曹操軍には、軍議というものは存在しない。 曹操の前に並べられたすべての言葉が、一般的にいう軍略の基礎となり、そこいらの立ち話で軍の機密が語られ、閨の中での言葉が、後に屈強な敵兵を塵殺せしめる戦術の根本となる。 これは間諜を防ぐという意味もあるが、それ以上に曹操本人の性質の方が大きいはずだった。 とある殺人鬼は、詩を詠うように人を殺したというが、曹操にとっても、詩を詠うように戦術を組み上げるということなのだろう。彼女にとっては、戦いとは一種の創作物に過ぎない。 時に、傑作もあれば駄作もある。 その場の直感と信念に従い、そして必要な策であれば、自らの考えを否定することも厭わない。彼女はなにより──冷酷非常で道徳に篤く、勇猛かつ繊細で、激情しやすく慎重で、率いる軍は規律高く、民の信望を集めている。 大胆と臆病。 幾多の、相反する要素を、自らのなかで矛盾なく使いこなしている。 つまりは、並みの、いやそこいらの将のもっている資質で、彼女の持っていない資質はない、ということだ。それは、もちろん、俺に対してもそうだ。だから──こと曹操に限って、俺に対して油断する、なんてことは絶対にありえない。 さて。 ──それを、踏まえたうえで、「曹操から、俺への行政府への出頭命令が届いたんだが、つまり、どういうことだ? 明らかに怪しいんだが。呼び出されて首斬られたりしないか?」「そんなわけないでしょ。ただ単に、軍議はもう終わってあんた抜きで方針はすでに決定されているってことよ。決定事項を通達するから、来いってことよね」「ふむ」「それより、どうするの? いくつか仕掛けられることはあるけど?」「やめとこう。黒騎兵を甘くみるものじゃない。李華(黒騎兵その3)がどんな悪辣な罠を仕掛けているのかわからんし」 身辺警護のすべてを受け持っている、高飛車な少女を思い出す。 弱いものを苛める趣味はないわよー、と、彼女は中立を保ってくれている。曹操もそうだが、あれもいいかげん敵に廻したくはない。 陳留に帰ってきてから、三日。 俺は、晴れ渡った空の下、自分の名義になっている大きな屋敷で、メイド服姿の詠にお茶をついでもらっていた。 端から見て、ただとろけているように見えるはずである。 ──で、俺が今いる屋敷について、説明がいるだろうか。 南で新しい事業を興すということで、陳留から引っ越すという大商人に、格安で貸して貰った屋敷だった。人が住んでいないと汚れが積もっていくばかりということで、帰ってくるまでの間、自由に使ってよいという許可をもらっている。 中華らしく、とにかく広い。米などを貯蔵しておく蔵などの付属物も含めると、フランチェスカの学院の敷地と変わらないぐらいだった。 出世したものである、我ながら。 この世界に来てしばらく、俺が頭領の元で馬の世話を任されていた時には、木板の隙間からすきま風が吹き付けてくるようなボロ家で、同じ厩の先輩達と雑魚寝をしていた。俺はそれに不満はなかった。 元の世界でも、そうだったし。 時計塔のついた華美な校舎や、淑女の集まる黎明館と違い、フランチェスカの男子寮は突貫工事のプレパブ小屋だったから。 俺の部屋は二階だったのだが、安っぽいスチールの階段を降りるのが、なんともわびしい。 高級マンションと見まがう女子寮とは、まさしく雲泥の差だった。もっとも、寮費は安いし、黎明館では女子と同じものを食べられたので、不公平という感じはなかった。ああ、現代が恋しい。及川はどうでもいいが、不動先輩(公式戦無敗。剣道部主将。黒髪美人)とか元気かなぁ。 閑話休題。 もとより、曹操軍の将軍たちは、皆、私生活を飾らない。 