飛竜も寝静まる月と星だけが煌々と輝く深夜、愛用の横笛の手入れを行っていたエイナールは自室の扉に近づく1つの気配を感じて顔を上げた。
こんな時間に誰かな? と思い、竜族の優れた気配探知能力をそちらに仕向ける。
あの双子の姉弟が近づいてきた時は全神経を音と楽器に集中させるほど演奏に夢中になっていて、二人の接近に気がつく事は出来なかったが
エイナールは、というよりも氷竜全般は、神竜に匹敵するほどの優れた探知力を持ってるのだ。
人で言うところの第6感、神竜を除く様々な竜族の中でも、氷竜族はそれが異常に発達した種とも言えるほどだ。
探知能力が鋭い氷竜や神竜の中には、極まれにある程度確定された未来がはっきりと「見える」という竜もいるそうだが
そんな事が出来る竜をエイナールは知らなかった。全能とも言える成体の神竜でも未来を完全に見通せる存在はほぼいない。
あの最強の神竜ナーガでさえも未来は「予想」することしか出来ない。
だが、未来予知の能力が無くともエイナールは気配を読むことに特化した竜であり、その中でもかなり鋭い部類に入る。
そして裏を返せば、その探知能力がその剣よりも鋭い効力を全くと言って発揮しなくなるほど、エイナールは本気で演奏を行っているという事になる。
話を戻そう。
エイナールはほんの数秒だけ意識を接近してくる気配に向けていたが直ぐにそれを霧散させる。誰が近づいて来ているのかが特定できたからだ。
自分の氷という属性とは正反対――この炎の様なエーギルの持ち主は自身の友だから。
石造りの廊下を、足音どころかありとあらゆる物音1つ立てずその「友」は移動する。そしてエイナールの部屋の前に来ると、ピタリとその動きを止めた。
まるでエイナールが気がついて声を掛けてくれるのを待っているかの様に。
フフフと、小さくエイナールは愉快だと言わんばかりに笑みを零すと、扉に向かって―――正確にはその向こう側にいるであろう「親友」にお望み通り悪戯っぽく声を掛けた。
「入ってもいいですよぉ? アンナ」
ビシリと名前を当てられた扉の向こう側の「友」は少しの間固まった後、諦めた様に扉を開けて部屋に入ってきた。
入室した「友」一目で“紅”を連想させる女性――火竜族のアンナは苦笑いを浮かべながら、後ろ手で扉を閉めて、自分とは正反対の種族である氷竜エイナールに声を掛ける。
「やっぱり、分かっちゃうのね……」
肩を竦めて言うアンナにエイナールが少しだけ意地の悪い笑顔でにこやかに答えた。
「えぇ、それはもう、手に取るように」
アンナが小さく溜め息を吐く。気配を完全に絶つ等つ事を始めとした「そちらの方面」の自分の能力に少なからず自身がある彼女には少し耳が痛い言葉だった。
だが誤解してはいけない。決してアンナの能力が低い訳ではないのだ。むしろその逆、アンナのそういった能力は達人並と言っても過言ではない。
ただ、エイナールの――しいては氷竜の気配探知能力が鋭すぎる。ただそれだけだ。
「笛を吹いてる時なら楽なのに」
アンナが薄ら笑いを口に浮かべ、炎の様な紅い眼でエイナールの手元の笛を見つめて言う。
演奏中のエイナールは全ての集中力を笛にまわしており(自分の世界に入ってるとも言える)無防備なのだ。
「笛の演奏は私の数少ない特技の一つですから」
優しく手元の笛を布で撫でてから、布で柔らかく包み込み、机の上の置き場に安置する。
「一杯いかがかしら?」
どこから取り出したのか、何時の間にか肩に掲げた樽を親友に示してアンナは言った。
樽から少しだけ漏れ出ているワイン特有の独特の葡萄の甘い香りを感じた氷竜は自分の小腹が空くのを敏感に感じた。
「ええ。喜んで」
席から立ち上がりアンナの座る椅子を用意しつつエイナールはそう言うと、ワインを割るための水と氷、そして焼き菓子を用意しにかかった。
「それで、何か話でもあるのですか?」
赤とも紫とも見えるワインの入った銀色の杯を小さく揺らしながら、エイナールが言う。
「ええ、その為に来たんだもの」
そう答えるアンナの顔は何処か暗い。エイナールはこんなアンナの表情は久しぶりに見た。
「どうしたの?」
返事の変わりにアンナは一枚の丸められた羊皮紙を懐から取り出し、エイナールに差し出した。
エイナールがそれを受け取り、広げて中身に眼を通す。
「これって……」
少し読み進めたエイナールの表情が険しくなり、その紅い眼が爛々と怪しい輝きを宿す。
「最終的に完成するのは10年程先になるでしょうが、それまでに【残る】か【行く】か決めておくのね」
エイナールの顔の険が深くなった。残された時間が余りにも少ない。
10年と言う年月は長い様で案外短い。特に人と違い寿命等無いに等しい竜にとってはあっという間だ。
エイナールが羊皮紙を丸めてアンナに返す。
「まだ……正直な話、私には決められませんね……」
その瞳は少しだけ揺れていた。揺れの中にあるのは故郷に対する強い想い。
「……そう」
アンナが何処か無理して作ったと思わせる笑みを浮かべて、羊皮紙を受け取り
「失礼するわね」
“ボッ”
紙が彼女の手から消えた。いや、正確に言うと燃えているという過程が見えない程の速度で燃え尽きた。
