人心の乱れた炎漢の末期に、天の国からの使者が、下界に降りてくるという言い伝えがある。その者は光り輝く衣を纏い、見たことのない知識と知謀で、主を補佐し、仕えた主の道を拓くという。 天の御遣い。 天の国からの使者を、そう呼ぶらしい。 まあ、いい。 どこのナウシカだそれは、という言い伝えだが、その天界からの使者を迎える主は、三人の義姉妹だという。いいかげんな言い伝えだと思うが、この時代は人物鑑定家の評が、出世のスピードに影響したほどだったから、名家の三人が義姉妹の契りを結ぶことで、広く名を世に示すことができた。 まあ、というわけで、世の中にはスール制度というか、義姉妹の契りを結ぶお嬢様達が溢れかえった。 袁紹(麗羽)。 曹操(華琳)。 袁術(美羽)。 この三人もその中の一組だった。今さら義姉妹の契りなどと、と──渋る袁紹と袁術を、華琳がとりまとめたようだった。三国志での、序盤(だけ)最強クラスの三人が揃ったころにより、この世界がどう変わっていくのか、さっぱりわからないところだが、はて。これもまあ、まぎれもない華琳の力だった。 ことごとく、事態をややこしくする才能に恵まれているな、うちの主。 あれから、五日が過ぎた。 謀略戦の基本は、待ち、だと桂花が言っていた。 待つことで、敵の油断を誘い、火攻めにするための青草が涸れるのを待つ。これが本当なら、最強の軍師は陸遜なんじゃないかと思うが、少なくともこのぽかぽかと暖かい陽気は、こちらを堕落させようという誰かの陰謀だと思う。「ふぅわっ──」 欠伸をする。 俺は、何進大将軍の私邸の庭に寝転がっていた。俺の膝あたりを枕にして、華琳が熟睡している。重い。あまり振動を与えないように、首だけを横に向けた。 離れたところで、流琉(るる)が、蒸籠(せいろ)で肉まんを蒸していた。 俺もできあがったのをひとつ貰ったが、細かく砕いた豚肉とタケノコの配分比が絶品である。うむ、あとを引く味だ。華琳が自分の店(メイド喫茶)の料理長に抜擢しただけの腕は十分にあった。庭に広がっていく熱気と匂いにつられて、俺の腹の虫がもっと食わせろと騒いでいる。「もぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅもぎゅ」「はぐはぐはぐはぐはぐはぐはぐはぐはぐはぐはぐはぐ」 流琉が築いた肉まんの山が、片っ端から無くなっていく。 季衣と呂布が幸せそうに山と積まれた肉まんを分け合っていた。ふたりとも、恐ろしく隙だらけである。季衣の小さな身体はもちろんのこと、これだけの量をおさめてしまう呂布の胃袋にも、呆れを通り越して感心させられる。 呂布がぽわわわわぁんと、頬を綻ばせながら肉まんをパクつくさまは、この世の天国を味わっているようだった。とりあえず、これが三国最強の将軍だとは、誰も思わないだろう。 そして、さらに上もいる。 赤い傘蓋を立てて、庭の一角を王侯貴族の煌びやかな場所に仕立て上げているのは、この私邸の主である大将軍の何進だった。呂布の飼っているらしい犬やら猫やらにまとわりつかれながら、俺に愚痴を言っているのが、この国の軍事における最高権力者だとは誰も思わないだろう。「妾とて、昔は肉屋の看板娘じゃったしの。妹が皇后に取り立てられたときは、働かずに金だけもらって一日中ごろごろして過ごすのが夢だったのじゃが、なぜこんなことに」 愚痴をきいていてわかったのだが、由緒正しいダメ人間だ、このひと。昼間から酒を飲んで、肩から胸の谷間までが開いた服を着ている。露出度が高い上に、ぶかぶかでサイズがあってない。いや、もとからこんな服なのか? なぜか動物に好かれるらしくて、呂布の拾ってくる犬やら猫やらパンダやら象やらの動物の世話をする役どころ、らしい。ああ、そっか。みんなのお母さんなのだな、このひとは。 「あの──兄様。