曹仁は割り当てられた部屋が狭い、と──壁をぶち抜いて二部屋をつなげてしまったぐらいで、曹洪だって生来のドケチぶりを発揮して、城の一部屋で我慢しているぐらいだ。まあ、奴ら四人ともは別に実家があるのでどうでもよい。夏侯家も、曹家も、どちらも高祖の代から続くかなりの名門のはずだった。 アタマである曹操自らは、まあ、好き勝手してるからなぁ。黒騎兵(ハーレム)作っているし。 ──というわけで、俺は自らの器に不必要なほど大きな住居を構えている。趣味で剣道場も作ったし、真桜のためのからくり工房も庭の隅にある。詠がどこからから呼び集めていたり、俺の徳を慕ってくる食客とかも、いつのまにか住み着いていた。 これでも、遠慮した方だった。 曹操に兵力を奪われたとはいえ、今の俺には、街の一区画を借り受けるぐらいの力はある。今俺が使っている屋敷は、前述した通り、元々住んでいた大商人ものを借りているだけだったが、それに伴い、雇い入れていた使用人たちも、そのまま引き継いでいた。 いまも、詠と同じ恰好をさせた少女たちや、小間使いの少年たちが自分の仕事をしている。装飾の華美さやら、庭のレイアウトは俺の趣味に合わないが、逆にこれぐらいの方がカモフラージュにはいい。 さすがに、ここから詠を割り出すことはできないだろう。 実際、詠という木の葉を隠すために、この屋敷という森を作るのは、仕方ないことだった。なにげに、思春の錦帆賊400を住まわせて、まだ部屋に空きがあるぐらいだ。 ただ。 やっかいなのは、華琳と曹操は、記憶を共有しているという一点。 だから、詠と、それに董卓ちゃんの顔は、すでに曹操にバレている。あ、あと季衣と流琉にもか。黒騎兵の四人は、どうなんだ? 警戒すべきは夏月(黒騎兵その2)ぐらいか。いちど、代表者に話を通さないといけないのだが、誰に言えばいいんだ。普通に考えれば、リーダーの香嵐なんだろうが、どうも頼りないし。軍師の水(黒騎兵その4)は人を動かせない。最年長の睡蓮さん(黒騎兵その8)かな、やっぱり。 まあ、それはあとで考えるとしよう。 俺の今の状況は、思った以上に綱渡りだった。 破綻しかかっている状況を、詠が無理矢理につなぎ合わせているだけで、いつ終わっても不思議じゃない。極端な話だと、曹操が華琳に戻っても、俺は華琳になにを言えるんだろうか。 華琳が華琳のままで得た記憶は、おそらく、曹操にも還元されるだろう。 つまりは──俺が曹操に叛意を抱いていることを、華琳にすら隠し通さなければならないということでもある。 「いってらっしゃい。ちょっと待って、襟が曲がっているわ」 城へ出頭する日。吉日とはいかなかったが、蓮華が見送ってくれている。まるで新婚さんのようだった。 俺の前に立って、久しぶりに袖を通した、軍袍の襟を直してくれる。「すまない。じゃあ、曹操とやりあってくる」「ええ、がんばって」 俺は、表に待たせている馬車の荷台に乗った。そんなやりとりがあってから、日が真上に来た頃。 行政府に出頭したあと、曹操の建造した玉座の間に入ったところには、春蘭の言うとおり、春蘭、秋蘭、曹仁、曹洪の四将軍が揃っていた。春蘭と秋蘭はしばらく顔を合わせていなかったが、変わっていないようだった。 それに、はて──桂花の姿がないが。「おそいぞにゃー。お前以外はすでに揃っているぞにゃー」「ええと」 ──しばらく見ない間に、春蘭が壊れていた。 にゃー、ってなんだ、にゃーって。 あ、曹仁が春蘭から目をそらしている。「秋蘭。おまえんところの姉はいったいどうしたんだ?」「……北郷、二ヶ月ほど前、何進大将軍に呼ばれて、お前があちらの華琳さま(Not曹操)と洛陽に行こうとした時、姉上が自分も行くと駄々をこねていたのを覚えているか?」「ああ、あったな。