「殿」に存在する神竜王ナーガが執務を執り行う執務室。今、その部屋にはこの部屋の主であるナーガ以外にもう一人の人物が居た。
玉座に堂々と腰掛ける彼の前に一人の女性が膝をついている。
自らの主の前に跪いているのは紅い髪に、紅い眼、そして纏う雰囲気まで“紅い”女性――ナーガの腹心の部下の一人である純血の火竜アンナである。
二人がまとう空気は何処までも重く、そして冷たい。そしてその表情は一切の感情を排除した完全な無表情。
イドゥンやイデアが見たら震え上がるであろう表情だ。少なくとも何も知らない子供に見せて良い類の表情ではない。
そして両者がその身に纏う空気は何処までも冷たく、殺伐としたものだ。
この事からこの二人は浮ついた話や、雑談をなどをしている訳ではないのは判る。
いや、アンナはともかくナーガに至っては既に性欲があるのかどうかさえ怪しいものだが。
「報告しろ」
王座に腰掛け、片肘をついたナーガが気だるげな、ありとあらゆる感情が完全に抜け落ちたいつもの声で彼女に命令した案件の報告を求める。
アンナが膝をついたまま一回小さく頷き、主の求める答えを流暢に、しかし一切の感情が篭もらない凍てつく声で告げる。
「ご指示の通り“知識の溜り場”の各所への転位陣の配置の構想図の企画、及び探索避けのためのダミー456箇所のエレブ各所への設置
そして【里】の座標設定、その全てを完遂させました」
アンナがその手に持った上質な紙の束をナーガに向けて差し出す。紙束は彼女の手を離れ、ナーガの元にフワフワと飛んでいった。
自らの元に引き寄せた紙束をナーガがその手に取って広げ、竜族の言語でびっしりと刻まれた文章の列を素早く黙読していく。
ものの十秒ほどで数枚の紙に書かれていた文を読みきり、内容の全てを記憶した彼がソレを灰も残さずに焼き払う。
そしてもう一度アンナに眼を視線を向け、口を開いた。
「……エイナールにこれを渡しておけ」
エイナール……親友の名前にピクリと一瞬だけではあるがアンナが反応を示した。
ガタリと、ナーガの執務机の引き出しの一つが開かれて中から一枚の紙が浮かび上がってくる。
ナーガがそれを手に取り、手早くサインをした。そしてソレをアンナの元に飛ばす。
「仰せの通りに」
フワフワと飛んできたソレをアンナが仰々しく受け取り、眼を通さずに直ぐに懐にしまう。
「……気になるか?」
ナーガが彼には珍しく少しだけ感情が篭もった声でアンナに問う。少しだけ凍りつめていた部屋の空気がゆるくなった。
珍しい……アンナはそう思った。
彼女の知る自分の主、ナーガは彼女が知る限り感情という物を極限まで外に出さない男であり、ましてや無駄な問い掛けなどほとんど行わない竜なのだ。
それに行ったとしてソレらの言葉はほとんどが牽制や、威圧、腹の探りあいの際に発する駆け引きの一手である。
それに本当に欲しい情報などは有無を言わさず魔導の力で吐かせるという場合もある。
茶を濁すか、素直に答えるか、一瞬だけアンナは思考を巡らせたが此処は下手に隠し立てしな方がいいだろうと思い、正直に答えた。
エイナールとアンナ、火と氷という対極の属性を司る彼女達の仲が大変良いのはナーガも知っているのだから。
「はい」
「ヴァロール島に用意した緊急時の避難所への地図と、其処に幾重にも張っている加護及び隠蔽結界の通行書だ。……奴は少々有名すぎる」
有名になり、名が知れ渡るという事はそれだけ多くの人間から思われるという事だ。好意にせよ悪意にせよ。
どうしてもナーガはその部分が気にかかった。だから【里】とは別にもう一つの避難所を彼女に用意したのだ。
昔の様にエイナールが独り身ならば身動きも軽いのだろうが、家族が出来た彼女は昔の様には動けない。
