そのひとは、×××のことを××とよんだ。
×××はそれがなによりもイヤだった。
***
***
「それじゃあ、後はいつもの手筈で頼んだわ」
「ああ」
宿屋の部屋の中、眠りこける相棒と娘っ子をよそに、姉ちゃんと店主が言葉を交わしている。センセイはいない。行くところがあるとかで、とっくに消えていた。そして置き去りにされた相棒達も、これから馬車で運ばれるらしい。
ところが、姉ちゃんに硬貨の詰まった袋を渡されても、運び役の店主はなかなか動かなかった。毛むくじゃらの眉を寄せて、じっと俺様のことを見ている。うさんくさそうに。
「イヤン。そんなに見られたら、デルフ恥ずかし――」
「……おい。こいつはどうするんだ?」
「? ああ、そうだったわね、」
言われて姉ちゃんは、床の上の俺と相棒、寝台に寝かされた娘っ子を、順繰り、目を細めて眺めた。思案顔のそこへ、なあ、と声をかける。
「せめて最後くらい、相棒と一緒にいさせてくれねーか?」
「あら、意外ね」
「そうかい? ま、いくらお間抜けでお人好しで騙されて当然のおバカな相棒でも、相棒は相棒だかんね。俺くらい付き合ってやんなきゃかわいそーだろ?」
「……かわいそう?」
「そうだろ。さんざんぱら尽くしたあげく、最後は騙されて売られちまうなんてよ、」
いやぁ不幸だね哀れだね情けねぇね、と俺が謳うと、姉ちゃんの片眉がぴくんと跳ね上がった。
「ちょっと、なにか勘違いしていないかしら? 私達は人攫いでも人買いでもないわよ」
「ほー、そいつは初耳だ」
「……あんた、わざと言っているでしょう」
剣のくせに生意気ね、とはヒドイ言い草だ。
「いやいや、俺にはお前さん達が何をしようってのか、てんでわからねぇんだけどな。しかも、こんなやり方でさ」
「しかたないでしょう、『必要なこと』だって言うんだから、」
と言葉とはうらはらに、姉ちゃんは険しい視線を戸口の方へ送る。先刻、そこから出て行った曲がった背中を睨みつけるように。
「へぇ、そうかい」
俺の相槌に、姉ちゃんはチッと舌打ち。それからあたりを憚る声で、低く囁いた。
「悪いようにはしないわよ。信用なさい」
それきり、くるりと俺達に背を向ける。代わりに近づく店主は、見た目そのままの大した腕力で俺と相棒を軽々と担ぎ上げた。
――やれやれ。
その間も、娘っ子は静かだ。静かに、よい子で眠っている。声をあげることもできずに。
――それはこの娘をこんな目に遭わせてまで、やんなきゃなんないことなのかねぇ?
***
***
疑問が、意識の底からぼんやりと浮かび上がる。
――ここ、どこ――
どうも、木の板の上に寝ているようだった。しかもそれが、ごとごとと動いている。体に触るその固い感触に、たとえようもない嫌悪がわきあがった。
――どうして――
夢うつつの頭で思う。
――ゆかは――イヤ――
イヤなことを思い出すからだ。そういえば、この、半分起きているような眠っているような状態も、なにかに似ている。そうだ、
――くすり――
眠らされたのだ、と思いつく。しかしその後に、眠気でかすみがかった思考が気にしたのは、その理由よりも、『どうして薬が効いているのか』ということだった。
幼いころのことが原因で、この体は薬との相性が悪い。全然効かなかったり、無駄に効き過ぎたり、無闇に気分が悪くなったりする。 だから、それをよく知らないと――でも、あのひとはそれをよく知っている――そう、
――せんせいが――
睡魔に侵されて、思うように働かない頭も、ようやくそのことを思い出した。
――おわかれだって――
起きなきゃ、と思う。けれど、体が動かなかった。動けなかった。動かそうにも、自分の指先ひとつ見つけられなかった。
――どうして――
かすかに意識はあるのに、たしかに感じているのに、意識と体を繋ぐことができない。深い眠りの底に見事に沈められていて。さけびだしたいような焦燥感も、眠りこける体には届かない。
――……なのに――
