「きぃーっ!! あの田舎者田舎者ッ!! 私たちの手柄を横取りして、許せませんわっ!!」 袁紹が布を噛みながら、全身で悔しさを表現していた。 いつまでも主のいない家に住み続けるわけにもいかず、招かれたのは袁紹の叔父の家だった。 広さもなにもかも、この間まで住み着いていた大将軍の家と、その豪華さで遜色はない。いや、牛や馬の鞍にまでを飾り立てるような悪趣味さが入ってくるぶん、こちらの袁家の方がむしろ豪華さと潤沢さでは今までいた邸宅を凌ぐようだった。 この部屋にいるのは、天子を得て、すべての権限を自分のものにし、果ては今上陛下の廃立を成し遂げた董卓への反感をもつものだけがいた。 華琳と俺と、さっきから騒いでいる袁紹と、袁術とあと七乃さん。それに、新顔がひとり。 司徒の王允だった。 これをおうむる、と読んだヤツはラノベの読み過ぎである。ネタがわからない人はドクロちゃんを読め。つーわけで、王允(おういん)だった。華琳とは、前々から付き合いがあったらしい。「大丈夫よ。絶対に信用できるから」 華琳がそう言うからには、おそらくなにかあるのだろう。 彼女が前々から、王允の家に伝わっている宝剣『七星』を持っていることも、なにか関係とかあるんだろうか。これ、春秋戦国の世、呉の王室に伝わった名剣、『魚腸』と並び称される、俺の青釭の剣よりもランクの高い、中国の歴史のなかでも屈指の名剣なのだが。 まあ、後に趙雲の手に渡る青釭の剣と違い、三国志では一回しか出番ないけど。七星の剣。 司徒(民政大臣)の位まで上がっていることから、老人かと思えば、二十代前半だった。線の細い、かなりのイケメンである。あと、男だった。えーと、史実だと貂蝉の義父だっけたしか。 事実上、董卓を殺した男として知られる。董卓に反抗する人間をひとりあげろと言われれば、おそらくはこの王允がくるんだろうけど、なんでそこで董卓に対抗する相手として、華琳を選ぶのだろう。 袁紹や袁術の力を当てにしているようにも見えないし。 よくわからないところである。 いや、王允ではなく、華琳がどこから人を引っ張ってくるのかが。 華琳は、人脈だけなら、袁紹も袁術を凌ぐほどだった。洛陽にも、それなりの人脈をもっている。華琳も、いざとなったら鮑信ちゃんを頼ろう、と言っていた。 ちなみに、鮑信というのは、いまこの洛陽で後軍校尉を張っている、兗州8群のうちのひとつ、斉北国の相だった。 華琳の友人。 かつ片腕であって、曹操軍としてみるのではなく、兗州牧としての華琳の地位を一位におくとすると、二番目にはこの鮑信がくる。 「お嬢さまー。どうするんです。このまま袁紹さんの家にお世話になりますか」 「うむ。まあ、よくわからんが、麗羽のヤツがくやしがるのを見るのはよいことじゃろ。しばらく見ているのもよかろ」 袁術が、ない胸を張っていた。 ふと、俺は口を挟む。「いや、袁術。義姉妹の契りを結んだんなら、仲良くするべきだろうと思うぞ」「ふん。下民は視野が狭いの。華琳ねえさまのたのみじゃから、あの麗羽めと義姉妹の契りを結んだのじゃ。でなければ、あのような疫病神なんぞ、まちがっても近づきたいと思わんわ」 ガクガクブルブルと身体全体をふるわせているあたり、本気で嫌なようだった。いろいろあるんだなぁ。つーか、俺の呼び方は下民で固定なのな。「でも、なぁ。面倒見はよさそうだぞ。袁紹」 華琳をしつけたあたり、なんとはなしに大物っぽい感じもある。「そういう問題ではないっ。麗羽めのヤツめ。わらわが幸せに浸っているところに、それをぶちこわしにやってくるのじゃ。何度あのものに煮え湯を飲まされたことかっ。お主も気をつけることじゃ。あやつ、他人の幸運を吸い取って、自分の幸福値に変換しおるからの」「あら。そうですわ。美羽さんてば、華琳さんにばかりべったりで、私にまったくなついてくれないんですもの。姉と妹で親睦を深めに参りましょうか」「ぎゃわーっ!!」 袁術が、悪魔を前にしたようなすさまじい叫び声をあげた。「なんですの。はしたない。