天まで立ち上る煙が、王朝の終焉を告げていた。 青鎖門には火がかけられ、洛陽宮に押し入ったこちらの兵士の行う虐殺によって、すべては赤く染まっていた。屠られた宦官の血によって、池ができている。この世界で、一番天国に近いはずだった場所は、一夜にして地獄へと変わっている。 軍隊とは暴力機構であり、そこに正義の入る余地はない。一度動き出せば、腹が満ちるまで、あるいは目的を果たすまで止まることはない。どれだけのキレイゴトで飾っても、それが現実だった。 目を覆いたくなる地獄だったが──しかし、不要な殺戮や陵辱は、数えるほどしかなかった。それに原因を求めるならば、それは数え切れないほどの兵士の返り血に染まった、一人の鬼神による。 方天画戟が血を吸っていた。 重さ140斤(28kg)の刃のかたまりが、その場に存在するすべてをなぎ払っていた。彼女の前では、普通の人間など、血の詰まった袋にしか見えなかった。歩く度に水音がするほどの紅い水たまりを生じさせた本人は、ただこの世界で最強の武を振るっていた。 方天画戟が、横に一閃された。 呂布は、音と同じ速度で、鉄の塊を薙いだ。大気を切る音は、けものの唸りそのものだった。 立ちふさがった御林軍(宮廷を守る近衛)のひとりが、横に突きだした槍の柄で、それを受け止めようとしていた。 蛮勇というべきだろうか。 気づいていないのか。 彼女の前に立った時点で、自らの命運は尽きていることに。そして、彼女が動き始めた時点で、彼の死はもう決定したことだった。 鈍い音。 ダンプカーと人間の正面衝突。 例えるのなら、きっとそれが一番近い。 振るわれた呂布の方天画戟は、生々しい音とともに男の槍の柄を撃ち砕き、勢いをそのままにアバラを完全粉砕し、それでも止まらない衝撃が、背骨までをコナゴナに砕いた。五メートルはバウンドして壁に叩き付けられた男の全身は、原型を留めぬほどに破壊されている。 笑いたくなるほどの、圧倒的な武力だった。 三国最強。 呂布奉先。 俺の見る限り、あの強さの源は、力でも速度でも技倆でもない。 重さ2kgに満たない槍で、30kg近い方天画戟を相手取ることが間違っている。先日の武器較べの際に、一度触らせてもらったのだが、柄の部分を持ち上げるだけで精一杯だった。俺があれをあんな勢いで振り回したら、まともに扱えないとかそれ以前に、肩の骨が外れる。反動で腰が砕ける。 ただ、呂布が扱うのを見れば、その重さなど見ているものにはいささかも感じられないだろう。それほどに自然で、それほどに馴染んだ武器ということだろうか。それを自らの手足のように自在に操るのはもちろん驚異だった。世界でも、彼女だけに与えられた天分だ。 目の前にあるのは、当然の結果だ。 勝敗を決したのは、圧倒的な質量の差だった。 おそろしく単純に、大きくて重いものを、敵より早くぶつけている、といえばいいのだろうと思う。相手を一口で呑み込むけものの牙のように、相手の防御など、紙にひとしい。 どんな英傑でも、一合で命運が尽きる。全速力のダンプカーを止められる近接武器がないように、あの方天画戟に耐えられる武器など、存在しない。一撃で武器ごと全身を砕かれる。今見たとおり、ヒトとしての原型が残ればもうけもの、といったところか。 夜は、すでに白みはじめていた。 一昼夜の宦官掃討は、ほぼ最終段階に入っている。 ただ、この時点で張譲の首をとれておらず、少帝も押さえられていないことが、焦りを呼んでいる。華琳と袁紹と袁術が眠気を噛み殺しながら陣を張って、報告を聞いていた。 十常侍の首は、すでに七つ。趙忠、程曠、夏惲、郭勝は翠花楼の前で切り刻まれ、ほどなく曹節、侯覧のふたつの首も運ばれてきた。蹇碩の首は先日取ってあるから、あとは十常侍トップの張譲と、その弟分の段珪だけだった。 南宮を落とし、いまは北宮を攻めている。 この時代における洛陽は、世界でも最大の都であって、人口は100万ともいわれていた。後漢の首都である洛陽、その皇帝の住まう宮殿は広く、構成する柱のひとつひとつにまで意匠が施され、豪華絢爛に飾り立てられていた。 地図で説明されたところによると、洛陽宮は、大きく分けて南宮と北宮が主な建物だった。あとは大尉府やら司空府やら司徒府やら永安宮やらがあるが、主な建物はこのふたつだった。門は12あって、俺たちが突入したのは、南のほうからだった。