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No.6434の一覧
[0] とある竜のお話 改正版 FEオリ主転生 独自解釈 独自設定あり [マスク](2017/08/15 11:51)
[1] とある竜のお話 第一章 前編[マスク](2009/07/29 01:06)
[2] とある竜のお話 第一章 中篇[マスク](2009/03/12 23:30)
[3] とある竜のお話 第一章 後編[マスク](2009/03/12 23:36)
[4] とある竜のお話 第二章 前編[マスク](2009/03/27 07:51)
[5] とある竜のお話 第二章 中篇[マスク](2009/03/12 23:42)
[6] とある竜のお話 第二章 後編[マスク](2009/03/27 07:50)
[7] とある竜のお話 第三章 前編[マスク](2009/03/27 07:50)
[8] とある竜のお話 第三章 中編[マスク](2009/04/14 21:37)
[9] とある竜のお話 第三章 後編[マスク](2009/04/26 22:59)
[10] とある竜のお話 第四章 前編[マスク](2009/05/06 14:49)
[11] とある竜のお話 第四章 中篇[マスク](2009/05/16 23:15)
[12] とある竜のお話 第四章 後編[マスク](2009/05/26 23:39)
[13] とある竜のお話 第五章 前編[マスク](2009/07/05 01:37)
[14] とある竜のお話 第五章 中篇[マスク](2009/07/20 01:34)
[15] とある竜のお話 第五章 後編[マスク](2009/07/29 05:10)
[16] とある竜のお話 幕間 【門にて】[マスク](2009/09/09 19:01)
[17] とある竜のお話 幕間 【湖にて】[マスク](2009/10/13 23:02)
[18] とある竜のお話 第六章 1[マスク](2009/11/11 23:15)
[19] とある竜のお話 第六章 2[マスク](2009/12/30 20:57)
[20] とある竜のお話 第六章 3[マスク](2010/01/09 12:27)
[21] とある竜のお話 第七章 1[マスク](2010/03/18 18:34)
[22] とある竜のお話 第七章 2[マスク](2010/03/18 18:33)
[23] とある竜のお話 第七章 3[マスク](2010/03/27 10:40)
[24] とある竜のお話 第七章 4[マスク](2010/03/27 10:41)
[25] とある竜のお話 第八章 1[マスク](2010/05/05 00:13)
[26] とある竜のお話 第八章 2[マスク](2010/05/05 00:13)
[27] とある竜のお話 第八章 3 (第一部 完)[マスク](2010/05/21 00:29)
[28] とある竜のお話 第二部 一章 1 (実質9章)[マスク](2010/08/18 21:57)
[29] とある竜のお話 第二部 一章 2 (実質9章)[マスク](2010/08/21 19:09)
[30] とある竜のお話 第二部 一章 3 (実質9章)[マスク](2010/09/06 20:07)
[31] とある竜のお話 第二部 二章 1 (実質10章)[マスク](2010/10/04 21:11)
[32] とある竜のお話 第二部 二章 2 (実質10章)[マスク](2010/10/14 23:58)
[33] とある竜のお話 第二部 二章 3 (実質10章)[マスク](2010/11/06 23:30)
[34] とある竜のお話 第二部 三章 1 (実質11章)[マスク](2010/12/09 23:20)
[35] とある竜のお話 第二部 三章 2 (実質11章)[マスク](2010/12/18 21:12)
[36] とある竜のお話 第二部 三章 3 (実質11章)[マスク](2011/01/07 00:05)
[37] とある竜のお話 第二部 四章 1 (実質12章)[マスク](2011/02/13 23:09)
[38] とある竜のお話 第二部 四章 2 (実質12章)[マスク](2011/04/24 00:06)
[39] とある竜のお話 第二部 四章 3 (実質12章)[マスク](2011/06/21 22:51)
[40] とある竜のお話 第二部 五章 1 (実質13章)[マスク](2011/10/30 23:42)
[41] とある竜のお話 第二部 五章 2 (実質13章)[マスク](2011/12/12 21:53)
[42] とある竜のお話 第二部 五章 3 (実質13章)[マスク](2012/03/08 23:08)
[43] とある竜のお話 第二部 五章 4 (実質13章)[マスク](2012/09/03 23:54)
[44] とある竜のお話 第二部 五章 5 (実質13章)[マスク](2012/04/05 23:55)
[45] とある竜のお話 第二部 六章 1(実質14章)[マスク](2012/07/07 19:27)
[46] とある竜のお話 第二部 六章 2(実質14章)[マスク](2012/09/03 23:53)
[47] とある竜のお話 第二部 六章 3 (実質14章)[マスク](2012/11/02 23:23)
[48] とある竜のお話 第二部 六章 4 (実質14章)[マスク](2013/03/02 00:49)
[49] とある竜のお話 第二部 幕間 【草原の少女】[マスク](2013/05/27 01:06)
[50] とある竜のお話 第二部 幕 【とある少年のお話】[マスク](2013/05/27 01:51)
[51] とある竜のお話 異界 【IF 異伝その1】[マスク](2013/08/11 23:12)
[55] とある竜のお話 異界【IF 異伝その2】[マスク](2013/08/13 03:58)
[56] とある竜のお話 前日譚 一章 1 (実質15章)[マスク](2013/11/02 23:24)
[57] とある竜のお話 前日譚 一章 2 (実質15章)[マスク](2013/11/02 23:23)
[58] とある竜のお話 前日譚 一章 3 (実質15章)[マスク](2013/12/23 20:38)
[59] とある竜のお話 前日譚 二章 1 (実質16章)[マスク](2014/02/05 22:16)
[60] とある竜のお話 前日譚 二章 2 (実質16章)[マスク](2014/05/14 00:56)
[61] とある竜のお話 前日譚 二章 3 (実質16章)[マスク](2014/05/14 00:59)
[62] とある竜のお話 前日譚 三章 1 (実質17章)[マスク](2014/08/29 00:24)
[63] とある竜のお話 前日譚 三章 2 (実質17章)[マスク](2014/08/29 00:23)
[64] とある竜のお話 前日譚 三章 3 (実質17章)[マスク](2015/01/06 21:41)
[65] とある竜のお話 前日譚 三章 4 (実質17章)[マスク](2015/01/06 21:40)
[66] とある竜のお話 前日譚 三章 5 (実質17章)[マスク](2015/08/19 19:33)
[67] とある竜のお話 前日譚 三章 6 (実質17章)[マスク](2015/08/21 01:16)
[68] とある竜のお話 前日譚 三章 7 (実質17章)[マスク](2015/12/10 00:58)
[69] とある竜のお話 【幕間】 悠久の黄砂[マスク](2017/02/02 00:24)
[70] エレブ963[マスク](2017/02/11 22:07)
[71] エレブ963 その2[マスク](2017/03/10 21:08)
[72] エレブ963 その3[マスク](2017/08/15 11:50)
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[6434] とある竜のお話 前日譚 三章 2 (実質17章)
Name: マスク◆e89a293b ID:1ed00630 前を表示する / 次を表示する
Date: 2014/08/29 00:23

今回の話は、終盤に少しだけ残忍な表現が入ります。ご注意ください。







やはり時間が経てばこういう奴らは性懲りもなく沸いてくるものだ。
駆除しても駆除しても後から後からと際限なく現れる様はまるで害虫とうり二つ。
イデアは提示された資料を見てそう思わずにはいられなかった。




本当にうんざりだ。
外の治安がどうなのかはともかく、早くこういったゴミが駆逐された世界にまで文明の段階を上げてほしいと切実に思う。
100年や200年ならば問題なく待てる寿命が自分にはあるのだから。





一日の終わり。長としての仕事の最後は大体夕方に行われる。
日が傾いてきた頃に今日里で起こった事件やら出来事、食料の生産高などを含めた様々な情報をイデアは受け取ることになっており、イデアは何時も通りに素早く処理をこなしていた。
イデアが独立した生き物の如き速度で整理していた書類の中から、一つの文字を読み取ると、ふと動きを止めてより深く読み入ってしまう。




