術と、俺の愛人である七乃さんと、蓮華の姉である孫策と、その軍師である周瑜と、華琳の姉である袁紹と、曹操の右腕の鮑信ちゃんと、俺が知っているのはそれぐらいだった。 反董卓連合軍のうち、俺が顔を合わせたことがないのは、韓馥、陶謙、公孫賛、そして彼女の麾下にいるらしい、劉備か。 ここにいるなかで、もっとも警戒すべきなのは、やはり劉備なのだろうか。なにせ、主役である。 三国志の主役。敵か味方かの見極めなどを除いても、純粋に興味があった。現時点で、どれだけの英傑を有しているのかも。関羽と張飛はいるだろうが、孔明はどうだ? まあ、エンカウントするとこちらの身が危ないのは、孫策だったりするが。 盟主を決める諸侯の軍議にも、俺は出席を許されなかった。 俺がいても、なにもやることはなかったけれど。 丁度、食事時である。 あちこちに炊飯の煙が立ち上るなかで、俺はボディガード代わりに季衣と流琉を連れて、そこらへんを廻っていた。これだけ多くの兵が集まれば、それだけトラブルも増える。一般の兵士たちは軍ごとに、自分の陣地が決められていて、そこから出ることは許されない。 当然だった。でなければ、すぐに刃傷沙汰になるだろう。軍隊など、存在するだけでそこにいる兵士たちのストレスを弱火でじっくりコトコトと煮込んでいるようなものである。聞けば聞くほど大軍の運用というものはどうしようもない。 というか、他人事じゃあないのか。うちの軍も練度の高さは折り紙つきだが、いいかげん限界も把握しておくべきだった。「袁紹はいるかー」 というわけで、俺が最初に訪れたのは、華琳の姉である袁紹のところだった。 盟主である袁紹に話を通して、滞在の許可をもらわないといけなかった。盟主のところにいれば、重要人物を見れる機会も増えるだろう。見張りの兵士に誰何され、俺は曹操軍の将軍であることを名乗った。「うううう、あら、北郷さんではありませんの」 袁紹は、フリルで飾り立てられたひときわ大きな大天幕の中で、自作の華琳さま人形を抱きながら痛哭していた。華麗であるはずのこの部屋自体、じめっとした雰囲気に沈んでいる。「ひさしぶりですわね。洛陽で会ったとき以来ですか」「あー、うん。もしかして、この数ヶ月、ずっと悲しんでたとか」「いえ、華琳さんのことは振り切ったはずでしたのですけど、あのチンクシャ小娘(曹操)を見ていると、愛らしい私の妹が、どうしてあんなおぞましい姿に変貌してしまったのかと」 袁紹はおいおい泣いていた。 どうしようか、このひと。 いっそこの際、袁紹といっしょに天幕の隅で膝を組みつつ、華琳のことを思って泣き腫らすのもいいかもしれない、とか思う。「ごめんなーアニキ。麗羽さま、アタマ悪いから」「なんですの、その言いようはぁっ。あなたたちには私の気持ちなんてわからないですわー!!」「ああもう。めんどくさい人だなぁ」 隣で文醜将軍がアタマを抱えていた。「ううん。でも、いつまでもこの調子じゃ困るし。北郷さんに協力してもらって、麗羽さまを立ち直らせようよ」「おお斗詩。さすがあたいの嫁。さすが知力32っ」「文ちゃん。……34だよ?」「なんのことですか?」 流琉は純粋に疑問符を浮かべているようだった。 いや、多分わからなくていいと思う。 すると、文醜将軍は知力27で、袁紹は知力16ぐらいだろう。おそらく。華琳も同じぐらいか。「うーん。それはそれとして、どーするの、いっちー」「そうだなきょっちー。おお、こんなのはどうだ。アニキに、あたいの胸を揉んでもらう。あたいが暴漢に襲われたってことにすれば、さすがに麗羽さまも黙ってみていられないはずだっ」「ぶはっ!!」