悔いは無い。
深い深い闇に墜ちて行きながら、そう思う。
名誉ではない。栄達でもない。まして、富などである筈もない。ただ、信じた物の為に、闘ってきた。
異端者と呼ばれ、世界を敵に回して、闘った。
誰からも感謝されず、何も報われず、それでも世界を救った。
世界への愛などではなかった。ただ、その時その時に最善と思える行動を繰り返して、いつの間にか、戻れない位置にまで来ていた。
それを運命と呼ぶのなら、私はただ、その力の前に、流されていたのだろう。
そうだとしても、なお、胸を張って言える。悔いは、無い。
例え、これが死であっても、いや、死ですらない消滅なのだとしても、構わない。
死力を尽くした。自分が生まれてきたのは、この為なのだとすら、思った。戦い抜き、そして、その結果として、勝利した。もはや、自分の生死など、ささやかな事だとすら、思える。
……ただ、たった一つ。気がかりがあるとするならば、あの男の事。
優しい男だった。優しすぎるほどの、男だった。
信じたものに裏切られ、大切なものを傷つけられ、苦しみ、一度は逃げ出し、それでも最後には、戦った男。
いつからだろう、その背中を、眩しいと思うようになったのは。
元より、友好的になれるはずもない出会いではあった。しかし、それを差し引いても、女性的ともいえる、整った顔立ちを、初めて見た時には好ましいと思わなかった。
軟弱な男は嫌いだ。初めて見た時には、ただその見た目から、この男もそうなのか、と思ってしまった。
行動を共にするようになって、知った。この人は、体にも、心にも、無数の傷を負いながら、それでもまだ、進んでいるのだと。
全てを救おうとして、しかし、救いたかったはずのものが、握りしめた砂のように掌から零れ落ちて、なおも、諦めなかった人。
あるいは、私も、彼の手から零れた砂の一粒となるのだろうか。
もし、そうなのだとしたら。もしも彼が、それを悲しむとするのならば、ただ、その事だけが気がかりだ。
なぜ世界は、ああも彼に優しくなかったのだろう。重すぎる荷をその肩に背負わされたのは、なぜだったのだろう。
確かにこれは、彼でなければ為し得なかった事なのかも知れない。それでも、思う。余りにも理不尽だ、と。
誰かの為に戦う事を正義と信じた彼ならば、言うかも知れない。それでいいのです、と。誰かが傷つかなければならないのなら、他の誰でもなく自分が傷つくことを幸運だと思う、と。
だから、私は。
私は、願った。そんな彼の為に、闘う事を。彼を襲う悲しみを、私の剣で斬り伏せることを。
……その願いも、かなわなかった。戦いは、終わった。彼と、彼が最後に救おうとした彼の妹が、この闇から抜け出せたのかどうかは、分からない。私は、見届けることもできないまま、堕ちていく。
悔いは、無い。私は、私にできる全てを為した。私の力では、これ以上の結果は望めなかっただろう。
それでも、思う。
もしも、何かが違えば、彼は幸せになれただろうか、と。
もしも、やり直しがきくならば、彼には違った結末が待っていただろうか、と。
もしも、それが可能であるならば……。
私は、闘う。
誰よりも他人の為に闘った彼の為に、私は、闘う。
例え運命と言うものがあるとしても。
それすらも斬り伏せるために、私は、闘う。
兵士達の一団が、町中を進軍する。
しかしそのいずれも、顔立ちはどこか幼く、勇ましいはずの鎧姿も、どこか慣れない、頼りなさがある。
それもそのはず、兵士達の一団は、正確にはまだ軍に配属された兵ではなく、王立士官アカデミーの候補生達である。