そんなこと」 ──結局、留守番になったけど。 この不安定な時期、本拠地から、あまり人を裂くことはできなかった。 結局、黒騎兵の四人と、季衣と流琉をつれていくことで話はまとまった。春蘭は最後まで、自分が行くと渋っていたのだが、華琳の説得により、留守番に決まった。決まったって、あれ? そのときは気にしなかったが。 そういえば華琳は、あれだけしつこかった春蘭を、どうやって説得したんだろう?「うん。それで結局、あちらの華琳さまが交換条件を出してな。なんでも、帰ってきたあと、一日だけ姉者の着せ替え人形になったあげるから、と」「それで、春蘭が折れたか。破格の条件っぽいな。それで、今春蘭が、にゃーにゃー啼いているのと、結局どんな関係があるんだ?」「……姉者は、華琳さまにメイド服にネコミミをつけて、にゃーと啼いてくれという希望を出すつもりだったらしいが」「なんだそりゃあ」 まったく、なにを考えてるんだ。 ちょっと想像してみる。 ええと、華琳があれだろ。 彼女が着るためだけに誂えられたようなメイド服を着て、ヘッドセットのかわりにふさふさのネコミミをつけて、恥ずかしそうに顔を赤らめながら、消え入りそうなかぼそい声で、「にゃー」っと啼く、と。「がふっ!!」 想像してみて、軽くイキかけた。 やばいかわいすぎる。 致死量だ。 一瞬、気が遠くなったぞどうしてくれる。「それで、姉者はメイド服とネコミミの詰め合わせを床で暖めながら、一日千秋の思いで華琳さまの帰りを待ちわびていたわけだが」 そこで、秋蘭の顔が曇った。「ああ、オチは読めた。メイド服とネコミミセットを手に出迎えた春蘭の前に、帰ってきたのは華琳じゃなくて曹操だったと」 ──うっわー、期待させた上でそれか。 哀れすぎるな。俺だったらショックで絶望して死んでる。いや、冗談でなく。 いや、別に曹操は悪くないんだろうけど。俺は詠と別ルートで帰ってきたので、そこらへんの事情がわからなかった。 秋蘭が、遠い目をして話を、続ける。「あれ以来、姉者の精神は崩壊し、未練がましく語尾に、にゃーとつけるようになってしまったのだ」「いや、それは嘘だろ。どうせ曹操が罰ゲーム代わりに命令してるんだろ」「ふ、よくぞみやぶったにゃー。そのとおりだにゃー」 春蘭がまじめくさって言うが、この語尾だと、さっぱりシリアスにならない。「──待て。そういえば、桂花は? 姿を見ないけど」「ああ、兄貴。あの娘なら──死にそうな顔でふらふらしてたぞ」「うん。あのメスネコなら、今頃書類の山と格闘してるよ。うちの組織、内政できる人材が極端にすくないから」「あー、それは大変だなぁ」 曹仁の目撃証言と、曹洪の説明に、うっわー、今だけは武官でよかった、と思う瞬間だった。 おそらく、ここにいる全員が、そう思っているだろう。 あと、曹洪の桂花の呼び方は、メスネコなのな。 たしかに、それっぽい猫耳フードを被っているけど。あーと、ちょっと思ったんだが、曹洪と桂花の会話が想像つかない。 ──精液臭いだとか、 ──うぜえんだよ年中発情してやがるメスネコが、だとか、 延々と互いを罵っていそうだ。 そこまで考えたところだった。 弛緩していた空気が、一瞬で張り詰める。 見慣れない少女ふたりを後ろに侍らせて、磨きぬかれた床に覇王の足跡が響いている。小さなからだに、不敵な表情は、見間違うはずもない。刃を散りばめたような独特の空気は、現れる前からでも嗅ぎ分けられるほどだ。 ──曹孟徳。 そして、後ろに控えるのは、見たことのない少女がふたり。眼鏡をかけた凛とした少女と、どこかふわっとした雰囲気の、瞼の重そうな少女だった。随分と奇抜な恰好をしている。アタマの上に、どっかの博覧会のオブジェを乗せていた。