小高い丘がある。
瑞々しい青草に覆われた丘だ。頂点には一本の大樹が存在していて、乾燥した風が通り抜ける度、青草が波打つ。
少女は大樹を目指して歩く。踝[くるぶし]ほどの高さの青葉を、上品な外見に似合わず荒々しく踏み分けて、時折耳にかかる金糸の髪を、鬱陶しそうに払いのけて。
大樹の根元に人影があった。
少年だ。少女が探し求めた人物でもある。
大樹に頭を向けて仰向けになっている。天気は晴天で、太陽は頂点をやや過ぎたあたりだ。日差しは強く、お世辞にも昼寝日和とはいえない。
しかし偶然か計算か、少年の居場所は大樹の木陰に守られていた。
少年の歳の頃は十を幾つか過ぎたころだ。この辺りでは珍しい黒髪で、常に気だるそうな気配を放つ瞳は、しかし閉じられていた。耳を澄ませば、くーくーと微かに寝息が聞こえてくる。腕は頭の後ろで組まれ、クラスメイト達の中でも頭一つ背の高い彼の足は、無造作に投げ出されていた。冷たい風から守るようにコートを身体に掛けている。見覚えのあるコートは胸のあたりに彼の家の家紋が刺繍されている特別製で、その位の高さを示すように、豪華な装飾を施されている。これは彼の趣味ではない、と少女は考える。彼は目立つのが嫌いな人間だ。大方、頼み込まれて仕方なく、といったところだろう。その様子が容易に想像できて、少女は苦笑する。
普段はどこか落ち着いた雰囲気を持つ少年だが、寝顔は穏やかで、その年頃の子供と比べても遜色はなかった。
その寝顔に、わざわざ足を運んだことも忘れ、笑みを浮かべる。
「ヴィッツ」
彼の名を呼ぶ。
すると、少年――ヴィッツが身体を動かした。仰向けの体を地面に横にする。足は曲げられ、全身を一回り小さくするように縮まった。
くすぐったそうに顔を震わせた。起きる合図だ。
予期した通り、瞼が上がり、徐々に瞳が開かれていく。現れるのは眠気を含んだ漆黒だった。
彼が身体を伸ばす。腕を大樹に向けて、足は斜面に突き出すように。長時間同じ格好でいたことを語るように、彼の身体からは幾つかの音が鳴った。それが気持ちよかったのか、彼は寝起きの顔を緩ませた。
上半身を起こすと、身体に掛っていたコートは太ももまでずり下がった。それを億劫そうに見つめてから、そのコートの価値を思い出したように汚れを払い、肩にかけた。
身体を起こして、ようやくこちらに気が付いたようだ。
少女は右手を腰に当てる。左手は眼下にある建物の、そのてっぺんにある時計を指さした。口から出るのは、彼に時を知らせる言葉だ。
「ようやく起きたのね、昼休みはとっくに終わったよ」
彼はまず「おはよう」と挨拶し、頭が回り始めたようで「そんなことか」と続けて、
「……前にも言ったろ? 俺はいいんだよ」
「呆れた……そんなこと言ってるから、いつまでたっても“ドンケツ”なのよ」
わざわざ〝やれやれ〟のジェスチャーまでされたので、少女は顔が強張り、唇は引きつり、口を出る言葉は自然と棘のついたものになった。
思うところがあったのか、クラスの総合成績ワーストワンの称号を持つ彼の余裕が、一瞬揺らぐ。
「いいんだよ。今考えるべきはそんなことじゃない。将来のことだ」
「起こるかも分からないことに備えるよりも、今は目先の問題を解決するべきだと思うけど?」
この少年のいう将来のこととは、二週間後に控えている定期試験のことでも、ましてや将来の夢などでは、断じてない。いや、夢という点ならばあながち間違ってはいないかもしれないが。少女の容赦ない追い打ちに、ヴィッツは返す言葉もない。それでも口を開くのは、彼の性(さが)だろうか。
「起こるか分からないんじゃない、“起こるんだよ”。何度も言ってるだろ? お前は相変わらず俺の言うことを信じてくれないんだな」