「だめだよそんなのっ」「だめですそんなことっ」 まったく同時に、季衣と流琉から反対意見が出た。「なんだとぅ、あたいの名案をっ、ああもう。 ここまできたら大奮発だ。斗詩の胸も揉んで良いぜ。さあ、アニキっ。この斗詩のやわらかい胸を見て、我慢できるかっ? うりうり」 悪魔に魂を売り渡したみたく、顔を喜悦に歪ませて、ひひひひひひひひひ、と──喉の奥から声を上げながら、文醜将軍が顔良さんの服に手をかける。「ちょ、文ちゃん。ひ、ひああっっ、そこやめっ。だ、だめだよぉっ」 顔良さんの胸が、文醜将軍の指の形に添ってカタチを変えている。「えーと」 もしかして、俺をダシにしてそれをやりたかっただけか。俺そっちのけで、ふたりだけの百合空間がくりひろげられているんですが。「えーと、季衣。見ちゃだめだからね? 兄さまも、いつまで見ているんですか?」「違うぞ。──違う。我を忘れてたわけじゃあないからな」「華琳さんに言いつけますわよ」「ぶはっ」 いきなりの声に、振り向くと袁紹が立っていた。「あなたたち、私を除け者にして、いったいなにをやっていますの?」「おおっ。さすがあたいだ。出した策がドンピシャリだぜ。田豊に代わって、あたいにも軍師として、戦場で采配とかできそうだなぁ」 無理だから。 後退とか撤退とかができないと采配とかできないから。 袁紹軍壊滅フラグだから、それ。「別に、あなたたちにつられて出てきたわけではありませんわ。さっきから、伝令が呼んでますもの」「ん?」 あ、本当だ。気づかなかった。「も、申し上げますー」「すまんっ。本初はいるかっ!!」 伝令が言い終わらないうちに、飛び込んできたのは見たことのない少女だった。紅の軍袍に、純白の甲冑で身を固めている。特徴はとくになく、普通オブ普通。なんていうかベストオブ普通選手権、三年連続優勝しているのではないかというぐらいの普通っぷりだった。 いや、かわいい女性なのだが。「あら、伯珪さん?」 袁紹は知っているようだった。 はて、こっちの女性が袁紹の真名ではなく、字を呼んでいることからして、伯珪というのが目の前の彼女の字なのだろう。真名ではなく。 はて、伯珪。 ──伯珪。 ──知らんっ!! えーと、本気でダレだろ。さすがに姓はともかく、名や字までは覚えていられない。これで誰も覚えてないような雑魚武将だったら笑う。いや、それはないか。袁紹が覚えているぐらいなので、それなりに名の通った武将であるはずだ。「公孫賛さま、急用ですか」 と、顔良さん。「………………」 ──ああ、公孫賛か。 有名な武将じゃないか。序盤で趙雲を配下にしてたり、劉備と同門だったりと、いろいろ見るべきところはあるが、まず一番にくるのは白馬騎兵の精強さだろう。 味方にすると頼りなく思えるが、堅実すぎて敵には決してしたくないタイプだろうか。少なくとも俺は相手にしたくない。公孫賛の騎馬隊の強さというか、数の多さは、大陸でも有数だろうから。馬超がこの連合に参加していない今、突破力だけなら最強じゃないか? 待て、すると彼女の配下に劉備がいるのか。「いや、急ぎってわけじゃない。けど、今すぐ、見て貰いたいものがあるんだ」 合いの手も、疑問符さえ許さないような、真剣な表情。「なんですの? つまらないものでしたら怒りますわよ?」「つまらないってことは、絶対にない。むしろ、胸くそが悪くなるようなものだ」「はあ。よくわかりませんけれど」 怪訝な顔をしつつ、袁紹はずっと手に持っていた華琳さま人形を地面にそっと置いた。