保身を極めたという意味で、三国志の登場人物のうち、賈駆に並ぶ文官はいない。 なにせ、当時の曹操の長子(曹昂)を殺し、護衛隊長だった典韋を殺すようなことをやってなお、曹操の幕僚に取り立てられて、さらに天寿(77歳で死去)まで全うしている。 官渡の前の、もっとも自分を高く売れる時期に、曹操に降ることを主君に説き、のちに曹丕(曹操の後継者)の後継人として、魏の重臣のなかで、筆頭の立場を貫いた。 曹操は、生涯のうち、30戦して6敗ほどしているが、この黒星のひとつは、賈駆によってつけられたものである。 俺の記憶によると、史実でここまで曹操に牙を剥いたうえで許されたのは、賈駆を除くと、陳宮しかいないはずだった。 まあ、陳宮は呂布に殉じて、死んじゃったけど。 ともかく。 これから自分の勢力を築きあげるにあたり、詠(賈駆の真名)をどう使いこなすかで、俺の行く末が決まるところだった。「んで、ボクはいつまでこの恰好してればいいのさ」 詠は、ひらひらのメイド服姿だった。 私のやることは正しい、私のなすことも正しい、かわいいも正しい、ということで、前に華琳が、宮殿お付きの侍女の制服をかわいさ三割り増しのメイド服に変更させた。 よって、メイド服は、侍女の制服となっていて、当人たちからも評判はいい。彼女を陳留の街に馴染ませるための、必須といっていいアイテムだった。「ずっとだろ。ここまできたらもう、ドM軍師(桂花)、ちびっこ軍師(田豊)あたりと並ぶ、メイド軍師として四海に名を轟かすってのはどうだ」「どうだもこうだもあるかっ!! はぁ、やっぱりこのバカに味方するのは早計だったかなぁ」「なに言ってる。メイドさんは、陳留ではそんな奇抜ってわけでもないぞ。さすがに華琳が、黒騎兵の制服にしようとして却下されたが、いやまあ却下したのは俺だけど」「前から思ってたんだけど、あんたの主人、大丈夫なの?」 詠がジト目で言う。「──それはあまりに残酷な問いな気がするから、深く触れないでくれ。一応、三人いる侍女のうちのひとりってことにしている。曹操の目も眩ませられるだろうし、まあ半分はそういう理由だな」「あとの半分は?」「はっはっはっ。そんなの俺の趣味に決まって──」「死ね」 飛び上がった詠のニードロップが、俺のみぞおちに突き刺さった。「ごぶっ!!」 視界が歪む。 俺は襲いかかってきた吐き気にもんどりうちながら床を転がった。「あー、隊長に詠も、楽しそうなことやってんなぁー」「ちょっと真桜。これをどっからどう見れば、見れば楽しそうだなんて思えるのさ」 警邏の仕事から詰め所に戻ってきた真桜が、床に転がってのたうっている俺を見ていた。「んでも、隊長は喜んでるみたいやで」「ああ、最近これが快感になってきてな」「この変態がっ!!」「ごふっ!!」 俺の立場は、実のところなにひとつ変わっていない。 秋蘭が、自らの首を賭けて、曹操に説いてくれたらしく、お咎めのようなものはなかった。。 曹操が指揮する予定の兗州軍3万のうち、曹操の本隊が1万。第一から第四将軍までで、残りの2万を割る。ちなみに、第五将軍である俺に与えられた兵士は、一兵もない。 配下の武将を全部取り上げられただけで、俺は未だに曹操軍の将軍のままだった。 まあ、将軍なんてものは率いるべき軍がなければなにもできないので、曹操は穏便かつ無理なく俺の牙を抜きにかかった、といえる。 それから、俺の麾下に入っていたはずの季衣は夏侯惇将軍(春蘭)付きの副将になって、流琉は夏侯淵将軍(秋蘭)の副将になった。 さすがにこうなってしまうと、俺も詠も、季衣と流琉を引き抜くのはどうやっても無理だった。 というわけで俺はしかたなく、平時にやっていた陳留の警備隊長のような役割をしている。 盗みの解決やら、不法に止められた荷馬車の撤去、道がわからないおばあさんなどに道案内をしたり、と──それなりに充実している。 