床の上にうずくまって、何もできない。手を動かすことも、声をあげることも、まともに考えることも、できない。まるで、あのころみたいに、
――ねぇ、どうして――
次々とわきあがる思いは声にもならず、次々と泡のように消えていった。もがけばもがくほど、意識は深く墜ちていく。
悪夢に閉じこめられる。
……いつから、そこにいたのだろう。気づけば、奇妙な場所にいた。
どこかの部屋だった。そばには、しっかりとした作りの壁があった。すきま風が抜けたり、手で押せばガタつくような板の壁ではなくて、石造に板と厚手の布を張った、きちんとした壁だ。
その壁に身を寄せて、『×××』は床にうずくまっていた。まるで動物みたいに。
持っているのは、正体のわからない臭いがしみついた古びた毛布だけ。丸めた体をそれでくるんで、巣ごもりしたケモノみたいに、そこにじっとしている。片手は毛布のはしっこを握りしめて、もう一方の手は口の中。柔い歯が、時折思い出したようにその指や甲を噛む。
そうして、その場所から動かない。
いつも、いつまでも、そこでじっと丸まっている。部屋のかどっこのすみっこに陣取って、そこから動かない。動けない。動いちゃいけない。この固い床と壁から、離れちゃいけない。
幼子特有の頑固さで、×××はそう決めていた。だって。
――だって、まっくらだ――
――ここは、まっくらだ――
塗りつぶした筆のムラも見えないほど完璧に、その部屋は黒一色に染まっていた。床も壁も、触れているところ以外はあまりにまっくらで。その先が、ほんとうにあるのかどうかもわからない。
たしかに、いつかはあった。だから、今もあるのかもしれない。けれどもしかしたら、そこにはもう何もないのかもしれない。
だから、動けない。
放っておくとすぐに震えだす手を、がしがしと歯で懲らしめる。口の中の感触と、指の痛みだけに集中して、それ以外のことから目を逸らす。身のまわりで、ぽっかりと虚ろな口を開けて待ちかまえている『それ』に気づかないふりをする。
それでも、時と共に汐が満ちるように、徐々にそれが迫ってくることはあった。やってくる。ひたひたと×××を脅かす、暗闇、恐怖――その、ほんとうの『意味』。
でもそんなときも、意識を飛ばしてしまえばそれで済んだ。
難しいことじゃない。ほとんどいつも、頭はかすんでいて気怠いようだったし、ほとんどいつも、部屋はそうするのにふさわしかった。
――ねむい――
断続する意識。深い眠りと短い覚醒のサイクルに無抵抗に身をゆだねる。かすみがかった頭は言葉も持たない。だから、それも苦ではなかった。 眠り続ける。逃げ続ける。――願いを言葉にさえしなければ、叶わないことにも気づかないふりをしていられる。
――ねむれば、あさがくる――
――あさがくれば――
眠り、目が覚めて。あたりはまっくらのままで、また眠る。その繰り返し。いつも、いつまでも。
――馬鹿共が焦ってやりすぎたのさ。脳みそをまるごと秘薬のプールに漬けたようなもんだ。まともでいられるわけがない。
――かゆい――
頭がむずむずとして、ひとり、不快感にうなる。どうにかしたいのに、顔にぐるぐると巻きついた布きれがじゃまをする。けれど片手は毛布を掴んでいないといけないし、もうひとつは噛むのにいそがしくて。
こらえきれずに、手近な壁に頭をこすりつける。ごしごし、と布きれをこすりとろうとする。
けれど、うまくいかない。
疲れて、飽きて、床に頭をおろし、そのまま丸くなって眠る。布の奥ではいつまでも、むずむずと、ちいさな虫がうごめくような感覚が続いている――。
――秘薬が効かなかったそうだ。魔法を『拒絶』したんだろう。わからなくもない話だな。
――わからないか?……そんなもの、『気持ち悪い』からに決まっているじゃないか。
……断続する意識の狭間で、思い出す。 それが、はじまりだったと。
――あのころ――
顔にケガを負って、頭は薬でまともに働かず、時間さえ見失っていた、あのころ。