大天幕を出ると、公孫賛さんの手勢だと思われる少女たちがいた。その中のひとりが丁度入ってくるところだったらしく、先頭で天幕を出た俺とぶつかった。「ふぎゃあっ」 いきなり、横方向に力がかかった。 地面に転ばされ、少女の靴の裏が、俺の顔を踏みつけている。「ああ──益体もない。この私サマの靴の裏側が、どこぞとも知れぬ下賤なものの垢で汚れてしまったではないか。なんだその目は。見られると私サマの美しさに目垢がつくであろう」 ひどく、袁紹よりずっと偉そうな声がした。 地面に顔をつけたままで、俺は、目と顔だけを上に向けた。 ──天女がそこにいた。 蒼天に、黄金で編み込んだような艶やかな髪を靡かせている。曇りもない宝石のような瞳に、桜桃のような唇に、そこからわずかにのぞく真珠のような歯。普通ならただ嫌悪感しか覚えないようなただの薄笑いが、人の心を蕩かす笑みに見えてくる。 ──誰だ? 一目で、高貴な出だと窺い知れる。 本気で、誰だ。 まさか、これが劉備だったりしないよな。「け、憲和ちゃん。ちょ、ちょっとすみません。この子、誰にでもこうなのでっ!!」「なんだ玄徳。このようなものにお前が頭を下げる必要もないだろう」 横にいた、人の良さそうな少女が、俺に向かってぺこぺこと頭を下げていた。 玄徳とか言っている以上、こっちの胸の大きな娘が劉備なんだろうか? 「簡雍のお姉ちゃん。相変わらず、それは無礼だと思うのだ」「は? 簡雍って、これ簡雍か?」 横にいた、季衣と同じ歳ぐらいのちびっこの囁きが、耳に入った。彼女の小さな身体に、おっそろしく不釣り合いな曲がりくねった矛のようなものを背中に背負っていた。えーと、これ──蛇矛か。四メートルほどある武器を扱う武将など他にいないので、やっぱりこのちびっこが張飛なんだろうけど。季衣や流琉といい、ちびっこキャラは巨大武器を使わなければいけないという法則でもあるんだろうか? ──まあ、それはともかく、彼女の口からぽろっと出てきた名前。 ──簡雍。 簡雍って、こっちが正真正銘の脇キャラじゃないか。 俺は魂が口から抜け出たように、じーっと簡雍に視線を注いだ。「うわっ、キモいぞこいつ」「なんだとこんちくしょう」 簡雍っていうのは、史実において、劉備陣営における後方支援全般を司っていたとされる。ほぼ丸投げといっていいその権限の大きさに、「なぜ簡雍をあれほど重用するのです?」 と、新参の文官が劉備に質問したらしい。 で、劉備はしみじみと、昔、故郷で筵売りをしていたことを思いだし、こう言ったという逸話が残っている。「あいつは、昔、俺の草履をよく買ってくれたからなぁ」 劉備は、そうしみじみと言ったらしい。 ──はい、キレイにオチがついたところで。 俺はとりあえず俺を踏んでいる簡雍の足を払いのけた。 彼女は、すこしよろめいたあとで、「なんだ。私サマの靴を舐められる機会など、そうあるわけでもないのに」 この偉そうな態度は本当に偉そうなだけで、自らの美貌以外の、なにを後ろ盾にしているわけでもないらしい。「あなたたち、なにを遊んでますの?」「別に遊んでいるわけじゃないから。ほら、季衣とそこのちびっこも喧嘩するな」 いつの間にやら、季衣と張飛が取っ組み合いなって地面に転がっていた。ぐぎぎぎぎぎぎ、歯を食いしばりつつ腕を組み合わせている。腕に血管が浮かび、歯を磨りつぶすような勢いで両手に力を込めていた。 ──互角。 いや、どちらかというと季衣が押されている。うわ、単純な握力のみなら、曹操軍で最強であるはずの季衣が押されるということは、もう、これはどう考えても張飛しかいない。