少し相談があるのですけど」 振り向くと、流琉が、顔を赤くしていた。うちの大食らいと、はらぺこ将軍の食欲を鎮撫し終えて、一段落ついたということだろう。 あとは、もじもじと黙ってしまう。「厠か?」「季衣じゃああるまいし、そんなことあるわけないでしょう」 まあ、そうだ。 一瞬、それは言い過ぎだと否定しようかと思ったが、最近、食って暴れて寝るだけしかしてない季衣を見ると、そんな擁護も空しくなってくる。 保護者って、大変だなぁ。いや、大将軍と違って、俺は特になにもしてないんだけれど。「みんなに、食べたい料理はないかと聞いてまわっているんですけど、趙雲さんが、えっと──その」「ああ、さっき食べたい料理を書いてくれって言ってたな。それで──?」「それで、あの──」 流琉は、真っ赤になって、俺に、文字の書かれた紙を差しだした。 趙雲のリクエスト料理は、これだった。『メンマの女体盛り』「………………」「あの、兄様。どうしましょう?」「どうもせんでいいだろ、これは」 俺は紙を丸めて捨てた。 ちなみに、三国志の時代だと紙は貴重品だった。現代の紙と比べると、ごわごわで、随分繊維が粗い、らしい。なんで断定してないかというと、『この世界』では紙は普通に流通しているからだった。まあ、瓦屋(数え役萬☆しすたぁずを崩壊させるためのビラを刷ったのを思い出していただきたい)があるんだから、多分活版技術もあるんだろう。相変わらず、なんて適当な世界観だ。 はぁ──と、蒼穹を見上げた。 なにも起こらない。 今日だけは。四つの軍の将軍たちが集まって、衝突もなにも起きないはずもなく、昨日、一昨日と、毎日のようにイベントが行われている。 昨日は、袁術軍の趙雲将軍と、袁紹軍の文醜将軍の一騎打ち。 一昨日は、田豊と賈駆が、盤上で死闘を繰り広げていた。 その前は俺も参加して、張遼先生の武器自慢講座が行われていた。 張遼将軍の飛龍偃月刀、俺の青釭の剣、文醜将軍の斬山刀、呂布の方天画戟、趙雲の龍牙、などの天下に名だたる武器が並べられた。 結果は。 もちろん、俺の青釭の剣が優勝を勝ち取った。 いや、半ば同情だったような気がするけれど。 包丁だと骨を避けて切らないといけないけど、これは骨だろうがなんだろうが抵抗なく切り裂けると、華琳が魚やら牛肉やらを捌くのに使っていた奴だった。この時点で、ありがたみが欠片もないのだが、鋼鉄をバターのように引き裂く、三国志最強の宝剣である。 というわけで、(こころなしか魚臭い)青釭の剣を俺がぶんどって使っているのだった。ふぅ。もうこれで、部下から馬の方が本体、だとか絶影がないとなにもできない、だとかは言わせない。 なお、これと対をなす、倚天の剣だったが、華琳を問い詰めた結果、「知ラナイワ。ワタシガ宝物庫カラ持ッテキタノハコレダケダモノ」と、俺から目を逸らしながら言っていた。 その態度からするに、漬け物石代わりか、戸を押さえるつっかえ棒代わりあたりにでもなっているんだろう、間違いなく。 さすがに、肉を焼く串代わりになってたら、──いや、華琳でもそこまでひどくは、ない、よな? ──と、そんなことを俺に寄りかかって寝ている華琳の顔を見ながら思った。 そこで割り込んでくる声。 高い声。 不協和音。「おーっほっほっほっ。おーっほっほっほっ、あらごきげんよう華琳さん。相変わらず、だらしない顔してますのね」 袁紹だった。 なぜが、不機嫌な顔をした袁術をぬいぐるみ代わりに抱きしめていた。「……あ、麗羽姉さま。おはようございまふ」 あ、起きた。 華琳が、欠伸をして目を擦っている。「ああっ、ふたりとも。かわいらしいですわね。どこかのくるくる小娘(曹操)とは大違いですわ」 袁紹は袁術を抱きしめたまま、華琳をぎゅーっと抱え込んだ。「わぷっ」 華琳が、その袁紹の大きな胸で溺れそうになっていた。「おお、アニキ。