わたしには目がない。子供のときに自分で吹き飛ばしてしまったからだ。けれどもう慣れたし、ある方法を身につけてからは、あまり不便を感じたことはない。
――杖を持って、頭の中でルーンを唱える。知っているルーンを片っ端から並べてでたらめに唄っていると、次第に自分の体の中で響くリズムが聴こえてくる。そうすると何処に何があるか、なんとなく『わかる』のだ。
もっともこの方法には欠点もあって、頭の中でルーンを鳴らしていると、どうしてもそれ以外のことが疎かになってしまう(せんせいによると、言葉遣いなんかが幼くなっているらしい)。けれどそれも、あのオルゴールで唄を――否、『虚無のルーン』を――知ってからはなくなった。
同じリズムでもずっと洗練されているそのルーンは、ほんとうによくわたしの体に馴染んだ。
「そりゃあ、ブリミルが生涯かけて作り上げた魔法だからな。それでもたいしたもんだ。自力で見つけたのか」
移動中、わたしの説明を聞いたデルフリンガーはそう言った上で、一つの仮説を立てた。
「虚無ってのは、世界を作る一番小さな粒に干渉する魔法なんだ。もしかしたら、お前さんは担い手の本能でそれがわかるのかもしれないな」
「小さな粒?」
「サイト君の世界の『化学』で言うところの、『原子』というやつかね?」
「さあ? 難しいことはわからん。俺がもういっこ知っているのは――虚無が担い手の願望を叶える力だってことかな」
――色々と思うところはあるけれど、それを言葉にはしようとは思わない。
とりあえず、この自己流の『探知魔法』のおかげで助かっているのは事実だ。かくれんぼも、実は鬼の方が得意だったりする。
そう。だからこのときも、サイトが何処かに出かけたのはすぐにわかった。
「デルフ?」
「ちょっと腹ごなし、だと。心配ねーよ」
「ふーん」
わたしはせっかくもらってきたパンが無駄になったことに、ちょっぴり腹を立てながら、ベッドに触れる。まだ温もりが残っていた。その温かさに引かれるように横たわる。目の粗いシーツから、サイトの匂いがした。
サイト、わたしの使い魔、は、このところずっとおかしかった。はしゃいだり、バカをしたり、そうかと思えば、真面目になったり、急に怒鳴ったり、落ち込んだり。――まあ、その前はわたしの方がおかしかったのだから、お互い様なんだけど(あれはほんとうに悪い夢だった)。
あんまり落ち着かないから、とりあえず眠らせている間に、せんせいと相談した。せんせいは心当たりがあったみたい。なんだかせんせいの方が辛そうに――『ひこうき』が壊されてしまったことがショックだったのだろう、と言う。あれは、サイトのいた世界に繋がる大切なものだったから。
それに、サイトの国にはあんなにすごい武器があるのに、戦争がないのだそうだ。だから今まで、寿命や病気以外で人が死ぬところを見たことがなかったのだという。そんな『子供』がいきなりあんな目にあったのだ。その上、わたしはあんなことをさせてしまった――。
もう帰れないと思いこんで、けれどそれを表に出すこともせず――妙なところで真面目だから、変に遠慮したのだ――帰りたいに決まっているのに――空元気出して、明るく振る舞って――あげくに「役に立ちたい」なんて、あんなことを言う。
――そんなものは、いつか必ず無理が来るに決まっているのに。
(それは絶対に確かだ)
わたしはうすら寒い感覚に身を縮める。そのことを考えると、何故かはわからないけれど、風邪をひいたときみたいに全身が寒くなって頭が痛くなるのだ。
でも、もう大丈夫よね。
枕をひっぱり寄せて、ぎゅっと抱く。満足のため息を吐く。
上手くいってよかった……。
事前にデルフの説明を受けたときから、それが『ある』ことも、わたしに『できる』ことも確信はあったけれど(だってそうでなければ『おかしい』)、実際に試したときは緊張で手が凍えてしまった。
それでも、始祖の残したルーンは見事にハマった。
――ブリミルも、たいした奴よねー。
不遜きわまりないことを考えながら、ごろりと寝返りを打つ。
そのとき、背中がへんなものに当たった。手をのばす、硬いのに軽い、奇妙な感触。
さっきせんせいから預かって、サイトに返したものだ。召喚されたときに持っていたサイトの持ち物。たしか『けいたい』という。サイトの世界のオルゴール……だったかしら?
