第32話 「片鱗が招く災悪の序章」
【図書館島・螺旋階段・中腹】
「ヨーム殿?」
楓に手を引かれて半ば無理矢理連れて来られたヨームだったが、滝の裏側にあった階段を登っている最中にこれ以上は梃子でも動かないと足を突っ張って楓に抗った。
最後尾にいた楓とヨームが止まったことに気付いて、他のメンバーも足を止める。
「どうしたの?」
先頭を走っていた明日菜が何事かと駆け寄って問いかける。
「いや、ヨーム殿が……」
楓が事情を説明しようと明日菜を振り返っている間もヨームはなんとか楓に掴まれている腕を引き剥がそうとしているが、がっちりと掴まれていてそう簡単には外れなかった。
「ヨームちゃん、どうかしたの? あのでっかいのがまだ追いかけてくるかもしれないし、今は早くここから出ないと……(カプ!)って、ヨームちゃん!?」
階段を登ろうとしないどころか必死に地下に戻ろうとしているヨームをなんとか説得しようとする明日菜だったが、ヨームの突飛な行動に驚愕させられてしまった。
ヨームは自分の手首を掴んでいる楓の手に噛み付いたのだ。ヨームの小さな八重歯が楓の手に浅く食い込む。痛みで楓の表情が歪むが、それでもヨームの手を放すことはない。
噛み付くヨームを払いのけることもなく、逆に体を寄せて抱きしめるように密着させるとヨームの耳に顔を近づけた。
「ヨーム殿。フェンリルを心配しているのは分かるでござるが、拙者としてもヴァーリとヨーム殿を任された身。フェンリルの覚悟を無にするわけにはいかないでござる」
ヨーム以外の3-Aメンバーで唯一フェンリルが図書館島に来ていること、そして自分達を逃がすための時間稼ぎをするために“一人”地下に残ったことを知っている楓は他の生徒達に聞こえないように小声でヨームに呟いた。
「………………」
楓の言葉を聞き、ヨームの顎の力が少しだけ弛む。食い込んだ歯がズレて、楓の手に血が一筋流れた。
「ヨーム殿とフェンリルが如何なる関係なのか、拙者にはよく解らぬでござるが……今は安全な場所まで逃げることだけ考えるでござるよ。フェンリルならきっと大丈夫でござる」
楓は痛みがまだあるにも関わらず、穏やかに微笑んでヨームの不安を和らげようとする。本当は自分自身もフェンリルのことが気になって仕方がなかったが、それを表に出すことはない。
ヨームは完全に納得した様子ではなかったが、楓の手から口を離すと掴まれてない方の腕で傷つけてしまった楓の手をそっと撫でた。
『ごめんなさい』
「いいんでござるよ。さぁ、先はまだ長い。急ぐでござる」
ヨームは声を出したわけでもなければ、手話をしたわけでもない。しかし、ヨームの意図はしっかりと楓に伝わっていた。
「フェンリルの代わりではないでござるが、ヴァーリを預かってもらえるでござるか?」
楓は片方の手に抱えていたヴァーリをヨームに抱かせる。ヨームはヴァーリを受け取り、胸に強く抱きしめると自身の不安を打ち消すようにヴァーリに顔を押しつけた。
ヴァーリは楓の手から離れてヨームに預けられたことが不満だったのか、始め抵抗していた。しかし不安に彩られたヨームの瞳に魅入られてしまい、仕方無く押しつけられるヨームの顔を舐めるのだった。
楓に噛みつくという異常な行動を示したヨームに一同はどうしていいか分からず、固まってしまっていた。だが楓が特に気にした様子もなく動き出したので、ほっと胸を撫で下ろし、続いて上り始めた。
「あれ?」
ヨームが自分の意志で階段を登り始めたので、全員の上るペースが一気に加速したのだが、数段上がったところで今度は明日菜が疑問の言葉と共に足を止めてしまった。
「どうしたん? アスナ」
止まってしまった明日菜にこのかが首を傾げて問いかける。
「ネギは?」
「へ?」
明日菜の言葉を聞いて、皆が辺りを見回して今いる人数を確認する。
「……いないです」
「いないでござるな」
「いないアル」
「おらへんなぁ」
「いないよぉ」
夕映、楓、古、このか、まき絵の順に現状を確認、もしくは現実逃避するようにネギの不在を口にする。
「嘘!? まさか置いてきちゃった!?」
「滝の裏までは一緒にいたはずアルよ?」
「じゃあ一体どこに!?……うわ!!??」
誰もネギの所在を知らないことを聞かされ、全員が思っていながら口にしなかった疑問を明日菜が代表して言葉にした。