なにやってんだよ、こんなとこで」 袁紹から一歩遅れて、見えたのは、袁家の三将軍だった。 先頭に立って話しかけてきたのは、文醜将軍。武力のみなら、趙雲に一歩も譲らない、袁紹軍最強の将だった。うちの軍における春蘭のポジションである。「その、アニキってのはなんとかならないのか」「ん? だって、きょっちー(季衣)の兄ちゃんだろ。つまりは、あたいにとってもアニキってことじゃないか」 なにひとつ疑ってない晴れやかな表情で、サムズアップ。「いや、ええと、きっと感性で生きてるんだよな。いいことだ」「北郷さん。すみませんすみせん」 ぺこぺこ頭を下げているのが、顔良将軍。 戦えそうには見えない。押しが弱そうで、見ている限りいつも貧乏くじを引かされているような娘だった。「まあ、いいじゃねーか。字(あざな)がないもの同士、仲良くしようぜ」「そういうことなら、な」 字ってのは、漢民族の文化なので、ないところにはない。 うちの軍だと、流琉とかにもない。「まあ、あたいらには字どころか、名すらないけどな」「……ええと?」「私たち、麗羽さまに出会う前は、北方で馬賊やってましたから」「ひでー話だろ。麗羽さまが名をつけてくれることになったけど、あたいなんて、文(いれずみ)が袁家の美意識に合わないからって理由で、文醜だぜ」「わたし、顔がいいからって顔良。はぁ──」 えーと、三国志でも多分、一度聞いたら忘れない名前のベスト1,2である顔良文醜コンビだが、本気でそんな理由で名前付けられてたのか。しかし、ネーミングセンスと強さは比例しない。史実では魏軍五将軍である徐晃を討ち負かしているあたり、今の曹操軍にこのふたりに比肩し得る戦力はない。 ──おそらく、春蘭でも勝てるかどうか。 「うふふふふふふふふふふふふふふふふふ」 袁紹のおほほほほほほ、とはまったく種別の違う、地面を這いずる、ナメクジのような笑い声だった。 感情が読み取れない。 文醜、顔良と同年代の女の子だ。 鴉の濡れ羽のごとき黒髪と、黒曜石のような瞳のない光。目の覚めるような美人だったが、言動と服飾の怪しさが、それを帳消しにしている。 だぶだぶの黒いローブを着て、ナイトキャップのような黒の頭巾をつけるさまは、なにかの宗教集団かと思うぐらい怪しい。 五斗米道や黄巾党とは、もちろん違う。 なぜか──季衣と馬があったらしく、「きょっちー」「ちょこたん」と呼び合うなかだった。 張郊(ちょうこう)である。 後の魏軍五将軍という、三国志の光芒の一翼を担った、歴史に名を残す名将、のはずだった。 「あー、アニキ。ごめんな。悪い奴じゃないんだ。こんなんでもあたいたちの義姉妹だからな」 熱血一辺倒の文醜将軍が、扱いに困っていた。「そうよ。かんぷくさまのところにいた私を、召し上げてくれたの。三人で誓い合った日々が、今も思い出せるわ。 ──蒼天よ、我らの誓いを聞き届けたまえ。閻魔大王よ。ご照覧あれ!! もし、この誓いを違わんことあらば我らの命を奪う──」 張郊が、目を伏せた。 「我らの命を奪うその代わりに、麗羽さまの巻き毛が、生え際からすべて成人男性の陰毛と入れ替わっちゃえば面白いのに──という誓いをしたのよ」「ぎゃーっ!!」 よほどおぞましいものを想像したのか、文醜が叫び声をあげた。「最後、願望になってるぞ」「正直は美徳だと、誰かが言っていたわ」「おい麗寒(張郊の真名)、袁紹さまはそれでいいとしても、あたいの嫁である斗詩が、そんなのを見て怯えたらどうするんだよ。かわいそうだろ」「これは失敬。麗羽さまの髪の毛はどうでもいいけど、斗詩を怯えさせるのは私の本懐ではないわ」「──あなたたち、ずいぶんと好き勝手言ってくれてますわね」 背後に、袁紹が立っていた。「あ、麗羽さま」「見なさい。私の妹たちが怯えているではありませんのっ!!」「ガタガタブルブルガタガタブルブル」「ガクガクブルブルガクガクブルブル」 華琳と袁術が、互いに抱き合いながら本気で怯えている。