サイトの奴、置いていっちゃったのかしら。せんせいが見てくれって言ったのに。
『ひこうき』の『ばってり』がどうとかで、ちゃんとまた使えるようになったらしい。……いつものようにせんせいはたくさん説明してくれたけど、いつものように半分もわからなかった。
とにかく、せんせいの研究も好調みたい。サイトの世界の話が役に立っているのだろう。
――そうだ、サイトは自分ではわかってないみたいだけど、ちゃんと役に立っている。それに、わたしの魔法も。
新しい虚無魔法のことを考える。サイトの願いを叶えるあれは、きっとせんせいの役にも立つだろう。
(体の中から、お腹の底の方からゆっくりと湧き上がる何かがある。その感情に、わたしは名前をつけない)
わたしは唄い出したいような気分で、その、どんな貝殻細工よりもつるつるした表面を撫でた。つめたいのか、あたたかいのかもよくわからない、不思議な物体。サイトの世界のモノ。
ふと、あることを思いつき、杖を取る。
「あっ、こら――」
デルフリンガーの制止を無視したわたしは……すぐに後悔するはめになった。
***
オルゴールから聴こえてきた二つ目のルーンを『記録(RECORD)』という。
モノに残った強い『想い』を基にして、過去にあった出来事を頭の中に描きだす魔法だ。けれど、この魔法はただ過去に起きたことを知るためだけのものではない。
描かれた過去は、いわば幻の舞台。そして、それを観る者はその舞台の観客であり、闖入者にもなる。つまり、わたしは舞台の上に入り込んで、その場にいる人達と会話することもできるし、過去になかったことを起こすこともできるのだ。その幻の中だけなら、という条件がつくけれど。
「……ハア、」
わたしは杖を放り出して、深いため息をついた。デルフリンガーが言う。
「まあ、なんだ。娘っ子の精神力はたいしたもんだな、」
「さっきは途中で止めたもの。しごとの前に使い果たすわけにはいかないから」
「それにしてもさ。なんか精神力を溜めるコツでもあるのか?」
「そんなの、どうでもいいでしょ。それより…………どうしよう、」
「ハハ。娘っ子も懲りないね」
デルフは決して責めなかった。けれどその言葉に、わたしは身を縮こめる。自分が恥ずかしくて。
――ほんと、懲りないわ。おうじさまに会って、十分『痛い目』にはあったはずなのに。
自分のバカさ加減にほとほと呆れてしまう。
……ちょっと、『見て』みたかっただけなのだ。
頭の中に幻を描くこの魔法は、目がなくても『見える』という利点がある。それこそ、サイトの目を通すよりも鮮やかに(自分に目がないことを忘れさせるくらいに)。だから、サイトやせんせいが行きたいという『異世界』の姿をわたしも見てみたいと思って――
「どうしてああなっちゃったのかしら、少なくとも二十年分くらいは遡れるはずなのに」
己の愚かさを棚に上げて愚痴るわたしに、デルフが答える。
「より強い『想い』に引っ張られたんだろ。それはともかく――武士の情けだ。せめて言ってやるなよ」
「う、うん」
わかっている。この魔法は『見た人間』の『記憶』にしか残らない。どれだけそれが本物そっくりに感じられても、所詮、魔法で作った『幻』だ。見られた人達は見られたことなんてわからないし、何の影響も与えない。
だって過去は『変えられない』ものだから。
それでも、それを無かったことにするわけにはいかなかった。『けいたい』をきつく握りしめる。この過ちをどう償えばいいのか。頭の中はそれでいっぱいだ。
「ほんと、どうしよう……」
――男の子が泣くとこ、初めて見ちゃった……
***
***
わけのわからない『ごほうび』発言に、おれが戸惑っていると……何故かデルフリンガーが大爆笑していた。
「あははっ、そりゃいいや!」
「ちょっと、デルフ。笑わないでよっ」
盛大に笑い声を上げる錆び剣を、がしがしと足蹴にするルイズ。
あー、それくらいにしとけよ。な?