だが、次の瞬間、轟音が螺旋階段内に響きわたり、明日菜の疑問の声を打ち消してしまった。
轟音がした方向、地下へと全員の視線が向く。
「やばい! みんな早く上へ!!」
そこにいたのは大剣を持ったゴーレム。響く渡った轟音は階段への入り口を破壊して作り出したものだった。巨大な体を壁に擦りつけながら階段を登ってくるゴーレムの姿に明日菜は焦りの声を上げながら皆を急かす。
「とっとと登れ、小僧!」
「は、はい!!」
「「ん?」」
不意に聞こえてきた聞き覚えのある声に明日菜と楓は足を止めてもう一度下を覗き込んだ。
「フェンリル!」「ネギ!?」
ゴーレムの巨体故に最初は気付くことができなかったが二人の視線の先にはそれぞれフェンリルとネギがいた。ネギとフェンリルはゴーレムに追われるようにして螺旋階段を登り始めている。
「なんであのでっかいのは私達を追ってくるのよ!? あいつなんであんなとこにいんの!? あれ? 今喋ったのってフェンリル!? なんでフェンリルがあそこにいんの!? あ~も~訳分かんない!!」
魔法の本を守る巨像が魔法の本を持っていない自分達を追ってくる理由が分からなかったし、消えたネギが何故ゴーレムに引っ付いているのかも分からない。犬が喋るのもできれば聞き間違いだと思いたいのだが、魔法の存在を知ってしまってからはそれをすることもできない。明日菜は頭を掻き毟り、理解不能な事態が連発していることに混乱が極致に達していた。
(時間稼ぎはまぁまぁ成功でござるな)
混乱している横で楓は冷静に事態の推移を眺めていた。
ゴーレムは所々に亀裂が入っており、動きが明らかに鈍くなっていた。一番大きな変化は壁に擦り付けている側の右腕が完全になくなっていることだ。片手を失い、しかも残っている手には大剣を握っている。只でさえ足場の悪い階段で、バランスを取ることができなくなったゴーレムはさらに動く速度が鈍くなっていた。
楓達はすでに螺旋階段の中腹まで来ており、動きの鈍ったゴーレムからならばなんの問題も無く逃げ切ることができる。
「ヨーム殿、そっちは下りでござる」
他のメンバーが地上を目指して上へと必死に上る中、ヨームは再び地下を目指して階段を下ろうとしていた。楓はヨームの襟首を掴んで、ヨームの行動を阻止する。
後ろへ引かれて体勢を崩したヨームだったが、楓に支えられてなんとか持ち堪える。そして楓に振り向き恨めしげな目で見つめた。一度は納得してみせたヨームだったが、フェンリルの姿を見て居ても立っても居られなくなってしまっていた。
「ヨーム殿が今、しなければいけないことはなんでござる?」
上目遣いで睨むヨームの視線を避けることなく真っ直ぐ受け止めた楓はいつもの笑みを崩すことなくヨームに問いかけた。
ヨームは決まりきったことを聞くなと、フェンリルに視線を送って自分の意志を楓に伝えようとした。しかし、楓の言葉を反芻させて胸に抱くヴァーリの重さと温もりを感じ動きを止める。
「心とは人が生きるための原動力。心に忠実に生きることは大切でござる。しかし時には今自分がすべきことをしっかり見つめ直すことも肝要でござるよ」
ヨームが今、すべきことはフェンリルの下へと行き、フェンリルの努力を無にすることでも、さらなる労力を割かせることでもない。いち早くこの地下から脱して自身の安全を確保することだ。
自身だけならば衝動に任せて地下へと戻ったであろうヨームだったが、楓に預けられたヴァーリの存在が彼女の足を踏み止まらせる。
ヨームはほんの短い時間だけ俯き、何かに耐えるように下唇を噛みしめる。そして地下から自分の視線を引き剥がすために勢いよく顔を上げると、強い意志の籠もった瞳で楓を見つめた。
「考えは纏まったでござるか?」
楓の問いにヨームは小さくではあるが、はっきりとした意志を示して頷くと地上を目指して階段を登り始めた。
(……"力”がほしい…せめて兄様の傍にいられるだけの"力”が……)
ヨームは転生して初めて「力」を渇望した。「力」を失い、使えなくなったことを喜んでいたヨームだったが、守りたいもの、愛するものが危険に晒せれていても逃げることしかできない現状はあまりに辛く、元の肉体に思いを馳せさせるものだった。
「似てない兄妹でござるな」
上へと登るヨームの後ろ姿を見送りながら、楓はポツリと呟いた。