感受性が強いというか、想像力が豊か、というのは場合によっては害悪だなぁ。「あなたたち、三人とも今夜おしおきしますわよ。覚えておきなさい」「え、ええっ。袁紹さま。わたしも入ってるんですかぁっ!!」 顔良さんがいつも通り、とばっちりをくらっていた。 美しい月夜だった。 砕いた宝石をばらまいたような夜天に霞がかかって、静謐な大気はシンとした霊気に満ちている。風がビュウビュウと吹いて、それ以外に音一つない地を歩く。墨をぶちまけたような闇は、自身の足下すらロクに見えなかった。 光源は、火のついた蝋燭と、群雲を貫いて頭上に瞬く月だけ。 蒼い月が、洛陽という世界最大の都を照らしていた。光だけが、夜に鮮やかにその存在を誇示している。まあ、華琳の望みも、これと同じなのだろう。 天に浮かぶ月のように、 空を取り巻く太陽のように、 ──つまりは、闇の中で、ひときわ輝く、光に、なりたいと。 俺は足を止めた。 こんななか、庭でひとり月を見上げている少女がいた。空を見上げて、白磁の肌に風を受けている。 天に浮かぶ月。 たしか、彼女の真名も、それと同じはずだった。 ──月(ゆえ)。 「ええと、たしか──北郷一刀さん」「それで合っていますよ。董卓さま」 彼女の瞳が、こちらを捉えた。外見としては、どう見ても、董卓ちゃんといった感じなのだが、まさか州牧をちゃん扱いにするわけにもいかない。「────」「………………」「………………」「………………」 沈黙。 沈黙だった。 触れただけで壊れそうなガラス細工のような少女だった。 ううん、なにを話していいやら。 普通の少女っぽいので、普通に話せばいいのだろうが、思えばこのくらいの少女の間で流行っているものはいったいなんなのか。さっぱりわからない。武芸やら戦術やらに傾倒してる連中が俺の周りに多すぎるせいだ。間が、もたなかった。「ええと、邪魔だったかな?」「いいえ、よければ、話し相手になってくれますか?」 むう。 ならばいい。 彼女に言うことでもないかもしれないが、華琳の愚痴でも聞いて貰うとしよう。「──というわけで、桂花の作った落とし穴地獄のために、関係ない人たちが落とし穴にはまる、といった二次災害が連発したんだ。二度とこんなことが起こらないように、桂花と華琳を首だけ残して自分たちで掘った穴に埋めたんだが、それでもまったく反省しなくてな」 特に、桂花はひどかった。 放っておけば、三日三晩でも俺を罵り続けただろう。牛のウンコ食って死ね、とか、カエルを喉につまらせて死ね、とか。悪口のバリエーションというものが、ほぼ無限にあるのだと思い知らされるぐらいの機関銃掃射だった。「教訓としては、軍師はまず口から封じろ、というところかな」「あ、あはは。それは、どう、なんでしょう?」 董卓ちゃんは、苦笑いだった。 むう、外したかな? 「曹操さんはいいなぁ。なんでもできて」「え──」 今、彼女の口から一瞬、あり得ない評価を耳にした気がするが、董卓の台詞を捕捉すると、多分こうだろう。『曹操さんはいいなぁ。(やりたいことが自由に)なんでもできて』 ってところだ。本気で華琳を尊敬しているなんてことはありえない。もしそんなことがあったら、こちらの精神が崩壊してしまう。「いいわね。愉しそうねすごく」 背後から恨みがましい声が聞こえた。 誰の声なのか、まあ言うまでもない。「駄目よ。董卓ちゃん。この男はね。女と見れば誰かれかまわずに色目をつかう、ヘンタイなの。十歩以内に、近づいたらだめよ」 いつの間にか、俺の評価がひどいことになっていた。 「そんなことないです」「そんなことあるの。それがこの男の手なのっ!」 華琳がにじり寄ってきた。ええい、言いながら、俺の膝の上に乗るな。 季衣が真似するだろうが。「ところで、どこから聞いてた?」 