――――1456年、ベオグラード 二つの勢力の軍勢が対峙している。 一つは10万の大軍勢。 もう一つは1万の軍勢。 10万の軍勢は周囲に隙間があるかも解らないようにベオグラードを包囲している。 包囲している軍勢はメフメト2世が率いるオスマン帝国軍である。 ベオグラードは、オスマン帝国の中央ヨーロッパ侵攻を食い止める防衛線の役目を果たすと言う役割を持った重要な要所である。 なんとしても、オスマン帝国としてはこの要所を落とす必要があった。 対する、1万の軍勢はハンガリーのフニャディ=ヤーノシュ率いる兵、1万。 数の上では全く戦いにすらならないと言う兵力差である。 メフメト2世もこれだけの兵力差があればベオグラードなど容易に落とせると踏んでいた。 しかし――――事はそう簡単には運ばなかった。「ええい……まだ、落とせぬのか!」 戦局は一向に優位に運べない。 配下からの戦況報告を聞き、メフメト2世は激昂する。 ハンガリーのフニャディ=ヤーノシュ率いる兵団は僅かに十分の一でしかないと言うのに未だにベオグラードを落とせる気配が無い。 メフメトが苛々するのも無理は無かった。 このベオグラードさえ落としてしまえばヨーロッパに侵攻するのが容易になるのだから。 だが、それは相手にとっても同じであると言える。 ヤーノシュ率いる軍勢1万も死に物狂いの戦いを挑んでくる。 それに対しオスマン軍は1453年の折りにコンスタンティノープルを落としたことによる厭戦気分があるのか士気が振るわない。 ヤーノシュ程の人物がその士気の乱れに気付かないわけがない。 先程からくる報告は全て悪い方向のものであった。「ぐ……これでは、ヤーノシュの思うつぼでは無いか!」 メフメトが苛立ちを表に出しながら立ち上がる。 最早、軍勢の状態を戻すことは敵わない。 メフメト自身もそれは痛感していた。「包囲の一角が崩れたか」 冷静に戦場の動きを見極める1人の武将。 1万の軍勢を指揮しているのはハンガリー摂政、フニャディ=ヤーノシュである。 この戦いでは全軍の指揮を執る立場で参戦していた。 現在のハンガリー王、ラディスラウス5世は若年であり、全軍を指揮出来るだけの力量は持ち合わせていない。 それ故に摂政であるヤーノシュが軍勢の指揮を執っているのだった。「父上、このまま勝負を決められるので?」 目を閉じたまま戦略を考えるヤーノシュに1人の少年が問いかける。 少年の名前はフニャディ=マーチャーシュ。 ヤーノシュの二男である。 長男のフニャディ=ラースローはヤーノシュの命令を受けて軍勢の一部を率いている。 マーチャーシュは初陣と言うこともあり、ヤーノシュのもとでその駆け引きを学んでいた。 ヤーノシュもまだ、年若いマーチャーシュが供をすることには激しく反対していたのだが、息子の懇願には敵わなかった。 ならば、せめてと言うことでヤーノシュは自分の傍に置き、戦と言うものを教えているのだった。「うむ……私も今、それを考えていたところだ」 マーチャーシュの言葉にヤーノシュは頷く。 まさに自分が考えていた事と同義だったからだ。「では、あの一角から崩しにかかるのですか?」 ヤーノシュが頷いたのを確認したマーチャーシュが更に問いかける。 マーチャーシュの見据えた先を見て驚いた表情をするヤーノシュ。 なんと言うことだろうか。 初陣にも関わらず、マーチャーシュは戦場の動きを把握している。 マーチャーシュの事は元々から才能もあり、勤勉家だと思っていたが、これほどまでに才能を秘めていたとは思わなかった。 戦場の動きを把握するなどと言うことは一朝一夕に出来るものでは無い。 今の自分があるのもフス戦争の名将、ヤン=ジシュカとの戦いから始まり、オスマン帝国皇帝、ムラト2世との幾度と無い戦いを経たからこそだとと言うのに。 戦場の流れを把握すると言うのには相応の経験と言うものが必要だと言っても良かった。 確かにワラキア公、ヴラド=ドラクルと共に戦のことは教えてきたつもりでいたが……この才能は並みのものでは無いだろう。 