――――1460年6月 ――――オーストリア「……動かないか。フリードリヒ3世」 フランスがハンガリーの動向を掴んでいる通り、ハンガリー軍はオーストリア方面へと進軍していた。 天の時を見極め、今こそが動く時であると判断したマーチャーシュはすぐさま、軍を編成。 僅か1ヶ月とかからずに対ポーランドに備えた準備を全て備え、モルドヴァのシュテファン3世に進軍すると言う報せを伝えた上でオーストリア方面へと軍を進めた。 当然の事であるがポーランドに対する宣戦布告も忘れていない。 元々から敵対関係にあるポーランドに対してそのような必要性は無いのではあるが……そこはマーチャーシュの気質であった。 マーチャーシュ自身、策略も出来る武将ではあるのだがその本質は騎士であり、武人である。 カジミェシ4世と雌雄を決した上で味方とするのならば策略など必要では無いと判断したのである。 それに敵対するカジミェシ4世と言う人物も策士では無く、どちらかと言えばマーチャーシュと同じく武人である。 カジミェシ4世もマーチャーシュと雌雄を決したいと考えている以上、同じような事を考えている事だろう。 マーチャーシュの下にはカジミェシ4世が軍勢をオーストリア方面へと向けていると言う報告を受けている。 それに対して新たに設立した黒軍を中心とした軍勢15000を率いてマーチャーシュはオーストリア方面に進軍しているのだが――――。 流石にカジミェシ4世の対応は早く、ドイツ騎士団の一部を率いて20000ほどの軍勢を編成している。 やはり、ポーランド=リトアニアと言う強大な勢力を誇り、ドイツ騎士団をも取り込んだポーランドは容易く大軍を編成出来る。 それが脅威の一つであり、マーチャーシュがポーランドを無視出来ない理由であった。 そして、今回のカジミェシ4世の対応であるが――――流石に見事であると言っても良い。 カジミェシ4世もマーチャーシュと雌雄を決するつもりであったのか、初めから軍勢の準備には余念が無かったようである。 だが、それに対して全く動こうとしないフリードリヒ3世にマーチャーシュは不信感を覚えていた。 今回の進軍はポーランドを含め、その影響下にある勢力には既に情報が伝わっているはずだ。 しかし、この状況にも関わらず全く動きを見せないフリードリヒ3世が何を考えているのか全く解らない。「フリードリヒ3世はそう言う男だ。俺も会った事はあるんだが……フリードリヒ3世は俺と契約を結んだ時も何か煮え切らない態度だったしな」「……イスクラの時もか」 嘗てはハプスブルグ家の傭兵であったイスクラはフリードリヒ3世とも面識がある。 しかし、イスクラが雇われていた時もフリードリヒ3世とは優柔不断な人間であったらしい。「契約していた間もフリードリヒ3世は別段、何をするわけでも無かったが……。俺がハプスブルグ家との契約を絶ち切った時は大喜びだったらしいぜ?」「イスクラほどの人物が離れると言うのにか?」「ああ、そう聞いてるぜ」 イスクラの言葉を聞いてますます、フリードリヒ3世と言う人間が解らなくなってくる。 ヤン=イスクラと言う人物は東欧においても屈指の戦術家であり、優れた将軍である。 その力量は英雄と呼ばれたヤーノシュをも打ち破ったほどであり、その実力は疑いようが無い。 それほどまでに優れた人物であるイスクラを傭兵として雇っておきながら離れる事を喜ぶと言うのは合点がいかない。 リパニの狂気と呼ばれ、フス派の用兵術を習得しているイスクラは他の武将に比べても代え難い人材であるはずだ。 少なくとも普通の人物であればイスクラを手放すことを良しとはしないだろう。 だが、フリードリヒ3世と言う人物はイスクラが自らの下を離れると言う事に喜びを見せたと言う。 これでは尚更、フリードリヒ3世の考えている事が解らない。 それに今回の進軍についてもそうだ。 普通ならばそろそろ、何かしらの動きでも見せてくるのが普通であるのだが、フリードリヒ3世が動いた様子は無い。 軍勢も特に動いていると言う情報が入っているわけでも無い。 このような手合いの人物はマーチャーシュにとっては初めてであった。「フリードリヒ3世――――いったい、何を考えているんだ?」 だが、このマーチャーシュの言葉がフリードリヒ3世がどういう人物なのかを端的に示す言葉であると言っても良いだろう。 