「報告がありました。張譲と段珪は、ふたり、少帝と協皇子は張譲と段珪に連れ出され、北にある北芒山に逃亡した、と」 知っていた。 三国志演義の序盤、この逃亡劇の後に、少帝の、のちの献帝である協皇子は、董卓に保護される。労せずに──、董卓は最大の戦果を掠め取ったことになる。そのイベントが、この世界でどうなっているのかわからない。 何進が殺され、ここまでの流れは俺の知っている三国志演義とほぼ同じだった。ただ、史実との最大の差異は、董卓がこちら側にいる、ということだった。まあ、最大の違いは、董卓が帝の廃立など考えもつかないような、普通の少女だということなのだが。 ともかく、衝撃的な事実であることは変わりない。 陣がざわめき始めた。「え、なに。なにがまずいの?」「帝が手中にあれば、たいていの無理は通せるけど、相手にとってもそれは同じ。このまま逃げられたら、あっちに大義名分をつくることになる。何進大将軍はもういないんだ。このままだと、こっちが逆賊になりかねない、ということだろ」「それ、まずいじゃない」 華琳が一息おいて、事態を飲み込んだらしい。華琳にもたれるように、袁術はすでにうつらうつらと船を漕いでいた。七乃さんの話だと、いつもは八時になると床に入るよい子らしい。気の張り詰めっぱなしで、疲れているのもあるのだろう。「ええい、こんな一大事に、董卓さんはどこに行きましたのっ!」「は、はっ。董卓様はすでに帝をお救いに、宦官を追跡中ですが」「な、なんですってーっ。私の許可もとらずに、あの田舎者は、なにをしていますのっ!! 早く追いかけますわよっ!!」 袁紹が焦っている。 俺はこの世界の地形はよくわからない。 よって、手元にあるこの洛陽周辺の地図(超貴重品)を見てみると、北芒山は洛陽の北東にあった。さらに北には北平県と河陽を寸断するように、真横に河水が流れている。渡河でもされたら、もう追いようがなくなる。追撃隊を編成して、虱潰しに探していくしかない。「ちっ、何進を十常侍に差しだしたのが、裏目に出たかもしれないな」 ぼそっ、と呟いた田豊のひとことに、俺の背筋が凍った。 ええと、なに言っている。このちびっこは。「何進大将軍を、やっぱりわざと行かせたのか? 殺されるとわかっていて?」 俺の問いを、田豊は鼻で笑ったようだった。「なにを怒っています? 剣を借りて人を殺す。これも兵法です。大将軍の仇討ちの後、我々が皇帝を補佐し、天下太平を成し遂げればよい。一を殺して、百を救えるのなら、誰だってそうするでしょう」 悪びれた様子もない。 この子供は、想像以上に悪辣だった。腹の中を割ったら、墨のように真っ黒いだろう。「そんなことばっかりやっていると、最後には同じように殺されるぞ」「それは光栄ですね。袁紹さまを狙われるのなら意見を取り下げますが、私の命が盾になるのなら、それはむしろ喜ばしいことでしょうから」 正しい。 鮮烈な正しさだった。 ただし──人には受け入れがたい正しさだろうと思う。「気に入らない、といった顔ですね」「ああ、桂花と馬が合わない理由が、よくわかった」 この子供軍師に、ほんの少しでも、華琳のような馬鹿さかげんがあれば、桂花を手放すようなマネはしなかっただろう。 さて、これから。 どうなるんだ? 今のところ多少の差はあれ、俺の知っている三国志演義の筋書き通りに進んでいる。このまま行けば董卓の暴虐が行われ、少帝が殺され、献帝が帝位につく。 この世界で、それは起こらない、はずだ。 ただ、少帝を、董卓が追っていった、というのが気にかかる。董卓の、いや──賈駆の気持ちはわかる。少帝をはやく助けることで、何進なきあとの董卓の発言権をすこしでもあげようというのだろう。 ──本当に、そうなのか? なにか、見落としていないか? 史実と重なる符号に、形にならないような胸騒ぎがした。杞憂であってくれればいい。 今からだと、なにか策を講じられていた場合、それを破るのは無理だ。賈駆だ。賈駆だぞ。史実だと策を講じて失敗したことなど一度もない、後漢最強の謀略家(知力97)だぞ。諸葛孔明(知力94)でも周瑜(知力92)でも相手が悪い。太公望(知力98)か張良(知力100)あたりを引っ張ってこなければ、勝負にならない。 そう、思っていた。 そう思っていた俺の考えは、すべて裏切られることになる。 こうして、 ──事態は、賈駆の死から動き始める。 