私の妹が、軽々しく悲鳴をあげるものではありませんのよ。おどろくことなど、なにもないでしょう」「れ、麗羽ねえさま。も、もちろんですわ。ほ、ほほほほほ」「さて、叔父の家には温泉がありますのよ。華琳さんも誘って、三人で温泉に入るといきましょうか」「わ、わらわは、とつぜん、急用を思い出したのじゃ。ぺ、ペットにエサのメンマをやらねば」「洗いっこするのもいいですわ。久しぶりに邪魔が入らないですわよ」「人の話を聞けーっ!! な、七乃ー。助けてたもれーっ!!」「ああっ。もう、困ったお嬢様もいいなぁ」 七乃さんは、うっとりして袁術を見送っていた。 いいのかそれで。 浴衣を着てゆったりしたあと、また袁紹の怒りが再発したようだった。 酒をあおっていた。顔が赤い。 テーブルの上にはつまみ代わりに、蒸した魚や筍を刻んで炒めたものなどが乗っている。 あと、華琳も普通に酒を飲む。というか、こいつ自分で酒蔵をもっているほどの酒造マニアだった。「四代続けて三公の地位についた、袁家の当主であるこの私に報いるには、何進なきあとの、大将軍の地位ぐらいは貰わなければおさまりませんわよ」「あ、そういえば大将軍っていま、空位なのよね。何進おばさんが殺されちゃったから。あとは、だれがつくのかしら」「普通に考えれば何苗(何進の弟。何進を裏切った)だったけど。この間、始末したろ?」「当たり前でしょう。あんなの生かしておけないわよ。」 裏切りには、速やかな死を。 というか、始末しようと思ったら、味方に内応を疑われていて、すでに殺されていた、というのが真相だったりしたのだが。 華琳は、最近、自分のキャラ立てに悩んでいるらしく、最近の口癖が『首を刎ねなさいっ!!』だった。アホだこいつ。 ともかく、この議論は重要だった。 この間まで同格だった袁紹、曹操、袁術をどう扱うか。論功行賞のむずかしさ、である。人は褒美を与えるときにこそ、その人物をどう扱っているかがわかる。論功行賞の不満が、戦乱に直結した例など、枚挙にいとまがないほどだった。(全部、七乃さんの受け売り) 「大将軍ねえ。兵の間からだと、呂布に、という意見が多いけどな」「大陸の歴史上のなかで、最強の軍隊ができそうね」 ──笑い事ではない。 それは、こちらにむけるために使われる軍隊だ。もし、そんなものが成立した場合、呂布の率いる大将軍麾下30万と干戈を交えたが最後、骨も残さず殲滅される。というか、明らかに誰も勝てないだろう。 その認識を全員が持ったうえで、俺たちが、これを笑い話にできるのは、その結論を知っているからだった。 ──呂布は、それを断っていた。 董卓は、呂布を大将軍の座につけたかったようだが、噂の本人はというと、ふるふる、と横に首を振っただけで拒否したらしい。たしかに、あの普段は心優しい呂布の性格なら、そんな大役、容れようとは思わないだろう。 呂布が断った、となると──自動的に、呂布の下についている張遼将軍にもその芽はなくなる。じゃあ、消去法になるが、──華雄あたりか。 いや、無理かな。華雄将軍には、どうやっても荷が重い。いや、能力的には何進大将軍も、無能といってぐらいだった。ってことは、誰がなっても同じなんじゃないのか大将軍。「そういうことではないんですよ」「七乃さん。なにか?」「そもそも何進大将軍の一番の失敗とはなんでしょうか。実はですね。彼女の一番の失敗は、最後まで自らがこの国で最高の権力を有していたと気づけなかったことにあります。彼女の権力は、この国の誰をも凌いでいました。十常侍よりも皇帝よりもです。お嬢様の貴族主義と逆に、何進大将軍は平民根性が抜けてなかったんですね。十常侍なんて、獄吏に命じて全部、首を刎ねてやればよかったんです。大将軍は、刑法によって罪人を捌く権利があるんですから、事実、彼女はそれが可能な位置にいたんですよ。何進大将軍の罪をひとつ上げるのなら、やるべきことをやらずに、それを放棄したことです」 うっわー、七乃さんがまじめなことをいっている。