愛剣を拾い上げ、なんだかよくわからないけれど、妙に気負い込んでいるルイズの肩を叩いて落ち着かせる。
とりあえず宿屋の裏手にある木立の傍で、二人揃って、草の上に座り込んだ。背中を共に、ひとつの木の幹に預ける。
「――で。なんでも訊いていいのか?」
「ええ!」
――何故怒る?
おれはどうにも挙動不審なルイズを見つつ、首を傾げる。
もしかして、「説明もしないで」って怒っていたことを気にしているのか? こいつがそんな殊勝なタマとも思えないんだけどな。
しかし、それこそ尋ねたところで素直に言うとも思えない。
とりあえず、せっかくの『ごほうび(?)』だ。気を取り直して、考える。訊きたいこと、ねえ?
「じゃあ――例のドアってさ、いつごろ開けそうなんだ?」
予想していなかったのか、ルイズはちょっとだけ言葉に詰まった後、戦争が始まる前には何とかできると思う、と答えた。
「そのころには精神力も十分溜まっているはずよ」
「フゥン。精神力ってどうやって溜めるんだ?」
「それは……なんとなく、よ。言葉にするのは難しいわ。――ねえ、それより、質問は? まさかこれじゃないでしょう?」
「んー、って言われてもな、」
「ちょっと、遠慮しないでよ!」
――何故責める?
どうも依怙地になっているようなルイズに急かされるまま、おれはもう一度考える。見上げた先には、黄色く色づいた葉とモザイクのような空。
いい天気だなー。
「じゃあ、さあ。お前、どうして目を怪我したんだ?」
「…………よりによって、それ?」
ピンポイントで来たわね、とルイズががっくり肩を落とす。あ。やっぱ、まずかったか。
「わりぃ、 やっぱいいよ、」
「――いいわよ。どんな『恥ずかしい』ことだって答える約束だし」
「?」
何故か普段『負けず嫌い』を発揮しているときの様子で、ルイズはしゃんと背を伸ばした。
「だいたい覚えてるわ。ていうか、最近思い出したんだけどね。で、何が聞きたいの? どうして『目』だったか?」
「ん、まあ」
あの説明を受けたときから、気にはなっていたのだ。ルイズの魔法は爆発の対象を『選ぶ』ことができる。それなのに何故――自分自身を傷つけてしまったのか。
ルイズは一見関係のないことを口にした。
「ねえ、タルブでよくシエスタの弟達と遊んだじゃない?」
「ああ、うん」
「あのくらいの子って、ときどき、わけわかんないことするわよね。悪戯とか。こっちがヒヤリとするようなこと」
その言葉でおれは思い出す。あののどかな村での休暇のことを。
タルブの子供達は、ルイズにも懐いていた。たぶんシエスタの影響だろう。ルイズも面倒見がいいから(自分よりちいさい子相手だと、特に)――ゼロ戦整備でおれ達が忙しくしている間に――鬼ごっこなんかをして、けっこう一緒に遊んでいたようだ。
そう。それの延長だろうけど、ガキどもが目をつぶったままチャンバラして、思いっきり転んで怪我をしていたっけ――でも、あれはルイズが『実際にやって』見せたのが原因だと思うぞ?
