三国志。 吉川英治やらの影響が大きく、日本ではまず、三国志といえば1800年前に起こった劉備、曹操、孫権の戦いの物語のことを言うが、その元々の意味は、魏書、蜀書、呉書のみっつのことを言った。 元を辿れば俺がいるこの時代より、さらに100年の後に、蜀、魏、呉を平定し、魏王から帝位を禅譲され、天下統一を成し遂げた晋の武帝(司馬炎)の時代に生きた、ひとりの歴史偏遷官が記した、全部で65巻にも及ぶその歴史書。 ──それを、本来の意味での、三国志という。 恐ろしく簡素かつ明瞭に、事実をこと慎ましやかに書いたそれは、歴史に高く評価されることとなる。この300年後に、裴松之が注(いわゆる注釈)を加え、さらにその700年後に羅貫中が、農民達に伝わる柴堆(民間伝承)などをとりまとめ、三割とも七割ともいえるフィクションを書き加えて、劉備を善、曹操を悪として扱う、日本で広く知られることになる、三国志演義として完成させた。 「名乗るべきかしら。姓は陳、名は寿、字は承祚(しょうそ)周りからは、天の御遣いと呼ばれているわ」 ──そして、三国志という話の基礎をまとめた、その歴史偏遷官の名を、陳寿という。「貴方は、ここでなにを?」 俺は、陳寿と名乗った女性に聞いた。 対峙した禍々しさは消えていない。人を目の前にしている気がまったくしなかった。人としての存在を放棄したような醜と紙一重の美は、俺にただ畏怖のみを与えていた。「どうだったかな? 干吉ちゃん。どうなの? 私、基本昼寝してただけだし」 陳寿が、言った。 干吉が前に進み出る。「──我々はですね、天の御遣いとその一行ということで、宮廷に招かれていたのですよ。盟主さまが、その御力で死者を蘇らせたり、石を金へと変じさせたりしていたのですが、昨晩宮廷での混乱に巻き込まれましてね。天子さまたちとともに、ここまで連れてこられた、というわけです」「そうだったわ。じゃあ、そういうことで」「………………」 ネズミを追うつもりで、藪をつついたら、とぐろを巻く大蛇が出てきたと、そういうことか。 この場合、ネズミが宮廷に巣くう宦官どもで、大蛇がこの天の御遣いサマなのだろう。 いや、すでに頭から飲み込まれているのかもしれない。ただもう、捕食者の胃袋の中で、消化を待つ獲物の気持ちがよくわかった。「……あの、天の御遣いさま、なんですよね」 賈駆の死体にすがりついていた、董卓ちゃんが顔をあげた。 雪を思わせる白い衣装と肌のことごとくが、空気に触れて酸化した血に染まって、どす黒い斑点をつくっている。 全身が絶望に染まっている。俺には、そう思えた。 賈駆が、死んでいた。 おそらく、彼女はその死を、賈駆が息絶えるまでをその目で見届けたはずだった。その時間は想像で補うしかないが、それでも、賈駆は最後まで董卓をかばい続けたはずだった。「詠ちゃんを──助けてください」「ふぅん。でも、彼女はもう死んでいるわ。手遅れとは言わないけれど」「だったら──助けられますよね。天の御遣いさま、なんですよね。 詠ちゃんは、わたしをかばって矢にあたって、それで、血が広がっていって、でも、わ、わたし、なにもできなくて。手を握っていることしかできなくて、詠ちゃんの手を、少しずつ冷たくなっていく手を、ずっと握りしめていることしかできなくて、だから」 董卓ちゃんが、藁にすがりつくように言った。「あら、まあ──へえ。私は、困った人を見れば助けてあげたいとは思うし、それでかつ、あなたのような子は嫌いではないのだけれど、それでも、ね。なんの見返りも無しにそんなことをするほど、私が底なしに寛容で親切なように、見えるかしら」 重い。 見かけは董卓ちゃんと同じぐらいの年齢に見えるのに、人と話している気がしない。「な、なんでもします。私に、できることなら」「『できる』こと、と言ったわね」「………はい」「なんでも、『する』のね」 董卓ちゃんの返答に、陳寿の口が半月のカタチに吊り上がった。 悪魔との契約というものが、本当にあるのならば、それは、今のこのようなものを言うのだろう。「いいわ。あなたの願いをかなえてあげる。大丈夫、あなたにしかできないことよ。だって、正史ではあなたが一度、やったことだもの。私が受け取るものは、あなたの志ひとつで構わないわ。それを、あなたの絶望と、引き替えにすることができるなら──」 そうして、彼女は董卓ちゃんに、その条件を告げたようだった。 俺は、それを聞くことは許されてはいない。 董卓ちゃんの肩に手をかけようとする俺に、立ちふさがったのは干吉だった。「知っていますか。悪魔の契約というものは、だれかに知られることで、その効力をなくすといわれています」「それでも、あれを見逃せ、というのか」 俺の言葉に、干吉は微笑をかえしただけだった。