「確かに予知にしてはやけに具体的だとは思うけど……信じられないわ」
正確には信じたくない、だった。彼は雰囲気を察したのか「そうだろうね」とあっさり手のひらを反した。訝しげな視線に、彼は両手を上げて、
「ま、仕方ない。ただ、覚えておいてくれたらいい。その時になって動けれないなんて嫌だからな」
「わかってる。お父様にお願いして管理局の動きに気を配ってもらってますから」
「助かる。俺の力じゃ管理局の中までは入れないからな。……グラシアの力は心強いよ」
そんな彼の言葉に、感謝されてうれしいと思いながらも、意地悪してやろうか、という気持ちが沸く。
「ふんっ……どーせ私は家だけの女ですよーだ」
「ち、違うって。俺はお前のことも大切に思ってるよ?」
顔を背けて、拗ねたように言うと、彼は慌ててフォローに走った。浮かぼうとする笑みを必死に押し潰しながら、
「どうだか、それにあなた言ってたじゃない。予知の中で出てきた女の子が魅力的だった、って」
「だから予知じゃないとあれほど……って、だから、あくまで魅力的なだけで、俺にとって……その、お前の方が……」
予想以上の彼の反応に、少女は赤面することを止めることができない。普段彼はほとんど胸の内を開けてくれないので、こうやって気持ちを告げるのは互いに慣れていないのだ。
そして、普段は気だるそうな彼の瞳が珍しく真剣な色を持っているのが、そして彼の唇が慣れない言葉を発音しようとしているのが、普段とのギャップも相まって、少女はとても彼の顔を見ることができない。
やがて、彼の唇から望む言葉が出ようとした、その時――
――きーんこーんかーんこーん。
無粋なチャイムの音が、邪魔をした。
チャイムが鳴りやむころには、あったはずの甘い空気は消えており、彼の瞳には気だるげな色が戻ってしまっていた。そのことを残念に思いながら、今度は絶対に言わせてやろうと誓う。
彼は、とにかくだ、と言ってから、
「俺が生まれてからもう十三年だ。もう時間は残されていない。“その時”までに俺の力を完全に使えるようにしないと」
そういって彼はこぶしを握った。少女は彼の言葉に呆れた様子を隠そうともせず、右腕を振って眼下をさした。
「よく言うわ……間違いなく異常気象よ?」
丘から見下ろせば、そこには青草など一本も生えていない、“冬の”草原が広がっていた。
そう、彼らがいるこの丘だけが、青草で覆われ、大樹は新緑の葉をつけているのだ。それはまるで夏のように生命力あふれる姿だ。いや、“ように”ではない。事実、彼は丘だけを夏へと還えていた。
それは彼の持つ力からすればほんの僅かなものだったが、この〝魔法〟溢れる世界においても、〝異常〟として認識されるには充分であった。
しかしこんなことでは満足できていないようだ。片手を頭上に掲げるとパチンと指を鳴らす。芝居がかった動作は、年頃の少年少女にすれば心惹かれるものがあるが、少女の心に響かせることは叶わず、反対に少女の冷え冷えとした視線にヴィッツは冷や汗を流す。
だが、〝夏〟の丘に起きた変化は劇的だった。まるでビデオで早送りをするかのように、大樹から葉が落ちる。それだけではない。瑞々しかった青草は急激に水分を失ったかのように萎み、その色を失った。大樹から落ちた葉は瞬く間に分解され、地面に飲み込まれてゆく。
ものの数分で、丘から夏が消え、冬がその姿を現した。それは周囲の丘と変わらない姿だ。
その光景は見慣れたものだが、いつ見ても感嘆の息を漏らしてしまう。
数多あるレアスキル[希少技能]の中でも比類なきほど稀な能力だ。正式な名前は知らない。それは教えてもらっていないのではなく、どこにも記されていないのだ。