「ちゃんと手加減してたわよ」
「そういう問題じゃなくてな、」
まあ、子供ってのはそういうものだ。ひとつのことに熱中すると、良くも悪くも周りが見えなくなる。視野が狭い。考えが足りない。思い込みが激しい。
おれもそうだった。
三輪車の上に立ち上がって垣根に突っ込んで、目の上切ったり。空を飛ぶんだって風呂敷持って二階からジャンプして、足の骨折ったり。傍で見ていた親が血の気を失うようなバカなことを、ずいぶんとしたもんだ。
そんな『武勇伝』を聞いたルイズは、ハア、と呆れた顔でため息ひとつ。
「あんた、そんなことしてたの? 間抜けねえ」
「あのな、」
「――ま。わたしもひとのこと言えないか、」
ルイズは淡々と、ほんの少し早口に、話し出した。
――わたしが生まれた家っていわゆる大貴族ってヤツでね。代々優れたメイジを輩出する名家だったの。両親はもちろんスクウェアクラス。姉達も学院で首席をとったり、とにかく優秀な人達ばかりだったのよ。
けど、わたしはコモンひとつ扱えなくて、爆発ばかり。もちろん虚無だからなんてわからない。わかっていたのはただ、『貴族』なら呼吸をするようにたやすくできることが、わたしにはできない、ってだけ。
家族はずいぶんと厳しかったわ。できて当然のことができないのは、努力が足りないからだって。わたしは叱られてばかり。そして叱られるたびにわたしは中庭に逃げて、ひとりで泣いてた。でも、ある日。それが母に見つかっちゃってね。泣いていたなんてバレたらまた怒られる、と思って、だから、つい――
ちょっとだけ言葉を止めて、そして、一息に言う。
「『目』がなくなれば『泣いていた』こともわからないかなー、って、魔法で吹き飛ばしちゃったの」
ハア、と再びため息ひとつ。肩をすくめる。
「バカよね。それでこの有様よ」
そっと窺ったルイズの顔は、その上半分を隠した桃色の布にも負けず、真っ赤だった。
「……え。それだけ、か?」
「そうよ。――言ったじゃない、『恥ずかしい』話だって」
拗ねた口調で、唇を尖らす。そのガキっぽい表情に、おれは思わず――吹き出していた。
「マジかよ!バカだなぁー」
「う。わ、わかってるわよ!」
感情が高ぶったときの証である震えた声で、ルイズはやけっぱちに叫ぶ。おれは笑う。げらげらと声を上げて、笑い飛ばす。
「何してんのよ、お前」
「ちょっと!そんな、笑わないでよねっ」
「だって――」
笑い話なんだろ? だったら、笑ってやんないと。
手をのばして、くしゃくしゃとルイズの髪を掻きまぜた。
「ほんとおバカだねー、お前さんは。まあバカな子ほど可愛いって言うけどさ」
「あ、あああんたねっ」
ブルブルと首を振って、逃れようとするルイズ。いつかのように、おれは小さな頭を手のひらでおさえこむようにして、それをさせない。
「あはは。可愛いなあ、お前。ほんと、バカで可愛い」
「もうっ、調子に乗るんじゃないわよっ」
抗議の声なんて聞いちゃいない。おれはルイズの抵抗をいなしながら、撫で続ける。――なあ、杖を握ったままじゃ無理だと思うぞ?
ほんと、こいつって、おバカ。そして、ほんとうに――天邪鬼だ。
いつだって思ったことをそのまま口にすることがない。とんでもない、負けず嫌いのひねくれ者。プライドばっかり高くて、素直になれない。ときには自分自身にさえ『本音』を隠し通してしまう。
それが、可愛い。カワイクて、カナシクて、とてもイトオシイ。
(なぁ、おれも、恥ずかしい話、してやろうか?)