思考が深みにはまってなかなか行動に移せないフェンリルと考えるよりもまず行動のヨーム。兄弟は得てして似ないことが多いものだが、フェンリルとヨームはその典型と言ってもいいものだった。
姿形も思考も行動もまるで違うフェンリルとヨームではあるが、楓には不思議と二人が兄妹であることに違和感がなかった。
「あ~もう!!」
「アスナ殿?」
楓は視線を上へと登るヨームから、何故か立腹しながら下へと向かおうとする明日菜に移した。明日菜はネギを助けるために楓が止める間もなくズンズン地下へと戻ってしまっていた。
「待つでござるよ、アスナ殿」
楓はヨームにしたのと同じように明日菜の襟首を後ろから掴んで捕まえた。ただ、ヨームよりも前に出る勢いが強かったので首が絞まってしまい、明日菜は軽く咽てしまった。
「ケホ、だってネギが……」
「大丈夫でござる」
「なんでそんなにはっきり」
自信たっぷりにネギの安全を保障する楓に首を傾げて明日菜は問いかけた。
「あの石像の狙いはきっとこれでござる」
「これって、ヨームちゃんが持ってきた目玉モドキ?」
楓はフェンリルから預かったミーミルを明日菜の前に掲げて見せる。
「じゃあ、あの時あのでっかいのが楓ちゃんにばっかり向かって行ってたのは……」
「拙者がこれを持っていたから、だと思うでござるよ」
【図書館島・螺旋階段・最下層】
フェンリルはネギと共に迫りくるゴーレムを背にしながら階段を登っていた。
一見、頑健そうなゴーレムではあるが、学園長との戦闘で無傷というわけにはいかなかったらしく、所々に亀裂が走っている。
破損が原因かは分からないが、それでも明らかに動きは鈍っていた。これならば魔法の使えないネギや魔力補給をしていないフェンリルでも十分に逃げきれる。
足を負傷さえしていなければ………。
時間稼ぎのためのゴーレムとの戦闘はそれなりの成果を上げていた。ゴーレムは全身に破損個所が広がり、片手を吹き飛ばすことにも成功した。しかしその代償も大きなものになってしまった。
(……折れてるな)
戦闘の最中、ネギは足手まといとまではいかなくとも、特に何ができるわけでもなく、強いて言うなら囮ぐらいのものだ。ネギにその自覚はないだろうが、天然の囮になったネギをゴーレムが追い、ネギに引き付けられた所をフェンリルがちまちまと攻撃していくという作戦をとっていた。
ゴーレムの破損が示す通り、作戦は順調に進んでいったのだが、魔力が使えず並の子供になっているネギにいつまでも続けられるものではなかった。焦りと疲労で足がもつれ転倒してしまった。
フェンリルは転倒してゴーレの拳に潰されかけたネギを庇って足を負傷してしまったのだった。
一歩踏み出すごとに右前足に激痛が走る。不幸中の幸いだったのは負傷したのが、前足だったことだ。動き難いのに変わりはない。しかし、負傷したのが後ろ足だったならば今以上に歩行が困難になっていただろう。
「大丈夫ですか? 僕が抱えて走ったほうがよくないですか?」
フェンリルが普通の犬とは違うことに気づき、ネギは驚いていたが、ゴーレムに追われていてはゆっくりフェンリルに正体を考えることもできなかった。
ゴーレムの動きが鈍って少し余裕が出てきた今でもフェンリルが一体何者なのかネギには分からなかったが、ゴーレムから助けてもらったという事実だけは理解できていた。
足を引きずるようにして進むフェンリルを心配してネギが声を掛ける。
「……………」
しかしフェンリルはネギの問いには応えず、無言のまま階段を登り続けるのだった。
「あの……失礼します」
ネギは苦痛に歪むフェンリルの表情を見て堪えることができず遠慮がちにではあるが、無視を決めこんでいるフェンリルを無理矢理抱え上げた。
「……降ろせ」
特に驚きや戸惑いを示すわけでもなくフェンリルはドスの効いた声でネギを脅した。
「で、でも…この方が絶対速いですよ」
後ろに迫るゴーレムを気にしつつ足を止めずにネギはフェンリルの脅しに食い下がった。
「お前一人で上がればもっと速いだろうが」
「それなら僕を助けなければ、きっとあなたはもっと速かったんじゃないですか?」
確かにネギを庇わなければフェンリルが負傷することはなかった。
だがフェンリルが助けたはずのネギを無視するほどに機嫌が悪くなっているのは足が痛むからではない。機嫌が悪いのは何故ネギを助けてしまったのか自分自身ですら分からなかったからだ。
(なんで、俺はこいつを助けたんだ?)