盗賊団討伐の為に正規の騎士団が殆どが出動しているという状況の中、盗賊団の一部が魔法都市ガリランドへと侵入し、その撃退に当たっている彼らにとっては、その戦いは例外なく初陣であり、そこには困惑したような雰囲気があった。
「緊張しているか?」
黒髪の少年が、隣の金髪の少年へと話しかける。
自分自身幾分の緊張があるのか、頬はやや上気しているものの、その眼にはどこか不敵な光がある。
体格に目を引くものはなく、顔立ちも、整っているものの、黒髪に黒目であり、顔の輪郭も貴族のそれとは少し異なる。ただ、その容姿は、彼の持つどこかふてぶてしさを感じさせる空気には、むしろ似合うものだった。
一方、話しかけられた金髪の少年は、いかにも貴族的な、それも中性的に整った美しい顔立ちだった。黒髪の少年よりもやや細身で、はっきりと言ってしまえば、兵士にはとても見えない。美しい青の瞳と良い、剣よりは楽器が似合いそうな男だった。
「オレとお前なら大丈夫だ。それに、あいつだっている」
「……ディリータ。戦う事が不安なわけじゃないよ。僕だって、ベオルブ家の一員だ。それに、君と彼女がいて、たかだか盗賊団の遊撃隊ごときに、負けるわけがない」
物憂げに、少年は息を漏らす。
「なら、何を一体そんなに沈んでるんだ。ラムザ、お前はリーダーだ。リーダーがそんなんじゃ、皆だって不安だろう」
「僕が分からないのは……。悲しいのは、そんな事じゃないんだ」
ゆるゆると、彼……ラムザは首を左右に振る。やれやれ、と、ディリータと呼ばれた黒髪の肩をすくめた。
「貴方の考えている事は、何となく分かる。でも、止めなさい。どんな事情があろうと、盗賊に成り下がったのは、彼ら自身。弱かったのよ」
横手から、切り捨てるように鋭く、女性の声。ラムザは、ゆっくりと、そちらを向いた。
「……メリアドール……」
彼は、その名を呼んだ。
士官候補生たちは、配置につく。
「……ラムザ。一言、頼む」
ディリータが、冷静な声でラムザに囁く。
皆、これが初陣だ。そして、貴族の子弟である彼らは、お世辞にも荒事に慣れているとは言い難い。緊張で硬くなっている。リーダーであり、武人の家柄として有名なベオルブ家のラムザの激励が、今は必要だった。
ラムザにも、それは分かる。小さく頷いた。
「皆、聞いてくれ!」
彼は、よく響く声をあげる。全員が、彼に振り返った。
「僕たちは、誇りある士官アカデミー生だ。いずれは騎士となり、この国の剣となる! そのために僕たちは腕を磨いてきたはずだ! ここでたかが盗賊ごときに負けるようで、どうしてこの国を守る騎士となれる! 必ず、勝つ!」
ややあどけなさを残しながら、凛としたその声には、恐怖を払う力強さと、胸に響く魅力があった。
士官候補生たちの目から怯えの色が薄まり、その表情が引き締まる。十分な効果に、ディリータは小さく笑みを漏らした。
ラムザには、不思議な魅力がある、と、ディリータは幼いころから知っていた。
彼の長兄、ダイスダーグのような、全てを読みつくしたような才気や、次兄ザルバッグのような、武人たるものかくあるべし、と言うような威風がある訳ではない。しかし、ラムザには、どこか人を惹きつける優しい空気と、相反するような、凛とした芯があった。
大貴族であるベオルブの一員でありながら、母は庶民の出。あるいはそんな背景が関係しているのかも知れない。
「……来たわ!」
見張りとしてやや前方に待機していたメリアドールが、声を上げる。緊張が高まるが、先程までとは違い、そこに怯えはなかった。
「なんだ、ガキどもじゃねぇか! くくッ、ツイてるぜ! いいか、野郎ども。このガキどもを倒せばいいんだ! そうすりゃ逃げることができるぞ! 気にするこたぁねぇ! 一人残らず殺っちまうぞッ!!
