ここは現世に生きるものから「地獄」「冥界」「あの世」などと呼ばれる場所。死せる者が集う国。決して「天国」ではない場所。
そしてこの国で唯一の命ある者にして最高の権力者である女が自身の執務室で机に積み上げられた大量の文書に目を通していた。
積み上げられた紙を一枚また一枚と手に取り、時には判と押し、時にはため息をつきながら紙をクシャクシャに丸めてゴミ箱へと放り込む。
部屋の様相は一見すると極普通のものだ。ここが地獄であるといわれたとしても部屋を見ただけで納得できる者はまずいないだろう。
普通の机、普通の椅子、普通の本棚。妙な部分といえば部屋の隅に置かれた花瓶には花が生けられておらず、壁にかけられた額に絵が納められておらず白紙が飾られていることぐらいだ。
この国の主にしてこの部屋の主である女はただ淡々と報告書を読み続けていた。
女は整った顔立ちと腰まで伸びた艶やかな黒髪を持ち、『絶世の』とは言わないまでも美人であるといえば100人中99人が首を立てに降る程度には美しかった。
しかし、その容貌もただ一点のみ美しいとは言いがたい部分があった。それは彼女の肌。
異常なまでに青白く、眼を閉じて横になっていれば死体に間違われることは確実なほど彼女の肌には生気がなかった。とはいってもこれが彼女にとっての普通なのである。別に低血圧なわけでも不健康なわけでもない。
生まれもったものなのである。半死半生の体を持つことで命ある者であるにも関わらず死者の国に常駐することが可能なのだ。
彼女は今日上機嫌だった。そして不機嫌だった。なぜなら今日は最高で最悪な日なのだから。
トントン
部屋に一つしかない扉が叩かれ静寂を破り来客を告げる。
「ヘル様。・・・フェンリル様とヨルムンガンド様をお連れしました」
部屋の主の名前はヘル。国の主の名前はヘル。国の名前はヘル。
「入って」
ヘルは聞きなれた従者の声に応えつつ、手にしていた紙を机の上に投げ置き扉へと目線を向ける。
「失礼します」
ゆっくりと扉が開かれるとそこにはヘルの従者の一人が立っていた。たった一人。
従者が恭しくヘルに一礼し、横にずれる。
そこには二つの拳ほどの大きさの球体が空中にフワフワと浮いていた。球体の一つは黒。もう一つは蒼。それぞれ鈍い光を放っていた。
二つの球体が滑るように部屋の中に入り、ヘルの座る机の前で停止する。
「・・・俺たちに何の用だ?ヘル」
「・・・・・・・・・・・・」
黒い球体が声に合わせて明滅する。蒼い球体も黒い球体に同調するように明滅する。
ヘルは球体から発せられる抑揚のない言葉に嘆息しながら背もたれに体を預ける。
「フェンリル兄様とヨーム兄様にいくつか聞きたいことがあるの」
ヘルは黒い球体と蒼い球体を順番に見つめて問いかけた。
「なんだ?」
黒い球体、フェンリルが応える。
「・・・ここでの暮らしは快適?」
ヘルは一度机に目線を落とすとすぐに顔を上げ問いかける。
「・・・快適もなにも、俺たちはすでに肉体を失っている。状況の善し悪しを感じることはできない。それにその質問はこちらがしたいものだがな。この国で唯一感覚のある肉体を持つお前こそ今の環境に不満はないのか?」
死者の集いし国「ヘル」。この国、この土地の環境は生ける者にとってはあまりに厳しい。一年中、極寒の寒さが続き、荒廃し毒された大地ではまともな植物は育たない。家畜も同様だ。この国に生きるものは寒さと空腹に耐えねばならない・・・・普通は。
「私に不満があるように見える?」
ヘルは肩をすくめてみせる。
「・・・・・・見えない」
ヘルの格好はどちらかといえば薄着で寒さに耐えているようには見えない、体も細身ではあるが飢餓に陥っているとは言いがたい張りがある。
「ラグナロクから数千年。住みやすい環境を作るくらいの技術が進歩するには十分すぎる時間よ」
「それもそうだな」
今度はフェンリルが肩をすくめた・・・様な気がする。魂だけの存在なので表情を読み取ることはできない。
「で、次の質問」
ヘルは再びフェンリルをじっと見つめた。蒼い球体、ヨムンガルドは聞く気がないかフワフワと部屋の中を飛び回っている。ヘルもフェンリルもいつものことと特に気にしない。
「現世、ミッドガルドに行きたくない?「行きたくない」」
フェンリルが間髪いれずに応える。
「・・・・・・即答ね」
「考えるまでもない、俺達がどんな扱いを受けてきたかお前が知らないわけないだろ」
「もちろん知ってる。でもさっきも言ったけど、ラグナロクから数千年。もう神々が現世を支配する時代はとっくの昔に終わっているのよ?」
ラグナロク。太古の昔、神々と巨人族の間に起きた大戦。戦いは壮絶を極め、両軍共に壊滅的な打撃を受けた。フェンリルもヨルムンガンドもラグナロクで命を落とした。
人が住むミッドガルドは巨人が死に絶え、神々の干渉を受けなくなった。それによってミッドガルドは人が創る世界となった。