アンテナのように見えるが、なにを受信してるんだろうか。 おそらくは、どちらかが郭嘉で、どちらかが程昱なのだろう。「桂花以外は、全員揃っているようね。これより軍議を始めます。 まず、私たちは、一週間後、四海の英雄諸侯たちとともに、洛陽に攻め上ることになるのだけれど、もちろん、私自らが白旄(指揮棒)を振ることになるわ」「敵の推定予測は、こんな感じですねー」 眠そうな方の少女が、いろいろと書き込まれた地図を机の上に広げた。 洛陽にたどり着くまでに、抜けなければならない要衝は、ふたつ。 ──すなわち、汜水関と、虎牢関だった。 どちらかに、いや、おそらく虎牢関に、呂布がいる。あと、詠の話だと陳宮も。そして、洛陽にいるのは三十万の近衛と、董卓ちゃんによって、大将軍に任じられた張遼将軍か。「敵の総兵力は、50万にもなるでしょう。それでも、我々に対処するために当てられる兵力は、最大で20万がいいところでしょうねー」「ほう、程昱殿。なぜそのような試算を?」 秋蘭が手を挙げた。 あ、やっぱり、アンテナをつけた眠そうな少女のほうが、程昱らしい。「はい。西涼の馬孟起(超)が、あえて連合に参加せず、洛陽に刃を突きつけられる位置に20万の軍勢をもって布陣する、という連絡がありました」 これは、地図を見るとわかりやすい。 偽の勅書をもって、洛陽に攻め上る反董卓連合(俺たち)は、東から進軍することになる。そして、馬超率いる西涼軍は、動員できる最大兵力20万で、洛陽の西に布陣する。 実際に戦闘が起こるかはわからないが、それでも20万に対抗できるだけの兵力を、董卓ちゃんは洛陽に配置しなければならないはずだった。精強きわまりない西涼軍と戦うには、どう考えても、30万の兵力はいる。少なくとも、これで軍をふたつに割れる。異民族への侵攻も欠かせないし、彼女が実際にこちらを迎え撃つために使える兵力は、随分と限られるはずだった。 しかし、西涼の全兵力を動員してきたか。 あのうさんくさい天の御遣いに、父親(馬騰)を殺されて、まだ二ヶ月ほどしかたっていない。馬超も、怒り狂っているのだろう。 いや、それは董卓ちゃんに向けられる怒りだ。俺と詠が、董卓ちゃんを救出するうえで、最大の難関は、この西涼軍なんじゃないか?「そして次に、曹操軍の編成を見直したわ。この反董卓連合に参加する兗州軍は、総勢10万。うち、3万を陳留軍として私自らが、残りの、東群、山陽、済北のみっつからなる兗州軍7万を、鮑信が指揮します」「ああ、鮑信ちゃんか」 済北の相であり、曹操の右腕のような役割をしている。刺史である曹操が一番偉いとして、二番目に偉いのが、鮑信ちゃんだと考えてもらえばいい。「そして、我々曹操軍についての編成を布告するわ。第一右翼に夏侯惇将軍の兵を5000。第一左翼に北郷将軍の兵を5000。第二右翼に曹仁将軍の兵を7000。第二左翼に曹洪将軍の兵を7000。副将は夏侯淵将軍を伴い、本隊6000を私自らが率います。なお、北郷将軍には軍師として程昱をつけ、夏侯惇将軍には、参謀として郭嘉をつけます。なにか、質問は?」「つまり、私と北郷で先鋒争いをしろということだにゃー」 手をあげたのは春蘭だった。「ええ、そうね春蘭。そうとってもらってもかまわないわよ」 曹操が、薄く笑った。 俺は考え込んでいる。曹操の意図がいまいち掴めない。 経験不足は程昱を使って補え。それで、実戦の実績を積ませてくれる、ということだろうか。 ──編成がまともすぎて、なんともいえない。まあ、俺は俺で確認したいことがないわけではないが。「自分の手持ちに限って、編成はやり直していいんだよな。いや、俺がやっている警備隊に、何人か目をかけているのがいるんだ」「構わないわ。