サカとベルンの境界線上にある命溢れる草原と厳格な山々が入り混じった複雑な地域。
竜族の住まう人間には過酷な大地、竜の人智を超えた恐ろしい技術力によって作られ支配された文明の端の端。
ベルン地方を竜の王国として見て、『殿』を首都兼ね王城とするならばここは辺境の辺境、僻地である。
しかし僻地といえど生物が居ない訳ではない。どの様な場所でも生物は高確率で存在するものだ。
極寒の凍土にも、灼熱の砂漠にもだ。
森の中。
勿論人の手など伸びてなく、道ともいえない道。俗に獣道と呼ばれるうっそうとした茂みの中を何かが全力で走っていた。
走る。走る。走る。
全身の毛穴から止めどなく汗が溢れ、口からは荒い息と共に濁った涎と泡を吐き出し、顔面を涙で濡らしながら走る。
「はぁ……はッ、はッ、はッ………畜生! 何なんだよ、アレは!!!」
一旦立ち止まり、息を整えながら自らの境遇を嘆き、汚い言葉を吐き散らす。
言葉を話せるという事は竜か人間だという事が判る。
少なくとも全ての第三者に聞こえるように話せる種族はこれぐらいしか居ないからだ。
精霊は素質のある者しか声を聞くことは出来ない。
男。何かから逃げる様に全力で走っていたのは人間の男だ。
竜族とは明らかに身に纏っている雰囲気が違うし、何よりも彼が竜であったならば、今の様な状況には陥らないからだ。
男はボロ布同然の衣服に身を包み、片手には血がベットリと付着した手斧を持っている。
この男は全うな市民や何処かの傭兵や騎士などではなく、はぐれ者――盗賊の類であった。
何度も何度も後ろと『空』を探るように恐怖の眼で見渡し、そしてもう一度走り出し、何とか隠れられる場所を探す。
その血走った眼に宿るのは生への何処までも強い執着。生きたいという思い。
が。その思いは直後に最悪の形で裏切られる事になる。運命の女神は男には味方しなかったのだ。
――ギ、ギギギギギギイ。
掠れ、潰れ、思わず鼓膜を捻りたくなる、何かの咆哮と思わしき声がこの僻地におぞましき反芻する。
「ひっ!?」
男が身を竦ませ、情けない声をあげる。
最悪だ。男は自分の不遇をどこまでも嘆いた。
ベルン地方には竜が住んでおり、人はあまり立ち寄らない。
つまり裏を返せば何処かの貴族の兵士などに襲われる心配などが少ないということだ。
だからこそ男達は今まで国家に討伐されず、好き勝手に人々を恐怖に陥れることが出来た。
奪いたい時に奪い。殺したい時に殺し。犯したい時に犯せた。
竜族に眼をつけられない様に地を這う虫ケラの様に卑屈にいきて、竜の怒りを買うことも避けて来た。
だからこそ信じられなかった。本来はベルン地方の奥深くに生息する飛竜達が自分達を皆殺しにしたことを。
そしてその仲間の死体を貪ったことを。
ここはベルン地方の北西の端の端。リキア地方やサカと隣接する僻地なのに何故飛竜がこんな所に?