そこにソレらが居たのは知っていたが、こうして具体的な報告を受けたのは初めてだったから。
改めてこういう内容の事柄はしっかりと確認し、意識しておいたほうがいい。
知ったかぶり、中途半端というのは時に無知よりも恐ろしい結果を産み出してしまう。




つらつらとイデアの色違いの眼が、声には出さなくとも判るほど明確に茶色い紙に書かれている文字を読み上げていく。




【ミスル半島北部にて賊の気配あり。数はおおよそ50。中規模ではあるが、魔道士の気配はなく、危険度は高くない。
 だが油断は禁物。近いうちに自然災害に見せかけての排除を提案する】





あぁ、と思い、イデアは己の“眼”を微弱に発動させて自分の力で溢れかえるナバタの地の一角に視線を飛ばした。
この不毛の大地全体に飽和するほどに溢れかえり、支配し、秩序を形作っている自らの“力”を辿っていけば結果は直ぐに出る。
遠くに視界や聴覚を飛ばすことなど既に大したことではない、少なくともイデアにとっては簡単な事なのだ。




感覚で言えば、人間が自分の掌の上に乗っけた砂粒でも何でもいい、とにかく極小な何かを観察するようなもの。
余りに小さく、余りに薄色のエーギルを観察するのはイデアにとっても面倒くさいと思う作業であった。
ファ、メディアン、ヤアン、アトス、ネルガル等々、里の者達の膨大なエーギルを常日頃から見ていると、こういったちっぽけな“小物”を見るのは意識しなくてはいけない程に面倒くさい事極まりない。




わざわざ自分の皮膚の上を這う“ノミ”を見ようと思うモノはいないだろう。



まず感じたのは複数の人間のエーギル。
対した力もない、ただの人間の平均的な命の炎をイデアは“見た”上でその色の濁りにため息を吐きたくなる。
エーギルとは、魂とも評される根源的な力。とても抽象的な言い回しでしかないこの概念を“見る”ことが出来るイデアにとっては、それは一種の指標になっていた。





どれだけ口から吐いて並べた言葉よりもエーギルを見ればその者の本質というものがあっという間に見えてくる。
エリミーヌ教が広める7つの属性、あのそれぞれのマークにも当てはめて考えることが可能なソレは生物の魂の輝きというものか。
最も、7つの属性別けといっても、本当にこれは大まかなものでしかなく、何よりイデアが独自でそういう風に思っているだけで実際は更に複雑に枝分かれする。




例えば同じ炎の様な色彩と波長を持ったエーギルの持ち主であるヤアンとアンナでもその性格などはかなり違う。
アンナが情熱的に、激しく燃え盛る山火事の様な業火だとすれば、ヤアンは淡々と一定の熱と大きさを崩さない蝋燭の様な燃え方となる。
少なくともイデアはこの二人のエーギルをそういう風に見分け、そこからもたらされた情報からエーギルの見分けなどを行う時があった。




一人一人似ている様で全く違う波動は、どれほどの変装術の達人であろうと決して誤魔化す事は出来ない炎の灯でもある。
【エーギル】とは生命力そのもの。その在り方はその存在そのものと言っても過言ではない。それが濁っているのだ。まともな筈がない。
彼自身は気が付く筈もないが、それはかつてのナーガが“影”に対して下した評価と似通っている。




このミスルはイデアの力が及ぶ範囲であり、彼の身体の延長戦の一部であるが故にイデアは手に取る様に賊の行動理念や思考をある程度までは読み取ることが出来る。
その結果下された判決は、実につまらない、生かしておく価値もない塵だという事。性根の底まで腐っている心。どぶ川の底でも覗きこんだ不快感を隠さずにイデアは書類にサインをする。
更に紙の下部にある空いた空間に流れるような速度で「いずれ排除実施。近日検討」と書き足す。




いちいち部下を派遣するのも面倒だ。数日後にでも自分自身でさっさと掃除してしまおう。




ん、と残り僅かになった仕事の量を見て、イデアは背伸びをして気分を入れ替えた。
この後も彼の仕事は残っている。ファ達の授業の講師、自らの学習、更には里の諸事項に関する打ち合わせ等々。
無論、この中の何一つにも彼は手を抜いてはいない。力の抜き所は知っているが、そこではない。





次に手に取った内容の紙は賊よりも遥かに厄介な案件。イデアを今現在最も慎重に行動させている報告。
対処に困るという意味でもあり、それと同じくもしかすれば彼に、引いてはこの里に利益を齎す可能性も十二分にある。
だから対処に困る。はっきりと害悪だと判っていればイデアは容赦はしないが、今回はそう簡単にはいかないのだから。





どちらにせよ、今日の授業はこれから始まる。長としての仕事を終えて一休みを入れた後に今度は講義の先生とならなくてはならない。
分身を使って昼間に仕事と両立さえながら教えてもよかったのだが、その時間には自分は里の水回り関係、水道や井戸などの老朽化の確認や今後の補修の企画立てがあった。
万が一にも見落としなどは許されない重要な仕事だった故に集中力がわずかとはいえ分散する幻影を作るわけにはいかず、授業は陽が落ちてからとなったのだ。






水関係はネルガルやアトスにも当然教えてはいない。
ただ曖昧に仕事が忙しいと伝えただけであり、当然その手の技術関係の者らの口は親族を含めてとても硬い者たちでフレイは固めていた。
何度も何度も確認したことではある。里の基礎の部分は絶対極秘であり、特に水や食料関係はその中でも最大の秘密に分類される。





こういった分野に一線を引いていることは既に両者も気付いていることであり、今回の様に授業時間を変更する事やまたは延期することに文句を言われたことはない。
そして本来ならば今日の様なこういった分身に授業を任せられない様な大事の日は無難に講義を休校としてしまうのだが、イデアは気がかりなことが有った為に多少無理をしてでも続行することにしたのだ。
気がかり、喉の奥に突き刺さった妙な不安という棘を苦々しく思いながらも、それをただの気のせいだと流すには、イデアの地位と責任は大きすぎた。






不安は、恐怖に通じ、恐怖は過ちになる。ほんの僅かでも心に引っかかったモノはナニカ意味があるはず。
そしてその不安の“答え合わせ”の一部は、今手元にある。
じっとイデアは部下からの報告書を眺めて声も漏らさずに頭を回転させていた。





そこにはネルガルの監視結果が複数の筋からもたらされた情報として羅列されている。








彼の日常行動……問題はない。

彼の思想……問題はない。人竜にかかわらず友好的であり、誠実。

彼の能力および研究課題……長である自らの許可済み。

研究速度……きわめて鈍重。アトスと共同でやっている模様。





おおよそ全ての結果がネルガルは里の敵には今の所なりえないと告げていた。
そしてイデアもその結果には一切の疑問を挟む余地はなかった。
あの男の思想はとても柔軟で、人や竜といった部分には余り拘りを持たない所がある上に、とても親切で他者の為に自らの力を進んで使うことが出来る男と知っている。





第一の困った事に、今問題になりかけている───いや、ただの情報として見るだけならば彼のやっていることに全くの問題はないというのがある。
そうだとも、表向きにせよ、裏の意図にせよ、彼には全くの悪意も他意も害意もなく、しかも全ての行動は自分の許可の元にやっているのだから。




だから困る。不安に根拠がないのが。




ある程度の予想はあったとはいえ、彼がここまで、元は人の身で神竜であるこの身の神秘の一端に指を掛ける寸前までいくとは。
どうすればいいのか判りかねているのだ。下手に刺激をするのも徳とは言えず、だからといって好き勝手にやらせるわけにはいかない。
その上……彼らは素晴らしい術者であるが故に、魔道の恐ろしさを知り尽くしており、自らの心配は杞憂に終わる可能性がとても高い。




第二に、素晴らしいメリットもあるということだ。
今彼がやっている研究の内容は正直、自分にとってもかなりの利がある。
余りこういった取引は好きではないが、自分が“授業代”として研究成果の開示をそこはかとなく要求するように仄めかせば、彼はそれをこちらに提供するだろう。