好きなようになさい」 自らへの信頼が、そのまま言葉になっている。 曹操の瞳にこもっている色を、俺は判別できなかった。「随分と、趣味が悪いわね」 開口一番、詠はそう言い切った。 さきほどまでの軍議にて決まったことを、彼女は布陣図として紙に書き出す。その布陣図を見る彼女の眼差しは、一枚の紙を通して、これから行われる戦いを見通すようだった。「俺には、どうして、曹操がまるで掌を返すようにして、俺に一度取り上げた兵力を預けたのかがわからないんだが」「簡単なことよ。あんたがお目付役だと思っている、程昱って軍師が、この軍の本当の将軍だってことでしょ」「は、どういうことだ?」「つまり、あんたに与えられた5000の軍は、あんたに指揮権があるように見えるけど、実際は程昱の手のうちにあって、曹操の命令ひとつで、こっちに襲いかかってくるってこと」「おい」 それが本当なら、最悪だ。 こちらの一挙手一挙動までが筒抜けになる上、両手両足を縛り付けられているのと変わらない。「まるで、どちらでも斬れる両刃の剣ね。この布陣を、諸刃の計とでも名付けようかしら」 まともすぎる、なんてとんでもなかった。 気を抜いた瞬間に、こちらの息の根を止めにくる謀略は、悪辣どころではない。しかし、程昱に将軍やらせるって、どういうことだ、と考えて、思い当たることがあった。 あ、たしか程昱って、史実だと、将軍の経験とかなかったか? そうだ、たしか官渡で将軍で、指揮能力の高さを、存分に見せつけていたような気がする。 ──うわっ、危ねえっ。 煌びやかな軍師としての才能に惑わされて、程昱の本質を見誤るところだった。「つまり、程昱が、事実上の第六将軍ってことか」 ──王手とすら見まがうほどの最善手。 いや、今語られたこと自体は、わりとどうでもいい。 最重要なのは、俺への監視に、よりにもよって「あの」程昱を持ってきたという一点のみだった。 さて、程昱だ。 優秀ということはわかるが、史実では、印象的なエピソードがないために他の軍師の影に隠れがちである。だが、程昱の非凡さがわかるエピソードがないわけではない。 呂布に城を追われ、曹操のもとに逃げ込んできた劉備を、曹操が受け入れたのちに、ただひとり、程昱のみが「劉備を、今すぐ殺すべきだ」と進言したとある。史実における、程昱の人を見抜く瞳は、ほぼ予知能力と呼んでさしつかえのないものだ。 郭嘉でも桂花でも、俺はここまで警戒しない。 あのふたりなら、なんとか目も眩ませられるだろう。 曹操が、俺への監視に、よりにもよって程昱を持ち出したことに意味がある。程昱相手に、偽装が通用するとは思えない。 曹操のことを甘く見たわけではないが、こちらの想定を越える速度で、最短で距離を詰められている。俺が気づいていないだけで、すでに詰んでいるのかもしれない。 やばいな、 いくら詠がいても、どこかで脇の甘さはできる。そして、敵はその一度で充分なのだ。知恵比べで、勝てる見込みがない。 このままだと、ジリ貧だ。 どこまでいけば、曹操の手のひらから逃げられるのかも、予測がつかない。俺がここまで読み切るのも計算して、焦った俺が馬脚を表すのを待っているという気さえしてくる。 「そうね。ここは動かないことが最善でしょうね。曹孟徳が送り込んでくるぐらいなんだから、どんな小さな動きからでも、こちらの意図を読み取られるわよ。忍耐力の勝負になるわ。程昱自身はだませなくても、程昱の使う手勢まで精鋭揃いというわけにはいかないわね。そっちを騙せるようなら、彼女の行動をある程度は束縛できるはず」「無駄だ」「え?」 詠が、聞き返してくる。 前半までは無条件に同意するが、後半部分はまったく間違っている。