「だって、このチビがボクの頭のこと、春巻き頭だとか食べたらおいしそうだとか言うんだよーッ!」「こ、こいつが、鈴々のことをチビって言ったのだ。自分だってチビのの上に、ぺったんこのくせに」「じ、自分だってぺたんこじゃないかーッ!!」「ふん、鈴々には桃香お姉ちゃんがいるから大丈夫なのだ。成長したら、お姉ちゃんみたいな胸になることが決定されてるのだ」「………………」「………………」「………………」「………………」 そこで、そこにいる全員の目が、劉備の胸に釘付けになった。 あーたしかに、華琳の四倍ぐらいはある。「な、なんでそこでみんな私のほうを見るのかな?」「いいなぁ」 ぼそっ、と流琉が呟いていた。 ──たしかに、うちの軍でこれを越えるとなると、真桜ぐらいしかいない。「うむ、すべてにおいて優れに優れているこの私サマでも、この胸以外になんのとりえもない平和ボケ娘には勝てぬな」「……はー、まったくなのだ。冗談はおっぱいだけにしてほしいのだ」「ひーどーいーよー。ふーたーりーとーもーっ!!」 劉備が両手を挙げると、簡雍と張飛が逃げていった。「ぐぬぬぬぬぬぬ」「うぐぐぐぐぐぐ」 あ、張飛が無駄口を叩いて背中を向けた隙に、季衣が蹴りを決めて、体勢をひっくり返してマウントをとった。さすが。「──おまえら、私のことを忘れてるんじゃないだろうな?」 あ。 公孫賛の姉さんが、小刻みに震えていた。「ってわけだ。公孫賛の姉さんが見せたかったものってのは──」 日が暮れた後で、主だったメンバーを集めて、作戦会議を開いている。程昱は曹操に呼ばれて、席を外していた。「拷問された、死体?」 嫌なことを聞いたという風に、蓮華が聞き返す。「ん、ああ。初日の小競り合いで、何人か捕虜にとられただろ。うちの軍からも。死体が城壁の裏に晒されるように、両手両足の指がすべて潰されてて、人間の尊厳を穢す方向性で、モノとして壊されていた」 顔は判別不能で、灼けた鉄の器具で、顔の皮を剥がされ、爪は両手両足を問わず、ひとつも残っていなかった。最後には陰茎を切り取られて、口に詰められていたあたり、拷問としてだけではなく、明確な悪意が透けて見えていた。 果たして、ここまでやる必要性があるか? それを語り終えた。周りは、沙和ががくがくと震えているぐらいで、あとはみんなで考え込んでいる。「詠、敵が、ここまで──やる理由はなんだ?」「まず、情報でしょうね。相手側がどれだけの兵力を備えているのか。参戦している英傑たちの名前。こっち側の内部事情とか、引き出さなければならない情報はいくらでもあるもの。これがわからないと、策が練りようがないから」「いややわぁ。西涼の戦ってこんななん?」「そんなわけないでしょ!? どういうことかしら? 総指揮は、陳宮が執っているんだろうけど、あの子にここまでできるとは思えないし」 陳宮。 結局、洛陽の時は留守番の役だったらしく、顔を合わせることはなかったが、呂布の軍師をしているらしい。 史実では、脳筋である呂布に与したばかりに、その知謀を封じられ、結局破滅することになった。 ──この世界では、ふたりで、互いに武力と知力を補っているらしい。知恵のついた呂布。それは、もう無敵なんじゃないか。手を組んだときの恐ろしさとしては、天下無双といって不足はない。 もしかしたら、この世界で、最強のコンビかもしれない。 敵と味方としてのケジメをつけるために、詠は陳宮の、そして、呂布の真名を呼んでいなかった。「ちょっと待って。詠さんが敵の立場なら、いったいどうするの?」 と、蓮華。