疑問は尽きないが、今は逃げることが最優先だ。命はどのような宝よりも価値がある。
ふと。ここまで思考を巡らせた男が何かに気がついたように辺りを見渡す。
何か、おかしい。何かが変だ。荒い息で辺りを伺いながら男がその『違和感』が何か必死に考える。
全ての音が、なくなっていた。鳥達のせせらぎも、植物が風に揺れる音も、水が流れる音もだ。
男がソレに気がついたのは全てが手遅れになった時だった。
男に影が差した。森の木々が落とす影よりも尚暗く恐ろしい影が。
「!!」
男が何かに気がついて真上を見るが、遅い。既に遅すぎる。
「うわぁ………!」
断末魔の悲鳴をあげるよりも尚早く、巨大な何かが男の腰から上半分を無慈悲に圧倒的な力でもぎ取った。
残った下半身が、臓物と血を噴水のように噴出して倒れる。
クチャクチャと肉を咀嚼し、血を啜る音が無音の森の中で一際響く。
次いで響くのは男を真っ二つにしたソレが身じろぎ、木々をなぎ倒す音。
――ギギギギギギ、ギギギギイ
ソレの血そのものを固めて目玉にした様な色の瞳が肉を味わい、満足げに細められる。
久しぶりの食事だ。
男の上半身をもぎ取り、肉を味わうソレは飛竜であった。ベルン地方に住まう特徴的な種族。一応は竜の名を与えられた種族。
ペガサスほどの高い知能は無く、竜族ほどの知恵と知識、超大な力もない。
あるのは本能だけ。言うなれば空を飛ぶ獣だ。しかも普通の獣よりも遥かに強い。
その鋭い爪と牙は簡単に人を殺めることが出来るだろう。
しかも今男の上半身を食べ終わり、下半身を食べに掛かる飛竜は普通の飛竜ではなかった。
まず、身体の大きさが異常だ。
普通の飛竜は大きくても全長4メートル程度なのだが、これは有に10メートル以上ある。
そして何よりも異常なのはその飛竜の全身に隙間なくビッシリと刻まれた青白く輝く紋章の様な――否。これは正真正銘の紋章である。
紋章の名は【デルフィの守り】翼の神デルフィの加護を受けている証だ。
この飛竜は産まれ付きこの紋章を身体に刻みこまれており、他の飛竜を圧倒する巨体と他の飛竜よりも優れた能力で群れの王にまで上り詰めた。
そして今、王たる彼は群れの部下を率いて餌を求めて大規模な移動を行っていた。
前居た地域ではほぼ全ての獲物は狩りつくしてしまったのだ。
――ギギギギギギギギギギギギギギギギ、ゲゲゲゲゲゲゲゲゲ!!!!
咆哮。聞くもおぞましい狂音を血の滴る口から吐き出し、森を揺さぶる。
それに呼応するように、何十、何百の似たような咆哮が空から降り注いだ。
まるで王たる彼を称える歓声のように。
それを聞く彼は人で言う『歓喜』に近い感情を覚える。
ここら一帯に巣食っていた人間はあらかた食い尽くした。良き悪しき関係なく。
彼らがこの賊の一味をおそったのは決して正義感からなどではない。
ただ単純に人数が多く、一箇所に固まっていたからだ。
そう。どんな動物よりも、旨く、多く生息しており、弱い生き物を彼らは見つけたのだ。
イドゥンとイデア。神竜姉弟は今、このサカ草原に来て初めての困難に襲われていた。
草原に一つだけ孤独に立っているゲルが気になり
近場に身を潜めて様子を窺っていたら、恐らくはゲルの住人と思わしき少女に弓で狙われているのだ。
弓矢。
二人はこの武器を知っていた。
曰く しなやかな木を削って形を整え、そこに弦をかけてその弾力を利用して矢と呼ばれる凶器を射る武器。
これの殺傷力及び飛距離は中々馬鹿に出来るものではなく
射程距離は風向きや射手の技量、弓の種類にもよるが、下手をすると200メートル先の標的に届くそうな。
「そこの草むらに隠れているのは分かっている! 大人しく出て来い! さもなければ射るぞ!!」
双子が応じなかったため、再度の呼びかけ。それと同時に矢を番えた弦を引き絞り、いつでも放てる状態にする。
ギリリリと弦がしなる独特の音が身を隠しているイドゥンとイデアに届く。
(ど、ど、どうする・・・…?)