余りにも、粗野。余りにも、短絡。ラムザは、顔をしかめた。
「大人しく投降しろッ! さもなくば、ここで朽ち果てることになるぞッ!!」
一縷の望みを込めて、ラムザはそう呼び掛ける。
「お前達、ひよっこどもに何ができるというんだ! お前達苦労知らずのガキどもにオレ達を倒せるものかッ!!」
「苦労知らず? 笑わせてくれるッ! 苦労を知らないのは、苦労から逃げ出したのは、お前達だ! 理想も思想もなく、ただ、逃げるために盗賊に成り下がった者たちが、偉そうに吠えるなッ!」
盗賊たちの言葉に対して、メリアドールが一喝する。戦闘はもはや、避けられなかった。
「……お前達を、討伐する!」
剣を抜いたラムザの宣言で、戦端が開いた。
「はああああああああああああああっ!」
雄たけびを上げ、真っ先に駆けだしたのは、メリアドールだった。
真っ直ぐに、ただひたすら真っ直ぐに突撃し、剣を大きく振りかぶる。それは、他の士官候補生や盗賊の一部が持っている片手剣とは違う、ディフェンダーと呼ばれる長大な騎士剣だ。
「へっ、真っ直ぐ突っ込んできやがって、馬鹿が!」
盗賊団の男が、嘲り、その余りにも軌跡を読みやすい剣を、己の剣で受け止める。
その瞬間、ぱきぃん、と、澄んだ音がして、盗賊団の男の剣が折れた。
「な……ぐぁっ!?」
驚愕し、一瞬動きを止める男に、構わず、メリアドールはそのまま剣を叩きつけた。
「……このメリアドールが剛剣、貴様如きが受け切れると思うな」
それは、装備の破壊だけを狙う、ナイトの戦技とは一線を画す剣技だった。
「……ビビるな、囲んで殺せッ!」
リーダー格らしい男が、仲間たちに号令する。その言葉に、メリアドールの剣と気迫に呑まれかけていた盗賊たちが、メリアドールめがけて殺到する。
「させるかよ!」
その包囲網に、突撃していくのは、ディリータ。剣を抜き、メリアドールへと向かっていく盗賊団の一人に、斬りつける。
「ちっ!」
盗賊団も、さすがに無視はできず、メリアドールへの攻撃を取りやめ、ディリータの剣を受ける。
メリアドールの時と違い、剣を一撃で破壊するようなことはない。ディリータは、剣を受け止められると、すぐさま剣を引き、再び剣を振るった。
「くっ!」
盗賊の男も、なんとかそれを防ぐ。だが、明らかに自分よりも上の剣技を持つ相手に、その動きは、動揺して鈍い。
「はっ!」
メリアドールが再び剣を振るう。盗賊団の一人は、先程の仲間の末路を見ただけに、受け止めず、かわそうとするが、男の回避の動きよりも、メリアドールの剣の方が速かった。あっさりと、斬り伏せられる。
「くそっ!」
同時に襲いかかっていた盗賊団が彼女に剣を突き出すものの、メリアドールはあっさりとそれを回避。返す刀で、その不用意な突きを繰り出してきた男を斬り倒す。
「僕も行く! 他の者は援護しろッ!」
ラムザが、指示を飛ばし、駆けだす。それを見て、ディリータとメリアドールは、一瞬、顔を顰めた。
「あのガキがリーダーだ! 殺せッ!」
盗賊たちのリーダーが、起死回生と、指示を出す。
しかし、仲間の大半は、メリアドールとディリータに抑えられている。ちっ、と、舌打ちをして、リーダーの男自身が、ラムザへと向かう。
「おらああああああっ!」
乱暴に叩きつけられる剣を、ラムザは冷静に受け止める。
「何故、盗賊などになった。まっとうに生きてさえいれば、こうやって殺し合いをすることもなかった!」
「そうやってまっとうに生きて、お前ら貴族に、家畜みてえに搾取されてろってのか!?」
「そんな事は言っていない!」
「言ってるんだよ! 貴族は、お前らは、いつだってそうだッ!」
問答無用、と、盗賊のリーダーは剣を振るう。ラムザはそれを、軽くかわした。一瞬、眉を寄せ、ラムザは剣を振るう。
「ぐあっ!」
左手を切りつけ、盗賊のリーダーが怯んだ所に、ぴたり、と、剣先を突き付ける。
「終わりだ! 投降しろ!」