ましてや、マーチャーシュは初陣なのである。 将来的な力量は恐らく、自分をも凌駕するかもしれない。「うむ、マーチャーシュの言うとおりだ。総員、出撃するぞ!」 マーチャーシュの言に頷き、すぐさまヤーノシュは軍に命令を下す。 今のマーチャーシュの指摘はまさに自分が考えていた事と同じだったのだ。 その言葉に頷かない理由が存在しない。(この息子は必ず、大物になる――――) ヤーノシュはそう確信した。 ならばこそ、この戦は絶対に勝たなくてはならない。 己の才覚の片鱗を見せた息子をこんなところで死なせるわけにはいかない。 ヤーノシュは自らの心に言い聞かせながら軍勢を進め始めた。「おのれ、ヤーノシュめ!」 最早、完全に軍勢は浮足立ってしまった。 突如としたヤーノシュの動きに軍の命令系統が完全に麻痺してしまったのである。 メフメト自身も戦場の流れは把握していたが、それが追い付かなかった。 軍勢が多いと言うのは大きな武器ではあるが、欠点も多く持ち合わせている。 それが、今回の劣勢の要因の一つであった。 あまりにも軍勢が多い故か、指揮が行き届かないのである。 いや、メフメトの力を持ってすれば指揮を執ることは出来る。 だが、ヤーノシュの動きは速かった。 寡兵であると言う利点を活かした機動を重視した戦術と火計による兵の分断。 更にはこの戦に参加していたドミニコ会の修道士であるヨアンネス=ド=カピストラヌスの苛烈な攻撃。 特にヨアンネスの戦い振りは凄まじく、オスマン帝国が誇る名将、カラジャ=パシャを討ち取った。 ヤーノシュとヨアンネスの神速と言うべき軍勢の運用の前にメフメトは手を打つ前に包囲の一角を崩されてしまったのである。 こうなると包囲戦を仕掛けている意味が無い。 ましてや、オスマン軍は本国から遠征をしてきてベオグラードに布陣しているのだ。 勝ち戦ならまだしも、劣勢の状態から下がり始めた士気を上げるなどと言うのは難しい話だった。「余が自ら指揮をしておりながら、このざまとは!」 悪態を吐いてみるが、どうにもならない。 特にカラジャ=パシャがヨアンネスによって討ち取られた事で劣勢は決定的になってしまっている。 長年に渡ってオスマン帝国の軍勢を率いてきた中心人物が一介の修道士に討ち取られたなど前代未聞だ。 最早、この戦いは完全にヤーノシュの手のひらの上に踊らされてしまっている。「……ゲディクを呼べ」 戦場の動きを見ながら配下のゲディク=アフメト=パシャを呼び付ける。 暫く待つと落ち着いた様子のゲディクがメフメトのもとへとやって来た。「お呼びでございますか、陛下」「うむ、そなたに尋ねたいことがある」「……なんなりと」「この戦は……余の負けか?」 落ち着いた表情でメフメトはゲディクに尋ねる。 今までは苛立ちを隠そうとは思わなかったが、時間が経過したことで逆に頭が冷静になった。 ここは熱くなってしまえば負けなのだ。 先程からずっとヤーノシュに踊らされて苛立っていたが、それこそがヤーノシュの狙いだったのかもしれない。 ここに来て漸く、冷静になったメフメトは自らが最も信頼している配下であるゲディクを呼んだのである。「はい、残念ながら。今回は完全にヤーノシュめにして遣られましたな」「……そうか」 ゲディクも今回は負けだと言うが不思議と苛立ちは湧かなかった。 自分でも今回はヤーノシュに負けたのだと解っていたからだろう。 ならば、今の状態で出来ることは既に解っている。「ゲディク、全軍に通達せよ。撤退するとな」「はっ!」 メフメトの命令に従い、ゲディクが急いでその場を後にする。 後のことはゲディクに任せておけば問題は無いだろう。 自身も撤退のための指揮を執る。 今、やるべきことはそれだけだった。 だが、この屈辱は必ず晴らさねばならない――――。 メフメトはヤーノシュに遣られた軍勢を見ながら心に誓った。「父上、敵軍が撤退していきます」「……放っておいても良い。