直ぐ近く所か、隣に居るのに念話でイドゥンが弟のイデアに話しかける。
イデアが隣で伏せている姉に顔を向け、眼と眼を合わせる。
そして本当に小さな小さな声で。
「と、と、取り敢えず、出ていこうよ……このままだと、射られそうだし」
ガチガチと歯を鳴らし何度も声をどもらせながら何とか伝えたい内容を喉から搾り出す。
竜族の敏感な五感と第六感は自分たちに向けられている敵意をこれ以上ないくらいに双子に伝えていた。
――出てこなければ 射る。
即ち この言葉は本音であり、一切の冗談も、嘘も含まれてないという事だ。
このままこの林に篭もっていれば確実に矢が飛んでくるだろう。
ぎゅっと双子が手を強く繋いで、立ち上がり林から出て行く。
もう片方の手は抵抗の意がないことを示すために上げている。
「子供……それにその身なり……」
イドゥンとイデアを見た少女が僅かだけ弦を絞る力を弱め、番えた矢の向きを変える。
そのままじぃっと観察し判断を下すかの様に二人を凝視する。
足元、膝、腰、ベルトに付いた魔道書と鞘に収まったナイフ、胸元、首、顔、尖った耳、そしてその紅と蒼の特徴的な眼、そしてその奥――。
時間にして一分にも満たないが永劫にも感じる時が過ぎ去った後、少女が矢を下ろした。
先ほどの凛とした声とは違う、穏やかな声でガタガタ震える姉弟に子供をあやす様に話しかける。
「もう弓は向けないから、出来れば名前などを教えてくれないか?」
「わ、私は……神竜のイドゥンっていいます」
ガクガク震え、イデアの手をぎゅっと強く握り締めたまま、それでもかつてイデアが教えた通りにお辞儀をする。
エイナールに始めて出会った時と同じだ。
「お……弟の、イデアです」
弓矢が下ろされ、殺気もほとんど霧散した今でも少しだけ震えつつ、何とか返答する。
視界が潤んで見えづらい。気がつかない内にイデアは少しだけ涙ぐんでた。
「怯えさせて済まない。約束の通りに弓は向けんから、その泣きそうな顔をやめてくれないか?」
下ろしつつも矢を弦に番えていたソレを躊躇わずにポイっと投げ捨てる。
ついでに背中に背負っていた矢を大量につめておいた矢筒もゆっくりと地面に置く。
そして一回だけゲルの中に戻り、直ぐに二枚の小さな布を持ってくる。
布はぬるま湯で濡らしており、ほのかに湯気が出ている。
「とりあえず顔を拭いた方がいい。涙などで大変な事になっているぞ?」
少女の態度の変化に固まっている二人に近寄り、その布を手渡した。
「拭き終わったら、私のゲルの中に入ってきてくれないか?」
そして自分は二人を置き去りにしてゲルの中に入ってしまう。
戻る際にしっかりと弓と矢筒を回収するのも忘れない。
顔を拭き終わったイドゥンとイデアが綺麗になった顔を見合わせる。
二人揃って頭上に?マークを浮かべ、何とか状況を整理する。
そして、とりあえず自分達の命が助かった事を確信し二人で揃って大きな溜め息を吐いた。
林の中に置いておいた皮袋を取り寄せて、ゲルの中に入っていく。
「知らなかったとはいえ武器を君達の様な童に向けてしまい、本当に済まない
だが、分かってくれ。草原で一人暮らしというのも、大変なんだ」
ゲルの中に案内され、
とりあえず中央の絨毯の敷いてある所に座らされたイドゥンとイデアの前で、向かいあって地に座っている少女が小さく頭を下げる。
「あの……私達も覗き見なんてして、ごめんなさい。でも、何で私達が見ているって分かったの?」
イドゥンがおずおずと質問をする。
ちなみに彼女の手はまだイデアとしっかり繋がっている。
少女は笑って答えた。
「私達サカの民は気配を察知することに長けている。