マーチャーシュはまだ、動向を掴んではいなかったがフリードリヒ3世はマーチャーシュの予測した方向とは全く違う形で動きを見せたのだから。 ――――ウィーン「なんと……ハンガリーがこのオーストリアへと進軍してきたとな?」「はい、陛下」 1人の人物が驚きの様子を隠す事も無く側近からの報告を聞く。 その表情からはハンガリーが動くと言う事が全く想定外の事であったと言う事が窺える。 ハンガリーの動きは既にポーランドを含めた諸国にも情報が伝わりつつあるのにこの対応は些か遅すぎるとも言えるだろう。 この、ハンガリーの動きに驚きを見せたこの人物こそが現、神聖ローマ帝国皇帝であるフリードリヒ3世なのであった。 ――――フリードリヒ3世 現、オーストリア大公にして神聖ローマ皇帝。 オーストリア大公には先代、ハンガリー王であるラディスラウス5世の後に神聖ローマ帝国皇帝としては1452年にジギスムントの後を継承した形で就任した。 それ故に対オスマン帝国との防波堤となる事を期待されていた人物である。 しかし、フリードリヒ3世は皇帝に即位してからも一度もオスマン帝国に対して対策を練った事が無い。 それどころか1453年にコンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国が滅亡した際にも「嘆かわしい事だ」と一言発したのみで興味すら持たなかった。 フリードリヒ3世にとってオスマン帝国などは自分とは関係無い存在であるし、戦う理由も無い存在であった。 そもそも、フリードリヒ3世自身も戦いなどは他国に任せておけば良いと言った考えの持ち主であり、戦をしようとは全く思っていない。 それ故にオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼしたと言う話を聞いても何の興味も持たなかったのである。 こう言った事からもフリードリヒ3世は多くの人々に凡愚であると言われている。 自発的に動くと言うような人物では無い皇帝であるフリードリヒ3世は英傑と呼ぶには程遠い人物であった。「うぬぬ……マーチャーシュ=コルヴィヌスめ。どういうつもりなのだ?」「さぁ……それは私にも解り兼ねます」 軍勢を率いてきたマーチャーシュ=コルヴィヌスの意図が全く解らないフリードリヒ3世は側近に尋ねるが答えらしい答えは得られない。 フリードリヒ3世の側近も戦などを見極められるような武官と言った気質では無い。 今回のハンガリーの動きはフリードリヒ3世を含めたこの場の人間達には解らないのであった。「ぬぅ……ハンガリーが何を考えておるか解らぬか。では、他に動いていると言う勢力などはおらぬか?」「はっ、ポーランドのカジミェシ4世がハンガリーの動きに対して軍勢を動かしたと言う報せも聞いております」「おお、カジミェシ殿が動かれたのか」 カジミェシ4世の妻はフリードリヒ3世と同じく、ハプスブルグ家の出身である。 敵か味方か解らないマーチャーシュ=コルヴィヌスと違ってフリードリヒ3世から見ればカジミェシ4世は味方と感じる存在であった。 少なくともフリードリヒ3世の方からはカジミェシ4世と敵対はしていないつもりだ。(だが……このままでは儂の身も危ないのでは無いだろうか?) しかし、カジミェシ4世が軍勢を動かしたと言う報せにフリードリヒ3世は不安を覚える。 ハンガリーとポーランドの争いなど自分自身には何ら関係も無い。 マーチャーシュ=コルヴィヌスとカジミェシ4世が戦おうがそれは知った事では無いのである。 だが、オーストリア方面にハンガリーとポーランドが同時に軍勢を繰り出してきたと言うのは流石に恐ろしいものがある。 双方ともフリードリヒ3世と敵対しているわけではないが、間に挟まれた形であるこの状況は好ましくない。 万が一があれば自分も巻き込まれてしまう可能性が考えられるからである。「今すぐ逃げるぞ。このままでは巻き込まれるやもしれぬ」 そう思い立ったフリードリヒ3世は決断する。 戦うと言う事なんて考えない――――自分の身が無事である事、それだけを考える。「すぐに荷物を纏めよ。ああ……いや、そこまで多くなくて良い。逃げるのが大事なのだからな」「か、畏まりました」 とにかく、保身を考えてフリードリヒ3世は側近に命令を下す。 