さすが現役の袁術軍で大将軍(朝廷の大将軍とは当然ながら別物。いわゆる元帥)を務めているだけのことはあった。「あの、華琳さま。お客様です。董相国(董卓)さまからの伝言だそうで」「董卓ちゃんから、なにかしら?」 使者は、別室に待たせている。李華がもってきたのは、相国としての強制力をもった、招集状のようだった。 「今宵、各将と各、温明園にて宴会を行う。是非に来臨賜りますことを」 ──と、書いてある。 ぶっちゃけた話、上端に国章がついていて、招待状の右端に今日、19時から宴会の時間が書かれ、中央には『弁臨 董仲穎』とだけあった。これで上の意味になるらしい。中国語ってむずかしいよねぇ。中国語の難しさは、この簡素さにある。きてくれって意味なんだろうけど。 きちんと、招待状は人数分あった。「どうするかな、これ」「鴻門宴(暗殺のための宴会)なんじゃないのー」 李華(黒騎兵その3)がものすごく物騒なことを言ってきた。「水。俺たちはこれからどうすればいい?」「は、はいっ」 水(すい)だった。 黒騎兵その4、と呼ぶのはどうだろう。 連れてきた黒騎兵では最年少ながら、軍師としての心得があるらしい。 桂花が来る前は、曹操軍の軍師を務めていたようだった。荊州の水鏡女学院(全寮制)で軍学を学んだらしくて、この世界での諸葛孔明や鳳統士元の後輩だ、とは本人から聞いた話だった。 ──うん。 いや、俺はとりあえず頭を抱えた。この世界のトンデモ設定には慣れたつもりだった。メイド喫茶も時代を間違えたような小道具の数々もなにもかもツッコむほうがアレなのだと心に決めたはずだった。 でもさ。 ──なんだよ、水鏡女学園(全寮制)ってッ!! ふざけてんのか。(注、公式設定です) というかこんなの聞いて、華琳が真似したらどうするんだ。ヤツならやるっ!! 来年の軍費のすべてをつぎ込んで、学園建設に乗り出して次代の軍師を育てようだとか言い出しかねない。 ああ、と俺が近いうちに行われるであろう華琳の浪費にガクガクブルブルと身体を震わせているうちにも、水の説明は続いている。「鴻門の会のような暗殺を警戒する必要性は、薄いでしょう。まず招待された人数が多すぎます。董卓さまに表だって敵対を表明している人は少ないのですから、これだけの人数を集める必要はありません。これだけの人数を一度に暗殺はできませんから」「ふむ」「それに、一番大きな理由が、これが招待ではなく、事実上の招集だということです」「えーと、どう違うの」 華琳は首をかしげた。「招待は断ることができますが、招集は断れません。むしろ、この宴会の目的は、この招集を断った人間を敵として認識するということでしょう」「つまり、行くべきだということ?」「はい」「わかったわ。使者を呼びなさい。──来たわね。ただし、ひとつだけ条件があると、董卓ちゃんに伝えてくれるかしら?」 華琳は、使者へ向けて言った。「は──」「かたぐるしくしなくていいわ。ただの私用だから」 そう言って、本当に私用だった例はほとんどない。それが判っているから、使者も表情を崩さない。「董卓ちゃんに伝えなさい。宴会なら、私、カニが食べたいわ。たくさん茹でておきなさい、とね」 あー。 本気で、ただの私用だった。 真面目に聞こうとした俺が馬鹿みたいだった。 使者の人は、どういう意味かを計りかねて、はっ──と顔を蒼ざめさせたようだった。 いや、いろいろと深読みしているようだが、これが董卓ちゃんだけにわかる符丁だとか、そういう展開は、いっさいないから。 こいつがむやみやたらに自信満々な時は、たいていなにも考えていないときなのだ。 各地の豪族たちにしたためられた招集状によって、温明園は賑わいをみせていた。 豪華な十人掛けのテーブルが多くある、表座敷には豪華な料理が並んでいた。武官と文官たちが同じテーブルを囲んで、贅を尽くした料理に舌鼓をうっている。 温明園は、数百年前から洛陽にある200人規模の大宴会場ということだった。足を載せることを躊躇うような高価そうな敷物に胡座をかいて、俺はあたりを見回した。