別にフェンリルはネギのことを嫌っているわけではないが、自分の身を犠牲にしてまで助けるような義理も無い。だが、何故か助けてしまった。
体が勝手に動いたなどということではなく、はっきりと自分の意思で助けてしまったのだ。助けようと思ったことは確かなのに、何故助けようと思ったのかが解らない。
理由の解らない人助けがフェンリルをイラだたせた。
「とにかく今はこのまま上へ向かいます。嫌かもしれませんが我慢してください」
フェンリルからしてみれば無理に逃れようとして無駄な力を使いたくなかっただけなのだが、ネギは抵抗することもなく腕の中に納まっているフェンリルが抱え挙げることを了承したのだと受け取った。
ネギはなけなしの体力を振り絞り、階段を登って行くのだった。
「フェンリル!」 「ネギ!」
遥か上から二人を呼ぶ声がそれぞれ聞こえてくる。フェンリルとネギが顔を上げるとそこには楓と明日菜が二人を見下ろしていた。明日菜は大きく手を振って早く上がって来るようにと促し、楓はその手に持ったミーミルをゴーレムに見えるように掲げてみせた。
楓の持つミーミルを確認するとゴーレムは鈍いながらも登る速度が微妙に上がった。
「アスナ殿、これを持って少しだけ向こうへ歩いてもらえるでござるか?」
「こう?」
楓はゴーレムの目的を確かめるために明日菜にミーミルを持たせる。明日菜はミーミルを受け取ると螺旋階段を半周ほど上に登った。
明日菜の動きに合わせて、ゴーレムの視線も動いていく。
「ふむ、やはりあれが石像を引き寄せているようでござるな」
楓は自分の予想が当たったことと、ゴーレムが自分自身を狙っているわけではないことを確信すると明日菜からミーミルを受け取る。
「楓! そいつをぶっ壊せ!!」
「壊す?」
「ああ、やっぱり犬が喋ってる……」
フェンリルも楓と同じようにゴーレムがミーミルを狙って動いているのだと分かり楓に向かって声を上げる。だが、楓は「フェンリルはこれを探しに図書館島に来たのでは?」とミーミルを壊すことに首を傾げてしまう。
明日菜はというと疑問符を浮かべている楓の横でフェンリルが喋っていたのが、自分の幻聴でなかったことに頭を抱えていた。
「……承知」
理由が分からず躊躇う楓ではあったが、ミーミルを欲しがっていたフェンリル自身がミーミルの破壊を望むなら断る理由も無い。それに壊してゴーレムが追ってくるのを止めるのであれば万々歳だ。楓はミーミルを階段の上に置くと懐からクナイを一本取り出す。そしてクナイを両手で逆手に持ち大きく振り上げ、突き刺すようにしてミーミルに振り下ろした。
勢い良く振り下ろされたクナイは寸分たがわず球体の中心当たる。そして軽快な破砕音と共に粉々に砕け散った……
楓のクナイが。
「ッ!?」
クナイは柄の部分だけを残してバラバラになってしまった。砕けたクナイの破片が楓の頬を浅く切り裂き、血が流れた。
「クックックッ、人間風情が我が依代を砕けるとでも思ったか。愚か者め」
「「「ッ!?」」」
ミーミルの不気味笑い声と嘲りがゴーレムの足音に混ざって響き渡る。
一度ミーミルが喋るところは見ていたはずなのだが、これまでガラス珠に姿を変えて、一言も声を発していなかったミーミルが突如として喋り出したことにフェンリル以外の三人の表情が驚愕に変わった。
「知識求めし、愚かなる探求者達よ。私はここだぞ。私が欲しくないのか?! さぁ! さぁ!! さぁ!!!」
驚き動きを止める三人を他所にミーミルは声を張り上げる。一体誰に向かって言っているのかと今度は全員が首を傾げる。だが、ミーミルの声に反応して明らかに動きが変化した「人物」が一人だけいた。
それはフェンリルとネギを追っているゴーレム。亀裂の入った体が徐々に崩れていくのも構わずに体を壁に擦り付け登るスピードを上げてきていた。
「そうだ、肉体無き探求者よ。愚者の足掻きを見せてみろ!」