盗賊のリーダーも、流石に動けず、信じられない、と言う表情で、自分に突き付けられた剣を見る。
しかし、その様を見ても、盗賊たちは投降しようとはしなかった。なおも、ディリータやメリアドールへと、挑みかかっては斬り倒される。
「やめろ! これ以上の戦闘に意味はない!」
ラムザの必死の呼びかけも、ただ、むなしく響くだけだ。ぎりっ、と、ラムザは歯を食い締めた。
「……何故なんだ……」
「……ラムザッ!」
小さくラムザがつぶやいた瞬間、ディリータが、大声で彼の名前を呼んだ。
「……てめえは、道連れだッ!」
盗賊のリーダーが、ラムザが他の盗賊たちへ意識を映した隙をついて、体当たりをするように剣を突き出していた。
「なっ……」
とっさの事に、ラムザの体は動かない。
「……ふっ!」
それを見たメリアドールが、短い呼気と共に、左手で小さなナイフを投げた。
「がっ……!」
それは、狙いたがわず、リーダーの胸に、吸い込まれるように突き立てられた。
直後、最後まで残っていた盗賊が、ディリータの剣に、倒れた。
「……何故なんだろう、ディリータ」
盗賊たちの死体を見下ろしながら、ラムザは小さくつぶやく。
それに対し、ディリータは、やれやれ、と言うように、肩をすくめて見せた。
「……ここで投降したところで、待っているのは処刑だけだ。あいつらにとっては、生きるためには、戦うしかなかったんだよ」
「僕なら……僕なら、投降したものをあえて処刑するような事はしない」
「ラムザ……」
「甘いわね」
戦いの前同様、メリアドールは、あくまで鋭く、その考えを否定する。
「……メリアドール?」
「その甘さが、貴方を殺しかけた。今日は、たまたま私がいたから、そうはならなかった。それだけよ。私の眼には、貴方は、とても傲慢に映る」
「傲慢……僕が……」
呆然としたように呟くラムザに対して、メリアドールはあくまで冷静に、言葉を重ねる。
「……この国は必ずしも平等ではなく、貴方は搾取される側の人間ではないわ。貴方は妬まれる立場にある。とはいえ、貴方のような立場を妬む余りに道を外すのは、本人の罪よ。そんな人間にまで、情けをかけようというのは、結局のところ、自分ならば全てを救えるに違いないという、傲慢な思い上がりだわ」
母が庶民の出ということもあり、本家を継ぐような立場には無いとはいえ、大貴族であるベオルブ家のラムザには、世界が不平等であることなど、実感できることではなかった。
ディリータが、わずかに目を伏せる。ラムザとの間にある友情は、決して偽りのあるものではないが、大貴族の子弟であるラムザとの違いを、だからこそはっきりと感じてもいた。
「……そんな、つもりは……」
「無いんでしょうね。だからこそ、今の貴方には、分からないわ」
「……」
そう言われてしまえば、ラムザには返す言葉がない。
「メリアドール」
咎めるように名前を呼ぶディリータに、メリアドールは、ふぅ、と、溜息をつく。
「止めましょう。別に私は、貴方を批判したいわけではないの。今は、任務を遂行する事が、優先よ」
「……分かった。準備を整えて、発つ」
「それでいいわ。ディリータ、貴方も、異存はないわね?」
「……ああ。ない」
目的地は、イグーロス。ベオルブ家の本拠地だ。
この身に何が起きているのかは、分からない。
あり得ない事。そうとしか、言いようがない。
それでも、これは、夢と言うにはあまりにも長すぎ、そして、現実的にすぎる。今でも眠るたび、次に目を覚ます時にこの現実が続いているのかと言う恐怖に襲われはするが、それでも、日々は続いている。
これから起こる、彼を襲う出来事たちは、余りにも悲劇じみている。そのどれほどを、私が斬り払えるかは、分からない。あるいは、結局は同じ道をもう一度たどり、私はあの闇の底へと再び墜ちるのかも知れない。
しかし私には、機会が与えられた。だから私は、悲劇じみた運命を斬り捨てる。
私は、私のすべてを懸けて。
そう。愛に、すべてを。