簡単に言ってしまえば、神竜王ナーガは配下の氷竜エイナールを心配していて、万が一の時のための避難場所を用意した。
それだけだ。
「渡し方はお前に任せる」
それだけ言うとナーガは手元の書類の山に意識を移し、黙々と仕事に取り掛かった。無言でアンナに退室を促す。
アンナは小さく主に礼をすると、そのまま下がった。
「……………」
アンナが退室した後もナーガは黙々と執務を続ける。その脇に置かれた報告書の一枚には竜族の文字でこう書かれていた。
―――ベルン北東部で飛竜が異常繁殖。そして凶暴化した飛竜達の一団が餌を求めて大規模な移動をしている。
他にはエーギル操作技術で成長と味を変化させた香辛料や食物の生産量の報告書などが机の上にはどっさりと乗っていた。
何を思ったか一旦手を止め、それらをナーガは無感動に眺める。腰の【覇者の剣】の柄を軽く撫でて、そして机の引き出しの一つをあける。
そこに安置してあるのは一冊の古びた本。姉弟が文字の練習に使った物だ。
本の表面を撫でるよう触れた後、机の引き出しを閉めてナーガは再び執務に黙々と取り掛かった。
彼はこれが終わればイドゥン、イデアに昼食を持っていくという大切な仕事があるのだ。
「はぁ~~極楽だなぁ~~」
神竜姉弟の部屋。椅子に腰掛けたイデアは蕩けた顔で思わずそう漏らさざるを得なかった。
彼の後ろでは二本の杖がフワフワと浮かび、淡い光をイデアに浴びせている。
二本の杖の名称はそれぞれ【ライヴ】と【レスト】
【ライヴ】は身体の外傷を治し【レスト】は病気や毒などを身体の中を直す術の発動媒介だ。
そしてこの二つの術は体力を回復させる効果もある。
それらを同時に浴びれば今のイデアと同じ状態になってもおかしくない。
「どう私の術は? 上手く出来てるかな?」
彼の向かい側に腰掛けたイドゥンが何処か心配そうに弟に聞く。
指をモジモジさせ、何処か不安げだ。
これは彼女の術の練習の一つで、ちゃんと回復の術が発動しているかどうかの確認でもあるのだ。
炎を生み出し操る、光を矢に変える、影を支配し命を飲み込む、これらの術ならば発動していると直ぐに判るが回復系統の術は
誰かにかけて意見を聞かなければ発動していると判りづらいからだ。
「だいじょーぶだよぉ……。ちゃんと発動しているさー」
イデアが恍惚とした表情で杯に手を伸ばして、中に満たされたチョコレートに口をつける。
カカオの豆から生成され、人間では一部の貴族や権力者しか口にすることの出来ないソレを贅沢にも飲み込んでいく。
余談ではあるが、カカオ豆の加工方法と類似品の「コーヒー」の生産方法をエレブの人々に教えたのは百年程前の竜族だそうな。
教えた竜族の者は今もどこかでチョコを美味しく飲んでいることだろう。
ソレを見たイドゥンが満足そうに笑った。ちゃんと術が発動して何よりだ。
それに此処まで気を抜いたイデアを見るのも珍しいし、見ていて和む。
彼女が知る限り、イデアがこんな表情を浮かべるのはエイナールに撫でられた時と、好物であろう魚や白米、あの味噌汁とやらを味わっている時ぐらいだろう。
他には自分をからかってる時も恍惚とは言いがたいが、楽しそうな笑みを浮かべている。
一度、イデアがふざけて眠る前に怖い話をイドゥンに聞かせてあげた時は、一晩中イドゥンが眠れなくなったという事もあったのも今となってはいい思い出だ。
特に大きな鋏を持って、金属音を高らかに鳴り響かせながら何処までも追いかけてくる男の話は情けない事に悪夢で再現され飛び起きた程である。
イドゥンがずずーっと杯の中に満たされた黒い液体、チョコとやらを飲む。甘い。しかし彼女はこれよりもリンゴの甘さの方が好きだ。次点で果物のナシとブドウだ。