それ以前に今は様子見の時期だが。
失敗するようであれば捨て置き、形になりそうなれば“支援”が必要となる。
自分は慈善業務であの二人に竜の知識を与えたわけではない。




自分は長であり、個人としてではなくこの里の統率者としての考えを持たなくてはいけない。







─────。






あぁ、と虚空に視線を彷徨わせてイデアはため息を吐く。
全く、人の心とは、どう転ぶか判らないから恐ろしい。
神竜の力を強引に使えば解決出来るかもしれないが、それでは紐が解けないと言って癇癪を起して剣で切り付けるのと同じだ。





強引な暴力による解決はいわば一時しのぎであり、そのせいでどんな歪が産まれるか判ったモノではない。
もっというならば、一度でもそういう解決法をとってしまえば必ず2度、3度と同じく続いていく。
その果てに待つのは全てを暴力で解決しようとする、傲慢な暴君、邪神、邪竜だ。




最悪を考えるのは当然の仕事だが、深みにはまると抜け出せなくなる。
そればかりを考えすぎて、囚われた結果、その未来を引き寄せてしまったら元も子もない。
この話題は極めて慎重な微調整を必要とするのは確かではある。






一通りの区切りを付けて、一休みした後に授業の準備に入る為にイデアが玉座を立ち上がろうとした瞬間、彼は慣れ親しんだ気配を感じて動くのをやめる。
大人の早歩きよりも少し遅い程度の気配が一つと、それに追従する小動物が歩行する程度のゆったりとした気配。
ちょこちょこと小さな足を必死に動かして歩いている様をありありと“見て”しまい、神竜は脱力して笑った。





あの二人は彼の癒しだ。
子を持った親がなぜ、精力的に働くことが出来るのか、イデアはこの数年、特にファが産まれてからよくわかった様な気がしていた。
だからこそ大事な所では緩まない様に気を付けなければいけないことも重々承知してはいるが。





子をもった親は強くもなるが、弱くもなる。
子供は弱点にもなりうるからこそ、逆に気を遣わなくてはいけない事も多い。




メディアンからイデアはそう教わっていた。
ソフィーヤという娘を持った彼女は数百年前に見せていた男性らしい所はかなり収まっているが
根本の客観的に冷えた部分は更に研ぎ澄まされ、娘も里も自分も全てを守るための力の研鑽を怠ってはいない。




恐らく今の彼女は自分が出会ったころの彼女よりも何周りも強くなっているだろう。
更に彼女は、言葉を濁して誤魔化していたが……色々と“変わって”いた所もある。
既にその資格はもっているが、至ろうとする意思がないだけ。




そうこうと考えている内に、ファは既に殿の地下の入り口を通り過ぎ、水の中に敷かれた道にまで差し掛かっている。
遠くからは足音こそしないものの、彼女が動くことによって生じる空気の波ともいえる揺らぎが伝わり、イデアは迎え入れるために玉座に座りなおす。
何処まで彼女が進んでいるかなど、欠伸が出る程簡単に把握することが出来るのだから。





やがてひょっこりと玉座の間の入り口、柱の影からファが顔を覗かせて、父であるイデアを見つける。すると彼女の顔は綻んだ。
翡翠色の両目から眩いまでの期待を放ちながらも、表面上は穏やかに、何時もの会話の様に玉座の父に声をかける。




「おとうさん、お仕事おわった?」




「もう終わった。今から休憩に入る所で……その後に勉強だ」




駆け足をやめて、余裕を込めた緩慢な歩幅でファがイデアに近づく。だがその内心は違う。
抑えきれない程に膨れ上がる興奮と喜びをファは努めて、ある程度は制御していた。
子供として抱いて当然、表現して当たり前の量の感情を表に出しながら、その量を彼女はどこか冷静に測っている。




内心で燃える“太陽”を朧といえど、ファは認識していた。
その上で彼女はこの数年で父であるイデアから教わった感情と、それより産まれる【エーギル】の操作という技術を磨く。
何時か、自分がお父さんの役に立つために。この世で現時点では唯一同じ存在のために。




当然イデアはソレを全て見抜いた上で嬉しく思いながらも、どう動こうかと思案する。
どうしようか、娘の日進月歩の成長を見るのは最高に楽しく、喜びを抱かされるが、余りはしゃぎ過ぎるのもどうかと彼の中では様々な念が討論を繰り返す。
玉座の間に迎えた娘をどうやって自室に返すなりなんなりして、とりあえずはこの場から離したいが、それはとても難しい。





何故ならば、ファとは今日一日全くと言っていいほどに会話をしておらず、それはイデアとの接触を求める彼女にとっては我慢ならない事だから。
当然、その反動は今から発散されるというわけだ。
そして、常に子供というのは親の想像を超えるモノであり、それはイデアとファの間でも例外ではない。





ファは、文字通り、その場から“飛んだ”
瞬時に背中に竜としてのひな鳥を思わせる羽毛の生え揃った翼を1対展開し、そこから得た浮力を全て前面に集中させた上で勢いよく床を蹴る。
矢の如き速度で突貫してくる娘にイデアは一瞬だけ面食らったが、すぐに冷静に対処。




イデアの対処……彼は娘を受け入れた。
黄金の光を滞空するファに絡みつかせて少しだけ勢いを落とすと、彼女の身体は次の瞬間、ぼふっと玉座に腰かけるイデアの両腕の中に納まった。
そのまま、動物がマーキングでもするようにうりうりと赤紫色の頭を胸に押し付ける娘の姿にイデアは軽いため息を吐く。





バッと勢いよく顔を上げ、翡翠色の瞳で父を見てファは言った。
あらゆる意味で平凡で、故にイデアが予想できなかったことを。





「きょうのご飯は何? ファはね、何でもいいよ!」





「…………………」






あちこちに視線をイデアは移動させた。正直な話、予想しているようで、この質問は想像していなかった。
てっきり、今日の夜に行われる授業の質問を受けると思ったのだ。
それにしても……イデアは料理と聞いて思った。



今、ファは玉座……つまり身もふたもない言い方をすれば背もたれの長い椅子に座っている自分の膝の上に載っている訳なのだが。
足から感じる彼女の重みが少しばかり、また増えたような気がする。当然、太ったわけではなく、比例するように背丈も僅かに伸びた。
成長をまた一つイデアは感じて、この娘が将来何処まで行けるのかと考えてしまう。



ファは更に言葉を続ける。子供特有の脈絡があるようでない、独特の話法を思う存分に発揮しつつ。




「おとうさん、今度ファにかんたんな“料理”のつくりかたを教えてちょうだい」





「別にそれは構わないが……」





いきなりの娘のおねだりにイデアの言葉はしりすぼみになってしまったのも無理はない。




キョトンとした顔の父親に娘である彼女は胸を張って答える。
むふふーと頬を膨らませるようにファは笑った。
ぎゅっと両手の前で小さな握りこぶしを作り、それを小さく揺すりながら彼女は自らの未来絵図を語っていく。





「あのね、おいしいものを食べると、すごく幸せな気持ちになれるでしょ?
 だから、おとうさんや、ソフィーヤお姉ちゃん、おばさん、みんなにファの作った料理で、いっぱい笑ってほしいの」





もちろんアトスおじいちゃんやネルガルおじさんも一緒だよと続けるファにイデアは降参したように両手を上げた。
次にくしゃくしゃと髪の毛を撫でてやると、ファは黄色い声を上げて喜色を顔に貼り付けながら首に両腕を回して抱き付く。
きゃあきゃあ言うファを目の前に、イデアは少しだけ胸のつっかえが取れたような気持ちになれた。