「だからこそだ。だからこそ俺やヨームのような存在が再び現世に現れてはいけないんだ。所詮、俺たちは神々と戦うための『兵器』。人が納める世の中において邪魔者以外のなにものでもない」
「なにそれ?・・・長い間、洞窟に鎖で繋がれてるうちに悟りでも啓いたの?それとも肉体を失って腑抜けた?少なくとも『兵器』が言うことじゃないわね」
ヘルはフェンリルを馬鹿にしたように鼻で笑うと机の引き出しを開け、中を探った。
『兵器』とは使用者が存在して初めて成立するものだ。自我を持ち、自己の判断で力を行使できるものは『兵器』ではなく『兵士』だ。
「フェンリル兄様、あなたは自分の意思で鎖を断ち切り、自分の意思で神々を食い殺し、戦ったのでしょう。・・・・・・それとも誰かに操られていたの?」
「・・・・・・」
「あなたの行いが罪だなどと断ずるつもりはない、でも自身を『兵器』なんて枠にはめて自己憐憫に浸るのはやめて頂戴。生まれで自身の存在価値を決めるのも。それでは私たちを貶めた奴らと何も変わらない。虫唾が走るわ」
ヘルは引き出しを探る手を止め、吐き捨てる。
「では、どうしろというんだ。ミッドガルドに舞い戻り巨躯を駆って再びラグナロクを起こせとでも言うのか?そもそもいくら冥界を支配するお前でも死者を復活させるのは不可能なはず」
フェンリルはヘルの要領を得ない質問に苛立っていた。ラグナロク以前ならば冥界における復活・転生の裁量はすべてヘルに委ねられていた。しかしラグナロクで各世界を繋いでいた世界樹の根が焼け落ち、現世と冥界の行き来が不可能になってしまった今、復活について語ること事態が無意味なのである。
ヘルは引き出しを探るのを再開すると、2枚の紙を取り出した。それをフェンリルの前に掲げるようにして見せる。
「これがなんだかわかる?」
フェンリルはヘルの手に握られたしおりほどの大きさの紙2枚を注視した。
「・・・・・・現世行きのチケット?」
「正解」
「なぜそんなものが?」
「もらったのよ」
「誰に?」
「バルドルとホズ」
「・・・・・・誰だって?」
「だからバルドルとホズ」
バルドルとホズ。ラグナロク以前に命を落とし、ラグナロク後唯一復活を許された神。バルドルは世界で最も愛されていた。敵味方かまわず息とし生きるもの、死せるものすらもバルドルを愛し、その復活を望んでいた。世界の意思が現世おけるバルドルの不在を認めることができなかった。そしてホズはそのバルドルの弟。
「あいつらまだ転生してなかったのか」
フェンリルは呆れていた。そして驚いていた。全てから愛され全てを愛していたバルドルならばラグナロクによって荒廃した世界を立て直すために尽力しているはずだと思っていたからである。フェンリル自身ですらバルドルの死後、敵であるはずのバルドルの死を悼み復活を望んでいたのだから。
「理由は兄様と一緒よ。せっかく多大な犠牲を出して神と巨人の干渉を受けない世界ができたのに、例え手助けのためだとしても自分が干渉することはしてはならないコトだってね」
「じゃあなんで俺達の復活なんて話になる?バルドル達ならともかく俺達の復活を望むものなど自殺志願者か世界崩壊を狙う悪の秘密結社くらいのものだぞ。そんなチケット破り捨てるか、世界に影響を与えそうもないやつにくれてやれ」
「それがそうもいかないのよ。このチケットは世界と私との契約の証。契約の破棄は力の喪失に繋がりかねない、下手したら死ぬかもね。神や巨人なら契約の裏をかくなりすればどうにでもなるんだけど、さすがに世界そのものが相手じゃ分が悪いわ」
「一度死んでみるのも悪くないぞ。快楽を得られるわけじゃないが苦痛を感じることもない」
「私は虚空よりも苦痛を選ぶわ」
「・・・・・・マゾか?」
「・・・・・・・・・・・・」
ヘルがチケットを持つ手とは反対の手の人差し指でフェンリルである黒い球体を指差す。一瞬指先が淡く光る。
ボッ
次の瞬間、フェンリルは光る球体から人魂となった。
「アチチチチチチチ!アッチー!!」
フェンリルは床の上を転がり回る。それこそ球体であるから縦横無尽にコロコロと。
ようやく火をもみ消すとフェンリルは再び浮き上がりヘルに猛然と迫った。
「なにしやがる?!」
「どう?久しぶりの苦痛は?気持ちよかった?」
「いいわけねーだろ!!」
「まぁつまり契約を破棄するとこういう力が使えなくなるのよ」
「使えないほうがいい!!・・・・・・ったく、もっと年長者を労われってんだ」
「あら、実質的には私のほうが年長者よ。人生経験豊富なお姉さんをもっと労わりなさい」
フェンリルが死んで肉体をなくしてから数千年。魂となったフェンリルは歳をとらないが肉体のあるヘルはしっかりと時を重ねていた。とは言っても彼女の見た目はラグナロク以降もまったく変化していないのだが。
「・・・・・・・・・・・・ババァ」
ボッ!!