これは何と言うか……甘すぎる。こういう加工された甘さよりも自然な甘さの方が美味しいと思う。
「……はぁ、ごちそうさまでした」
空っぽになった杯をテーブルの上に置いて、真っ赤な顔をしたイデアがポンッと手を合わせ唱える。
彼の食料に対する敬意の表し方だ。
杯をテーブルの端に力を使って「掴んで」動かすと、自分の横に置いてあった一冊の分厚い本を手にとってそれをテーブルの上に乗せて広げる。
「何読んでるのー?」
チョコを飲み終えたイドゥンが椅子から降りて、弟の横に歩いていく。
そして何気ない動作で二本の杖に向かって指を軽く振る。
【ライヴ】と【レスト】の杖から発せられていた光が消え、二つの杖が彼女の手に吸い寄せられるように飛んでいく。
それらに杖という物の本来の役割道理に体重を預けながらイドゥンは弟が取り出したまだ自分は読んだことのない書物について問う。
イデアが不満げな眼で二本の杖を見るが、直ぐに表情を元に戻した。
「これは竜族とか、ペガサスとかについてまとめられてる図鑑みたいな本だよ。ナーガが新しく持ってきた本の中にあったんだ」
もうずっと前から月に一回程度の周期でナーガは双子の部屋に様々なジャンルの本を持ってくる。
地理に歴史に魔術に初心者向けの魔導書にただの御伽噺に童話、生き方についての考え方、兵法、ありとあらゆるジャンルの本をだ。
ナーガ本人が直接双子に授業をする回数そのものはかなり前からがくっと減ったが、その代わりと言わんばかりに大量の本を持ってくるのだ。
読み終えた本はちゃんと指定された場所に置いておけばナーガが回収して図書館に戻しておいてくれる。
基礎的な事は全て教えた後、自力で発展させるのがナーガのやり方なのだろうとイデアは思っている。
最も、イデアは娯楽の一部として本を読んでいるので魔導と御伽噺、それ以外の興味の湧いた本しかイデアは読んでいなかったりする。
さすがに一冊一冊がとてつもなく分厚く、文字もびっしりと刻まれた本を何冊も読めるほどイデアの気力は多くないのだ。
……余談ではあるが、イドゥンは何気に全ての本を読破し、その内容まで大まかではあるが暗記していたりする。
少しでも多くの知識を取り込みたいという彼女のイデアよりも強い純粋にして根源的な欲求がソレを可能にしているのだろう。
そんな彼女でもまだ読んだことの無い新しい本を弟のイデアが読んでいる。気に掛かる理由としては十分だろう。
「私達について纏めたもの?」
「一緒に読んでみる?」
「うん」
判ったと、イデアは小さく頷くと身体を横に寄せてイドゥンが座れるスペースを作る。
が、彼女のとった行動はイデアの予想しえないものだった。
「ちょっとごめんね」
「え?」
フワリとイデアが座った体勢のまま少しだけ浮かびあがった。
よく眼を凝らせばイデアの下に金色の光が纏わりついており、それが彼を持ち上げていると判るだろう。
スカートの裾を少し持ち上げたイドゥンが浮かんでいるイデアの丁度真下にあぐらに近い形で座る。次にゆっくりとイデアを自分の足の上に降ろす。
更にイデアの肩に頭を乗せ視界を確保。最後にイデアの脇の下から手を通す。これで完成だ。
第三者から見れば今のイデアはイドゥンに後ろから抱きとめられたような格好になっていた。
「ね、姉さーん? コレは、一体、どういうことー?」
顔を先ほどとは違う理由で真っ赤に火照らせたイデアが真横にある姉の顔に向けて何処か力ない声で言う。
神竜の力と竜殿の効力で成長を限界まで促進されたイドゥンの人間形態時の肉体年齢は13~4と言ったところだ。