残念だが我が軍に追撃をかけるだけの兵力は無い」 オスマン軍が撤退を始める様子を見ながらヤーノシュは呟く。 確かに今回の戦は勝利することが出来たが、その兵力差は10倍もあるのである。 追撃をしかければこれ幸いと叩かれてしまうだろう。 それに、撤退の指揮を執るのはゲディク=アフメト=パシャかメフメト2世自身のどちらかだろう。 その時点で迂闊な追撃は自らの破滅に直結していた。「そうですね……今回は勝利出来ただけでも大きいかと思いますし」「うむ」 マーチャーシュも今回の戦の重要性を理解している。 今回の戦いでの重要な部分はベオグラードを守り切ることであり、オスマン軍を撃破することである。 この目的を達成出来た時点で、此方の勝利は確定であった。「やはり、父上は凄いですね。私は見ていることしか出来ませんでした」「いや、そんなことは無い。お前は良く、戦場の動きと言うものを把握していた」「そうでしょうか……」 自信が無さそうな表情をしているマーチャーシュにヤーノシュは優しく頭に手を置く。「そんな表情をすることは無い。初陣でここまでやれたのだ。もっと、自身を持っても良い」「父上……」「だからこそ、私の後を……っ」「父上っ!?」 次の言葉を紡ごうとして突如、崩れ落ちるヤーノシュ。 慌てて、ヤーノシュに近寄るマーチャーシュ。 先程までは初めての戦に夢中でヤーノシュの様子には気付かなかったが、ヤーノシュは既に病魔に侵されていたのである。 兆候が出始めたのはベオグラードに布陣してから、暫く経過した後。 今までは薬で抑えていたが、戦が終わったことで気が抜けたのか一気に症状が表れてきたらしい。 やはり、オスマンとの戦いが終わって気が抜けてしまったのだろう。「父上、父上っ……!」 マーチャーシュは何度もヤーノシュに呼びかけてみるが、その返事は弱々しい。 最早、意識も混濁し始めている様子だ。 恐らく、ヤーノシュはその強靭な意志力で病を無理矢理抑え込んでいたのだろう。 狼狽しながらもマーチャーシュはそう結論付けた。 しかし、どうすれば良いのかどうしても思いつかない。「マーチャーシュ……良く聞け」「……父上」 ヤーノシュがゆっくりと口を開き始める。「私は最早、長くは無い。お前はラースローと共に軍に通達し、国へと戻るのだ」「はい……。ですが、父上は……?」「私も共に国へと戻りたいが……最早、そこまでは身体が持たぬであろう」「父上ともあろう人がなんと弱気な事を!」「……解っている。解っているのだ。だが、身体の事は自分が良く解っている」 ヤーノシュは既に自分の命が数日だと言うことを実感していた。 恐らく、自分の罹った病は黒死病だろう。 何度も戦場でこの病によって死んでいった人間達を見てきた。 自分もその人間達と同じような状態になっているのである。 ましてや、薬で無理矢理に兆候を抑えながら戦に出ていたのだ、最早……助かることは無い。 不思議と死ぬと言うことは怖くなかった。 だが、一つだけ心残りがあるとすれば……この息子の行く末を見ることが叶わないことか。 自らが教えられるものは教えてきたつもりだ。 しかし、これ以上マーチャーシュを自らの手で導いていけないことが何よりも悔しかった。 これからマーチャーシュの歩む道は困難を極めるかもしれない。 せめて、その助けとなることを少しでも伝えたかった。 だが――――それも叶いそうにも無い。「すまぬ、マーチャーシュ。父としてお前を導いてやれそうも無い……」「そんなこと言わないで下さい! 父上にはまだ、教わらなくてはならないことが沢山あります」 息子が――――マーチャーシュが必死に呼びかけている。 だが、意識の方は朦朧としていて働いてくれない。「マーチャーシュ――――」 今、自分が何を言ったのかさえ解らない。 ヤーノシュは最後に愛する息子の名前を呼んで意識を手放した。 ベオグラードでの戦いが終わった数日の後。 ――――1456年8月11日 ――――フニャディ=ヤーノシュ、死去。 この後から約、2年後。 ――――1458年 物語は動き始める。