「はふはふはふ」 まず、華琳はカニの身をほぐすのに全身全霊を賭けている。まわりの雑音すべてはもう耳に入らないらしい。彼女のテーブルには、他のテーブルの三倍のカニが積み上げられていた。 袁紹はいない。 主役は遅れてくるものだと思っているらしい。 だから、十人座れるテーブルについているのは、俺と、華琳と、流琉と、袁術と、護衛の趙雲と、七乃さんだけだった。「メンマさん。そんなにピリピリしてなくても大丈夫よきっと」 なお、華琳は趙雲のことをメンマさん、と呼ぶ。 武器は取り上げられて、趙雲は賑やかな宴席にあって、ぴりぴりとしている。「そ、曹操どの。そのメンマさんという呼び方はどうにかならぬのか」「だって、うちの店(メイド喫茶)でメンマラーメン大盛り、麺抜き、スープ抜き、なんて注文したの、メンマさんだけだもの。そもそも、メンマ壺を抱えながら言っても説得力ないじゃない」 麺抜き、スープ抜きって、それメンマしか残らないだろ。 華琳のカニだけではなく、趙雲の席にはメンマ壺が、袁術の席には壺いっぱいのハチミツが置かれていた。袁術も、上機嫌でクマのプーさんみたいに左手についたハチミツをなめていた。 董卓ちゃんが、用意してくれたらしい。 人が気づかないところまで気配りのきく、本来は心の優しい少女なのだろう。こういった気配りから、彼女の人間性が透けてみていた。そして、それはきっと不幸なことだ。心優しい少女が、永い歴史の中ですら随一の暴虐を奮った魔王の役割を割り振られている。繊細なこころとそのやさしさは、結果として彼女を傷つける結果にしかならないだろう。 動きがあった。 宴会場には上座が用意されており、そこには六人分のテーブルに一人分だけの料理が用意されていた。入り口に陣取っている警備の兵士が董相国様の入場を告げた。「私の宴会にようこそおいでいただき、ありがとうございます」 董卓ちゃんだった。 まばらな拍手が、彼女を迎えた。 座っている武官文官たちはそうそうたる顔ぶれだった。たかが──辺境の州牧ひとり、と露骨に侮っている雰囲気がある。廃位は、天に唾を吐きかけるような行為であって、帝を救った功績を盾にして、自身の栄達を計るだけの小物。 董卓ちゃんに向けられるのは、そんな視線だった。「諸侯に申し上げておきたいことがあります。天子は万民の主である。威儀そなわずは治世はおぼつかない。今上陛下は惰弱にして、その威儀に欠けるところがある。このたびは漢王朝安泰のため、少帝を廃し、献帝を立てることにしました。異存はないと思われるが、どうですか」 董卓ちゃんは満座を見回した。 誰も、応えない。 答えられない。シンとした静寂に、董卓ちゃんが口を開こうとした、ところで──お祭りワッショイ、お祭りワッショイというかけ声が聞こえてきた。 主役の登場だと、おそらく本人だけはそう思っているのだろう。 「おーっほっほっほ。おーっほっほっほっ」 袁紹が御輿の上に座ったまま、園門に乗り付けていた。 帯刀して席につくと、抜刀して、連れてきていた楽団に合図を送った。 ジャーンッ!! ジャッジャーンッ!!「このたびは、私を褒め称えるための宴会にお越しくださり、お礼をもうしあげますわ。さあ、無礼講ですわよ。この袁本初の名において、くつろいでいってくださいな」「おおっ、よくわからんが、麗羽のやつめ、目立っておるの。わらわも一曲歌おうぞ」「あ、あの、お嬢様ー。それはさすがに」 飛び上がるような袁術を、七乃さんが抑えている。あと、華琳は相変わらずカニの身をほじくるのに夢中だった。 この三姉妹、ほんとうに空気読まないなおいっ!!「あ、あわてるな、これは孔明の罠だ」「誰ですか、孔明って」 流琉が律儀にツッコミをいれてくれていた。「袁紹さん。人の招集した宴会でその振る舞いは、無礼ではないですか?」「あら、西涼の田舎者には、荷が重いと思いまして。そもそも、礼というのは、目上の者に尽くすものでしょう。