俸禄も出るし、部下も扱えるし、寝る場所もある。 反董卓連合の集合場所は、この陳留であって、各諸侯が集まる前に、ひとかどの勢力を造り上げなければならない。「隊長ー。むずい顔して、どないしたん?」 真桜(李典)だった。 街でよくわけのわからないようなからくりを展示しては、爆発させていたのを、俺が警備隊に組み込んだ。もとは兗州の山陽群の出で、曹操の董卓誅滅の義兵募集につられて、凪(楽進)、沙和(于禁)とともに、この陳留にやってきたらしい。「めずらしく、考え事して、隊長熱でもあるのん?」「なんだその言い方。そろそろ動き出さないとな、と思ってたんだよ」 俺の名は、民衆の間ではそれなりに通っている。 黄巾党を叩き潰した実績(やってたことはアイドルプロデュースだが)もあるが、華琳がひたすら俺の評判を高めたのが効いていた。 凪(楽進)など、根がまじめなこともあるが、俺の隊に組み込まれることが決まった時には、もう感無量で、この人のために死のう、とか言われて、言われた俺が引くような有様だった。 ともかく、この忠誠心は武器になるはずだ。今、俺が手駒として使える唯一の戦闘要員なので、こっちの生命線のようなものである。 なお、この三人には、俺がこんな警邏の仕事をしていることについて、首脳部の派閥争いに負けて、こんな閑職に追いやられた、と説明してある。 まあ、嘘ではない。 ──というか、限りなく真実に近い。 これは華琳と曹操の派閥争いであって、それ以上でもそれ以下でもない。これ以上曹操派が増えると始末に負えなくなるので、こちらも力を蓄えないといけない。 ひとまず、俺が今自由に動かせるのは、詠(賈駆)と、沙和(于禁)、真桜(李典)、凪(楽進)の、この四人だけだった。 あと、警備隊は街ごとに配置された警備隊(北郷隊)の調練は、沙和が一手に引き受けている。「動きがトロいっ!! きさまらはヨチヨチ歩きのクソ虫お嬢ちゃんかー」「ち、違うであります。小隊長どのっ!!」「呆けた顔をするなー。返事の前にはサーとつけろー」「さー。です。小隊長どの」「さーいえっさーだ。復唱しろクソ虫ども、なのー」「さーいえっさー」「全然聞こえないのー。クソ虫にたかる羽音に掻き消されるような声でなにを言いたいんだかわかんないの。もっと大きな声を出せ、チ●コ切り落とすぞー」「さーいえっさーっ!!」「よし、全員整列。遅れたヤツは、タマ切り取って、ケツに詰めてやるぞ、なのー。きさまらは卒業の日まで、クソにたかるウジ虫以下の存在だ。 気をつけっ。マス掻きやめっ!! どうした早くしろっ、きさまらに較べればじじいの交尾のほうが、よっぽど気合い入ってるぞー」「さーいえっさーっ!!」 動作に一足の乱れもなく、声をあげる兵士たちを前にして、沙和が叫ぶ。全員が揃って大地を踏みならす振動が、腹のそこにまで伝わってくる。「おじょうちゃんたちは北郷隊を愛しているかー?」「生涯忠誠! 命を懸けて! 闘魂っ!! 闘魂っ!! 闘魂っ!!」「草を育てるものは?」「血だっ!! 血だっ!! 血だっ!!」「わたしたちの商売は何だ、おじょうちゃん?」「殺せっ!! 殺せっ!! 殺せっ!!」 沙和のアメリカ海兵隊式のシゴキで、北郷隊のモラルと練度は最高を維持している。曹操の黒騎兵とすら対等にやりあえるのではないかと思えるほどだった。 ただ、基本、入れ替えのない警備兵なので、戦場にもっていけないのが致命的すぎる。せめて、100でも200でも、使える手勢がいればなぁ。「隊長。外からこちらを覗いていた、怪しい子供を捕らえました」 凪だった。 忠犬といった感じで、俺の次の指示を待っている。「うわぁぁんっ。このキズのお姉さん恐いよー。おねーさーんっ!!」 凪の手に吊り上げられた、いたいけなその子供は、拘束を解かれるなり、真桜のおっぱいに飛び込んでいった。「凪も融通がきかんなぁ。