こうして、逃げるようにと決断したフリードリヒ3世ではあるが、彼の下には充分な兵力が無いわけではない。 カジミェシ4世と連携すればハンガリーに対しても充分に優位に立てる。 だが、フリードリヒ3世にそのような選択肢は存在しない。 戦など自分とは縁遠いものであり、そのようなものに飛び込むようなつもりも無い。「だが……逃げるのには息子はいらんぞ。あの息子を連れて行っては逃げようと思っても逃げ切れぬ」「マクシミリアン様を置いていかれるのですか!?」 逃げると言う選択肢のために次々と命令を下していくフリードリヒ3世だが、息子はいらないとまで言いだした。 フリードリヒ3世の息子、マクシミリアンは昨年の1459年に生まれたばかりであり、幼すぎる。 確かに逃亡すると言う意味合いではマクシミリアンの存在は都合が悪いと言える。 だが、流石に息子を置いていくと言う事まで言い出すとは誰も思わなかった。「うむ。マクシミリアンはここに残るであろう侍女にでも預けておけ。流石にマーチャーシュ=コルヴィヌスもカジミェシ殿も子供や女性に害はなすまい」「そうですが……」 フリードリヒ3世の言う通り、マーチャーシュ=コルヴィヌスもカジミェシ4世も女性に害をなすような人物では無い。 双方とも武人であり、騎士としての側面も持っているため、そのような真似を好まないと言うのは周知の事実でもあった。「それにイタリアで授けられた子供と言うのは悪魔の申し子であると言われておる。マクシミリアンはその悪魔の申し子やもしれん」 悪魔の申し子と言う言葉に側近が肯定の返事をする。 確かにマクシミリアンは悪魔の申し子であると言う噂もあるのである。 実はフリードリヒ3世は庭いじりや占星術に興味を持ち、そう言った事に熱心であったためその結果を気にしている。 その占星術の結果ではイタリアで授けられた子供と言うのは悪魔の申し子であると言う結果であった。 ちょうど、マクシミリアンを授かった時はその占いの結果が出ていた頃であり、マクシミリアンこそが災いの元では無いかと考えるのは充分であった。 実際にマクシミリアンが生まれてからこの沙汰、碌な事が起きていない。 昨年はハンガリーがスロバキアを制圧し、ポーランドがドイツ騎士団を降している。 それに今年はオスマン帝国も再び動き出したと言うでは無いか。 どれもこれもマクシミリアンが生まれてからの出来事では無いか。 だからこそ、フリードリヒ3世はマクシミリアンこそが嘗て占星術の結果で出た事である悪魔の申し子と思っているのである。「だから、マクシミリアンは他の者に任せる。このままであれば害が及ぶであろうからな」 最早、フリードリヒ3世にはマクシミリアンが今の事態を引き起こしているようにしか見えなかった。(どれもこれもマクシミリアンが生まれてからだ――――) 心の中でフリードリヒ3世はそう悪態を吐く。 考えれば考えるほどマクシミリアンと言う存在こそが災いの元にしか見えなくなってくる。 息子であるマクシミリアンを連れて行かないと言うのはそういった事情からでもあった。 昨年から続く、ハンガリーやポーランドの積極的な勢力拡大。 そして、オスマン帝国の動き。 その全ての動きが昨年からの出来事なのである。 だからこそ、マクシミリアンさえいなければ――――フリードリヒ3世は今の状況をそう思っているのであった。 ハンガリーとポーランドと言う東欧における大国が動こうとしているその水面下で神聖ローマ帝国皇帝、フリードリヒ3世は確かに動き始めていた。 だが、その方向性は誰もが予測しなかったものであり、信じられないようなものであった。 誰がフリードリヒ3世が逃亡するなどと言う選択肢を取るだなんて考えただろうか。 正にこのフリードリヒ3世の行動はマーチャーシュ=コルヴィヌスにもカジミェシ4世にも予測できない事であった。 それに誰が自らの息子であるマクシミリアンを置いていくと考えたであろうか。 その理由が占星術の結果である悪魔の申し子と言う事だけであると言うのも。 フリードリヒ3世の行動は誰にも理解出来ないような事であった。 だが、皮肉にもフリードリヒ3世が悪魔の申し子であると言ったマクシミリアンこそが後の英傑である1人の人物――――。 ――――マクシミリアン1世なのであった。