私と同じただの州牧が、帝位を鞠のように転がせると、本気でそう思っているんですの」 董卓ちゃんと袁紹が、真っ向から対立する。「まあまあ、袁紹さまに特別料理を用意したんです。見てくださいますか?」 陳寿だった。 参謀の李儒と一緒に、天の御遣いは、侍女に料理を運ばせてくる。「あら、気がききますのね」「ええ、袁紹さまをもてなすには、これ以上の料理はないと思いまして」 陳寿がくすくすと笑っている。 不吉なものを感じた。いたずらをしようとする子猫のような笑みに、ヘドロのようなものが混じっている。「ひっ──」 料理そのものを覆っている椀をとった袁紹が、声にならない悲鳴をあげた。「──これは、どういうこと、ですの?」「はい。あまり余計なことを口に出さいませんように。名門である袁家を、あなたの代で潰えさせる気はないでしょう」 苦悶に顔を歪ませた男の首級が、皿の上に載せられていた。 ──三公のひとつである太尉、張温の首だということが、周りの人間の様子や囁く言葉からわかった。「陳寿さん。これは──」 董卓ちゃんが、絶句していた。彼女も知らなかったのだろう。「だって、董卓様の悪口を言っていたんですよ。董相国さまへの反逆は、九族まとめて死刑と、ついさっき決めたでしょう。だから、この人の親も奥さんも、子供も、親戚に連なるものまですべて殺しちゃいました。面白かったですよ。ふたりに槍を持たせて、子供を人質にとって殺し合わせるんです。途中で飽きて全部殺しちゃったけど、あれっ、もしかして相国さまもやりたかったですか?」 董卓ちゃんは、なにも答えられない。「この、逆賊がっ!!」 懐に隠した短刀を手に、董卓に躍りかかったのが、ふたりいた。「ああ、馬騰と、丁原ね」 陳寿は、そのふたりを見もしなかった。「──死ね」 俺の視界が、赤く染まった。 人間が、爆ぜた。内部からありえない力がかかったように、さっきまで人だったものが穴という穴から、赤を重ねたような色をまき散らす。高そうな絨毯から調度品やあたりのすべてを深紅に染めて、彼女は笑っていた。 双方とも──特に馬騰などは、大陸でも屈指の武勇を誇る太守だった。 それが、一瞬で。「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははあはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははあははははははははははははあっはははははははははあはははははは──」 死体を踏みつけにする。 ぬめるような、ぐちゅっとした音が響いている。 陳寿は、返り血に塗れて、さらに美しさを増しているように思える。 すべてが赤い。戦場のように、人二人分の肉片がまき散らされていた。「ああ──そうだ。この特別料理だけれど、皆様には、すでに振る舞っているのよ。そこの豆料理に入っている肉、なにを使っていると思うかしら?」 俺は弾かれたように膳の上に乗っている料理を見た。まだ手をつけていない一皿。羊の肉かなにかだと俺は思っていた。「私自らが苦労してつくったのよ。まずは野菜と材料をいれて、そのあとに目を抉って舌を抜かせた捕虜たちを煮立った大鍋に放りこみまーす。最初は油の音と天まで響くような人の泣き声が耳障りでしかたないけど、人の声が聞こえなくなってからも、材料がほぐれるぐらいよく煮込んだら完成。ただし、人肉ってあまり煮すぎると固くて食べられないのよね。切り分けて出したのが、その料理なんだけど、あら、箸が進んでいないようね。私の心づくしだったんだけど、気に入っていただけなかったかしら」 居並ぶ諸侯たちには、箸や椀を落とすものが続出していた。食べたものを吐くものも多い。 董卓ちゃんは、これを知っていたはずだ。 積み上げられたカニとハチミツ壺とメンマ壺は、こちらを巻き込まんとする、彼女の優しさなのだろう。 「ねえ、董卓ちゃん」 華琳が、立ち上がった。 今の惨劇をなにひとつ気にしていないように、董卓に近づいていく。「曹操さん。