こんな子供にまで、恐がられることないやないか」「む、しかし」 凪が言い返そうとして、そこで黙ってしまう。「まあ、凪は、職務に忠実だってことだ。──で、真桜のおっぱいに顔をうずめて、なにやってるんだ。曹洪」「むぐむぐ。はい。おひさしぶりです。一刀義兄(あに)さま」 曹洪が、真桜のおっぱいに顔を埋めながら応えていた。 曹操がまだ華琳だったころに、二度ほど会ったことがある。華琳のいとこであり、第四将軍の曹洪(♂)だった。15歳らしいが、2歳ほど幼くみえる。 能力としては、可もなく不可もなく。 運命の人(自分をかわいがって、養ってくれる人)を探しに行くとかいって、出奔中だったのだが、さすがに曹操の逆鱗に触れる前に、帰ってきたらしい。 将軍の位にありながら、出奔をくりかえすようなのをふたりも将軍に上げているあたり、曹操軍の人材不足は深刻である。 夏侯惇(春蘭)、夏侯淵(秋蘭)の、個人的な武勇に騙されがちだが、彼女らはあくまで曹操の親戚類者だった。 基本的に、首脳部を自らの親類で固めるのは、あまりうまいやり方ではない。ぽっと出の、弱小勢力である劉備とかがやる人材構築であって、この規模の軍隊がやるというのは、いろいろと問題が多い。 とはいえ、将軍ともなると、能力だけではつとまらない。それなりの学問を収めていないと、前線の小隊長が席の山ということもあるが、将軍の第一条件は、まず、裏切らないことだからだ。 ──曹操の家系は、宦官だった。 故に、袁家や孫家のように、当主三代に渡って仕えるような家臣はいない。徳川家康のように、主君の飛躍を信じて、自ら倹約する家臣などがいれば、彼女の覇道も、もう少したやすいものになったはずだった。 つまりは、名家と、それ以外の差はつまり、自らのために働いてくれる家臣が多数いること、そこに集約される。俺があれだけ曹操軍において優遇されたのは、そういう裏事情もある。「で、曹洪。いったいなんなんだ?」「は、はい。一刀義兄さまに相談があります。大変なんです。曹仁兄さん(曹操軍第三将軍)が、華琳姉様に、謀反を企んでいるんですっ!!」「はぁ──」 ──もう一度言う。 将軍の条件とは、まず裏切らないことである。「で、件の曹仁は、いったいなにしてるんだ?」「はい。盗賊達を集めて、自分の手勢をつくろうとしてます。数は1000までは集まったんですけど、それ以上は伸び悩んでいるみたいです」「それで、曹操を突こうとしているのか」「いえ、謀反というのはいいすぎでした。独立と言うべきですね」「いいんじゃないか。謀反で」 俺は、曹洪にそうこたえた。 この時期に独立など、謀反とそう違いはないだろう。「にしても、曹操は、無視せざるをえないか」 兗州牧として、あちこちを飛び回って勢力を強化している最中である。華琳がやりのこした、というかサボっていたところを、曹操が纏め直しているところ、ともいえる。 片腕の鮑信を使い、州牧として令(州牧がつくれる法律)を発行し、当時の富豪である衛茲にスポンサーになってもらい、董卓ちゃんを討つために、民衆から義兵を募る。 調練は苛烈で、奮い落とされるものや、死者も何人か出ているという。 こちらに目を向けるどころか、眠る暇もないのではないかと思うが。ちくりと、胸を刺すトゲのようなものがあった。 ──本当は。 華琳のために、曹操を助けるのが一番いいのかもしれない。 俺がいれば、彼女の負担を、一割でも削れるはずだった。それでも。決めてしまった。決めてしまったのだ。もう、迷うことは許されない。両方に情が移ったあげくにがんじがらめになれば、それが一番悪い。 俺一人で、できることは限られている。 決意と覚悟だけで、押し通せることなどほとんどない。もう一度、華琳に会うまでに、俺は俺の心に、整理をつけておかなければならない。 反董卓連合まで、曹操の麾下は、三万までは膨れあがるだろう。