結局のところ、目指すのはそこだ。全員で食卓を囲めるような状況こそが最善。
そのためにもまだまだ自分は進歩しなくてはいけない。




そうだな。全く、お前には勝てないかもしれない。
内心、イデアはファに感謝を述べると、この浮き島の様な玉座の間の入り口付近の柱に目をやる。




今度はしっかりとそこに姿を隠している少女に向けてイデアは声を掛けた。
体は隠れていても、気配を隠すなどという技術を彼女はもっていない為に簡単に見破れた。






「出てきていいぞ……そんな所にいつまでいても意味ないだろ?」





物陰から息を呑む気配が漂うと、次に逡巡が放たれた。そして最後には諦めが。
ひょこっと顔の半分だけをソフィーヤは柱の影から出すと、じーっと微動だにせずファとイデアに視線を飛ばし続け、無言で何かを訴える。
それは羨望、というべきか、それとも自分に構ってくれずにイデアに甘え続けるファに対する少しばかりの嫉妬と不満か。




ファがここでソフィーヤに気が付く。竜の少女は名残惜しそうにイデアの膝の上から降りてソフィーヤに駆け寄った。
一件慌ただしく走っている様に見えたイデアは、余り駆けるなと注意を促そうと声を上げかけたが
深く注視して見るとファはソフィーヤを見つつも、足元にも視線を落として転んだりしないように周囲に気を配っているのが判ったために口を閉ざす。




あっという間にソフィーヤの前に移動したファは彼女の手を取って、見上げながら言う。





「ソフィーヤお姉ちゃん。ファね、こんどお父さんと一緒に“料理”をつくるの……あじみ、してくれる? さいしょはお父さんとお姉ちゃんにたべてもらいたいの」




柱の陰に隠れて今までのイデアとファの会話をある程度は聞いていたソフィーヤは驚きこそしなかったが、内心とても嬉しかったのか、頬を少しだけ赤く染め、プルプルと体を震えさせた。
自分の心からの友達と信頼する叔父とも言えるイデアの料理は彼女にとってもある種のご褒美であり、何より、彼女が最初に父であるイデアと、自分を選んでくれたというのが嬉しい。
だが、ただ作ってもらうというのはソフィーヤとしても嫌なことであるが故に、彼女はファの手を握りしめ、ファの眼を見てから、次いでイデアに視線を移す。





少女の清流の如き柔らかくもよく響く純粋な声が宣誓をあげた。




「……私も、今度、ファとイデア様に何か作ってお返しします……私の料理も……食べて欲しい、です」




少女の純粋な言葉にイデアは玉座から立ち上がり、ソフィーヤとファの前まで歩を進めていき、そして微笑んだ。





「楽しみだな」





また一つ約束と楽しみが出来た。頑張らなくては、とイデアは決意を新たにした。
そんな中、ソフィーヤはファにボソっと呟くように、リクエストを零す。




「……トウガラシ、辛みそ……そしてコショウをいっぱい、いっぱい、入れてください…………」





え? とファは固まる。
彼女も何度か今あがったモノは口にしたことがあり、それらはとてもじゃないが舌に合わないと思っていた。
まさかソフィーヤお姉ちゃんが、辛いモノ好きだったとは思わず、苦手な味付けである辛味をどうすればいいかと彼女はあわあわと悩み始めた。



料理の「り」の字も習っていないファの早すぎる心配にイデアは苦笑しつつ、既にファからとても美味しい好物を出されることを期待して
小躍りでもしそうな雰囲気を放つソフィーヤを見て、思わず零した。





「辛すぎる料理はダメだ。舌がおかしくなる」





その続きはイデアの胸の中で紡がれる。





俺は辛いのは嫌いではないものの、余り好きでもないんだ、と。




























木々も眠るという夜も極まった時間帯、イデアは何時も通りの白いローブにフードといった、とても夜の砂漠では通用するとは思えない軽装で殿の通路を歩いていた。
余り大勢の者が住んではいないこの付近はこの時間になれば気配というものが全くなくなり、完全な静寂に覆われる。
既に娘は深く眠りにつき、ソフィーヤも家に帰り、そしてイデアもある程度ヒマになる時間帯だが、今日のイデアは何時もの研究よりも優先すべきと考えた行動をとっている。




周囲に足音だけが空虚に木霊する音を耳朶で捉えながら、彼は一つの部屋へと向かっていた。アトスとネルガルの部屋に。
既に二人には許可は取っている。今日、彼は二人と、自分を含めた3人で少しばかり雑談をしようと思っていた。
思えば最初の対話と、授業、ファやソフィーヤ関連以外では余り喋ってはいなかったと思ったから。




その点メディアンは本当によくやってくれた。彼女が主催してくれた宴会によって最初のこういった事をする仲となるための取っ掛かりは出来たのだから。
ネルガルの報告書類などを見て、脅威が何だのと頭を回すよりも本人が居るのだから話をしてみた方が手っ取り早いと判断したためでもある。
一人考えを巡らすだけの空回り程空しいものはなく、そして対人関係でズレを産んでしまう事はないのだとイデアは知っている。




ぼんやりと窓から見える雲が少しだけ掛かった青い月を視界の端に収めつつ、イデアはさして時間を掛けることもなく二人の部屋の前に立っていた。
自分の城の部屋に入るのに気おくれなどするはずもなく、イデアは何時も通りの少しだけ力を抜いた調子で部屋の扉を軽くノックする。
直ぐに返事が二つ帰って来て、入室の許可を伝えてくると、竜は友人の部屋にでも入る様に躊躇いなく扉を開けた。





「こんばんわ。イデア殿。待っていたよ」




今現在知識面では完全に師ともいえるイデアに対して敬意を払うようにネルガルは座っていた椅子から起立して一礼し、微笑む。
それに続き、ネルガルと並ぶように立ち上がったアトスは何時もの様に、青い瞳に穏やかな光を灯してからかうように、少年の雰囲気を感じさせる笑みを浮かべた。



「こんな夜更けに、枯れた男だけの部屋しか用意できなくて済まないな。華やかな話等とは無縁のわしらだが、寛いでいってほしい」




はっはっはっは、とイデアは笑う。軽口に同じような雰囲気でイデアは返す。





「何を言っているんだ。やろうと思えば、お前たちならば引く手あまただろうに」




その言葉に気を良くしたのか、ネルガルは頭に手をやると、ぴっちりと後ろに流すように纏めている髪の毛を指で弄る。
更に顎に手をやってから、彼は少女がすればとても魅力的になるはずのウィンクをした。
ただしネルガルは女ではなく、男であり、その外見も十二分に大人である。



青年と壮年の間の外見……もっと切り込んで述べてしまえば“おじさん”とも言える男のお茶目な仕草を向けられて、イデアは顔の前で払うように手を動かしつつ笑った。



外見からは想像できない程にネルガルはこういう悪乗りに付き合ってくる。





「そうか? やっぱりか。まぁ、私もまだ捨てたものではないというものだ」



ふふふ、と色男然とした気配を模倣し、放出するネルガルにアトスは少しばかり暗い影を纏った顔で、水を彼の背に落とし込んだ。



「かつての弟子の一人が言っていたが“結婚とは始まりであり終わりでもある”……うむ、深い言葉だと今更ながらしみじみ思っているよ」




何も負の意味ではない。その弟子は最後の最後まで妻の傍にあり続け、愛していたことをアトスは噛みしめた。
魔道士としては己が勝っているが、間違いなく人間、男としての技量ならばその弟子が上だと彼は認めている。




三人はあらかじめ打ち合わせでもしたように丸いテーブルを囲むように座る。
何も乗ってない小さな丸い木製の物置にイデアはいつの間にか掌に出現させた盃を3つ置いた。
更には小さなタルを懐から何でもないように取り出すと、その中からよく冷えた果実酒を盃に注ぐ。




全ての流れをイデアは当然の様に行う。
まるで最初からあったように盃を産み出した上、どう見ても小さいとはいえ懐に抱え込むのは不可能な大きさのタルを取り出して注ぐ。
ただ土産として持ってきた果物の酒を差し出しただけだというのに、その行動だけでこの場の支配権を握る。