そうでなければ狩りなど出来ないからな」
「おぉ……狩りって」
狩りという単語にイドゥンが反応を示す。
彼女の頭の中で展開される【狩り】は全身を包む重鎧を纏い
巨大な剣やら槍やらを用いて飛竜などに挑む光景。
想像の中の狩人が何故か獲物を狩猟笛でぶん殴ったり、槍の先端から爆炎を噴出したりしているが気にしてはいけない。
横っ飛びでブレスだろうが、光線だろうが、何でも回避している事も無視だ。
「……多分、お前の想像は間違っていると思うぞ……」
眼を夜空の星のごとくキラキラさせながら別の世界を見ている神竜の姉に少女が呆れた様に言う。
少なくとも弓矢は恐ろしい命中精度で矢を数本同時に発射したり、連射することなど出来ない。
「それはそうと、何で一人で住んでいるのですか?」
別世界で【狩り】を行っている姉を横目にイデアが少女に先ほどまでから疑問に思っていた事を問う。
何故ここに一人で住んでいるのか、他の部族の仲間はどうしたのかと。
少女が大きく溜め息を吐いた。そして口を開き、ポツポツと語り始める。自分がなぜ一人なのかを。
「私の部族の呪い師が星々の占いで何かを見つけたそうだ。そして私に
『お前には大切なやるべき事がある、それを見つけて来い』そう言って呪い師は私を部族から追い出した。
未だにその“何か”を探して旅を続けているのだが、困ったことに一向に見つからん」
そして一泊おいて
「もう3年は旅をしているし、半年は他者と会話していない」
「た、大変ですね…寂しくないですか?」
半年間誰とも会話出来ないというのはどの様な状況なのか、少しだけ想像して背筋がゾッとしたイデアが何とか返す。
少なくとも並みの精神では狂ってしまうだろう。
同時にこの少女を部族から追い出したその呪い師とやらに文句を言ってやりたくなった。
お前は何を考えているんだ。もっと具体的な事を言えよと。
少女がイデアの問いに頷きながら答える。
「あぁ寂しいさ。だからお前達をゲルに入れて話している。こうやって他者と話せるのは、かれこれ半年ぶりだしな
だから、ゆっくりしていってくれ。こうやって出会えたのも母なる大地と父なる天の意思だろう」
イデアが少女の顔を見る。少女が笑った。太陽の様に美しい笑顔だった。
エイナールの浮かべる物などと同じく、見ている者を安心させる笑みだ。
「あの! ちょっといい?」
何時の間にか夢の狩りの世界から帰還したイドゥンが声をあげる。
その視線は壁に掛かっている鞘に収められた二本の剣――エレブでは【倭刀】と呼ばれる種類の剣に注がれている。
二本の刀のうち、上の刀は鞘からして太く、男性用にも見え
下に掛かっている刀はどちらかと言えば細く、女性などが使っていそうな印象を見るものに与える。
「あれって……」
イドゥンに存在を指摘されて始めてソレの存在に気がついたイデアがじーっと興味深そうな物を見る目で
二振りの刀を見つめた。その眼の奥にあるのは懐古に近い感情。
「その倭刀の事か?」
うん、とイドゥンが首を縦に振った。
「上の倭刀を【ソール・カティ】下のを【マーニ・カティ】と言う。旅立ちの時に両親に持たされた、我が一族に伝わる業物だ」
ハハハと、自嘲する様に少女が笑った。
「もっとも、私は剣の才は全くと言ってもいいほど無くてな。
こうやって壁に飾り、時折家族の事を思い出すためにしか使わないのだよ」
そして刀を食い入るように見つめるイデアに気がつく。
「……鞘から抜いてみるか?」
「本当にいいの!?」
「ひゃっ……」
腕を強く引っ張られたイドゥンが声をだす。
ガバッと勢い良く立ち上がり、叫んだイデアに少女が眼を瞬かせると不思議そうに首を傾げた。