普通レアスキルというものは先天的なものがほとんどで、生まれたときに所持する反応が出れば、直ぐに教会のデータベースで検索される。しかし彼の力は後天的なもので、またその能力から、公の場で検査することを彼が拒んだのだ。
図書館などで地道に蔵書を漁っているが、いつしか彼は飽きてしまったようで、今はほとんど放置状態である。なので、彼のレアスキルについて判明しているのは、能力だけだ。それで彼は充分だと言うが、好奇心あふれる年ごろの少女としては、いつか見つけ出してやろうと考えている。
「ねえ、まだ足りないの? あなたの力ならこの辺りの季節を全て変えることだったできるでしょう?」
「言っただろ? 相手は何時から存在するかも分からないような魔道書なんだ。――万全なんてない」
毎度のことながら、同じことを訊いてしまう。当然返ってくるのも同じ答えだった。不満を感じてしまうのは、我儘だろうか。
「わかってます。……まったく、その情熱を少しは私に傾けて欲しいものね」
「傾けてるさ。何時だってまず考えるのはお前のことだよ」
「ふーん」言葉と共に半目を送ると、彼は「なんだよ」とたじろぐような声を出した。
「知ってた? あなたがそういうことをスラスラと喋る時は、誤魔化す時か、嘘をついている時か、さて、どっち?」
「ハ、ハハ……お前の鋭さには感動して涙が出そうだ」
「何十回も同じやり取りをしたら、いくら私でも気が付きます」
まったく、とぼやくと、彼は反省したように頭を掻いて、しかし瞳には真剣な色を浮かばせる。
「わかってる。もう時間はない。たぶん、今のままなら成功率は半分くらいだ。だけど、これでも充分上がったともいえる。
残る問題はタイミングだ。戦闘能力のない俺達が出しゃばってもどうせ碌な事にはならないし、放っておいても自然と〝物語〟は動き、そして最善を目指す。もうほとんど覚えてないけど、たしかPT事件の裁判が起きるはずだ。これを察知できれば、あとはハッピーエンドに一直線――ってね」
「……信じてみるわ。あなたの話。どうせ私が信じなくてもやるつもりなんでしょ?」
「ま、そうだな。その時はちょっと強引な手段を使うことになるから、教会と管理局との間に軋轢が生まれるかもな」
「呆れた。それってほとんど脅迫じゃない」
「違うよ。事実を述べただけだ。きっとそうなる」
彼は少女と正面から向き合うように体を動かした。
「ま、君が信じてくれたからには、問題なんてないけどね」
「ねえ、あなたの予言では、私は魔道書の主の友人……だったかしら?」
「ああ、確かそうだよ。ただ、その過程は省かれてたから知らないけど。俺達の介入がうまくいったら、もっと別の……そうだな、別の関係になるかもしれないな」
少女は微笑み、彼も笑みをつくった。
「そう、楽しみね」
「ああ、楽しみだ」
ヴィッツが立ち上がる。気がつけば既に日は傾き、世界は黄昏を迎える。その光景は彼の目にどう映っているのだろうか。
それを知りたく思う。
見つめる視線に気が付いたのか、彼がこちらに顔を向けた。
素早く顔を寄せる。踵を上げ、僅かにある高さの違いを無くす。
彼の顔が驚きに染まるよりも早く、唇が重なった。
「――」
離すと、そこには呆然とした表情[かお]の彼。
そんな顔が珍しくて、思わず吹き出してしまう。するとすぐに彼の表情[かお]は憮然としたものになってしまった。
ヴィッツは無言で近づき、腰を掴まれた。頭を固定され、顎を持ち上げられる。抵抗する間もなく、その気もなく、再び唇が重なる。
「――――」
彼はすぐには離そうとはせず、互いの息が続かなくなるまで口づけは続けられた。