アトスとネルガルはイデアの言葉をただ待っていた。
イデアがそれに対し、視線でいいかな? と問うと了解の意を二人は同じく視線で返し、それからイデアは口を開いた。




「研究の事は俺も聞き及んでいるよ。進み具合はどうだ?」




遠回りな言い方などせず、彼は開口一番にまず彼らが最も心血を注いでいる話題を軽くもないが、重くもない口調で切り出す。
既に部屋に入ってからの軽口などで場の空気は変わっており、これ以上ぐだぐだ無駄な話題を持ち出せば、それこそ収まりがつかなくなるのだ。
そしてこの二人に対しては、どんな女や金儲けの話よりもこういった研究や学術の論議の方が盛り上がる。





「全てが手探りで、正に暗中模索といった所だが……本当に、基礎中の基礎の部分ではあるが、少しだけ前進はしている」





椅子に腰かけたネルガルは顔の前で指を組み合わせ、答える。
ため息の様に吐き出された吐息には、疲労と達成感、そして難儀な課題への挑戦意欲がごちゃ混ぜになっていた。



命の探究。人体実験ではあるが、削っているのは全て彼らの力だ。
生命の神秘的概念【エーギル】への拙い理解を元にその操作を人でありながらも疑似的に行おうとこの二人はしている。
【モルフ】の設計図を描き、人の疑似存在であるモルフの創造を試みているが、当然ながら最初から上手くいくはずなどない。





竜族の秘術である【モルフ】の作り方をイデアは全く教えていない上、ネルガルもその理由を察している。
だが、全て自分一人の身でその謎に挑むというのならば、そこに口を挟むことは里に何らかの問題が発生しない限りは彼には出来ない。
かつてイデアが狂人の落書きと笑い飛ばしたあの本をネルガルが数奇な運命の末に手に入れ、そこから自力で再現するとは。



500年、周りに回ってきた因果がここに来るとはさすがのイデアにも想像はできなかった。



全て自己責任でやっている以上、彼の研究を無理やり止めさせるということは非常に不満を抱かれる行為となってしまう。
削っているエーギルは彼ら自身のモノであり、その結果生じるリスクも彼らが全て背負う。
その上、イデアはあえてこの両者には具体的な事は何も言ってはいなかった。許可こそ出したが、支援するとは何も言ってはいない。





泳がせているというのが現状だ。




無論その理由は所詮人間にモルフ探究など不可能という見下しの目線ではなく、むしろその逆……ある程度の期待からだ。
自分の視点とは違う目線から、自分と同質の研究を行うというのはかなり目新しい発見に繋がる可能性が十二分に期待できうる。
恐怖し、犯せなかった領域の扉をもし開けてくれるならば待とうという卑怯とも評される思考もそこにはあった。





そして、イデアは……もしもこの二人が人型自律モルフの研究をある程度まで進めて実用化の目途が経った時に“支援”をするつもりであった。




横取り、剥奪、強奪、盗作などといった言葉が頭に浮かぶが、まぁ、仕方ない。
そもそも最初から自分も完全なる慈善目的で竜の知識をこの二人に出し惜しみするような形とはいえ、与えているわけではないのだから。
友好的関係を作り、その状態を維持したいとは思っているが、それはそれ、これはこれ、だ。




最も、支援を行った場合もこの二人には引き続き研究を続けさせる気ではあった。
だが触りとは言え竜の知識を与えた上、此方側が決定的に優位に立っている為の前提条件にさえこの二人が触れてきている以上、ただ好きに研究させるだけというのはありえない。
この二人を味方に引き入れるだけでは少しばかり天秤が釣り合わなくなっているのだから、それぐらいの見返りは欲しいというフレイとの相談の結果である。





不安はあるが、具体的な形にはなっていない以上、今はまだ静観し、もしもに備えておくしかない。





「そうだな、今日はこれまでの一応の成果をお主に見せたいと思っておる」




椅子から立ち上がったアトスが、部屋の隅に歩いていく。
同じくネルガルも立ち上がると、老賢者の隣に並び立ち、二人でイデアを見つめた。




一瞬、イデアはアトスの声に奇妙な感情を感じ取った。
これは……何だろうか、迷いのようでもあるし、何処か決意を固めた男の声にも思える。




「この存在はほんの触りでしかないが……“素体001”と名付けている」




ネルガルが淡々と論文を読み上げるように宣言すると、アトスと並び、両手を体の前に突き出して、指を大きく開いた。
放出されるのは魔力……を更に研ぎ澄まし、ろ過し、純度を上げた【エーギル】
黒みを帯びた翡翠色のネルガルのエーギルと、空の蒼いアトスのエーギルが伸ばしきった腕の先から噴出され絡みあい、歪んだ円形の光をつくりだし、床に張り付けた。




魔方陣周囲の床や“場”に音もなく黒翡翠色で書き足されていく無数の竜族文字、文字、文字。
ネルガルとアトスが知っているだけの基礎的な竜族の言霊だが、それでも不完全ながらにモルフ創作の陣を作り上げるには至っていた。





青と黒い翡翠があべこべに混ざった魔方陣の発光が部屋の中を隅々まで照らし、全ての影を駆逐する。




神竜がその奇跡を行使する際に発動する円形で黄金に輝く魔方陣にそれは似ている。
光魔法の象徴とされる太陽の紋章は完全な輝く円とそこから放射される太陽光を意味する8つの先端部分を円に接続した三角によって成り立っているが
ネルガルとアトスが描くこの円は少しばかり歪な楕円を描き、周りに文字の羅列と配置が無茶苦茶であり、足りない文字と単語の数も多い。




修正点を上げろとイデアが言われれば、彼は恐らくは100に近い修正の箇所を指摘することが出来るだろう。
イデアからみればまだまだ所か論外の魔方陣だが、同時に彼はこの光景を見て称賛を二人に送っていた。
素晴らしいと内心では純粋な絶賛を二人に注ぎ続ける。





よく、人から魔道士になった身でここまで来たものだと。
更に彼は500年前メディアンに駆逐された男の評価を少しだけ上げると同時に、あの時自分が彼を殺す指示をした判断が間違っていなかったと思った。
あの時は道端のゴミ程度にしか思ってはいなかったが、今こうしてあの男の遺物から復活した技術を見ると中々に将来的な脅威だったかもしれない。




あの男がエリミーヌ教団から排除されてこの僻地に流れ着いたのは幸運だった。
もしもこのまま不完全とはいえモルフ技術がエレブに拡散していたら未曾有の大戦争が発生していてもおかしくはないのだから。




魔方陣の外周をぐるっと囲むように浮かび上がる竜族文字がまるでミミズの様にのたうち回り、全てが円の線を越えて中央に寄り添うように集合する。
何重もの文字が重なり合い、もはや黒い“染み”として塗りつぶされてしまった魔方陣の中心に対して二人のエーギルから発する光が集い
朧な影を紡ぎあげ、それは平面から徐々に立体的な存在へと進化を遂げ、そこに誕生した。





この後の段取りはとても素早く行われる。
あっという間に光が固まる様に生み出された“物体”は先ほどまで魔方陣の中には存在しなかった質量をもった確かな存在として産み落とされた。
表面から内部にしみ込むように“物体”を覆っていたエーギルの光が消え、その“物体”は白い石灰岩の様な無機質な色を晒す。





だがしかし、やはりというべきかその形状は歪だ。
辛うじて人にとっての胴体と判る部分から繋がる四肢と頭があるが……その先の指どころか“掌”も“足”もない。
四肢を失い、その箇所を治癒した人間の如く、丸みを帯びた肉の塊が両手両足の箇所に4つあるだけ。




頭部らしき首から先の丸みを帯びた部位も、内部の頭蓋骨の構造が無茶苦茶なのか、丸みを帯びてこそはいるが、その実、凹凸だらけだ。
今はうつ伏せに近く、蹲って人間の顔に当たる箇所はこちらに見せてはいないが、やはりその場所もこの状態を見るに、余り見ない方がいい状態になっているのが想像できた。



いや…………呼吸もしていない。筋肉の動きもなく、血液やエーギルの流れを全く感じないこれは正真正銘の置物だ。
石灰色の肌は、もはや岩盤と言っても差しつかえない程の硬度をもっており、そこに生物の温かみは、ない。
これはただの肉塊。神の領域を犯そうとして失敗した滑稽な象だった。