俺の質問に、華琳は首を傾げて、「え、あの馬鹿な華琳がまた馬鹿なことを馬鹿な脳味噌で考えて馬鹿なりに知恵を振り絞って馬鹿馬鹿しいことをやろうとしているみたいだったから、俺があいつに自分が馬鹿であることを馬鹿馬鹿馬鹿と耳にタコができるぐらい馬鹿にしてやろうと──みたいなところ?」「ちょうど中盤ぐらいだな」「馬鹿ってなによ馬鹿ってっ!!」 ぼかぼかと叩いてくる。いたいいたい。「くすくすくす」 見ると、董卓ちゃんが笑っていた。 笑っているところをはじめて見た。すごくかわいらしかった。俺の力説したお話は不評で、これが受けるというのもこちらとしては複雑だが。「聞いたよ。曹操さん。すごくがんばってるみたいだね」 柔らかな口調だった。 鳥肌が立つような、肌に粟が生じるような、女神のような包容力がある。「そうなのよ。董卓ちゃんもね。前に会ったときは、両方とも太守でさえなかったけど、いっしょに、立派な主君になるっていう約束、果たせてるみたいよね」「あはは、自信はないけどね」 驚いた。 華琳はものすごく自然に、素の董卓ちゃんを引き出していた。このあたり、付き合いの長さとかが影響しているのか。 降るような月下、俺はただふたりの語らいを聞いていた。 それは史実からは、考えられない光景だった。 このふたりの関係性を、なんというだろう。 友達、だったのだと。 少なくとも、華琳は董卓のことを、そう思っていたはずだった。 ──最後の瞬間まで。 華琳は、董卓をともだちだとずっと、信じていた。 この二ヶ月後、反董卓連合結成ののち、董卓の首に、華琳が倚天の刃を振り下ろすその瞬間まで──ずっと。 翌日。 細作から報告された情報に、それを聞いた全員が戦慄した。 十常侍の手によって、早朝、何進大将軍はすでに誅殺された──と。 切り離された首が、見せしめのように宮殿の門にかかっていた。確定情報だった。香嵐が個人的に放っていた細作も、袁紹軍、袁術軍、董卓軍の情報網すべてが、同じ情報を伝えている。本人はほとんど護衛もつけずに、今日の朝、誰にも知られないように洛陽宮にでかけた。あっという間の出来事だったという。 叛乱の罪で、即刻、刑は執行された。「どうして、バレたんだ?」 理由によっては、今すぐここを引き払わなければならない。 こちらを包囲していない理由が、不思議でしょうがない。この大将軍の私邸に、州牧が四人いるのだ。この時点で叛乱に与していることが明らかだった。 「何大后が、完全に宦官側につき、何苗が、裏切ったらしいわ」「何苗、ええと?」「だれじゃ、それ?」「何進大将軍の弟よ。何進大将軍の腹心中の腹心」「うっわあっ、あの時、叩き斬っとくべきやったなぁ。前からいけすかないヤツだと思っとんたんや」 張遼将軍が、いまさらに自らの髪をかき回した。 何進大将軍の元で戦っていた張遼将軍と呂布には、また思うところもあるのだろう。「脇が甘すぎたというしかないわ。何大后は宦官に与するって、わかりきっていたのに」「あら、そうですの?」「はい。何大后はあちらについて当然ですね。だって、彼女は今の皇帝(霊帝の後に即位した弁皇子、少帝)の母親ですから。皇帝の母としては、宦官を取り除くなどもってのほか、ようやくすべてが順調にいっているのに、あちらとしては不必要にことを荒立てる必要はないでしょうからねぇ」 あ、そういえばそうなのか。 三国志演義では序盤すぎてロクに覚えていない。 ここらへんの人間関係が複雑で、ただでさえ登場人物が交錯してわけのわからないことになっているが、これぐらいは覚えておくべきだった、と今さらに思う。「何進大将軍は、まんまとおびき出された、か」「どうしようもない、私たちの失策ね。まさか、十常侍もこんな単純な手を使うなんて」 ──そして、単純すぎて防ぎようがなかった、と。いや、しかし──こちらの最重要人物が、のこのこ敵の目の前に差しだされるのを、誰も気づかないものか? まさか、なぁ。