何だか、懐かしい音が聞こえる。
機械のアラーム音。
ああ。これは、僕の部屋の……目覚まし時計の……。
「……!?」
がばっと、体を起こす。
そこは、自分の部屋の……布団の中だった。
「なんだ……夢、か……」
どうやら、全ては夢だったらしい。
「全部……夢だったのか……」
悪夢から現実に戻ってこれたことに、酷く安堵する。
――いきなり、ヴァーチャルリアリティの中に閉じ込められて、デスゲームを演じさせられる。
そんなのが現実のわけがない。そんなものは、フィクションの中だけで充分だ。
寝起きのぼんやりとした頭で、自分自身に言い聞かせる。
「……そうだよ……あんなの、ただの夢だよ……」
肩を抱きながら、笑う。
そう、あれはただの夢だった。そのはずなのに、どうしてか……体の震えが止まらない。
「顔、洗おう……」
僕は立ち上がるとまっすぐ洗面所に向かい、顔をばしゃばしゃと洗い……その足で居間へと向かう。
「おはよう、父さん」
そこにはいつものように、父が新聞を読みながらソファーに座っていた。
「おはよう、夕樹」
「少し待ってて。朝飯作るから」
「ああ」
ぶっきらぼうに返事する父の様子に苦笑しながらも、僕は奇妙な違和感を覚えていた。
どういう訳か、父の顔も、家の内装も……どことなくぼんやりとしている気がする。
顔を洗ったのに、まだ寝ぼけているのかな。
そう思いつつも台所へと向かい、そこでいつものように朝食を作っていくのだが……。
「……あ」
ふと手元を見たら、指を切っていたらしい。指先から血が止め処なく流れ出ている。
「絆創膏は……確か……」
一応絆創膏を取り出して指に貼り付けてはみたが、不思議なことに……怪我した場所は全然痛まない。
夢の中での怪我のほうは、小さな傷でも痛く感じられたというのに。
「おかしいなあ……」
疑問に思いつつも、作った朝食を皿や茶碗に盛り付けて……いつものように居間で父親と共に食べ始めるのだが。
「ん……」
どうしてだろうか……味がしないような気がする。
――夢の中で、やたら濃い味の果物ばかりを食べていたからだろうか?
いや、そんな訳はない……はずだ。あれは所詮、夢なのだから。現実に、
「どうした?」
父さんのほうは普通に食べているため、味付けが変だということはないはずなのだが……。
「いや、何でもないよ」
無理に笑みを作って、その場を取り繕い……不意に、テレビに視線を向ける。
いつものように、面白くもなんともない、ニュースが流れている。
けれどどうしてだろう。何だか今日に限って……そのニュースがやけに空虚なもののように見えるのだ。
まるで、過去に見た番組を繋ぎ合わせて作られたような……そんな感じがした。
「……ご馳走様」
食べるだけ食べ終わって、食器を流しに持って行く。蛇口を捻ると水が出てくるけれど……冷たさを感じない。
本当に、調子が狂う。そう思いながらも、食器を洗っていく。
やるべき家事をひとまず終えて、着替えて荷物を準備した後は、これまたいつものようにマウンテンバイクに乗って、学校へ向かう。
けれど、また、妙な感じがした。
なんというか……風を感じない。結構な速度を出しているはずなのに。
「おかしいな……」
違和感を感じながらも、ペダルを踏み、坂道を下っていく。
道路に車の姿はない。普段のこの時間帯は、多少は村の外で働いている人の車が走っていたりするものなのに。
「あんなひどい夢を見たし、調子悪いのかな……?」
首を傾げながらも、急なカーブを曲がっていく。バランス感覚もあまり感じなくなっていたが、幸いにも転ぶようなことはなかった。
そうして辿り着いた学校では、いつものように。みんなが教室で話をしながら、HRが始まるのを待っていた。
今度の長期休暇の話。進路を決める三者面談の話。昨日見たバラエティやドラマの話。
いろんな話をしているはずなのに、どうにも頭に入ってこない。
一応、何か聞かれた時だけ適当に相槌を打っていく。
「そういやパンデモニウムのことなんだけどさ」
健太が突然こちらに振ってきた話だけ、やたらはっきりと、鮮明に聞こえた。
「アーフェルシアさんもルティアルさんって……どっちも、中身女性プレイヤーなんだろ?」
夢の中では無残にも殺された彼女らも、現実では生きていたらしい。
あの後、どのような関係を築いたかははっきりとは思い出せないが……多分良好な関係だろう、あんな事件でもなければ。
「あ。うん、そう言っていたけど」
適当に相槌を打つと、健太は目を輝かせて。
「紹介してくれよ」
そんな阿呆な催促をしてきたので、僕は自分ができうる最大限の笑顔で。
「やだよ」
そう即答してやった。
「えー。ずりー。独り占めすんなよ」
「別に独り占めしているわけじゃ……というか、お前のところにはいないのかよ」
「可愛い女の子かと思ってみればネカマだった、っていうのばっかりだからなー。中身まで本物の女性プレイヤーってのはそれだけで希少価値がつくんだぜー?」
何か、こいつのの言動にも違和感を感じる。
嫁不足が深刻で、少子高齢化と若者が離れていくことが最重要の問題とされている土地とはいえ……こんなに女にがっついていたっけ? こいつ。
――別の人間が混じっている。
あの夢に出てきたキールっぽいというか……そんな感じだ。あいつは、女絡みに病的なくらいに食いつきすぎだった。紅一点のラケシスに何度もヤらせてくださいとお願いしてたし……。
って、またおかしいな……実際に一緒に遊んでいるはずのアーフェルシアやルティアルのことが殆ど思い出せず朦朧としているのに、夢の中の登場人物に過ぎないはずのキールのことを鮮明に思い出せるのはどうしてだ?