イデアの眼も姉のイドゥンと同じようにキラキラ輝いている。まるで憧れの人などを見る眼だ。
実際、今のイデアの頭の中は本物の刀を見れる興奮と期待で埋め尽くされている。
「抜くだけなのに何故そこまで……まぁいい、少し待ってろ」
立ち上がって、二本の刀が掛けられている壁の前まで行くと。
まずは下の刀【マーニ・カティ】を固定具から外す。
ソレを横において、次は上の刀を持ち上げようとするが……。
「すまんが、手を貸してはくれないか? この【ソール・カティ】は……かなり重いのだ」
「「はい」」
二人がその小さな手を刀に向けて翳す。その手から金色の密度をもった光が伸びた。
「!?」
一瞬だけその光に警戒を抱く少女だったが、光が双子から出ているのと
何よりも敵意を全く感じなかったため、直ぐに警戒を解く。
光は刀の柄や鞘に絡みつくと、ソレをゆっくりと持ち上げた。
そしてそのまま緩慢な動きで先に床に置かれた刀【マーニ・カティ】の隣に安置する。
「凄いな……これも竜の力の一つか?」
「うん! もっと色々な事が出来るよ!」
褒められて嬉しいのかイドゥンが元気良く返事をする。
もう警戒心はなくなったのか、結構前からイデアの手を握るのは止めている。
はぁ、とイデアが溜め息を吐いた。
さっきまであんなに震えていたのに、凄い移り変わりの速さだ。
まぁ、そこがイドゥンのいい所でもあるのだろう。
エイナールと始めてあった時も率先して挨拶をし、良好な関係の礎を築いたのも彼女なのだから。
「では、望みどおり……」
少女が【ソール・カティ】の柄を握り、刀身を引き抜こうとする。
が……抜かれない。
「あれ? おかしいな……」
再度力を込めて刀身を抜き取ろうとするが、抜けない。
フッフッと、気合を入れて引き抜こうとしているが、刀はビクともしない。
「無理だよ……この子、嫌がってる」
【ソール・カティ】をじっと見つめたイドゥンが告げるように言った。
いつもの彼女からはあまり考えられない、冷ややかな声。
「この子達だったんだよ……このゲルの中から感じた強い二つの精霊は。そしてこの子達、私とイデアを嫌ってるみたい」
「姉さん?」
弟の声に、はっと我に返ったかの如くイドゥンが無垢な眼で捉えると、直ぐに笑顔になる。
そして弟の手を再び握って、指を弄び始めた。が、直ぐに飽きたのか手を離す。
「済まない。今の言葉はどうやら真実のようだ……」
足で鞘を固定して柄を思いっきり引き抜こうとしても駄目だった少女が諦めて手を離すと
ふぅと息を吐いて呼吸を整える。
「仕方ないか……」
未練がましい眼で【ソール・カティ】を見ながらイデアが呟く。あそこまでやって駄目なら仕方が無い。
物には魂が宿るというらしいが、その魂に拒絶されたなら、諦めるしかないか。
……何故拒絶されたのか、ほんの少しだけ気になったが、どうでもいい事だと思い直ぐにその考えを消し去る。
「外に居るのは【馬】だよね?」
刀を前あった位置よりも低い位置に置きなおしているサカの少女に
好奇心旺盛な神竜の少女が問う。彼女が刀の次に興味を持ったのは外の馬だった。
さっき林の中に隠れていた時も馬は見たが、あの時はそれどころではなかったのだ。主に7つ目7つ耳の化け物などで。
今冷静になって考えてみると、直ぐ外に本で何度も見た馬が居る。その事実は彼女を動かすに値するものだ。
「あぁ。あれも私の大切な家族だ」
「見てきてもいい?」
「いいぞ。ただし、私が行くまであまり近寄るなよ それと絶対に馬の後ろに立たないことを約束できるか?」
「うん!」