なんとなく悔しく思い視線を向けると、そこにはしてやったりとした彼がいる。その表情がまた珍しくて、思考に反して顔は笑みをつくった。
改めて彼と向かい合う。
少女が口を開く、言葉が出る、しかしその前に、遮るように音が少女の耳に入った。
呼ぶ声だ。幼い声で、呼んでいるのは少女らの名だ。
彼と少女は顔を見合せて、互いに苦笑。
自分たちがいなくなったことを心配してくれたのだろう。呼び声は必死で、こんな風に彼と夕日を見ていることを申し訳なく思ってしまう。
だけどもう少し。
そんな気持ちが通じたのか、彼が頷く。彼は大きく息を吸って、
――叫んだ。
こっちだぞ、ここにいるぞ、と。
……まったく通じていない。そのことに頬を膨らませると、彼はいつもの気だるげな顔で手を伸ばしてきた。
また明日もな、と彼が小さく言って、その言葉に頬を綻ばせる自分は単純なのだろうか。
夕日に照らされたのではなく、彼の頬が赤く染まっているように見えたのは気のせいだろうか。
今日は珍しい日だと思う。普段滅多に見せない表情を、彼は幾つも見せてくれた。
彼と共に丘の下を見下ろせば、そこには若草のような髪を持つ少年と、桜のような髪の少女がいた。義弟と、親友だ。
「まったく」と呟きながらも、彼の手を掴む。
夕日を背景にした彼の顔を見ると、そこには珍しい表情があった。そのことに少女は笑みを浮かべる。疑問詞をつくる彼を無視するように、視線を下へと移した。
彼はたぶん、自分が優しげな笑みを浮かべていたことに気が付いていないだろう。そういう人だ。周囲と自分とのギャップに、まるで感情を隠すように過ごしてきた彼は、表情を変えることはほとんどない――と、彼自身は思っているだろうが、本当は違う。意外に彼は感情豊かな人間なのだ。それを無理やり隠しているだけで、彼と親しい人間は皆気付いている。
不意に、彼が意識せずに見せてくれる表情は、とても魅力的だ。少女はそんな不器用な彼が好きになってしまったのだから。友達には進んでいると言われ、親には早熟と言われる二人の関係だが、そこに不満は一切ない。常に彼の意識の何パーセントかを占めている〝物語〟も、この時ばかりはなりを潜めている。
せっかくだから、先ほどの誓いをここで果たそう。
「ねえ……私のこと、好き?」
「……ああ、もちろんだ――カリム」
直球に弱い彼は、いくつか逡巡した後、頬を染めながらもはっきりと答えた。
訊いたこっちが照れくさくて、彼から視線を外せば、夕日が地平線の向こうへと沈んでいくところだった。その光景を太陽の最後と例える人もいるけれど、そうは思わない。だって、こんなにも綺麗なのだから。空が橙から藍色の二色で彩られる光景は、何度見ても美しい。この眺めを最高の場所で彼と共に望んだことを、カリムは幸せだと思った。
だから、その言葉は自然と口にすることができた。
「……私も好きだよ」
照れた様子のヴィッツを見る。出会った時から不思議な雰囲気を持っていたが、最近では随分となりを潜めている。まるで、年頃の子供であるように振る舞うことも、最近は多くなった気がした。もしも、その変化を起こしたのがカリムだとするならば、嬉しいと思う。
思いをありったけ込めて、彼を見つめた。見合い、頷く。
斜面を一気に駆け下りると、義弟達の慌てる姿が見えた。
――人生に分岐点があるとするならば、一度目は彼との出会いだ。そして、二度目はもうそこまで迫っている。
彼の予言した日は近い。その日を迎えて、自分たち関係がどうなっているかはわからない。だけど、きっと素敵なことになると信じている。だって、彼はそういう人なのだ。いつも気だるげな顔をしているくせに、困った人を見つけると手助けしてしまう。
そんな彼だから、私はどうしようもないくらいに、彼に惚れている。