「アッチ~~~~~~~!!!!!」
再びフェンリルが火の玉になって転げまわる。火の勢いも転げまわる速度も5割増しで。
転げまわること数十秒。ようやく火は消えたがさっきのように詰め寄る元気はもはやないようでプスプスと軽く煙を出しながら床の上で停止する。
そんな二人のやり取りの間もヨルムンガンドは我関せずと部屋の中を飛び回っている。浮遊するだけに飽きたのか今はものすごい勢いで部屋にある照明の周りをグルグルと回っている。
「フッ・・・・・・やっぱり、現世にいくのは嫌?」
ヘルは二人を一瞥し小さく息を吐くともう一度二人に尋ねた。聞いているのはフェンリルだけだしヘルもヨルムンガンドに返事を期待したわけではないが。
「・・・・・・・・・・・・行く」
床を転がる焦げたテニスボールがポツリと呟く。ヨルムンガンドも同意するようにヘルの頭上をグルグルと回った。
「あら、どういった風の吹き回しかしら?」
「わかってて言ってんだろ?お前が死ぬかもしれないんだろ、なら選択の余地なんかあるか」
「兄妹想いの兄を持ってとっても幸せ♪」
「心にもないこと言うな。気持ち悪い・・・・・・だが、これだけは教えろ。なんで俺たちなんだ?」
「理由は二つ。一つはこのチケットがバルドルとホズのための専用のものだからチケットに使用者を誤認させるために二人と同等な霊格を持つものでなければならないから。今、冥界でバルドル達に匹敵する霊格を持つのは兄様達だけなのよ」
ヘルは人差し指を立てながら説明する。
「・・・・・・なんだ、結局騙すんじゃないか」
「人聞きの悪いこと言わないでよ、騙すんじゃなくて誤魔化すだけ」
「なにが違う?」
「詭弁と屁理屈ぐらい差があるわ。大違い」
「で、なにが違「二つ目の理由だけど」・・・・・・もういいや」
ヘルは指を二本立てながらフェンリルの質問を遮る。
「バルドルからの依頼よ。チケットの譲渡の条件としてチケットを兄様達に使うことを提示してきたの。まぁこっちとしては初めからそれしかなかったから条件とは言えなかったけど」
「バルドルがねぇ・・・新手の嫌がらせか?」
「罪滅ぼしのつもりなんじゃない?彼は最後まで、いえ今でも神々の行いを悔いているのだから。だからこそ復活を拒んだ」
「こっちにしたらいい迷惑だ。罪滅ぼしだ?笑わせる。哀れな獣に恵んでやったといってくれたほうがよっぽど神らしくて清清しい」
フェンリルは心底憎憎しげに吐き捨てる。
「どうとるかは兄様の好きにすればいいわ。どうせ結果はかわらないし、バルドルも恩を売ろうなんて思ってはいないわよ・・・たぶん」
「・・・・・・俺達は現世でなにをすればいいんだ?」
フェンリルは妙にバルドルの肩を持つヘルを怪訝に思いながらも現世における自身の役割について聞いた。
「端的にいえばバルドル達の代行ね」
ヘルはチケットを机の上に置くとまた引き出しをあけて中を探り出した。
「代行?世界平和に貢献しろってか?無茶いうな」
フェンリルにできるのは壊すことだけ。平穏を崩すことはできても創り出すことなど不可能だとフェンリルは考えていた。
「だれもそんなこと言ってないわよ。はいこれ」
シュ
ヘルが机の中から取り出した一枚の紙をフェンリルに投げる。紙はフェンリルにあたるとフェンリルの中に溶け込むように入っていった。
「これは?」
フェンリルの頭の中に文字の羅列が浮かび上がる。
「神の遺物。ラグナロク以前に神々が現世に残してきた神器のリストよ。兄様達の仕事はそれらの神器の回収もしくは破壊」
「それも神の干渉からの開放の一環か?いまさら過ぎるだろ。何千年も現世にあっても問題なかったのだし、必要あるのか?」
「まったくもってその通りね。神器が現世における重要なシステムの一部になっている可能性もあるから回収すれば混乱を招きかねない。だからこの仕事は建前」