あなたも袁紹さんのように、私に異議が?」 「あ、うん。それはいいのよ。どうせカニ食べるのに夢中できいてなかったし」 華琳は、さらっと言った。 ダメだこいつっ!! ちなみに、これ、謙遜でもなんでもなく、事実なのが恐ろしいところだった。ああ、もうダメだ。俺は死を覚悟していた。喋り始めたから、もう止められない。「えーとね。董卓ちゃん。少帝ちゃんを廃位したんでしょう」「はい──そうです」「だったら、もう使わないでしょ。少帝ちゃん返して」 華琳が、無造作に手を差しだした。一瞬、というかいくら考えても、華琳が言っていることの意味がわからない。 董卓ちゃんが、困ったように俺を見た。 ああうん。えーと。「ええと、華琳。なに言ってるんだ?」「董卓ちゃんが誰を皇帝につけても、私にはどうでもいいけど、少帝ちゃんは何進おばさんの姪なんだから、こんな危ないところにおいておけないじゃない」「ああ、なるほど。って、──ええっ!!」 俺はおどろくしかできない。華琳が、ここまでアホだとは思わなかった。そんな願い、通るわけがないだろうがっ!!「私が、おとなしく返すと思いますか? 曹操さんが、天子の正当性を疑って、私を討つための旗印に──」「しないわよ」 華琳が、なにを言っているんだろう、このお馬鹿さんは、という感じで言った。 なんというか、こう断言されると、董卓ちゃんが間違っているような気にすらなってくる。「………………いいですよ。持って行っても」「え?」 董卓ちゃんの絞り出すような声に、俺は、呆けたような声を出していた。 まさか、通るとは思わなかった。董卓ちゃんの表情に、明らかな侮蔑の光が浮かんでいる。 ああ、そうか。 賈駆の血にまみれた董卓ちゃんを、少帝は穢れたようなものを見るような目でみた。あんなの、どうやっても使いようがないとでも考えているのだろうか。むしろ、少帝を反董卓仲穎の旗印にするならば、望むところ。すべて叩き潰すまでと思っているのか。彼女の心境は、想像するしかない。 ただ、ひとつだけわかる。 董卓ちゃんは、毀(こわ)れ始めていた。 俺には、そう見えた。 日本の92代目の総理大臣が、総理に一番必要な資質は、と訊かれたときに、『どす黒いまでの、孤独に耐える力』と応えている。董卓ちゃんに、こんな時に、一番そばに居てほしい少女が、ここにはいない。 ──賈駆はまだ、眠り続けていた。 龍衣を着た少女が引き立てられてきたのは、すぐだった。 怯えている。しゃくりあげる声は、咽につまっていて、なにひとつ言葉の意味を成さなかった。聡明な妹はここにはいない。 役立たず、と──董卓ちゃんは、口をそう動かした。それは、なにもできなかった自分を重ねているのか。 どこにもぶつけようのない怒りを、腹に溜め込んでいる。「ねえ、大丈夫よ。私は、あなたの敵じゃない。今まであなたがいたところには、誰もいなかったけど、ここには、私がいる。だから──ひとりで、よく頑張ったわね」「う、うわああああああああああああああんっ!!」 皇帝の衣を着た少女が、華琳に抱きしめられる。ずっと堪えていたものが、溢れ出したようだった。 それを見て、 董卓ちゃんが、立ちつくしていた。 自らが失ったものを見せつけられて、茫然自失しているように見えた。 「曹操さんは、いつもそう、ですよね。私にできないことが全部できて、私、ずっとあなたみたいになりたかった」「そう?」 濁った闇の先に、憎悪と憧憬が、入り交じったような光だった。「あなたが嫌いでした。私にできないことが、ぜんぶできるあなたが」「そう──なにを無理してるのか、私にはわからないけど、私は董卓ちゃんが好きだよ」 その言葉が、なによりも深く董卓ちゃんを傷つけたことは、きっと華琳には理解できなかっただろう。 ──この日の宴会は、それで終わった。 洛陽の市といえば、道を埋め尽くすほどの人と商人の呼び込みの声、そして彼らが四海より持ち寄った海産物や農産品、手芸品から機織物、各地の特産、特需品が並ぶ、それは賑やかなものだった。 けど、それも昔の話だ。 