――実はワタクシ、平賀才人は、小二のとき、学校のテストでゼロ点を取ったことがあるのです。
たかが小学校低学年レベルのプリントテストで、どうしてそんな点数がとれたのか。今となってはわからない。それなりにマジメに答えの欄を埋めていたはずなのに。ある意味、奇跡だ。
ま、それはともかく――そのテスト結果を前にしたとき、おれの母親は焦った。大いに、焦った。
もともと教育熱心にはほど遠い、どちらかというと、子供は外で元気に走り回っているのが一番、というひとだった。だからそれまでは、学校の勉強は宿題をちゃんとこなしていればいいんじゃない?くらいに考えていた。
ところが息子は、母親の想像以上のバカだった。ま、あれで一応四年制大卒という学歴の持ち主だし、たぶんゼロ点なんて漫画の中でしか見たことがなかったのだろう。
このままでは息子の人生がヤバイ、と思い、パニックになった母は、どこでどう見つけてきたのか、妙なヘッドセットを買ってきた。
曰く、『頭が良くなる装置』。答えを間違うと、電気がビリビリとくるザ・罰ゲーム装置だ。といっても実際に感電させるわけもなく、せいぜいマッサージ器の低周波くらいのものだったが。
土日挟んで三日間、おれはそれを着けて、一日中勉強をさせられた。
四日目、学校で吐いた。
五日目、家に帰る道がわからなくなって町の反対側で保護された。
六日目、朝から晩まで泣き叫んで家中のものを壊しまくった。
七日目、父親がその装置を棄て、それから一週間ずっと、母さんはおれの好物のハンバーグを作り続けた。
――それも今では笑い話だ。
それでも、あのときの感じた気持ちはまだ覚えている。
今、もしもあんな目に遭わされたらきっとその相手を嫌ったり、憎んだりするのだろう。けれど、あのとき感じたのはひたすら辛さだけだった。
ただ辛くて、悔しくて、哀しくて、不甲斐なくて――怖かった。
ガキにとって、親は世界の全てだ。たくさんのものを与えてくれる、一番大好きな相手で。だからこそ、その期待に応えられないことがツライ。
――もしも失望した目で見られたら? もしも「いらない」と言われたら?
そう考えるだけで、目の前が真っ暗になる。足下の床が抜けて、底なしの暗闇に落ちていく。世界の何処にも、居場所がなくなる。
カナシイほど、子供の世界は狭い。
――指先をすべる、柔らかい感触。日本人とは髪質から違う、細やかなブロンドはこの上なく滑らかだ。
ブラッシングした甲斐があるよな、と思いながら、同時におれは勝手な想像をする。
貴族の屋敷なんて見たことがないから、それは昔映画で見た英国風の巨大な庭園だ。迷路のような垣根が延々と続く、エメラルドグリーンの庭。
その中を小さな女の子が駆けていく。フリルのついたワンピースを着て、小さな手に杖を握りしめて、何かから逃げるように、駆けていく。大きな庭の大きく育った木立やしだれ下がった花々が、子供の小さな体を覆い隠す。けれど、その声を遮ることはできない。
遠くから、声がする。名前を呼ぶ声がする。大好きな母親の、けれど今は一番聴きたくない声がする。
子供は耳を塞ぎ、背を丸める。小さくなって、この世界の隙間に隠れて。見つからないように、必死に息を潜める。あふれそうな涙をぐっとこらえて。息がつまる。苦しい。
――ごめんなさい。ごめんなさい。ちゃんとできなくて、ごめんなさい。あなたのおもうとおりにできなくて、ごめんなさい。あなたののぞむとおりのこどもでなくて、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんさい。
逃げ出したいのは、自分自身からだ。隠したいのは、なにをやってもうまくいかない自分自身だ。
けれど子供の必死な思いとはうらはらに、親は親であるが故に、いつだって子供を見つけることができる。枝をかき分けて、近づいてくる。隠そうとした秘密はあっさりと暴かれてしまう。それは一番簡単な、絶望だ。
そして、追い詰められた子供はすがりつく。とても愚かな『希望』に。
……とうに諦めていたのなら、よかった。その手がからっぽだったなら、それで自分の顔を覆い隠してしまえた。
けれど、その手はまだ、杖を握りしめていた。
…………もちろん、こんなのはおれの勝手な妄想でしかない。ほんとうは何があったのかなんて、わからない。
怪我のショックはそれこそ全てを吹き飛ばしただろう。ルイズは思い出したと言っているけれど、それさえも全部こいつの中のひねくれ者が作り出した、一番毒のない『お話』なのかもしれない。
そして、そのなにもかもが全て『過ぎた』ことだ。過去は、変えられない。
それでも――
おれはわき上がる想いのままに、嫌がるルイズを無理やり抱き寄せた。犬猫がじゃれるように。撫でて、撫でて、そのとき、こいつの母親ができなかった分まで抱きしめて――