だが無意味な失敗ではない。これは始まり。





「なるほど」




一言だけイデアは発した。研究結果を黙々と書き留める探究者の様に。
“眼”を使って幾らかの観察をし、分析していきながらもその様子は無表情の外には一切漏れない。



真理の探究やら魔術の研究、その他様々な高尚な理屈で武装していても結局のところやっているのは命を弄ぶ行為だとここにいる全員が知っているからこそ
研究成果を発表する二人にも、そしてソレを評価するイデアにも、笑みはない。ただ黙々と行うだけ。




「どうしても我らの力では人間で言う血や臓器などを作り出すのが上手くいかん。
 そもその話、我らは血が生きていく上で具体的にどのような役目を果たすのかさえ判ってはいないからの」




賢者は語る。判らないモノを作るのは無理だと。
そもそも人で言う血液や骨、臓物、そういった器官が何で作られ、どういう働きをし、相互関係はどうなのかさえも判らないのだから、模倣など出来るはずはないと。
これは本を写生しようとしているのに、原典の文字が読めないのと同じだ。




仮に二人が血液や血管について知りたいというのならば、この里には『血液循環説』等という専門的な本もある。




まずはそこからになる。ただ魔道の知識があれば作れるほど【モルフ】は、命はたやすい存在ではなかった。
アトスが“物体”の肩と思わしき場所に軽く手を置くと、そこから蜘蛛の糸の様な断裂が走り、ぼろぼろ崩れていく。
小さな灰の様な白い粉が、床にみるみる積もりだし、僅かな粉が撒きあがった。





両手両足、が崩れ、頭がボトッと落下すると同時に、あの“物体”は一瞬で灰の山に代わってしまう。





「どれだけ我々が頭を捻ろうと、結局のところ、子を産み、育てる母親の真似ごとにもならないということだな」




しゃがみ込み、灰の山に指を入れながらネルガルは言う。
言葉こそ哀愁を帯びているが、その裏には隠し切れない挑戦意欲がある。
まだまだ、ここで諦める気は彼には毛頭ないようだ。




それらを横目にイデアは既になぜこの【モルフ】がそもそも生命とさえ成れずに朽ちたのか、おおよその答えを出していた。
まず二人が人体の構造を知らないということ。知らないモノを作るのは不可能なのは当然の理。



そして……両者はあの男の残した通りの手順を完全には行ってはいないこと。
アレが作っていた“なりそこない”の材料は、生きた人間だった。
人から人とモルフの中間地点へ、そしてモルフへと段階を経て作品を作り上げようとしていた設計図通りにはやっていない。




さて、この灰をどう片付けるか。そうイデアが思った時に、その言葉は放たれた。





「わしは、この分野……モルフ関連の技術の探究は、これにて降りるとする」




余りにも突拍子もない言葉だったが故に、イデアは思わず固まってしまう。
そして同時にアトスの顔を見て納得する。彼の眼は確かな哀れみと、後悔の念が入り混じった深い色をしていたから。
今までで薄々感づいていたのだろうか、ネルガルはゆっくりと立ち上がるとアトスに向かいあった。




罵声も何もない。ネルガルは大賢者の眼を真正面から見て一言だけ発する。





「いいのか?」





灰色の山をアトスは見た。燃え尽きた薪の様な、もう何処に行きつくこともない完全に終わった存在の残骸を。
人は誰しもああなる。生き物ならば行きつく先は全て等しい。
ただ、それが遅いか早いかだけだ。自分は少しばかりそれを先延ばしにしているだけなのだ。





「あぁ……悩んでいたが、たった今、踏ん切りがついたのだ」



なぜ? とは聞かなかった。魔道士にとって、身の丈に合わない知識から手を引く勇気もまた尊重されるものだから。
だが心は別である。この研究に誘ってくれたネルガルへの裏切りとも取れる言葉に対してアトスは逃げずに説明をする。




「わしの身には、この“力”は重すぎる。命を作り、命を支配する神の域にも届く行為は…………神ならざるわしには到底扱えきれんよ」




口惜しさと達観、そして彼が大賢者と言われる所以でもある何処までも冷静な思考からはじき出された言葉は否応なくネルガルを納得させていく。
身の丈に合わない力は取り込まない。己が分を弁え、決して道を踏み外してはいけない。子供でも判る世の普遍的真理だが、難題でもある。





竜の叡智の一端、命の創生という奇跡。
魔道士ならば這いつくばり、頭を垂らしてでも欲するその力をアトスは、あえて己のモノにしないと決めた。
命とは流れるもの。男女が居て、子を産み、紡ぐもの。世界が、人がこの世に現れた時から始まった絶対不変の秩序を超える力は、恐ろしいと感じてしまったのだ。




最後にアトスはイデアに向き直り、深く頭を下げた。そして吐き出される言葉は真摯な念に満ちている。





「すまない。自分が虫のいいことを言っているのは判っているのだ。だが……それでも、わしはこのモルフに関する研究“だけ”は降ろさせてくれ」




だけ、という言葉の意味を理解しないイデアではなかった。
都合のいい話でしかない、モルフの研究はやらないが、他の勉学はこれからも続けさせてくれという図々しいとも取れる言葉。
大賢者の眼は、今までイデアが見ていた少年の様な覇気に満ちた活力はない。ただ、どのような結果が下されようと粛々と受け止める罪人の様だ。



イデアの視界の隅に積み重なる灰の山。かつて自分はアレよりももっとおぞましい存在を作ってしまった。
その出来損ないの余りの造形に嫌悪を覚えた。だが今は後悔している。中途半端な命を与えてしまい、その存在そのものを弄んだ、名前さえないあの存在に。




特にモルフ関連の研究をアトスが降りることに問題はない。
元より、ダメ元で始めた、いわば一種の実験だったのだから。
魔道士が知識を取り込まないという選択を取るのがどれほど難しいか、竜は深く知っているのもその言葉を紡ぐのに拍車を掛けた。





「判った。お前の判断を尊重しよう」





そして……とイデアはネルガルとアトスを同室ではなく、一人ずつ個室に分けることを提案した。
この両者の仲がいいのは間違いないが、さすがにネルガルが研究する様を、実験から降りたアトスが眺める光景というのは両者の心理的負担になるのは眼に見えている。




提案の意図を瞬時に読み取り、アトスは姿勢を正した上で、厳かな気配さえ漂わせる硬い口調で言葉を放つ。




「重ね重ね、感謝する」




竜の気遣いに再度一礼し、次にアトスはネルガルに向き直った。
アトスの厳粛な雰囲気に対してネルガルは、苦笑して答える。


彼は気さくにアトスに笑いかけると、談笑でもするような雰囲気を纏い、頭をかしげた。
まるで意味が分からないと言わんばかりに。





「どうして、謝るんだい? 魔道士にとっては全ては自己責任。自分がダメだと思ったら手を引くのは当然の事だろ?
 そもそも、こんな事で私と君の友情に問題が発生すると思ったらそれこそ大間違いで、そちらに対して私は怒るぞ」





一泊開けてからネルガルは笑みを消して、真剣に言う。その眼に宿っているのは真っ直ぐな信念。
彼という男を象徴するような、純粋な光だった。




理を超えて、人から外れた身だというのに、彼は何処までも人間味に溢れているという矛盾。
男の言葉に偽りは一切含まれてはいない。全てが心の底から思う、真実彼の本音。




「私は魔道士云々など関係なく、君の友だ。そして願わくば……」





見えない目線を自分に向けていることに気が付いた神竜は鷹揚に頷いた。
否定する要素など何処にもなかったからだ。
何を今更言っているのだか、と内心で肩を竦める。





そんなこといちいち言葉にせずとも、何年も顔を突き合わせていればそうもなるし、対象が人格的にも能力的にも好意を持てるのならば、尚更だ。





イデアは心の大部分を覆っていたネルガルへの警戒が薄れていくのを体感していた。
無になったわけではないが、限りなく下がっていく。
心の中で燃えていた不信や不安は消え去ったが、まだその根本では火種の様に熱がくすぶり続けている……。