一週間前のことが、おそろしいほどに昔のことのように思えていた。 董卓ちゃんが洛陽を支配してからは、今の市は半分の賑わいもなかった。「回りくどいことをしないで、直接来てくれればよかったのに」 俺は指定された旅籠の、表座敷の、決められた席にいた。 目の前に、旅装で固め、顔の半分を隠した彼女が座った。知らなければ、かろうじて若い女性であることがわかるだけだ。「そっちはそれでいいかもしれへんけどな、こっちはそうはいかへんのや。今の、月(ゆえ)は猜疑心の固まりやからな。ウチにも、今も見張りがついとる。むろん、あんたにもやな」 この関西弁で誰だかわかったと思うが、張遼将軍だった。 俺に手紙ひとつ届けるのにも、相当な苦労があったのだろう。だからこそ、これにはかなりの手間がかかっているはずだ。俺がぶらぶら外出して、ただ酒を飲んで帰ってくる。その間、張遼将軍のことは無視されて、報告が董卓まで届くはずだった。「普段でさえ、月には近づけん。あの陳寿とかいう女と、李儒がいつも近くにいるさかい。なぁ、一刀。帝を保護したとき、いったいなにがあったんや」「ああ──」 酒が運ばれてくる。 見ると、いつも手にしていた酒の入った瓢箪は、今はもっていない。注文した酒が空になるまで、俺はことのあらましを話し終えた。 賈駆が死んだこと。 天の御遣いと名乗る女のこと。 そして、その陳寿と呼ばれる、天の御遣いが、怪しげな道術(としか、説明できない)で、賈駆を生き返らせたこと。そして、それが故に、董卓ちゃんはその陳寿に逆らえないということ。「──ことのあらましは、こんなところだ。できれば、信じて欲しい」「………………せやな。月(ゆえ)がああなったことを思えば、どんな荒唐無稽な四方山話でも、信じたくなるわ」「信じてくれるのなら、話は簡単だ。董卓ちゃんを止めなければならない。俺は、あのとき、どうやっても止めるべきだったと思う。こんなことになるのなら、最初からだ。契約をご破算にしても、賈駆の命を、諦めても、だ」「簡単に、言うんやな」 怒るでもなく、彼女は俺の話を聞いている。 董卓ちゃんに、もう未来はない。満座の前で恥をかかされて、明らかに、もう董卓ちゃんは華琳を生かしてはおかないだろう。 呂布の動きだけがわからない。情報はまったく入ってこない。史実だと、董卓は最後に呂布に殺されることになる。 この世界でこれが繰り返されるとするなら、呂布は、董卓への裏切りの機を伺って、埋伏している可能性もあった。 陳寿は、自分を傍観者と言っていた。 彼女は、恐るべき相手だったが、それでも傍観者である限り、──干渉できる方法には限界があるはずだった。「誰も、今の状況を望んでいない。董卓ちゃんは、自分を止めてほしいと思ってるだろう。これ以上は、張遼将軍の名にもかかわる。だから、俺たちと一緒に、戦ってほしい」 そうだ。 史実では、陳宮は、呂布に殉じた。 高順は、その高潔さゆえに二臣に仕えなかった。 だから、俺が口説き落とせるとしたら、おそらくこの張遼将軍だけだ。この裏切りは、張遼将軍の名を下げるものでは決してない。 なにしろ、幾多の華々しい戦歴を誇る、魏の名将である。 彼女の戦力は、決して無視できるものではない。「一刀」「ああ」「詠を、頼む」「………………え?」 張遼が、わずかに目を伏せていった。俺の肌に、粟が生じる。 ──同じ、言葉だった。『一刀さん。詠ちゃんをおねがいします』 なにかを諦めて、自分を殺し、豺狼(やまいぬ)に身を落とした少女の姿が、今の張遼将軍に重なった。ああ──と、いまさらに気づく。なんて馬鹿なことを言ったんだろう。 今の張遼将軍の心情を語るなら、秋蘭を思えばいい。いくら主に失望しても、その行いのすべてを否定したくなっても、秋蘭が華琳を裏切るなんて、あるはずがないのに。 表座敷に、武装した兵士たちがあがってきた。 店の主人が、懸命にそれを押しとどめようとしている。「困ります。いまは、予約したお客様がいて」「なにを言っている。