当然人間と同じ様にイドゥンもそれなりに女性として肉体が変化し始めているのだ。胸は大きくなるし、身体は細いながらも女性としての柔らかさを備え始める。
声もかつての美しさに磨きをかけ、どこかに艶さえ含んだ物になるし、纏っている気配そのものも神竜の神聖さと女としての妖艶さを備え始める時期。
そんな女性に後ろから抱きとめられているのだ。後ろからという事は当然ながら膨らみ始めた胸などもイデアの背にあたるという事だ。
弟の抗議とも言えない言葉にイドゥンはさも当然の様に、それが当たり前だと言わんばかりに答える。
ついでに更に胸部がイデアの背に密着し少しだけ形を変える。イデアの顔面が更に真っ赤になった。今なら神竜なのに火竜のブレスが出せそうだ。
「こっちの方がいい」
「ぁ………そう……」
火照った顔のまま本を浮かばせ、姉も中が読める位置まで持ち上げる。そしてそのまま手を使わずページをめくる。
最初のページには太陽を連想させる光放つ球体を背負い、世界をその手で握っている巨大な竜――神竜が神々しく描かれていた。
「これはお父さんなのかな?」
「かもね」
イドゥンの声に相槌を打ちながらイデアが本に描かれた神竜の絵をじぃっと眺める。
ナーガが竜に戻った時のあの巨大さ、力強さ、そして神々しさをイデアは未だについ先日の出来事の様に思い浮かべる事が出来た。
あの山よりも遥かに巨大な体躯、全身から噴出す圧倒的なエーギルとオーラ、王冠の様な角、魔導を少しかじった今なら判るあの正に神がかった超大な力。
魂が弾け飛びそうな程のあの威圧感。全てにおいて次元違いだ。
あの存在が本気を出せば一晩でエレブを完全に消し去る事が可能なのではないかとイデアは思っている。
ナーガのブレスでエレブ大陸が粉々に砕ける場面をイデアははっきりと想像できた。
…・・・例え自分を害する気がなくてもこんな化け物が隣に居たら、怖くて怖くてたまらない。そんな考えが一瞬だけ彼の頭をよぎった。
次のページには神竜についての説明文が書かれていた。
そこに記されていた内容は神竜本人(竜)をして正直誇張されすぎではないかと思えるほどの物だ。
要約してしまうと、神竜はほとんどの事が出来る。これの一言に尽きる。
最も多少の誇張は入っているだろう、時間が経つと尾ひれ背びれなどが付くのは噂と大して変わらない。
「私達ってこんな事できるんだー」
チラリとイデアが肩に頭を乗せてゴロゴロ言っている姉に眼を向ける。
眼があった彼女が楽しげに弟に無邪気に笑いかけた。この顔をみる限り、竜と言うよりも子猫などの小動物と言った方が近いだろう。
「次のページお願い~」
「はいはい」
脇の下から通した腕をブラブラさせながら頼んでくるイドゥンに疲れた声でイデアが応じる。
本がペラリと捲れた。
次に描かれていたのは神竜と何処か似ているが、決定的に何かが違う巨大な竜。これも世界の上に雄雄しく立っている。
そしてその竜の背後と足元には数え切れない程の無数の火竜と思わしき小さな竜たちがおり、王を守る騎士の様に絵の外側に居るのであろう敵対者に明確な殺意をぶつけていた。
まるで竜の大軍団だ。
「これは何だろう? 何て名前の竜なのかな?」
「ちょっと待ってて…」
ページを捲り、この竜の説明が書かれている場所を出す。そこにはこう書かれていた。
【魔竜】
かつての始祖竜と神竜の戦争の際、始祖竜達は深遠の闇の力を用いて数え切れないほどの異形を生み出し、それらを操り己が兵にした。
それに対抗するため神竜族の一部の者は神竜の王の令と自らの意思で改造を施し魔竜となり、新たな力を獲得して始祖竜とその眷属である異形達と戦った。
【魔】竜と呼ばれこそされど、この竜の本質は神竜である。魔竜が居なければ神竜族の勝利はなかったのかも知れない。