「おや、私としてはあなたのためを思って言ったことですが。彼女が決めてしまった以上、どんなに言葉を尽くそうと、彼女の気持ちを変えない限り、この場で彼女を盟主さまからから引き剥がしたとしても意味はない。また別の場所を同じ事を願えばよいのですから。ここで、彼女の前に立ったところで、あなたが恨まれる以上の意味はない。私は、間違ったことをいっていますか?」 そう言われてしまえば、返す言葉はない。 でも、それでも、ここで──力ずくでも、彼女を止めるべきだった。 俺がそう後悔するのは、これから三日もあとのことだった。 「一刀さん。詠ちゃんをおねがいします」 懇願だった。 生気や目の光といった、人の生きる力のようなものが、すべて消えている。なにかを、諦めたような顔だった。 覚悟を決めたとも違う、絶望を押し隠した、餓えた山犬の瞳だった。 こちらに目をあわせようともしない左慈に押しつけられるように、賈駆の死体を投げ渡される。 ──いや、 生きていた。 自らの血に染まった服を通して、わずかに肌の暖かみが伝わってくる。血を流しすぎたのか、肌は青白い。意識はまだ戻らないようだが、息もしている。かすかだったが、たしかにそこには生命の鼓動があった。 賈駆は、生きていた。 今は、それでいい。 今は、それ以上のことを考えるのはよそう。 視線がなんともなしに宙をさまよう。 鳳輦がとめてある横には、山中の小屋があって、そこから出てきたのは、ふたりの少女だった。ひとりが11歳。もうひとりが8歳ほどだろうか。頭に至尊の冠を乗せていた。「だれだ、あのふたり」「え、天子さまですよ」「え?」 流琉の台詞に、俺は呆けたような声を返した。「ええと、だって、協皇子と弁皇子っていってなかったか」「はい。王朝では、女性でも皇子っていいますよ。王朝の基礎をつくった高祖(劉邦)や世祖(光武帝)がともに女性で、女性と男性の区別をすべて廃しましたから。高祖が漢中一番乗りのときにつくったこの四条の法令で、女性も、男性の名前や官職名を名乗れるようになったんです。そこで、高祖の偉業を称えて、女性の誇りを刻み込む意味で、真名ができたんですよ」「だから──真名を呼ぶ、というのは特別な意味をもつのか」「はい。真名というのは、私たちの誇りそのものですから」 そうか。 信頼したものに、真名を預ける。 許されていないものが、真名を呼びかけた場合、著しく礼を欠いたことになる。それは、殺されても文句がいえないほどに無礼なことである。 そういわれて、奇異な風習だなぁとしか思っていなかったのだが、そういう歴史の積み重ねがあって、彼女たちの正当な怒りがあるわけだ。「天子さま。これから、洛陽に戻ります。準備を」「ひっ」 皇帝を継いだ(年長のほうの)少女は、ただ怯えるだけだった。 あえていうならば、全身が賈駆の血にまみれた董卓ちゃんに、拒否反応を示したともいえた。 なにかを喋ろうとしたようだったが、途切れ途切れの言葉は、聞き取れるだけの意味をもたなかった。 これが、のちの少帝か。 皇帝は、死後に功績に応じて、それに応じた諱(いみな)を与えられる。少帝というのはつまり幼くして死んだから少帝なのだ。漢王朝の皇帝を遡れば、もうひとり少帝がいたから、つまりは彼女は二人目の少帝だった。 この間死んだばかりの霊帝は、官職をあろうことか金で売りに出して、政治を混乱させたあげくに、黄巾の乱を発生させる原因となった。『霊』という諱を与えられたのは、まあ当然といえば当然かもしれない。 ちなみに、死後に与えられる諱なのに、俺たちさっきから普通にそういう呼び方してるのはどーしてなんだ、というツッコミは勘弁願いたい。たいていの三国志小説では、そこはスルーされている。というかまあ、『歴史』小説だから、別におかしくはないのか。 そして──「姉は自失しておられる。馬がないのならば、歩くことも厭わぬ。并州牧、董卓よ。お役目ご苦労であった。間違いなく、帝をお送りいたせ」「はい。仰せのままに」 毅然な態度で、董卓の前に立った幼い少女。 ──彼女が、のちの『献』帝だった。 董卓が、少帝を廃し、献帝を新しく立てたのは、中平六(西暦189年)九月の一日、これより三日後のことだった。 嘉徳殿において、廃立を強行。 李儒が策文を読み上げたのちに、少帝を玉座から引きずりおろし、献帝を玉座につかせ、自らを相国(宰相、三公の上)と名乗った。 尚書の丁官が反対し、象牙の錫で打ちかかったのを、五体をばらばらにして、殺した。 そして、彼女は自ら相国(宰相)の地位に昇ることになる。彼女の治世はおよそ100日ほどで終わることになるが、彼女によって殺された人間は、数万ではきかない。 歴史は、彼女のことをこう呼ぶことになる。 ──魔王、董卓。 次回→『華琳VS月』