編成の途中で、流石に1000の賊徒に関わり合う時間はどう考えてもない。完全に、黙殺される可能性が高い。「それで、今は、どこにいるんだ。曹仁は。ここいらにはいないだろう」「はい。今は、袁術の勢力下にいます。揚州、長江の北あたりで、まだ地元の海賊と小競り合いをしているはずです」「わかった。時間をくれ。場合によっては、直接、曹仁と話してみる」「お、お願いします。義兄さま」 そこまでの情報が、間諜などに傍受されていい限界点だった。 とはいえ、今のところ俺に間諜はついていない。というか、ひとりだけいるのだが、あまりにこちらへの監視がザルすぎて話にならない。 どれだけザルかというと──「あふぅー。杏仁豆腐でできたお城なの。わぁーい」 ──これぐらいザルだった。 巴音(黒騎兵その5)が、机によだれを垂らしている。 居眠りしているばかりで、さっぱり仕事なんてしている様子はない。李華(黒騎兵その3)が曹操から俺への監視を命じられて、そんなちまちましたこと、やってられないということで、一番やる気のないのに雑務を投げ渡した結果だった。「しょーぐん。適当に誤魔化しておくからー、華琳様への報告書は書いておいてねー」「いや、それはどうかと思うぞ」 ともかく、巴音が引き取りにきた李華と青青(黒騎兵その6)に文句を言って、ここからが本当の会議だった。 兗州牧になって、率いる兵力は数万にも及んでなお、首脳部は、半年前のまだ手勢が数百のころから、ほとんど変わっていない。 そこに、俺たちの生きる道がある。 逆にいえば、この反董卓連合で、俺に目が向かないこの一瞬が、最初で最後のチャンスだった。 噂だと、曹操の陣営には、郭嘉と程昱が加わったらしい。このまま曹操の陣営が強化されていくと、こちらがまったく動けなくなる。 詠という切り札が気づかれていないうちに、こちらにどれだけ優秀な手勢を引き込めるかだった。 しかし──「なあ、詠」「無理よ。曹仁の1000を引き入れても、没収されたらそれまでだし、月を助けるのに役に立つわけでもないしさ」「むう、それでも、曹操の耳に入らないうちに、電撃的にカタをつける、というのは?」「そう、うまくいくと思う?」「無理か」「その場は凌いでも、曹操に対するあんたの叛意自体がバレてるんだから、適当な時期に一回家捜しされたら終わりでしょ。だから、小手先の迷彩は、墓穴を掘るだけ」「むう」 それはそうだ。「叛乱をやる際に、一番隠さなければいけないのが、叛乱をやるということそのものよ。なぜなら、頭を潰せば終わるんだから」 詠は、そのまま続けた。「そもそも、私たちが欲しいのは、軍隊じゃなくて、戦時の洛陽に潜入して、帰ってこれる力量をもった特殊部隊よ。曹仁ってのがどれだけの武将なのか、ボクは知らないけど、注目すべきはこっちでしょうね」 机の上に広げた地図をみた。 揚州は、西から東に流れていく長江で、陸が半分に分断されている。陳留からも遠すぎるというわけでもなく、四人五人で移動するなら、馬を飛ばせば10日もかからない。 今は袁術が、反董卓連合のため、自らの集められるだけの兵力を、寿春に集めているはずだった。 詠が指したのは、長江に添うように、曹仁が小競り合いを続けている海賊たちのことだ。「たかが400で、曹仁とやらの兵力1000と渡り合うんだから、よほどの精兵揃いなんでしょうね。だからこの盗賊団を、丸ごとすべて、ボクたちの麾下に置くことにするわよ」「できるのか、そんなことが」「はん。忘れてない? ボクはね。月に、天下をとらせるつもりだったのよ」「疑って、悪かったよ。──じゃあ、その方策を聞こうか」 長江一帯を本拠地とする、江賊が、400ほど。 そして── 曹洪から聞き出した、その頭領を務める女武芸者の名前を、錦帆賊(きんほぞく)──甘寧、といった。『賈駆、甘寧を奸計にかけ、一刀、孫呉の姫君と出会う、とのこと』