いつも半分眠っているみたいで、ものを考えたり、なにかを伝えたり、喋ったりすることもできなかった。『目が無い』ということもきちんと理解しないまま、どうして自分がそこにいるのかもわからずに。『まっくら』な部屋の中ですみっこにうずくまっていた。
動くときは床と壁の両方に触れながら、のろのろと這う。高いところがおそろしくて、突然ぶつかる何かがこわくて、そもそも萎えた足は立ち上がることもまともにできなくて。いつもケモノみたいに床で眠っていた。床の上は固くて、冷たくて、イヤだったけれど……。
その思いをかたちにすることもできなかった。
何もできず、 何の役にも立たず、何の存在価値もない。
――でも――
暗闇に身を横たえながら、思う。もう、それは終わったはずよ。もう、×××にはちゃんと『ある』はず。
――なのに、どうして――
ちりちりと焦げるような痛みに、息が詰まる。押し潰されるような不安に、こころが軋む。
――また、あそこにもどるの――
――また、すてられるの――
どろり、と底の底の方からなにかが溢れた。
……目が覚めても世界はまっくらのままだった。
どこまでも夜は続き、いくら気づかないふりをしても、悪夢は終わらない。むしろ、目を逸らし続けるうちに、それはどんどんと大きく、膨れあがっていくようで。
夜のひとり寝に怯えても、子守唄を歌ってくれる乳母はいない。悪夢にうなされても、名を呼んで恐怖を追い払ってくれる姉やもいない。からっぽの闇に呑まれ、そばにあるものは古びた毛布と固い壁と床。それから、
その『声』だけ。
――君、とりあえずコレを自分で食べてみたか?……そうか……人選を誤ったな。
――ああ、いい。どうせ、お遊びだ。それより、こいつら全部に『固定化』をかけておいてくれ。もちろん、今日中だよ。
歪んだ揺りかごで眠り続けていると、時折まっくらの向こうからそれが聴こえた。
低く、饒舌な声だった。その声は、たとえばだれかと話をしていた。相手の言葉はまるでわからないのに、その声の発する言葉だけは妙にはっきりと届いた。
もちろん、その話の中身を理解するほどのチカラはない。それでも、その声はその場所でたったひとつだけ、『意味のあるもの』として、響いていた。
――ふむ。確かにその理屈はもっともらしい。だが、君は『偉い人間』というものを思い違いしているな。
――いいか、偉い人間ってのは、そもそも『何もしない』から、偉いんだ。汗水垂らすことなく、杖ひとつ振らず、頭と口だけを動かす。そうして、自分の手足よりもたくさんの人間を自分の手足として働かす。それが偉い人間のあるべき姿さ。
――うむ、それも道理だ。心苦しい限りだよ。私がもっと偉くなれば、君に掛かる負担も減るんだがな。現状はこの通り、君にひとりで頑張ってもらわないといけない。
――と、いうわけで、あとはよろしく頼んだ。
それはいつのことだろう。飄々と話をしていた声が向きをかえて――近づいてきた。
そのときも、×××は壁に身を寄せたまま、がしがしと手に歯を立てていた。噛み続けられ、唾液でまみれた手はすっかりふやけている。
――ほら、やめなさい。
その悪癖を指して、声は言った。べとついた手を掴んで口の中から引きはがし、代わりに『それ』を与える。
――さあ、これを持ってごらん。
長い棒きれ。木の杖。子供の指でもじゅうぶんに掴める太さのそれを、きゅっと掴む。すると、勝手に口が動き始めた。何も考えないまま、かすみがかった頭で唱える。
……イ……ル、ラ……デ、ス……
やがて、ぼんっ、とどこかで音が弾けた。途端に声が笑った。
――そうだ、その調子だ。
――……やはり、お前は『規格外』らしいな。わかるか? 本来、『あるべきでない』ものなんだ。
なにかが触れる――大きくて厚い、乾いた膚の感触――頭の上に、てのひらが触れている。
――世界の道理から外れ、秩序を壊す。素晴らしい、素晴らしい可能性だよ。いったい、お前は何なんだ? この爆発にはどんな意味がある?