しまいに、おもいっきり肘鉄を喰らう。鋭い一撃で、顎を跳ね上げられる。
「痛ぇっ!――おひ!舌(ひた)噛んだじゃねぇーか!」
「うっさい!だいたいあんた、汗くさいのよっ!」
涙目のおれに、ぷんすか怒るルイズ。毛を逆立てた子猫みたいな様子で、おれから距離を取る。といっても、顔が真っ赤っ赤じゃ、全然恐くないケドな。
「そりゃあ健全な青少年ですから。運動すりゃ汗くらいかくっての」
臭い、を連呼するルイズに不満を覚えたおれは、いい意趣返しを思いついた。ニヤリと笑って、言ってやる。
「んなら、一緒に風呂でも入るか? 今度はお前が背中洗ってくれよ」
「んあっ」
ルイズは変な悲鳴をあげて、ますます離れた。
――うん。寝ぼけてやらかしたことも、ちゃんと覚えていたらしい。
たぶんアレは魔法の使いすぎで一時的にハイになっていたんだろう。夢うつつだったにしても、楽しそうだったからいいじゃないかと思うんだけどな。
だが、正気に返った後にそれを認めるのは、山より高いプライドが邪魔をするようだ。強がるばかりで甘え方を知らない、ほんと、難儀なお子様だ。
そして、そんなこいつが、おれは大好きだ。
「……なあ、」
「なによ!?」
散々からかい倒した後、もう一度『おしおき』をくらう前に、おれは言った。
「お前の家族、探してみないか?」
***
ルイズは一瞬言葉に詰まった後――鼻で笑った。
「あんたって、ホント、わかりやすいわねぇ」
「……悪かったなー、単純で」
頭を掻く。
おれだって――生き別れの親子に感動の再会を、なんて単純に考えるほど、想像力がないわけじゃない。
けれど、そういう事情ならなおさら、『仲直り』した方がいいと思うのだ。
ここは確かにおれの常識がてんで通用しないファンタジーな異世界だけど、暮らしているのはやっぱり同じ人間だ。泣きもすれば笑いもする。傷を負えば血も流すし、バカをやれば痛い目を見る。好きなひとが傷つけばカナシイし、大切なひとが笑っていればそれだけで力が湧く。
子供は親に嫌われたくないと思うし、子供が傷つけば、親は必死になって治そうとする。
『大貴族』というやつがどれほど金を持っているのかは知らないけれど、ルイズの親は、高価な、とんでもなく高価なあの薬を、それこそ『湯水のように』使って娘を助けようとしたという。
なら、きっと――ルイズを手放したことにも何か理由があったんじゃないかと思うのだ。
そして、突然いなくなったバカな子供に、届かないメールを送り続けずにはいられなかったおれの両親のように――こいつの親も、行き場のない想いを抱え続けているんじゃないか、と思うのだ。
もちろん――まったく同じ理屈で――現実はずっと厳しいのかもしれない。世界の裏側では、『あまちゃん』のおれなんかには想像もつかない、むごいことが起きているのかもしれない。そして、こいつの親も結局ただのバカで、体面とか誇りとかのために今のこいつを否定するのかもしれない。
(そんなら、そのときは、おれがそいつらをぶった斬ってやる、)
――常識? 身分? 知ったことじゃない。なんせおれは異世界人だ。そんな常識がまかり通るのがこの世界なら、おれだっておれの世界の常識に従って、真正面から喧嘩を売ってやる。
おれはデルフを握りしめて、顔も知らない誰かに宣戦布告する。ルーンが輝く。活力みたいなものが、からっぽの体の中に満ちていく。
けれど――そんなおれの先走った覚悟なんて、それこそ知ったことじゃないルイズは、あっさり首を振った。
「別にいいわよ。もう、顔も覚えてないもの」
「なら、なおさらだろ。おれがいるうちに、一度会っておけよ」
「いいってば。だって――わたしにはせんせいがいるもの」
そう言って朗らかに、何のこだわりもなく、笑う。それが『どっち』なのか、おれにはわからない。わかりたくないだけかもしれない。だって、
「そうだ。そんなことより、」
「――あ?」
「せんせいをね、あんたの世界に行かせてあげようと思うの」
大切な秘密を囁くように、とっておきの宝物を見せるように、彼女は言った。
「時間はかかっちゃうけど。あんたを送ったら、もう一度精神力を溜めて。そうしたら、今度はせんせいをあんたの世界に送ってあげようと思うの――だから、そのときはちゃんと、せんせいの面倒を見てやってね、」
「……お前はどうするんだ?」
「わたしはこっちでドアを開けないといけないから、お留守番ね。大丈夫、その間は知り合いのとこにでもいるから。もう一度ドアが開けるようになるまで、せんせいにはゆっくり異世界を見てきてもらえるし、」
「ね、素敵でしょう? せんせい、きっと子供みたいに大はしゃぎするわね」
そう言って、笑う。花のように。まだ赤みの残る頬で、それを幸いだと言う。
おれは、眉を寄せて。もう一度思う。
(じゃあ、お前は? お前はおれにしてほしいこと、ないのか?)