鳳輦は、ひっくり返っていた。 皇帝の乗り物のことを、総合して鳳輦という。 あまりに急がせていたために、崖を曲がりきれなかったらしい。張譲も、段珪も、付き従った宦官たちも細い道のしたに投げ出され、みなすべて絶命している。しかし、違う。崖から落ちたことが死因ではない。彼らのすべてが一様に恐怖に顔を歪ませたままで、目や耳から血を吹き出している。崖から落ちた後の外傷らしきものはあるが、命を奪うほどの深い傷は、どこにもなかった。「少帝たちの姿は、ないな」「はい」 嫌な予感は、さらに強まっている。今は、他の連中の到着を待つしかない。俺と護衛で付き従っている流琉だけが、崖の下にいた。「ッ、兄様ッ!!」 ──殺気、だった。 流琉の姿が、馬上から消えた。 躍りかかってきた影が振り下ろした剣を、流琉が鉄戟で受け止めている。「どけ。俺が用のあるのは、そこの北郷一刀だけだ」「なっ」 名前を呼ばれて、陽光に陰った男の顔を見た。 見覚えがある。 そうだ、忘れるわけがない。俺と同じフランチェスカの制服を着ていたところしか記憶がないが、小憎らしい顔にはたしかに凄みが浮かんでみえている。人を見下すような瞳の光は、一度見たら絶対に忘れないはずだった。本来なら、一番に探し出して、顔に拳の一発でも叩き込んでおかなければならなかった。『──もう、戻れん。幕は開いた』 白い光が、記憶にあった。 漂白されてバラバラになっていた、この世界に飲み込まれる直前の記憶が、ようやく戻ってきた。『飲み込まれろ。それが、お前に降る罰だよ』 名前は知らない。 なにを求めて動いているかなど興味はない。 『この世界の真実を、その目で見るがいい』 そうだった。博物館から鏡を盗み出したこいつに巻き込まれて、俺はこの世界にきていた。思い出せることはそう多くない。むしろ、すべて思い出してもわからないことだらけだった。 ただ──俺がこの世界で生きるにしても、元の世界に帰るにしても、絶対に避けては通れない存在だと、それぐらいはわかる。 絶影に命を下す。地面を滑っていく男の速度に一歩も劣らずに、殺気を込めた青釭の剣が閃いた。「ふっ」「チッ」 まっすぐに突いた一撃は、男の肩先をわずかに掠めただけだった。「相変わらず、話は通じなさそうだな」「語る必要もないだろう。貴様は、今ここで死ぬのだからな」「へえ、二対一で、ずいぶんと大層な口がきけるな。そもそも、なんでこんなところででてくるんだよ」「我が主の酔狂だ。それ以外にない」「へえ、おたがい、苦労していそうだなぁっ!!」 俺の動きと一緒に、流琉の伝磁葉々が男をねらい澄ました。大木をなぎ倒す流琉の円盤を、男はわずかに身を沈めただけで避けていた。男の動きは、学園で戦ったときよりもなお鋭さが増している。「あああああっ!!」 そのまま、俺が左から横薙ぎに振るった刃を、男は逆手に持った短剣で防いだ。 ──いや、防ごうとした。 俺の手にほとんど手応えも残らぬまま、青釭の剣は、その短剣を紙のように斬り裂いて、持ち主の手首を飛ばした。その勢いのままでケーキにナイフを入れるように男の上半身を、半分ちかくまで深く斬り裂いていた。 男が後ろに下がるのが遅ければ、上半身すら両断できていただろう。 致命傷。 人を殺した手応えすら残らないのは、青釭の剣の切れ味、だけではないだろう。千切れた手首からも、その上半身からも、まったく血がでていない。「兄様。このひと、仙人ですっ」「俺には、化け物に見えるぞ」「そっちの子供の方の解釈で合っている。三国志を知っているのなら、拷問をうけようがなにをしようが、決して死ななかった方士の名を、知っているだろう」「──左慈、か」 烏角先生とも呼ばれる。 史実のミカン好きが、なんでこんなことやってるんだ。 風が吹いた。 目を開けていられないほどの突風に、視界すべてを覆うぐらいの紙の札が舞っている。 「やれやれ。姿が見えないと思ったら、左慈。いったいなにをしているのです」 もうひとり。 引き延ばされた影が、人のカタチをとった。「干吉。なにをしに来た。こいつを殺せば、この外史は終わる」「終わりませんよ。彼は、鍵ではない」 干吉と呼ばれた男は、左慈よりいくらか年長のようだった。 左慈が俺と同じぐらいだとすると、干吉は五つほど上、ぐらいだろうか。白の法衣に身を包んで、仙人というよりは先生といった感じである。「なんだと。貴様。