――なぜかな? 私はそれが知りたくてたまらないんだ。
話しかけられている内容はなにもわからない。呼びかけられるその『名』も、ただの音だ。けれど……、声がよろこんでいるのはわかった。
――さあ、小さな魔法使い。私にお前の正体を教えてくれ。お前にはなにができるんだ? お前のチカラは、なにを叶えてくれる? なあ、小さな『××』。
促されるまま、どこで覚えたかも覚えていない、音の連なりを口にする。まるで呪いのように骨の髄まで染みこんでいた文字達を、意味も知らずに唱える。
……デ、ソ……ラ、デ……ウ、カー……
ぼんっ、ぼんっ、と空気が弾ける。弾けるように、声が笑う。声を立てて笑う。
――そうだ、いいぞ。やっぱりお前は偉大な魔法使いだ。
それはとてもわかりやすいことだった。言葉を持たなくとも、理解できるくらい。
からっぽの闇の中、ようやく見つけたと思った。するべきこと。できること。ここにいるわけ。いてもいい、理由。
だからそれからは、それが全てになった。
……フ、ド、ル……エン……キュ、サ、サン……
失敗と成功を繰り返す。職人が技法を追究するように。あるいは、赤子が言葉を覚えるように。手当たり次第の試行と結果を積み上げて、最適な方法を探り出す。答えを、あのひとが一番よろこんでくれる答えを探して。
唄う。
……イ、フ、ラ……
そうすれば、きっと、悪夢は終わる。そう、信じていた。
……ソ、デ、ナ……ル、ィ、イル……アー、ルル、カー、……イ、タル、デ……
でも、そんなものはなかった。
よろこびが終わるのはあっという間だった。はじめ、声をあれほどよろこばせたあの音。けれどいつのまにか、いくら数を鳴らしても、大きく奏でてても、声はよろこばなくなった。
――これだけか? そんなはずはないだろう?……なあ、これだけなのか? ××。
居心地の悪い間に、失望が伝わってくる。
――できるはずなんだ。できなければ『おかしい』。お前は『規格外』なんだから。
――なあ、私の××。だって、そうだろう? ××は偉大な……、偉大な……、
声が遠ざかっていく。失せていく。静かになる。消えて。なにも、
――なくなる――
ただ床で眠っていたころよりも、ずっとこわくて、おそろしいものがそこにあった。 そして、もう逃げることもできない。
……イ、イル、フ、デ……
眠りを棄てて、昼も夜もなく、唱える。
……ラ、ソ……ララ……ラナ……デ、イ……
必死になって、唱えた。
……イ、イイル……ア、アス……ウ、カ、ノ……ッイ、ォッ……タ、デ……
だって、もうそれしかない。おうちも、なまえも、じかんも、ことばも、ひかりも、かおも、なにもない。なにもかもを失くして、このまっくらな場所でそれさえも止めてしまったら、ほんとうにゼロになる。
正しい答えは見つからないまま、ひたすらルーンを並べ続ける。(ときどき、無口な手が杖を取り上げようとする。それに引っ掻いて、噛みついて、抗う。杖を抱き込むようにして小さく身を丸める。)
そうして全身が底無しの沼にどっぷりと浸かるような夜を幾日も重ねたとき、ようやく、その唄が聴こえだした。混沌としたルーンの汚泥の中から、とぎれとぎれの、拙い唄が。
――きっと、これ――
本能で、確信した。
気づいてしまえば、簡単なことだった。唄っていれば、全て、ルーンが教えてくれる。どこになにがあるのか。そして、それらをどうすればいいのかも――。
くすくす、と暗闇に笑い声が響く。甲高い声。こどもの声。
――もう、こわくない――
――だって――
ルーンによって識らされたその場所は、ただの部屋だった。なにもない。こわいものなんて、なにも。
――どんなこわいものも、どんなまっくらなものも、ぜんぶ――
――こうやって、けしてしまえばいいんだから――
けれど、
――間違いだらけだったな。
憂鬱な声に、得意な気分は一瞬で消し飛んだ。冷や水を浴びせられたみたいに再び身は縮み、代わりに、いつものように震えだす手。すぐそばに、黒い影となって声が立っている。
――どうして――
その影に怯えながら、思う。言葉にならない思いを胸の内で叫ぶ。
――がんばったのに――
――ちゃんとできたのに――
けれど、その声はこの『魔法』を喜んではいなかった。ほめてはくれなかった。ただ、久しぶりに頭を撫でて、そして、背筋が凍えるような声で言った。
――まったく、馬鹿げた話だ。 どうしてこんな勘違いをしていたんだ。なあ?
嘲う、その不快な声を震えながら聞く。手は必死で、杖を握りしめている。すがるものなんて、もうそれしかない。
――なんで、私はお前を『××』だなんて思ったんだろう。
声はささやき、去っていく。いなくなる。なにもなくなる――…………
(ことばにならないひめいは、うつろなやみにすいこまれた)
***
……みじめで、情けなくて、理不尽な話だ。
けれど、今ならそれもわかるような気がする。それが、どれほど皮肉に満ちた『答え』だったのか。
闇の中で見出だした、ひとかけらの光。それが本物かなんて考えもせず、手をのばした。
きっと、悪意なんてなかった。憎むべき相手なんて、何処にもいない。
ただ、皆が皆、必死に探していただけ。果てない絶望から、逃れるすべを。
そして、ひとかけらの光を希望と信じて、手をのばした。
けれど、それさえもただの偽りだと知ったとき――立ち上がる力はもうない。
そのひとは『せんせい』と呼ばれていた。