唇を噛む。ガキのように拗ねたくなって、自分を戒める。
何もできないのがツライ?
――バカを言うな。おれはもう子供じゃねぇ。
叱咤しながら、もう一度、思い出す。散々考えてたどり着いた、単純な結論を繰り返す。
おれは、おれの世界に帰る。帰らなくちゃいけない。
けど、その前に――せめてひとつくらい、おれはこいつに『なにか』を与えてやりたい。
この世界でこいつと先生からもらったたくさんのものの、ひとつくらいはかえしたい。
(たとえ、こいつがわざわざ『異世界』から『人間(おれ)』を喚んだのが、全部『せんせい』のためだったとしても)
それがおれの――異世界ライフの最後の目標だ。
***
***
目が合う。幻の中でも今のわたしはちゃんと面布をつけているから、そんなはずはないのに。サイトの目がわたしの目を見る。
どうすればいいのかわからない、身動きひとつ取れない、間の悪い沈黙の後――サイトが、うわ、と叫びながら顔を伏せた。その寸前、その顔は一瞬で赤く染まっていた。
両腕を使って頭を庇うように、うつむくサイト。
「見んな!」
「……み、見てないわよ」
「うそつけ!」
「うそじゃないわよ!見えないってば!」
お互いに反射的に言い返す。これじゃあ、まるきり子供だ。サイトがぐずっと鼻を鳴らす。わたしは、頭が痛い。
なんでこんなことになっちゃったのかしら――思わず愚痴りながら、ため息をひとつ。
「ごめん」
うるせー、と彼は顔を伏せたまま悪態をつく。わたしはもう腹を立てる元気もなくて、とりあえず近づき、その前に膝をついた。ごしごし、と顔をこすりあげる腕を掴む。
「ほら、やめて」
びくり、と黒い髪の頭が震える。まるで叱られた子供みたいに、のろのろと顔を上げる。
初めて向き合う黒褐の瞳には、顔を隠した女が映る。
その目元は、無理にこすったせいで、真っ赤に腫れていた。
ハァ、とわたしはもう一度、深いため息をついた。その間抜け顔と、何より、自分の愚かさに、呆れながら。
手をのばす。
「触ンな、」
はいはい、といなしながら、その黒髪を撫でる。いいのよ、と言い聞かす。
すると再び、透明な涙がぼろぼろとこぼれた。大粒の雫は光を反射して、きらきらと輝きながら、汚れた木目の上に落ちて、色を変えていく。
きれいね、とわたしは思う。とてもきれい――いつもサイトが見せてくれた景色のようだ。心が弾むような、胸が詰まるような、全てがきらきらと輝いているような、美しいもの。
それは、わたしの心の中のいちばん柔らかいところに納まる。たくさんの後悔とともに。
「ねえ、いいのよ」
わたしは何度も何度も泣く子に言い聞かせた。
――泣いていいのよ。あんたは泣いていいんだからね。
***
かえしてやりたい、と思った。家族のもとへ。あるべき場所へ。
それがあなたの幸いだと思ったから。
***
――Cry Baby Cry