しかし魔竜は全てが戦で始祖竜と相打ちになり、戦死してしまったため今では記述のみが残る。
色々と大仰で遠まわしな文体であったが、要約してしまうとこうなる。
「……お父さん、なのかな? 指示した王様って」
「どうだろう?」
ナーガの持っていた剣――【覇者の剣】を思い出す。確かアレは始祖竜そのものだとか言っていたはず。
同時にあの翡翠色の美しい剣が持っていた禍々しさも記憶の奥底から蘇る。アレを滅ぼすために戦うのに魔竜が必要だったのだろう。
自分の意思でなったとも書いてあるので、戦死したとしても魔竜となった神竜は本望だったのだろう。
……最も、どんなに考えたとしても自分は当事者ではないので魔竜となった者の気持ちなど判るはずもない。
すると陰鬱な雰囲気を壊すようにイドゥンが声をあげた。
「次、いってみよー!」
「へいへい」
気のない返事と共に本に力を送り、ページを捲る。イドゥンが頭を肩の上に乗せてじっくりと食い入るように本を読み始める。
どうやら馬について書かれたページらしく、生息地や生態などが書かれている。何故いきなり馬? とイデアは思ったが口には出さずに胸の内で消化した。
きっと執筆者にしか判らない何かがあるのだろう。そしてイドゥンはその馬の描かれている絵、正確には背景の草原をじっとその瞳に映している。
ずいぶん熱心に読むなと思いながら、何気なく動けないイデアが眼を下に向ける。両膝を椅子につけ、あぐらの形で座っている姉の素足が見えた。
ムクムクと悪戯心が鎌首をもたげてくる。チラリとイデアが隣のイドゥンの顔を盗み見る。本に夢中でどうやら他の事は眼に入ってないようだ。
好都合・・・…ニヤリと小さく笑うと気が付かれないように気をつけながら慎重に身体を動かす。
力を使ってそれとなく羽ペンを手元に引き寄せ、ついでに姉の腕にも薄くエーギルを纏わり付かせとく。
「サカかぁ、ねえイデア……ん? イデア、どうしたの?」
「フフフ……」
何やら弟の様子がおかしい事に気がついた彼女だったが時は既に遅し。
演技10割のわざとらしい笑い声に不吉な何かを感じたイドゥンが腕を抜こうとするが……動かない。がっしりと固定されている様にビクともしない。
「え? え! え!?」
ガクガクと力を込めて脇から引き抜こうとするが、がっちりとイデアの力によって囚われている。
「フフ、残念だったね姉さん。貴女の座り方が悪かったのだよ」
手に持った羽を姉の眼前でヒラヒラと振ってみる。
それを不思議そうに一瞬眺めたイドゥンだったが、羽を足に向けて動かすとその顔が青ざめた。
イデアが何をするか理解したのだろう。足に力を込めるが、やはり動かない。ごそごそと身体を左右に揺さぶるがやはり動けない。
「ま、待って! ちょっと待って!」
涙ながらに訴えるイドゥンにイデアが意地の悪い笑みを浮かべ、指を顎に当てて首をわざとらしく傾げる。
そして笑いながら
「冗談だよ……少し本気だったけど」
ぽいっと手に持った羽ペンを投げる。同時に彼女を拘束していた力を解除する。
イドゥンが自由になった腕でぎゅっと少し痛い程度の力でイデアを抱きしめた。
そのままギリギリと締め上げる。
「イデアぁー、信じてたよぉ!」
「あぁ……はいはい」
イデアが顔をまた真っ赤にさせ、気のない様子で感無量といった感じで抱きつく姉に対応する。
その……強く後ろから抱きしめられると、当たるのだ。アレが。
もう少し味わっていたい所ではあるがこれ以上は理性が危ないので、ここまでとするために話題をふる。
「さっき何か言いかけてたみたいだけど、何て言おうとしたの?」
「ん? あれはね、私達ももうそんなに小さくないし、外の世界に二人で行きたいなーって言おうとしたの」
