地面を強く蹴り、前へと。ただ前へと突き進む。
そうやって……現実のモノとは違う“作り物”の森の中を、僕は駆け抜ける。
この仮想現実の森は、よくできている。都会のプレイヤーならこの造詣だけで本物の森の中にいると錯覚してしまうだろう。
でも僕は、東北地方の田舎に住んでいたから、こういった自然は見慣れている。それ故に、この3Dオブジェクトとその表面に貼り付けられたテクスチャで構成された森に違和感を感じていた。
本物の森というのは、無音ではなく……木々がざわめくし、鳥や虫の鳴き声がたくさん聞こえてくる。
何より、この森からは……草の匂いがしない。
それでも、造詣は素晴らしいものだ。スクリーンショットだけを見れば、どこかの森の写真と勘違いしてしまうほどに。
しかし、その美しい光景を味わう余裕などは……なかった。
僕は追われている。子熊をモデルにしたにもかかわらず、大きさだけは大人の熊並という――ある種、歪な姿をしたモンスターに。
「くっ……」
肩越しにその姿を睨みつける。
可愛らしくデフォルメされたそれは、僕にとっては文字通りの死を齎す、死神だ。
――HPを0にされたら、死ぬ。
そんな忌々しいデスゲームに巻き込まれた状況でなければ、可愛いと思えたかも知れない。しかしそんな意匠も、こんな状況では不気味なものにすら見える。
「このっ!」
苛立ちながらも、MPを回復する飲み物アイテムを飲み干し、その空き瓶をぶつけるが。怯む様子すらない。
相手は足は比較的速いが、攻撃スピードそのものは遅く、命中率も低く設定されている。防御力・HPが高いのは当然のこと、攻撃力はこのあたりのモンスターでは最強。軽い攻撃でも、当たれば致命傷になりかねない。特に横薙ぎの攻撃は、後衛職のHPなど一瞬にして奪いかねない威力がある。
こういった相手は……硬いVIT型の前衛が守り、それ以外のプレイヤーで攻撃するのが理想なのだろう。
少なくとも。遠距離からの攻撃に特化した職業であるハンターが、一矢撃っては距離を離すという、ヒットアンドアウェイ戦法でどうにかするというのは……かなり無茶な攻略法だと、自分でも思う。
――他のプレイヤーとパーティを組めれば、どれだけ楽か。
心の中でそう毒付きながらも、僕は走り続ける。
モンスターは乱暴に腕を振り回しているが、あの程度の軽い攻撃では隙が小さすぎる。狙うなら……もっと重い一撃を空振った瞬間だ。
――でもこのままただ走るだけでは埒が明かない。
「あんまり時間もかけていられないし、ね……!?」
一気に決着をつける。頭をそう切り替えれば、やることは決まっていた。
軽く跳躍し、木の幹を蹴ってその勢いを利用し、加速していく。
「ガァッ!」
少しずつとはいえ距離が開いていくことに、いよいよ痺れを切らしたのか――モンスターのモーションが一撃必殺の、横薙ぎ攻撃のものになる。
「今だ……!」
――それこそが待ちわびた、僕にとっての絶好の好機!