「え──ボクなら、汜水関をわざと抜かせたあと、抜けた谷の裏側あたりに兵を埋伏させておく、かな? 大軍が四分の三ほど行き過ぎたところで、全軍で突撃」「それぐらいの策なら、大将が気づくんちゃう?」「そうですね。曹操さまなら気づきそうです」 凪がむずかしい顔を、いつもよりさらにむずかしくしていた。「だが、気づけても、防げるとは限るまい?」 思春の意見も最もだった。 これだけの大軍で、緩むなという方が無理がある。「うーん、いくつか敵の狙いを絞れるか?」「絞るまでもないわ。陳宮の策はただひとつの方向にしか働かないから。つまり、呂布の騎馬隊を、どう効果的に運用するかだけど──」「第一の関門だな。なぁ、詠。──昔の仲間と、戦えるか?」 詠の身体が、一瞬、ふるえた。「その質問に、意味があるの? もう、月を討つために、これだけの人数が集まったのよ。」「すまん。失言だった」「──戦えるわよ。あのままの月を見ているよりはずっといい。この悪夢を、終わらせなきゃって、そう思ってる。これは、ボクの戦いなのよ。誰にも渡すつもりはないもの」「そう──だな」「──もちろん、いいえ……やめにするわ」「?」 言うべきでないことを、飲み込んだようだった。 この時。 彼女が、なにを考えているのかまで、知ることはできなかった。 ──後漢末、最大の謀略家。 後にこう呼ばれる彼女の知謀が、世辞でもなんでもないということを、俺はこれからの戦いで知ることになる。 次回→『詠、裏の裏の裏をかかれ、陳宮全面埋伏を行う』 前回の沙和のことについての捕捉。 沙和(于禁)だが、三国志演義においては大将軍に推薦されていたり、曹操軍で最強の兵を率いていたという記録もあるらしい。厳格すぎて人望はなかったらしいけれど。 作者が好きなのは、このエピソード。 略奪を処罰され、于禁に対して逆恨みをした青州黄巾兵が、曹操に「于禁が謀反を起こした」と、偽りの訴えをした。 曹操は、まさかと思いながらも于禁討伐の兵を送り出し、その兵たちが背後に迫る中で、于禁は部下に命じて塁を築かせた。 なぜ曹操に弁明をせず、疑いを深めるような真似をするのか、という部下の訴えに、「今は敵が目の前にいる。今陣を築かずにどうして敵に対抗するのだ。弁明など、敵を追い払ってからすればよい!!」、として取り合わず、陣営を設け、正面に迫った敵を撃退したという。 敵を追い払ったあとで、于禁は曹操の前に進み出て、彼は曹操に対し、部下にした説明を繰り返した。曹操は、「そなたは、あのような切迫した場面で、よくもまあ軍を整え、陣を固め、他人の誹謗を放っておいて、敗戦を逆転勝利にかえたものだ。古の名将といえど、これになにひとつ付け加えることはできまい」 ──と、于禁の行動を絶賛し、多大な恩賞を授けたとされる。 作者が、演義で一番好きなエピソードなのだが、漫画とかで描かれていないために、知名度低いんだよねえ、このエピソード。実際、作者も演義本編読むまで知らなかった。どうして、これほどの名将の評価が低いかというと、実は続きがあるから。のちに、関羽に対して命乞いをしたせいで、評価はいまひとつなのである。さらに、曹操、ここで呟く。「于禁は三十年も私に仕えていたのに」とか散々言われ、晩節を汚したとまで評された。そのあと、曹操の死後、後継者である曹丕は、曹操の墓の前に、あらかじめ、于禁が降服し、命乞いをするありさまを絵に描かせておいた。于禁はこれを見ると、羞恥と腹立ちのため病に倒れ、死去した。(毒を仰いだという説もある)つーか、曹丕ひでぇ。というわけで、もっと評価されるべきだと思う。評価されるべしべしべしっ。