彼の目論見どおりに抱きしめる力を緩めて、ひょこっと顔を肩の上に出した姉が答える。
それにイデアが答えようとした時、まるで狙っていたかのごとく扉が規則正しくノックされた。
昼食の時間だ。
「うーん……」
「あーうー……」
イドゥンとイデアは今、数枚の羊皮紙と睨みあいながら唸り声を上げていた。
この紙は何か? と、問われれば答えは簡単である。ただの申請書と予定表だ。
かつてエイナールも書いたあれだ。
いつも通り食事を持ってきたナーガにそれとなく外に二人で出たいという旨の事を言ったらこの羊皮紙を書き方の説明と共に渡されたのである。
全て二人で企画してみろ。破綻してなければ許可を出してやる。
持って行く武器や魔導書、食料や根本的にどこへ何時に向かい何時に帰ってくるのか? などを詳細に書き記せとナーガは言った。
まるで遠足の企画だとイデアはナーガの話を聞きながら思った。
この手の書類は書いたことはないけど、無難にやれば大丈夫だとイデアは信じている。
間違っても行き先に飛竜の巣や恐ろしい黒騎士が居るどこぞの港町の民家などど書かなければ大丈夫だろう。
そう思って万年筆を手に取る。取り敢えずは持ち物に「竜石」と書いておこう。念のため。
次は行き先だ。まずはコレが決まらなければどうしようもない。
ここは姉さんの意見も聞いて――。
「イデア」
真剣な声で名前を呼ばれたのでそちらに顔を向けるとイドゥンが何やら深刻そうな表情でイデアを見つめていた。
まるでこれから戦場に向かう騎士や傭兵の顔だ。そのただならぬ面構えにイデアが思わず生唾を飲み込む。
まさか、もう企画の構想が終わったのか? 行き先から持ち物までこんな短時間で考え終わるとは凄い。
イデアが胸中の興奮を押し込めながらも姉の言葉を待つ。
そして驚愕の真実を、誰も知りえない世界の真理を詠いあげるか如く彼女は言った。
「―――――リンゴは何個持っていけるのかな?」
「……………」
全ての表情を消したイデアが万年筆を筆立てに入れ、羊皮紙をしまうと羽ペンを手に取る。
姉に罪はないのは判る。勝手に期待した自分が愚かだったのも理解できる。
だが・・・・・だが。
「え? イデアーー?」
いきなり身に纏う雰囲気を先ほどの様に変えた弟に怯えるような声で話しかけるイドゥンだったが返事はなく
変わりに全身を簀巻きの様にイデアの力でグルグルに拘束されてしまった。
しかも万が一にも抵抗出来ない様に念入りに「竜石」まで取り上げる。そしてそのままベッドの上まで浮かばせて輸送。
「とりあえず色々と言いたい事はあるけど、まずはたーっぷりと笑い転げようか?」
姉の竜石を片手で弄くりながらイデアが本当にいい笑顔を浮かべる。イドゥンがこれまで見てきた中でも上位に入るほどの顔だ。
そう、例えるならまるで思う存分憂さ晴らしをしてる時の顔だ。
「い、イデア! 落ちついて! 話せばきっとわかるよ!!」
芋虫の様に全身をくねらせながらイデアから距離を取ろうとするが、移動した分だけイデアが距離をゆっくりとつめて来る。
直ぐにベッドの端まで追い込まれた。横に転がって移動しようにも、見えない手で押さえられている様で動けない。
「やめて、そんなことされたら……私ぃ……」
目尻に涙を浮かべ、力なく首を左右にふって懇願するがこれも無視。内心、少しだけ心に届いたが構わず続ける。
そして無情にもイデアはその手に持った神竜を笑い狂わせるであろう羽を彼女の素足に走らせた。
姉弟の部屋から叫び声にも聞こえる笑いが響き渡った。
あとがき
この頃イデアが幼児退行を起こしている気がするけど、きっと気のせいだよね。
では次回の更新にてお会いしましょう。