「それより、これからどうするか、やろ?」 黄巾の乱において、その討伐に功ありとして彼ら十常侍は諸侯に封じられた。本当に手柄を立てた兵士や諸侯たちが、正当な恩賞をもらえなかったのに、だ。 彼らに、追い詰められた人間の気持ちがわかるぐらいのなら、この王朝はここまで腐敗していない。 まだ、こちらに包囲の手が及んでいないということは、こちらを窮鼠だと理解していないということだろう。「これより、私たちは洛陽宮に突入し、宦官を誅滅、帝を救いだすわ。私たちは全員、すでに何進大将軍に左袒している。わざわざ、衣を脱いで肩をあらわにする必要は、ないわね」 賈駆が、全員の意思を試すように、言った。 目をそらすものは、ひとりもいなかった。 ──方針は、ここに可決された。 歴史からいえば、ただの虐殺である。 しかし、どのような理屈をつけても、ここを通過しなければ、絶対に太平の世はやってこないことも確かだった。「ふむ、今際の際だ。宦官を殺すのは仕方ないが、略奪は起こるだろう。それはどうする?」 趙雲の指摘は、もっともだった。 ここでこれに目を瞑るようだったら、俺たちも宦官となんら変わらない。兵士が宮殿に踏み込んでやることなど想像はつく。殺戮と、略奪と、暴行である。「財宝は、片手で持てる量のみ認める。剣を振れないほどに財宝を持っているものは、その場の将の権限で、斬首させる。後宮は、趙雲将軍と文醜将軍を門番につけるわ。押し通ろうとする人間は、なにものであろうと構わない。──斬り捨てなさい」 賈駆が言い切った。 どれだけの犠牲が出ようとも、この期に乗じなければ、滅亡するのはこちらだった。「しかし、洛陽宮には、当然、官女もいます。それが兵に襲われるかもしれません」「それは──」「呂布将軍と、その配下をを前に押し立てて、厳罰で報いましょう。心理的な圧迫はあるはずです。こちらの握ることになる部下は、ほとんどが我々のものではない。軍規を徹底することは、無理です」「それは、そうだなぁ。宮殿に突入するってこと自体が無理なのに、そこにそんな軍規を付け加えると、自分の腕を鎖で縛るようなものだ」「兵士の士気については、問題なく。兵士の間には、金をばらまいて、噂を流布させています。今はもう、十常侍ひとりの首に、どれだけの恩賞が与えられるのか、という段階までいっています」 ──腐ってやがる。「そう、何進将軍の信望者は?」「将軍に、呉匡がいます。宦官を抹殺することについては話を通していますから、間違いなく兵を挙げてくれるでしょう」 田豊の舌が、滑らかに動いていた。 ここにいるのは、 曹操軍は、華琳と、俺と、季衣、流琉、そして黒騎兵の4人。 袁紹軍は、袁紹と、文醜将軍、顔良将軍、張郊将軍、そして田豊。 袁術軍は、袁術と、七乃さんと、趙雲。 董卓軍は、董卓と、呂布と、張遼将軍、そして賈駆。 あとは、今は何進の副将のひとりである、華雄将軍の、ちょうど20人だった。「呂布将軍、張遼将軍、華雄将軍、三人は昔使っていた兵を、そのまま使いなさい。袁本初さまと曹孟徳さまは、近衛を呼び集めてください。兵が集まり次第、洛陽宮に突入します。各自、配布した洛陽宮の地図をよく読み込んでおくこと、以上」 賈駆の言葉が終わると、全員が動き出す。 運命は動き出してしまった。永く、停滞していた時間がゆっくりと時を刻み始めた。 高祖、劉邦が三尺の剣をとって、白ヘビを斬り、楚王、項羽との戦いの末に漢王朝を建てて、400年。 事実上の、王朝の滅亡。 永く歴史に名を刻むことになる、漢王朝の終わりの一日はこうして始まったといっていい。 そして── これより乱世ののちに、三人の帝を擁立して戦う、三国の興亡と衰退の歴史をこう言う。 ──『三国志』、と。 次回→『宦官誅滅され、一刀、左慈と相まみえる、とのこと』