自分がいた場所の後ろにあった木を数本薙ぎ倒したその一撃を、僕は――足元の地面を抉るほどの力で跳躍して、回避した。
――弓手系基本職……アーチャーのスキルの中でも基礎となる、離脱の応用だ。普通は水平に跳躍するが、それと同じ要領で垂直に跳ぶこともできる。一種の裏技、と言っていいだろう。
僕はそのまま。自由落下に身を任せながら、威力が強く射程が長いロングボウタイプの装備から、射程が短い代わりに使いやすいクロスボウタイプの武器に装備を交換する。
――装備の交換といっても実際に、武器をどこからか取り出して取り替えるわけではない。エフェクトと共に切り替わる、と言ってもいいだろう。
武器の姿がクロスボウに変化した時。空中から落下しながらもそれを構えて……その引き金を引く。
大きな攻撃は当たれば絶大だが、外せばモーションの硬直時間も含めて致命的な隙を生む。そこからのカウンターを回避することなど――モンスターでもプレイヤーでも、できやしない。
放たれた矢が、熊型モンスターの額を貫いた瞬間。“Critical Hit!”の文字が躍る。
そしてモンスターの体は光に包まれ、それを構成していたポリゴンが崩壊していき……やがて完全に消え去っていく。
「……ふう」
周囲に他のモンスターがいないのを確認してから、溜息を吐きながらアイテムウィンドウを開き、戦利品のチェックを行なう。
――めぼしいものは殆どない。そろそろ、この狩場から移動したほうがいいのだろうか。
そんなことを考えていた時だった。
「いたぞ!」
「この辺で狩りをしているって情報は当たりだったか!」
後ろから、他のプレイヤーたちが騒ぐ声が聞こえてきたのは。
背後を見れば、僕なんかとは比べ物にならない高価な装備に身を包んだ一団が、こちらへと向かって来ている。
というか、彼らが普通なのだ。このあたりのモンスターは、このくらいの装備をしていないとかなりキツい。
僕の装備は、街のNPC商人から買える弓。初期装備同然の防具。これで一杯一杯だ。弓手系の装備はほとんどが職人作成かレアドロップだが、レアドロップなど滅多にあるものじゃないし、プレイヤー職人に頼むのは……“別の意味で危険”すぎた。
といっても、彼らが狙っているのはモンスターではない。彼らが殺そうとしているのは……。
「“魔王”ユーリだ! 早く囲め、逃げられるぞ!」
ユーリというのは僕の、この世界においての名前。
彼らは、僕を殺そうとしている。
いや彼らだけじゃない。このゲームにおいてかなりの人数のプレイヤーが、僕の命を狙っている――。
「相手は……戦士系が3、術師が2、僧侶が1……。盗賊系、弓手系はいないか」
敵の魔法の射程に入る前に、相手の陣営を確認する。
射程、足の速さ共にこちらに分がある。しかし一度懐に入り込まれたら勝ち目はない。
術者が1人なら攻撃魔法の詠唱を阻害しつつ前衛の足止め、というのも考えられる。
しかし術者が2人もいる上、僧侶までいるのだ。僧侶の呪文の中には、他のプレイヤーの行動速度や詠唱速度を向上させるものがある。
「これは……マトモに相手してられないな」
僕の脳裏に、一つの格言が浮かぶ。
――三十六計、逃げるに如かず。
実際問題、勝てない戦いをするわけにはいかないのだ。不利な相手と戦うことは、自分の死に直結する。
転送石系のアイテムは持っていない。その手の道具や魔法の転送先は最寄の街の、指定された場所……その殆どが中心部だ。それを使うのはまずい。
――街に、それも人が集まる中心エリアに入るのは“自殺行為”なのだから。
故に。僕にできることは、たった一つ。
「……ごめんなさいっ!」
残っていたMPを全て、離脱スキルや俊足化スキルにつぎ込んで。その場から逃げ出すことだけ。
無論彼らはその後を追ってくるけれど、こっちだって必死だ。
弓の攻撃力と命中に関わるDEXと、回避や俊敏性に関わるAGIにだけボーナスポイントを突っ込み、真っ先にカンストさせるくらいに必死なんだ。
そんな他を捨てた完全特化の割り振り方をしているのに、鎧を着込んだ戦士や、足が遅い術師や僧侶に追いつかれて溜まるものか。捕まえたいなら盗賊系か足の速い弓手系でも連れて来いという話だ。
――それでもまあ、逃げるけど。
「……もう、誰もいない……かな?」
MPが尽きたところで念入りに周囲を見て、誰もいないことを確認したところで……途端に疲れがどっと来て、その場に座り込む。
まるで“本物の”ように……心臓がばくばくと脈打っている。その鼓動を確認することで、僕がまだ生きているということを実感する。今の体はデータで構成された紛い物で、本物の僕の体ではないというのに。
やがて心臓の鼓動が落ち着いたところで……僕は唇を強く噛む。
「どうして、こんなことにっ……」
プレイヤー総数100万人を謡う、国内最大規模のヴァーチャルリアリティMMORPG・パンデモニウム。それが今僕たちがいるこの世界の、あるべき“本来の姿”だ。
しかしこの世界は大きく歪められている。正体不明の、悪意ある魔女アスタロトによって。
彼女はこの世界を書き換えて、ログインしていたプレイヤー、総数66万6666人を閉じ込めるための檻と化した。
そして僕は、いや、僕たちは――この世界から現実に逃げ出そうとするプレイヤーたちから、その命を狙われている。
モンスターを狩りつつ、数十万人の殺し屋から逃亡しながら今日で一ヶ月。
――それでも僕は、何とかこうして、今のところは生き延びている。