やはり、自分は少し考え過ぎているのかもしれない。
警戒は大事だが、疑心悪鬼とは違う。
イデアはあえてその火種に対して向けていた眼を逸らしたが……それでも無視しきれない。



危険な研究をしていると、危険な人物であるは、必ずしも結びつくわけではない。
幾ら言い聞かせても、しかし、心の遥か奥に救った黒い種はこびりつき、影の様にその存在を決して失せさせはしなかった。





「どうしたんだい? イデア殿」




どうやら考え事が顔に出ていたらしく、憂いを帯びていたイデアにネルガルが声を掛けた。
やはりというべきか、お人よしな彼の顔には曇りのない自分への心配が溢れている。
本当に彼は世でも珍しい程の“善人”なのだろう。人を思いやることができ、そして無償で助けようと思える心をもっている。





「ありがとう、だけど何でもないさ。……所で、お前はこれからも研究を続けるということでいいんだな?」




「そういうことになるね。少し寂しいが……うまくいったら、私もイデア殿のような“芸術的”な存在を作ってみたいものだ」





くくく、とネルガルの言葉に反応したアトスが喉を鳴らして体を揺らし、絞り出すように声を発する。
彼の頭の中に映ったのは恐らく、あのリンゴもどきだろう。アレを芸術品と評するネルガルの美的感覚に思わず笑いが出てしまったのだ。
途切れ途切れに賢者は訴えた。頭の中で、リンゴだけではなく様々な果物に人の手足だけを生やした異形の群れに襲われながら。





「アレの同種が増えるなど、やめんか。正直、初めてアレを見たときは悪い夢でも見ているのかと思ったのだぞ」




最初に見た時に得た好奇心と驚愕。今ならば判る、あれの生物として存在出来ることのありえなさと無茶苦茶加減。
あの時に欲しいと思った知識をつい先ほど拒絶したという事実にアトスは思い至り、何処か晴れ晴れしい思いに至った。
モルフ技術を得ないという選択をした彼に一切の後悔はない。まだまだ竜の知識は無尽にあり、モルフはその一角でしかないのだ。




そして彼はこれからも所々で選択肢を迫られると予感していた。全てを学ぶのは不可能だ。
幾ら理を超えたといっても、その成り立ち、根源は人でしかない自分では、扱えない、扱ってはいけない禁忌がこれからも多々出てくるはず。
その時に自分は学ぶか、学ばないかの選択肢を突きつけられるはずだ。





ネルガルは、選択できるのだろうか? と、ふとアトスは思うのだった。
ありえないとは思うが、もしも全てを余すことなく手に入れたいと願うのならば……………いや、やめよう。



この男は賭け値なしに素晴らしい魔道士である故に、そこに対しての不安はない。
アトスは信じていた。この里に理想郷と名付け、良き友として掛け替えのない男であるネルガルを。




ぐっとイデアが背伸びをして、欠伸を吐いた。眠気からではなく、単なる原理不明の生理現象の様なものとして。
同時に話題を切り替える為の一種の暗喩的な行動でもある。
紅と蒼の眼に気だるげな光を灯し、手を団扇の様に顔の前でパタパタ動かす。




「さて、と。積もる話は明日にして、俺は部屋に戻るとするよ」




言葉を一旦止めると、イデアは“眼”を通して殿の一室でおどおどしているファを見た。
何の偶然か、夜中に目が覚めてしまった娘は寂しさに震えていた。
夜の闇に一人で放置するのは余りに酷であり、直ぐに戻って相手をしなくては。





おやすみと別れの挨拶を告げてくる二人に対してイデアは片手を上げて答えた。




























ある夜のこと、朧な夢うつつの中でネルガルは一つの光景を見ていた。
夢か真か、彼には判らなかったが、その景色は確固たる現実と変わらぬほどの鮮明さをもって彼を圧倒する。
場面は夜の砂漠だ。ミスルの何処か外れにも見える場所。近くに里は見えない程に、ここから離れた場所。




彼は後姿をみていた。白黒のようであり、妙に砂嵐が全体像を覆っているが、恐らくはイデアの背を。
月明かりに反射する金糸に、何時も彼が好んで着こむ純白のローブとは違うデザインの、質素な茶色いマントが見える。
表情は見えないが、今の竜が纏う雰囲気は、恐ろしい事に何時もと全く変わりがない。


 
……なぜ、今、自分は“恐ろしい”と思ったのだろうか? 全く判らないが、ネルガルは定まらない頭で呆然とその景色を見ていた。




イデアは砂塵の中、そんなものの影響など全く受けてないかのように歩き出す。
嵐には及ばないまでも、それでも人間……普通のイデアの外見と同じ程度の者ならば立っている事さえ難しい中を悠々と。




彼が目指すのは、小規模な井戸を内包した、木造の砦。だが……乗り込むつもりはない。
イデアが“眼”を使うと、何故かしらないが、ネルガル自身の視線も同じように飛ぶ。
いきなり意識を肉体から剥ぎ取られ、全く別の場面を見せられる事を体験しつつ、彼はこんな眼を持つ存在に勝てる訳がないと思う。




これでもまだ力の一端でしかない。あの時見た太陽の眼には遠く及んでいないのだから。
本人は動くことなく、遥か地平の彼方の出来事を見聞きするなど、冗談でしかない。



そして、そこに映った光景にネルガルは頭痛を覚えた。
同時に納得と理解を得た。イデアが何をしようとしているのかも。




砂漠という地形も相まって、ここらへんには住人は少ない。
ミスルの南端、カフチにまでいけばある程度は住人はいるのだが、北はそれこそエトルリアの南までいかなくてはならない。
つまり、あの砦に巣食うのが賊だとすれば、彼らはその下卑た欲求を満たすための“道具”を持っていたら、ある程度は「大切」に保管するということだ。





女性の亡骸がまず一つ。その隣にぐったりと動かない若い、まだ“身体だけ”は生きている女性も。
足の筋を切られて動けなくなった女性が。
既に虫の息で、牢獄に放り込まれ、水も与えられずに今にも死にそうな女性。




何があったかなど聞く必要はない。つまり、そういうことだからだ。
まだ体だけは動く女は、何かを抱きかかえていた。小さな肉の塊を2つ…………。



ぼろ布に囲まれて、動かないモノには手足が付いてる様に見える。
とても、大切そうに女性は2つの塊を抱きしめて離さない。
心が砕けても、残った最後の意地で、もう意味もなくなったソレを守っている。




そんな姿を見てもイデアは……少なくともその後姿からは、何ら動揺など感じ取れない。





────憎い、憎い、憎い、憎い、返せ、返せ、返せ。





だが、ネルガルは、ありえない程の憎悪をその光景に抱いていた。
先ほどまでの夢の様なあやふやさは全てが黒く染め上げられ、思考は負で満たされる。
噛みしめた歯からは血が滴り、握りこんだ拳は皮を貫き、震える。





憎悪、憤怒、それは大切なモノを奪われた者が抱く正当な感情。
イデアよ。お前はこの光景に何も感じないのか? ネルガルの怒りはイデアにも見当違いだと思いつつも向けてしまう。
あのような、おぞましい、決して許されない景色を見て、お前は何も……?