残った灰も更に竜の火に焼かれて極小の火の粉になって宙に飲み込まれる様に消えていく。
エイナールがパラパラと消えていく火の粉を遠い物を見るような眼で見ながら、ちびりと杯に口を付けて、ワインを少しだけ飲む。
甘いような酸っぱいような何とも言えない味がした。心なしか、いつも飲んでいる物より味が濃い気がする。
しかし少しだけ胸の中のモヤモヤが晴れた気がした。
「早いうちに決めなさい」
気楽な、しかし何処か強い口調でそう言うと、アンナも用意された自分の杯に手を伸ばして、優雅にワインを飲み干す。
そして次に小皿に盛られた焼き菓子を指で掴み、食す。凄く、甘い。
「まぁ、暗い話は部屋の隅にでも置いといて……今はこの時間を楽しみましょ」
アンナが大丈夫と慰めるように、満面の笑みを浮かべる。あの神竜の姉弟の笑み程の効果はないが、それでもエイナールは胸が少しだけ軽くなった気がした。
グイッと杯を傾け、中身を一気に飲み干す。
「何か、近況で変わった事とかありますの?」
エイナールと自分の杯に新しいワインを注ぎながら、純粋な好奇心でアンナが訊ねる。そして自分の杯をエイナールの方に近づける。
エイナールの脳裏に浮かんだのは今日出会ったあの神竜の姉弟。しかし、幼い子供に気付かれずに接近されたなんて言う気にはなれなかったので違う話題を
記憶から検索する。暫く検索すると1つだけあった。
「そう言えば、面白い人間がいたんですよ」
差し出された杯にエイナールが少しだけ竜の「力」を込めてフッと息を軽く吹きかける、それだけで杯の中身のワインが程よく冷やされた。
「面白い人間?」
アンナが冷やされた杯を傾けて中身を飲む。外見を平常に保ち、内心をなるべく外には出さない様にしながら。
彼女の頭の中には面白い人間と聞いて見ているだけで不愉快に、そして不安になる「あの男」が浮かんでいたのだ。
……もしかして、エイナールに接触したのか?
アンナの脳裏をふと、そんな不安がよぎる。この人間に特別優しい氷竜を騙そうと言うのか?
もしも、そんな事をしたらナーガが生かしてはおかない。今度こそあの「影」はエレブから完全に消し去られるだろう。
……最も、アンナにはあの「影」がそこまで愚かとは思えないが、もし、という場合もあるのだ。
「画家だそうで、私の絵を描いてくれたんです。それが凄く上手なんですよ……」
嬉しそうに、ある程度語るとワインを飲み、一区切りつける。葡萄が醗酵した液体で喉を潤してから再び口を開く。
「何というか、見ていて凄く穏やかな気持ちになれる絵を描く人でしたねぇ」
「その人の名前は?」
ワインがまわって来たのか、エイナールが少し赤くなった顔で考える。
「え~~、っと、忘れちゃいました」
アンナがハァと溜め息を吐く。印象に残ってるなら名前ぐらい覚えてやれよと内心思った。
「顔は覚えて?」
「はい。そこまでは忘れませんよ~、濃い緑色の髪の毛の、まだまだ少年でしたね」
「具体的には何歳ぐらいですの?」
「えっと……多分、14~5歳だと思いますよぉ?」
エイナールが艶やかな赤い顔で、身体を上下左右に揺らしながら答える。そろそろ本格的に酔っ払ってきたらしい。
アンナがほっと胸を撫で下ろす。以前ここを訪ねたアウダモーゼとかいう男はどう見ても14~5歳には見えないからだ。
自分の考えすぎだと分かって安心したのだ。
アンナが安心していると……。
どさり
エイナールが盛大に椅子から落ちた。そのまま絨毯の敷かれた床に倒れて動かない。見るとスゥスゥという寝息と共に肩が上下に動いている。
「……思ったよりも早かったわね……」
アンナがふぅ、と、息を吐く。この氷竜と長い付き合いの彼女にはエイナールが酒の類に極端に弱いことを知っていた。
それでも合えて、いつも飲んでいる物よりかなり純度の高いワインを持ってきて彼女に飲ませたのだ。
「今はゆっくり眠りなさいな……」
“あんな事”を知って、更には決断をする様に求められたのだ。受けたショックは決して小さくないだろう。今は酒の力でも何でもいいから何も考えずに眠って欲しい。
取りあえず、床に眠っているエイナールを力を使って「持ち上げる」とそのままベットの上に横たわらせ、上に毛布をかける。
アンナがチラリと寝顔を盗み見る。彼女の視界に映ったのはイリア地方の人間達に氷竜様と呼ばれ、崇められているとはとても思えない程、無防備な寝顔だった。
こうなってしまえば、気配探知能力なんて使える訳が無い。
「ふふふ……今度は私の勝ちね?」
見事騙しきってエイナールを寝かせたアンナはそう呟く。これで気配を悟られた時の借りは返したとばかりに。
何も気配の遮断だけが「そちらの方面」の能力ではないのだ。
「お休み」
最後に杯や小皿等を片付けると、アンナはまだ多量のワインの入った樽を持って自室に戻る。勿論部屋に術で外側から鍵を掛けるのを忘れない。
あとがき
今回は番外にするか、後編にするか、最後まで悩みました。
次章は少し年月が飛ぶので幾つか間に番外を挟みたいと思っています。
では、次回の更新にてお会いしましょう。