許可を貰うや否や、疾風のような速度でゲルの中から走り去っていく。
それを見てイデアがまた溜め息を吐いた。一つ幸運が逃げていくような気がした。
そして少女に姉の事や刀の事など、諸々の件で改めて謝罪を述べようとしたが……ここで気がついた。
「あの、……名前を教えてくれませんか?」
「ん? そういえば名乗ってなかったな、私の名前はハノンだ。ウルス族のハノンと言う」
「……お尻が、お尻が痛いよぉ……」
「その言葉は色々とマズイと思うよ姉さん」
ゲルの中、イドゥンがうずくまり、痛みに悶えていた。
それをイデアが冷ややかな眼で見つめ、ごそごそと皮袋の中からライヴの杖を取り出す。
何故こうなったかの理由は簡単だ。乗馬したのだ。それも長時間。
ハノンの愛馬を馬自身がが逃げるほど食い入るように見つめていたイドゥンであったが
その余りにも熱い視線にハノンがうっかり「乗ってみるか?」なんて言ってしまったのが事の始まりである。
幼い頃より馬と過ごし人馬一体の技術を持つ、ハノンが見守る中嬉々として馬に乗ったイドゥンであったが、結果は散々であった。
動きやすい服を着て来たため、またがって乗れたのはいいがそこから先は正に最悪の一言に尽きる。
馬が、イドゥンを拒絶するかの様に激しく上下運動を繰り返し彼女を草原に見事に尻餅をつかせたのだ。
頭は打たないように直ぐ横を飛んでいたイデアが「力」でいつでも保護できる様にしておいたので危険性は少なかったが
彼は内心ヒヤッとしていた。
鞍や鐙などがあれば話は別だったかも知れないが、そういった便利な物はまだ発明されてはいない。
「ウィルソンは暴れ馬すぎるよぉ……」
「だから、その言葉はまずいって」
イドゥンがイデアからライヴの杖を受け取り、術を自分に掛ける。
ちなみにウィルソンというのは彼女がハノンの馬に勝手につけた愛称だ。
どういった基準でこの名前になったかは弟であるイデアでさえも理解は出来ない。
……この愛称で呼び始めてからウィルソン(馬)が凶暴になった気もするが、気にしてはいけない。
「きっと、竜と触れるのを本能的に嫌がっているのだろうな……それとあいつに愛称をつけるならゴンザレスの方がいいと私は思う」
回復の術を掛けて、幾らか痛みがひいた臀部をさすっている神竜を見ながらハノンが言う。
さりげなく愛称を悪化させようとしているが、気にはしない。
「それはそうと、本当に竜というのは凄いな。まさか人の姿のまま背に翼を出して飛べるとは思わなんだ」
イデアの背を見つめ、先ほどまでそこにあった翼を思い出しながら語る。
その言葉に篭もる感情は純粋な羨望。黒い瞳から向けられる視線に思わずイデアはドキッとした。
「一度でよいから、私も空を飛んでみたいものだ」
「じゃ、いつか俺が・・・…」
背中に乗せてあげますよと、続ける事は出来なかった。
竜の本能とも言うべき部分が全力で警告を鳴らす。
第六感が冴え渡り、自分達の危機を告げる。
イデアが姉を見た。
彼女もまたイデアと同じ類の物を感じ取ったらしく、青い顔をしていた。
「? どうしたんだ? ……!!」
ハノンが突如、顔色を変えた双子を心配し手を伸ばそうとするが、サカの民の優れた感覚を持つ彼女も
イドゥンとイデアが感じている感覚に近い物を感じ取り、反射的に弓と矢筒を手に取る。
――――ギギギギギギ、ガガガガガガガガアアアアアアア!!!!
何処からともなく聞こえる身の毛のよだつ恐ろしい叫び。それがゲルを揺らした。
あとがき
この話で戦闘を入れようとしたのですが、入れられなかったので次話に入れました。
10万PV記念なので、気合を入れて二話連続投稿なんてしてしまいました。