ヘルはフェンリルの言葉に納得し鷹揚に頷く。
「じゃあ本当の目的は?」
フェンリルは押し付けられた仕事の面倒さに辟易していたが、それが本来の目的ではないことに安堵した。神器の回収となればバルドルなら本来の持ち主といっても過言ではないのだから『回収』が可能だろう。しかしフェンリルが『回収』を行おうとすれば方法は強奪するしかない。神器を持った相手との戦闘となれば苦労するのは眼に見えているし、下手をしたら前回と同じように殺される。生きることに執着はなくともそれが死んでもいいとはフェンリルは思わなかった。ただ、回収に苦労するよりは早めに死んだほうがましかもしれないと頭の片隅では考えてはいたが。
「特にないわね。チケットを使う段階で私の目的はほぼ完了。強いて言うなら兄様達の社会勉強かしら?」
「社会勉強・・・それなりに長い年月生きてきたつもりなんだかな」
少し憤慨しながらフェリルが言い募る。
「なに言ってるのよ。人生長さじゃなくて密度なの。引きこもりのくせに」
「別に好きで引きこもってたわけじゃ・・・・・・」
フェンリルは生きていた時間の大半を洞窟で監禁されていたし、ヨルムンガンドは海の底で暮らしていた。他人とのコミュニケーションなど、ラグナロクでの殺し合いぐらいしかないのだから平穏な社会に適応しているとは言いがたい。
「・・・・・・ヨーム兄様に世界を見せてあげたいのよ」
ヘルはまた話しに飽きて部屋の中を浮遊しているヨルムンガンドを慈しむように一瞥しながら言った。
生前、フェンリルは束縛するものと束縛されるものという関係ではあったが少なくとも他人と会話し他人の存在を知ることができた。しかし、ヨルムンガンドは完全な孤独の中で育ってしまった。生きることに会話を必要としなかったヨルムンガンドは言葉を得ることができなかった。そして他者と接することのなかった精神は幼いまま、成長することができなかった。
「海のことならあいつの方が詳しいだろうが・・・・・・まぁ理由はわかった・・・・・・かな」
フェンリルはヘルのいつもの冷淡ともいえる雰囲気との違いに戸惑いながら言った。しかしヘルの言ったことはフェンリル自身の望みでもあるし否定するようなことはない。
「じゃあ現世行きに関しては了承ということでいいわね?」
「問題ない」
ヘルの確認に今度は戸惑いも迷いもなくフェンリルは応えた。
「ヨーム兄様も大丈夫?」
「・・・・・・・・・・・・ッ!!」
ヨルムンガンドは了承を示すためにフェンリルの周りをグルグルと回った。
「それじゃ時間もないからとっとやっちゃいましょうか」
ヘルはチケットを持って立ち上がる。
「時間がない?」
「チケットに有効期限があるのよ」
「有効期限って・・・・・・あとどれぐらいなんだ?」
ヘルは部屋の横にある掛け時計を一瞥する。
「・・・・・・あと、35秒、34秒」
「ぎりぎり過ぎるだろ」
「だから急ぐのよっ、と」
ヘルは手に持っている2枚のチケットをフェンリルとヨルムンガンドに向かって投げた。
チケットは二人の中へと吸い込まれていく。
一瞬、二つの球体から強い光が発せられると徐々に光が弱まるように球体全体が消えだした。
「最後に一つ、聞いてもいいか?」
「・・・・・・なに?」
「死んだらまたここに戻ってこれるのか?」
「さぁ、それは私にもわからない。でも・・・・・・」
「でも?」
「もう戻ってきても世話してあげない」
「・・・・・・ひでぇな」
「だから死なないようにね」
ヘルの最後の言葉が聞き取れたのかどうかはわからないが、部屋の中にはもう二人の姿はなかった。
「・・・・・・生きてれば良い事なんていくらでもあるんだから」
ヘルは誰もいない虚空に向かって語りかけていた。