「多分、実際には会えないよ。確か……滋賀とか宮崎とかだって話だし」
……そんなこと話していたっけか。どうにも思い出せない。
「……どこだっけ」
ああ、そういえばこいつ、地理とか歴史とかは昔からてんで駄目だったな。
随分と長い夢を見ていた気がするせいか、すっかり忘れていた。いや、忘れるのもおかしいのだけれど……。
「関西と九州だよ。滋賀は琵琶湖があるところで、宮崎は鹿児島の上」
「琵琶湖はわかった。鹿児島の上って……右と左どっちだ?」
「後で地図帳で調べるなりなんなりしろよ、そのくらい……」
健太の言動に呆れながらも、やはり違和感は拭いきれない。むしろどんどん、大きく膨らんでいくような気がする。
どうしてだろう。
ゲームに閉じ込められて、命を狙われるなんてのは、夢のはずなのに――夢から起きた現実のほうがどこかぼんやりとしていて……どこか空虚で。
あの夢のほうが、リアルで現実味を帯びている、なんて。
――おかしい。何もかもがおかしい。
こちらが現実で、あのゲームはただの夢のはずなのに。それなのにどうしてこんな……違和感ばかりを感じるのだろう?
「夕樹、どうした? なんか調子悪そうだけど」
何でもないよ、と嘘を吐いて言い繕おうとしたその瞬間。
がらっ、と教室の前のドアが乱暴に開けられて……これまたいつものように、担任教諭が入ってくる。
「おーい、お前ら。ゲームは1日1時間っつってるだろうが」
「ちょ、いつの時代の話ですかそれ」
男子が声をあげて笑い、女子もクスクス笑っている。
「とりあえず全員いるなー。ホームルーム始めるぞー……」
チャイムが校舎全体に鳴り響き、今日もまたいつも通りの変わり映えしない一日が始まろうと――していた、その時だった。
「……あれ?」
まず最初に壊れ始めたのは、僕以外の人間。
先生もクラスメートたちも、まるであのゲームで倒されたモンスターが消えるのと同じように、ポリゴンになり、崩れ去っていく。
「……な……!?」
次に教室の机や椅子が壊れ始め、席についていた僕は尻餅をついてしまう。
でも、それだけでは終わらなかった。教室の建物も。学校の外も。それどころか、足をつけるべき地面まで――全てが、音も立てずに崩壊していく。
「何だよ、これっ……!」
地面が壊れた後には、“何もない”。どういうわけか重力は作用しているらしく、体が下へと落ちていくのを感じる。
どこまでもどこまでも深い穴へと落ちていき……どのくらい深く落ちたのかわからない。
こうして僕の現実世界での意識は途絶え――仮想世界という名の“現実”へと引き摺り戻されていく。
「あ……」
目を覚ました時、太陽は真上にあった。眩しさに目を細めながら、体を起こす。
「夢……」
あまりにも現実的な、夢。あの夢こそが本来あるべき日常。そのはずなのに。
今こうして僕がいるのは、仮想現実の世界の中の、絶望的な悪夢なのだ……。
「そうだ……まだ、戻れないんだ……」
両頬を軽く叩き、まだぼんやりとする頭をはっきりとさせる。
起きたらまず最初にやるべきことは周囲の確認。万全を喫して千里眼で確認しても、周囲に人はいない。
それが終わったら、いつも通りの、朝の挨拶。
『……おはよう』
何人かの、安堵の溜息が聞こえる。
『ようやく起きたか、ユーリ』
『いつまでも起きないから、心配しましたよ』
キールとメルキセデクの呆れたかのような声。この時間までずっと寝ているのは無防備すぎる、と自分でも思う。
他のプレイヤーやモンスターに見つからなかったのは、本当に僥倖だった。僕はこういう悪運ばっかりは……本当に強い。まるで何かに守られているかのように。
『心配かけて、ごめん』
まるで堰を切ったかのように、とめどなく流れる涙を拭いながら……僕は皆に謝る。
――今の僕にとっては、この悪夢こそが現実。
目が覚めた瞬間にわかっていたことだけれど、悔しくて、哀しくて。涙が止まらなかった。