──なるほど。そういうことか。チッ、興が失せた。なりそこないの鍵を殺したところで、この外史を終わらせることはできない、か」 「おい。結局人違いとか、どれだけ迷惑なんだよ」「左慈が随分と非礼を働いたようで。私は、干吉と申します」 干吉は、恭しく一礼した。「……状況はわかってると思うけど、ひとつ、教えてくれないか?」「ええ、部外者の干渉は好ましくありませんが。左慈の無礼を償う意味で、ひとつだけならば」「俺が、元の世界に帰るには、どうすればいい?」 それが、ずっと考えていたことだった。 この世界で生きていく決心は、固めた。しかし、戻れるなら、いや、自在に行き来できるものなら、この世界との、そして華琳との付き合い方を考え直す必要があった。「方法は、大きく分けて、みっつあります」「みっつ、か」「はい。ひとつはあの銅鏡です。あなたがこの世界に来るのに使ったあれ。しかし、破損しまったのでもう使えない。これは例外とします」「ん」「ふたつめは、左慈がやろうとした方法。この世界、我々が外史と呼ぶそれを構成している、我々が鍵と呼んでいるひとりの人間を捜し出して、殺すこと」「………………」「みっつ目は、その鍵と呼ばれる人間に定められているはずの、ゲームクリアの条件を満たすこと。これは、必ずしも鍵がやる必要はない。代わりにあなたが満たしてもいいはずです」「あとのふたつは、そもそも鍵という人間を捜し出さなければ、話にならないな」「ええ──左慈はあなたがその鍵だと思っていたようですが、いや──外史の先端を開けた以上、あなたにもかつてその鍵としての役割があったはずなのですが。ふぅ、仕方ないところです。我々は、三人目の鍵探しを始めなければならない」「俺がひとりに数えられるとすると、その一人目の鍵というのは?」「質問はひとつまでとの約束だったはずです。欲張りすぎはよくない」「いや、オマケしてくれよ。そこが一番大事だろ」「我々の盟主さまですよ。なんなら、今から、お会いになっていきますか? 気むずかしい方なので、気に入られるかは、あなた次第ですが」 俺は、頷いた。 干吉は、先導して歩き出す。「流琉、戻ってくれないか? 董卓ちゃんや少帝を探すのは、みんなに任せて、俺はこのふたりの主とやらに用があるんだ」「もしかすると、董卓ちゃんというのは、あの肌の白い女の子でしょうか?」「知っているのか?」「はい。盟主様といっしょにいますよ」「………………」 これは、どう考えればいい? 董卓ちゃん達が、このふたりとグルなら、すべて説明はつく。盟主様というのが、イコール董卓ちゃんだという想像は、突飛だったが、ありえない可能性ではない。このふたりが、こんな場所にいるのは、俺を追ってきていたから。 本当に、それだけなのか? ガラス玉のような瞳が、澄みわたる蒼天をみていた。突き刺さった矢はおそらく心臓まで達している。それだけが、わかった。心臓に矢の突き立った賈駆の死体にすがりつくように、温度を失った彼女の手を握っているのは、董卓ちゃんだった。 賈駆が、死んでいる。 なぜ? そして──彼女を気づかうように立っているのが、その盟主様、とやらなのだろう。まだ少女という年齢だった。 盟主さまとやらの視線が、こちらを向いた。 俺は、ただ彼女を一目みた瞬間、ここに立ち会ったことを後悔していた。 一見してなんでもない立ち振る舞いのひとつひとつに、おぞましさがのぞいている。全身が、恐怖で震えている。目の前に立っているのは、ただの女性、そのはずだった。ヒューヒューと、喉から音が漏れている。傍にいるだけで、呼吸器官が圧迫される。 俺は、彼女を見てはじめて知った。 美しさと醜悪さは、正しく両立するものなのだと。卵のようなきめ細やかな肌を築ければ、この世の邪悪さすべてがわき出てきそうだと、根拠もなくそう思ってしまった。「左慈、干吉。お客様なのね」「はい」「北郷一刀です。あなたは、日本の人、ではないようですが」「干吉が説明していなかった? 私は、この三国志に生きる人間の身体を借りた、この外史の管理者よ。私はね。誰の味方でもなければ、誰の敵でもないの。そう、あなたたちになら、こちらの通称のほうが馴染みがいいかしら」 そして、彼女は自分の呼び名を、愛を囁くように謡いあげた。「私は──」 ──天の御遣いと、呼ばれている、と。 次回→『董卓、相国に昇り、献帝を擁立する、とのこと』