再び掛けられた声にゴーレムはさらに速度を増して階段を登り続ける。その姿はまさに亡者の如き、執拗で不気味な動きであり、強い執念を感じるものだった。
体を引き摺るようにして迫るゴーレムの姿にネギ、明日菜は戦慄し、楓ですら表情を歪ませて嫌悪を顕にしていた。だが、それは迫りくるゴーレムに対してのものではない。
ゴーレムを誘導している、いや、強要しているミーミルに対してだ。当たり前のことながらゴーレムに表情は無く、ゴーレムが苦しんでいるのかどうかはわからない。しかし自身の意思でミーミルを求めているようにはとても見えなかった。
「調子に乗るなよ。『首だけ賢者』」
ゴーレムが追いつくよりも先にフェンリルとネギが楓と明日菜の下に辿り着く。フェンリルは折れた前足を庇いながらネギの腕から飛び降りると床に転がるミーミルに近づいた。
楓は迫るゴーレムから距離を取るためにフェンリルを抱え上げようとしたが、次の瞬間、楓達とゴーレムの間の螺旋階段の所々に壁が迫り出し、ゴーレムの行く手を阻んだ。破壊できないほどの強固な壁とはいかないが時間稼ぎ程度には役立ちそうではあった。
「ネギ坊主とアスナ殿は先に上へ向かうでござる」
「え? でも楓さんは?」
「拙者もすぐに追いつくでござる」
楓を置いて先に逃げることに明日菜は戸惑いを見せたが、楓に強く促され渋々ながらこの場から離れて行った。
楓は二人を見送った後、フェンリルに視線を移す。
「怒っているな、『渇望』。あの醜いゴーレムに哀れみでも感じたか? 魔力を失った上に心の牙すら抜かれるとは、哀れなのはゴーレムよりも貴様のほうかもしれんな」
ミーミルはこれまでの狂ったような声色から一転して落ち着いた調子で言葉を発する。その言葉に嘲る様子は無く、本当にフェンリルを哀れんでいるかのようだった。
「何を企んでいる?」
豹変したミーミルの様子をいぶかしむように問いかけるフェンリル。
「企むとは心外な。私は貴様に協力してやろうとしているのだぞ」
「ゴーレムを差し向けるのが貴様の協力か?」
「クックックッ、貴様に使命を完遂させてやろうと言っているのだ」
「……一体何を」
フェンリルはミーミルの言っていることの意味がまるで分からず言葉を詰まらせてしまう。
「私を壊せ、『渇望』」
「……………」
「あのゴーレムの核になっているのは我が泉に肉体を捧げた哀れな人間の成れの果て。私を破壊すれば目的を失い、追ってくることはないだろう」
理解不能なミーミルの言葉の数々に今度こそ黙り込んでしまうフェンリル。確かにフェンリルはミーミルに対して破壊することを宣言したが、それを了承するどころか推奨してくるなど理解の外だ。そのくせゴーレムを差し向けているのだから、行動が支離滅裂なのにも程がある。
フェンリルはミーミルの不可解な行動の裏に罠があることを確信していたが、何があるのかまでは考えが至らなかった。
「ッ!? フェンリル!!」
「ああ、わかってる」
ゴーレムの行く手を阻んでいた壁のうち半分以上が破壊されて徐々に距離が詰まり始めていた。楓は動きが止まり、黙り込んでしまったフェンリルを早く脱出させようと手を伸ばす。しかし、フェンリルは楓を視線で制すると再びミーミルに向き直ってしまった。
「さぁ、どうするのだ? 『渇望』」
ミーミルの問いかけも壁を破壊しつつ近づくゴーレムの音もフェンリルの耳には聞こえていなかった。いくら頭を悩ませたところで疑念は肥大するばかり、消えることなどありはしない。思い出されるのは嘗て神々の罠に落ちた自分の無様な姿ばかりだ。
(選択の余地など無い……か)
疑念が消えることは無い。だが、このままミーミルを放置することもできない。
フェンリルは床に転がるミーミルを口に銜えて奥歯に挟む。
「そうだ、それでいい」
どこか満足げなミーミルに応えることなく、顎に力を入れていく。楓のクナイでは傷一つ付かなかったミーミルであったが、フェンリルが牙に力を込めると容易に亀裂が入ってしまった。フェンリルはミーミルを銜えたまま一度大きく息を吐く。そして今度は吐き出した息を肺の中へと吸い戻す。