「防御に廻ったら、終わりな気がする。だから、いまのうちにあっちの前提条件を全部崩すまでだ。曹操から許可はもらってある。いまの程昱の子飼いになっているだろう上級将校を、すべて罷免する。編成をすべて組み直し、蓮華、思春、凪、沙和、真桜に1000づつ指揮をさせる。あとは沙和に伝えてくれ。あと三日、ギリギリまで調練をやる。一緒にまとめた海兵隊訓練式ノートの、上級編までの使用を許可する、と」「ちょ、強引すぎないそれ?」「詠。董卓ちゃんを助けるんだろう? 俺の立場なんて心配せずに自分の主の心配だけしていればいい。この時期に、俺の兵力をもう一度取り上げるような真似はできないだろう。それに、確実に意のままに動く5000の兵が手に入るんだ。逃す手はあるか?」 俺の言葉に、詠の瞳から色が失せた。 メイド服姿の少女は、すでに脳裏にどう効率的に兵力を奪うかを考え始めている。俺の目の前に、後漢末最大の謀略家の姿が、そこにあった。「将校の何人かは取り込めるか? 不満は、凪をぶつければ押さえ込めるだろ」「ううん、この際禍根は断つべきよ。下に落とした上級将校が、程昱になんらかの情報を売る恐れがあるもの」 つまり、後腐れなく、殺すということだ。「そうか。細かいことは、思春と相談してくれ」「ええ、それで──兵のほうだけど」「長駆をやらせます。そのなかで、上位の1000名を選抜してください。戦闘能力は磨けば光りますが、粘りだけは教えられない。その兵たちのもつ、天性のものです」「んー。ウチはこだわりはないわ。ただ、泥の中で平気で眠れる連中を中心に選抜してや。徹夜が平気な連中をなー」「歩兵が大部分か。ふん、体格の大きな連中を選抜しろ。このような短期間の調練でできるのは、息をひとつに合わせた槍衾だけだ」「私は、弓兵隊を率いることになったわ。猟師や、手に職をつけた人間を頂戴。あまり、若い兵は駄目ね。教えるのがうまい連中がいいわ。私も、彼らから学ぶことがあるでしょうし」「え、ええと、わ、私はー、どうしようー」 5000の兵を一度解体し、それぞれの指揮官の下に組み込む。 凪は先鋒として、早さと粘りを、 真桜は壊乱せず、ひたすら戦い続けられる兵を。 思春はなによりもまず統率を。 蓮華は経験のある兵たちを求め。 そして、沙和は、そこからあぶれた連中を率いることになった。 っていうか、わりと好き勝手に言っているなぁ、こいつら。「しかし、さすが、曹操自らが纏めなおした兵力だな。弱卒がほとんどいない」「あのね。それでも、これは沙和に負担がかかりすぎるわよ。事実、沙和の部隊が、弱卒の寄せ集めになっているわ」「あと、一週間ある。連中が、沙和の下で、どれだけ化けられるかが勝負だな」「まあ、沙和の調練方法は、誰にも真似できないけど。ずいぶんと分の悪すぎる賭けになるわ。勝算はあるの?」「実のところ、あんまりないな。駄目なら、最悪半分は錦帆賊と入れ替えることになるかな」「……よくわからないわ。沙和にだけ負担をかける理由なんて、ひとつもないはずよ」「なあ、詠。俺はいつか、曹操に打ち勝つために、春蘭と秋蘭と戦うことがあるかもしれない。あまり考えたくない話だが」「──ええ」 詠が頷いた。「そして、俺の手持ちの指揮官の中で、春蘭に秋蘭と、正面から戦って勝てる可能性があるのは──沙和だけだ」「………………」 彼女が、息をのむのがわかった。「というわけだ。そのまま、賭けには違いない。ただ──ひとつだけわかることがある。うまくいくかなんて俺にはわからない。 ──それでも、沙和にできないのなら、曹操本人にすらそれはできない。できあがるのが、最強の隊か、それとも最弱の隊か。俺の運命を、沙和に賭けてみようと思っただけだ」