そこのふたりしかいないだろうが」 十五人ほどだった。兵士の喋っている言葉のなまりと、それに武具の特徴で、旗がなくてもどこの兵かの見分けはつく。 もっとも、白昼堂々とこんな無茶な真似が許される軍は、たったひとつしかない。「おい、そこの。たったふたりで店を貸し切って、なんの密談だ?」 こちらを囲んだ。目の前には、我が物顔で歩き回る、董卓軍の兵士たちがいる。「叛乱分子は、見つけ次第獄に落とせ。そう言われている。貴様らも獄吏の手にかかりたいか?」 いい勘をしている。 やっていること自体は、言いがかりなのだが、言っていることは、ほとんど正鵠をついていた。「怪しいな。ひっとらえて牢に入れておけ。俺があとで直々に尋問してやる」 隊長は、笑った。 男の俺でも嫌悪感を催すような、下卑た笑いだった。 董卓軍であること。 それが、正義の御印であるかのようだった。 その旗の下にいるだけで、そのすべてを正当化できるのだとそして、それはこの洛陽にあって、絶対の真実になっている。「董卓軍やな。所属と名は?」「なに?」「洛陽の警備は、執金吾の担当やろ。アンタらは、こんなところでなにをしとるんや」「ふん。そこのお嬢さんは、自分の立場がわかっていないようだ。ここで、足腰が立たないほど責めたててやってもいいんだぞ」 後ろの数人が、つられて笑っている。 初犯じゃないな。こいつら。 おそらくは何回か、同じ事をやっているんだろう。「この董卓軍は、帝を戴いている。つまり、俺たちが正義なんだよ」 「董卓軍か。奇遇やな。ウチもや」 外套をはだけた。見間違えようのない特徴的な袴姿が外気にさらされる。董卓軍に身をおくものなら、彼女の姿は骨の髄にまでしみこんでいるはずだった。「まず、この張文遠を前に、それだけの大口をたたけることは、褒めてやるわ」「張遼、将軍──っ!?」 驚愕の表情を貼り付けたまま、隊長の首が、胴体から離れていた。外套の下に隠し持っていた短刀が、弧を描いていた。 首が落ちると同時に、兵達が色めきだった。「なるほど、腰が立たなくなるまで、相手してほしいんやな。望むとおりにしてやろうやないか」 鋭い瞳の光が、その場にいる全員の心臓を鷲掴みにしている。「総員、兵舎まで駆け足。これより、調練を行う!!」 なお、張遼将軍の調練は、時には死人が出るほどに、過酷なものという噂が立っている。連中は、間違いなく体液をすべて搾り取られるのだろう。 外に出ると、人が減っていた。 俺は首をかしげた。数台の馬車が道の真ん中を突っ切っている。「あら、見慣れた顔じゃないの」 馬を止めた。馬車の中から出てきたのは、陳寿だった。 馬車の横には、戦利品として多くの首が下げられている。そこまではいい。俺が顔をしかめたのは、男のみならず、女や子供の首までかけられていることだった。「聞いてよ。一刀くん。近くの街を視察してたらね。祭りなんかやってて、みんな働いてないのよもう。私たちがこうやって遠くを視察してるのに、農民が遊んでるのよ。理不尽だと思わない? だから──つい皆殺しにしちゃったのよ。ひどいわよね。ねぇ、董卓さま」「う」 董卓ちゃんが、横にいた。震えている。「ほら、董卓さまもそう言って──」「黙りぃや」 普通の人間なら、射すくめられただけで凍死しそうな張遼の視線に呑まれて、陳寿の動きが、一瞬止まった。「月。官職に空きがあったやろ」「あ、はい。それが?」「何進なきあとの、大将軍の任を、今の時点をもって、拝命した。ウチも、腹をくくったわ。帝を押し立て、天下に董の旗を打ち立てる。あんたの望みは、それで、いいんやな。それを邪魔するものすべてをウチが払ってみせる。ここに、それを誓うわ。だから、ウチを詠の代わりだと、そう思ってほしい」「──霞(しあ)、さん」 董卓ちゃんは、言葉を続けられないでいる。「悪いな。一刀。これが、ウチの選択や。次に会うときは、戦場で、やな」 それが、彼女の宣戦布告だった。 蒼天に袴を翻し、彼女は張遼文遠でしかありえなかった。 次回、『華琳と曹操』