肺が最大まで膨張した所で、一気に「力」を解放した。
クナイが砕けた時以上の軽い音を立ててミーミルはフェンリルの口の中で粉々に砕け散った。砕けたミーミルは破片になるだけではなく、砂のように細かくなり、そして空間に溶け込むようにして消えてなくなった。
「クックックッ、これで貴様は再び忌み子の烙印を押されたわけだ。己が運命を呪うがいい。クックックッ……」
ガラスの破片が消えるのと同時に聞こえたミーミルの最後の言葉もまた空間に溶け込むように消えていく。ミーミルの不気味な笑い声の余韻だけが陰々と木霊していた。
頭の中にある神器のリストからも「ミーミル」の名前が消え去り、最初の使命の終了を示す。
(やっぱり罠……まぁ、どうでもいいか)
「終わったでござるか?」
「ああ、終わった」
やはりミーミルにはなんらかの思惑があったようだが、初めから予想していたことなので特に驚きも感慨も無い。楓の問いに応えながら振り向くと楓はフェンリルの方を向いておらず、背を向けたままフェンリルを守るようにしてゴーレムの前に立ち塞がっていた。
ただしゴーレムと戦っているわけではなく、対峙しているだけだ。ゴーレムはと言えば、最後の壁を破壊したところでピタリと動きを止めていた。モノアイに光は無く先ほどまで感じていた禍々しさも無くなっていた。一応はミーミルの言った通りになっている。
これからフェンリルにとって不利な何かがかなりの高確率で起きるだろうが、それでも一定の成果が得られたことにフェンリルは満足していた。最大の成果はヨームと再会を果たせたことだ。だが、それ以外にもミーミル回収において得られたものがあった。
(傷が治っているな)
折れたはずの前足がいつの間にか治ってしまっていた。正確に言えば、治っている最中だ。痛みが退いて行くのがはっきりと認識できた。
さらにもう一つの収穫、それは体を廻る魔力だ。血を飲んでいないにも関わらず、魔力を使用することができている。持ちえる魔力の総量から比べれば微々たるものではあるが、それでも魔力の回復は歓迎すべきものだった。
(これが“飴”ということか)
神器回収に伴う焦燥感、そして回収後に訪れる魔力の回復。神器の回収をさせるために「世界」が飴と鞭を使い分けているということだ。踊らされているような感覚に苛立ちを覚える。
「楓、ちょっと屈んでくれ」
「ん? こうでござるか」
フェンリルはゴーレムが動かなくなったことを確認してから、楓に声を掛けた。楓はそれに応じて、階段に膝をつく。それでも二人の間には身長差があるが階段を利用してフェンリルは目線の高さを楓と同じ位置にした。そしてクナイで斬れてしまった楓の頬の傷にそっと舌を這わせ、流れた血を舐め取った。
「ッ!!」
「悪かったな……俺のせいで顔に傷がついちまった」
「これぐらい傷のうちに入らないでござるよ」
不意に頬を舐められたことで目を見開いて驚きを見せた楓だったが、すぐにいつもの表情に戻り、気にするなとパタパタと手を振る。
だが、それでもフェンリル自身が納得することができず頬の傷から目を放せずにいた。
「女を傷つけるのはいい男の甲斐性でござるよ」
「………どこのジゴロだ、それは」
なんの慰めにもならない楓の慰めの言葉に苦笑を洩らすしかないフェンリルだった。
【イマの部屋】
部屋の主の手には一冊の本が握られていた。
本の表紙に書かれている題名は
『フローズヴィトニル・フウェズルングソン・ムスペル』
「さて、それでは読ませていただきますか」
部屋の主はお気に入りの椅子に腰掛け、徐に本を開くのだった。
あとがき
やっとのことで図書館島編が終了です。
もっとキャラ同士のじゃれあいを書きたいけれど、どうしても設定を先行させてしまってなかなか書くことができませんでした。
次回は出来れば久しぶりに高音を出したいと思っております。