だが、とネルガルはその考えを次の瞬間に改めた。イデアが懐から取り出した2冊の書を見て。




一つは【エレシュキガル】
確かこの里にある4つの書の一つ。イデアが腰かける玉座の間の、壁に掛けられている書だ。
名前は知っているが、古代竜族の大魔法とまでしか判らない。




まだ術の発動さえしていないというのに、解放され、その力の行使を認められた魔書からはおぞましいまでの瘴気と殺意が漲っている。
絶対に逃さないという主たるイデアの心は、そこに現れ、破壊の時をただひたすら待っていた。




二つ目は、誰よりも知っている書だ。何せ、それは自分が愛用していた魔道書【バルベリト】なのだから。
イデアに初対面の時に預けたそれをイデアが使用したとしても何も問題は皆無。
そこに使いこなせるか、等という疑問は浮かぶはずなどない。




2つの書は、イデアの胸の前で滞空する。
その場に楽譜置きでもあるように、ぴったりと。




竜は小高い砂の丘の上に陣取った。この箇所は数キロ先の眼下にある砦を色違いの瞳で、興味の欠片もないように見る。





イデアが【バルベリト】に力を込めると、ネルガルは“共感”を覚えた。
何故かは判らない。ただ、自分の中の何処かがイデアの心を理解し、賛同し、そして憧れを覚える。
闇が加速的に膨らみ、ネルガルをかつてない規模で見たし、魅了させてしまう。




それは見たくも無いモノを覆い隠し、夜に抱かれた者に心地よい錯覚を与えてくれる闇……。
自分でも気が付かない心の穴に、泥の様に入り込み、これ以上ない程の安心を与えてくれる。
溺れてしまうほどの力の波動。憎悪さえも塗りつぶし、満たしてくれる力だ。




だが、とネルガルは意思を強く持ち直して流れ込む力の波動と愉悦に耐えた。
これは仮初でしかない。どんなに心地よかろうと、どれほど素晴らしかろうと、ただの力でしかないのだ。





次に【エレシュキガル】にイデアは力を注ぎ込む。
夜そのものを持ち込んだような色彩の炎の様な現象をを微かに放出し、その“場”を腐らせた。




遠くからただ幻視しているだけで判る桁違いの力。
冥府の奥底、地獄よりも深い始祖の深淵から零れ落ちる瘴気は、もしも触れれば対象の命を安々と腐滅させる神話の魔法。
数えるのも億劫な程の原初の力。始祖と神の闘争の際に行使された術の一つ。おぞましき腐滅の焔。





大地が腐る。空気が腐る。黒に触れた部分が、熔けて塵になる。何もかも、神羅万象全てが無価値の塵だと断ずる始祖の狂気。
何が起こる? この術と私の【バルベリト】で何を見せてくれる? 期待を滲ませた胸中を自覚し、男は結果を今か今かと待ちわびた。






唐突に全ての音と、【バルベリト】【エレシュキガル】が垂れ流しにしていた黒い闇魔道の気配、全てが消える。
ただ、イデアの腰から何か金属質な物が擦れるような音だけがした。





一泊の間の後、ソレは起こった。驚愕と、億千万の死を引き連れて。
地平の彼方。延々と続く夜の砂漠。無数の黒い砂山が連なる遥か奥からソレは現れた。




最初、それを見ていた男は自らの眼がおかしくなったのかと疑ってしまう。
幾らこれが鮮明だとはいえ、所詮は本当の夢で、こんな事が現実に起こり得るわけがないと。




宵闇よりも深い、ここは陸地だというのに巨大津波としか形容できない程に大規模なナニカが視界の端から端までを埋め尽くし、地平より迫りくる。
ソレの正体は空の雲に届く規模の巨大な炎の壁だ。【エレシュキガル】の焔の様な闇を【バルベリト】の魔風が増幅し、壁と化す。
現実の焔に風を吹き込めば勢いを増すように、闇と闇が相互に干渉しあい、増幅し、とてつもない規模の術となってしまっていた。




視界全土を埋め尽くすほどの粉塵を巻き上げ、巨大な砂と炎の黒壁が轟々と流れる。
既にそれは、術ではない、奇跡であり、この地を支配する神の秩序が絶対の法をもって害虫を駆除している。




想像だに出来ない大きさの力に、ネルガルは先ほどまでの決意を忘れる程に見惚れ、憧れを抱く。
人が神の奇跡を眼にし、なおかつそれを得ることが出来るかもしれないと言われている様なものなのだ。
握りしめた拳は緊張と感動と恐怖で震え、口は無意識の内に半開きになり、眼はこれから起こるであろう全てを見逃さない為に見開かれる。






黒い、壁が、迫る。ペガサスの何倍も速い速度で。弓矢よりも早く死を齎すために。
砦に到達する瞬間、黒壁はその姿を変える。超大な、黒い灯で構成された竜の頭部へと。




イデアが両腕を大きく広げ、空を抱きしめる様に開く。イデアはその小さな唇を、リンゴでも齧る様に開いた。
支配者の動きに呼応し、巨大な邪術竜の頭部が模倣するように、大顎を開口する。エレシュキガルとバルベリトで満たされた口内を晒す。
かつての人竜戦役でも十二分に通用する程の力を行使しつつ、その余波や影響は一切外に漏れることはない。




何故ならば、この地そのものが“そうあれ”と定めたから。真実ミスルは神竜の身体であり、不可能は少ない。
小島程度なら易々と噛み砕ける程の巨大なアギトを以て、竜の口は一切の慈悲もなく、砦に食いつき、全てを等しく平等に咀嚼。




轟音が響いた。砦は瞬時に消えてなくなり、後は竜の頭が深く地下に抉りこみ、砂の底に存在していた頑強な岩盤さえ濡れた紙でも破る様に貫通。
小島複数個にも及ぶ砂が消し飛び、ぽっかりと町でも入りそうな程の巨大な黒い穴が後には晒され、そこに今度は周囲から持ってこられた多量の砂が濁流として流れ込み、塞ぎ、後には何も残らない。






竜の姿をしていた暗黒の魔道術の焔は姿を変え、一度散り散りになってから上空へと収束していく。
完全な球状に姿を変えた“黒”は少しずつ宙に昇り、おぞましき存在を以て煌々と輝く月を食む。
月を覆い隠すように重なり、周囲に暗黒が訪れた。命を多数貪り燃える暗黒の月は、音もなく“黒い太陽”となって天に在った。




何て、美しいのだ…………。




今までに見たこともない眺めに、芸術家は言葉もない。陳腐に綺麗だと子供の様に思うだけ。




痛みも何もなく全てが闇へ溶けていく。
腐りおち、砕けおち、塵になり、そして身体という器を砕かれ、露出したエーギルさえも闇に全ての自他の境界を奪われ、取り込まれる。
術者であるイデアの判断により、賊と思われる者達のエーギルは全てが【エレシュキガル】の焔に直火で焼かれ、完全消滅を。




輪廻転生という概念などお前らには認めないという徹底したイデアの怒り。魂さえ消え失せることによる償いを。



そして被害者と思われる女性たちのエーギルは、全てが【闇】から吐き出され、空に霧散した。
月夜に小さな光の玉が飛び、そして消える。




サカの教えで言う所の親なる世界の一部へと循環し、戻ったのかもしれないし、そうでないかもしれない。





霧散したエーギルを見て、ネルガルは考える。魔道士としての彼は、ここから何かを導き出しかけて、あと一歩が進まない。
ナニカ、あと一つ、何かがあれば答えにたどり着けそうなのだ。
霧散したエーギル。それは宙に溶ける様に消えた。ならば、器があればいい。器とは何だ? モルフか? それとも。




もしも、もしもという仮定の話だが、あの空に消えたエーギルを…………。




意識が薄れる。思考が溶ける様に消え去り、視界全てが暗転する。
夢という異常な状況で閃めいた記憶を、感情を、願いを、どれほどの量を現実に持ち帰れるかは判らないが……ネルガルは確固たる一つの念だけは持ち帰る事が出来ると信じていた。






想いの名は【羨望】イデアが行使する神の奇跡に対する眼差し。
何もかもが暗転する直前に、ネルガルは小さなビスケットの様な欠片を、確かに見た。
バラバラに砕かれ、既にかつての意思も覇気も消し去られたソレに微かに、ほんの僅かだけしみついた残留思念を、ネルガルは読み取った。






最後の時に彼が心の底、脳髄の奥から感じ入ったのは“共感”
大切なナニカを亡くした痛み。亡くすというのは、痛い。





黒い太陽だけが、平等に燃えていた。




そして、すべてが闇へ。









あとがき




夏の暑さで少し倒れてしまいました。色々と危うかったです。
適度な水と塩分の補給、そして休息は大事ですね。





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