「情けない姿をお見せしてしまい、誠に申し訳ありません……」
唐突だが、イデアは酷く困惑していた。眼の前の光景にだ。
幻想的な音色に強く惹かれて、その音色を奏でている奏者に一目会いたいと想い、姉と共に空を飛び奏者の下に向かい、無事に奏者である美しい女性に会うことには成功した。
ここまではいい。予想通りだ。何も問題はない。その次に自分達二人を見た女性が驚き、悲鳴とも取れる絶叫を上げたが、これも特に驚く事ではない。
……だって、視線を感じて瞼を開けてみたら、視界に映ったのが宙に浮く子供だったら驚くだろう? 少なくとも卒倒する自信がイデアにはあった。
イデアはそう考えていた。
だが、真実は少しだけイデアの思っていた物とは違う。
本当は女性が驚いた理由は二人が神竜族だったからなのだ。だが、その事をイドゥンとイデアは知る由もなかった。自分達が竜族の間でどのような存在なのか姉弟はまだ自覚してはいない。
女性からしてみれば、眼の前にいきなり人間で言う所の王族、それも第一王子と第一王女が居たことになるのだ。その衝撃は推して知るべきである。
そして、衝撃から何とか立ち直った女性が次に取った行動にイデアは大いに困惑することになる。
反動で椅子が倒れるほど激しく慌てて立ち上がり、少しだけ乱れていたローブを急いで正すと、足早に手すりの奥にいる、姉弟の前に歩み寄り深く頭を下げた。
まるで二人の臣下であるかの様に。
そして、冒頭の言葉につながる。
「え、え~~っと……」
イデアがどうすればいいのか分からず、困った声を出す。前の世界も含めて今まで誰かに頭を下げられた事なんてない彼には、どう対応すればいいのか何て皆目見当もつかなかった。
しかも、初めて自分に頭を下げたのが絶世という言葉が陳腐に思える程の美女なのだ、この状況を如何すればいいのかなんて分かる訳がない。
と、そこで彼の姉が行動を起こした。繋いでいたイデアの手をやんわりと解くと、手すりを飛んで乗り越えバルコニーの敷地内に入る。同時に四枚の翼を消す。
そして女性の前に行くと、弟から習った初対面の人にまず行う「お辞儀」をして声を掛けた。
「はじめまして、わたしはイドゥン。おねえさんの名前は?」
女性がその赤い眼にイデア以上の困惑を宿し、顔を上げた。その顔には今言われた事の意味がよく分からないという戸惑いの感情があった。
「…………」
少しの間女性は呆気に取られて、イドゥンを見ていたが……、数瞬の間を使って、持ち直すと口を開いた。但し、吐き出された声は少しだけ震えていたが。
「わ、私は、イリアのエイナールと言います……」
「よろしくね エイナールさん!」
イドゥンが弟に教わった他人とのコミュニケーション術のひとつである「握手」をすべく右手を伸ばす。
エイナールが伸ばされたその手と自分の手を交互に数回みて、更に困った顔を浮かべる。
しかし上の者が握手を求めているのに、下の存在である自分がそれに応じない訳にはいかない。
更に数秒悩んだ彼女は、緊張でガクガク震える腕を何とか気合で動かし、イドゥンの手を握った。自分の主の娘の手を、だ。
「よ、よろしくお願いします……」
2、3秒、がっちりと手を握り合うと、離す。
イドゥンとエイナールのやり取り……いや、正確にはエイナールを、彼女を食い入るように見ていたイデアが動いた。
翼を小さく動かすと、手すりを飛び越えバルコニーの石畳の上に降り立つ。そして姉と同じように翼を収納する。
小さな歩幅でエイナールの近くまで歩み寄ると
「イデアといいます。よろしくお願いします」
挨拶をしてペコリと頭を下げた。エイナールの動きがほんの少しだけだが、完全に停止した。くどい様だが、この姉弟は人で言う所の王族である。
そしてイデアはこの世界での「頭を下げる」という行為の重要性をまだあまり理解してはいなかった。
「よ、よろしくおねが、、、い、、します……?」
最後が疑問系な口調になったのは彼女の内心の表れだろう。つまり、パニック状態だ。
エイナールが胸にそれとなく手をあてて、姉弟に気がつかれない様に注意して何度か深呼吸をする。混乱しきっていた頭が少しだけ正常になった。
しかし、まだどちらかというと混乱気味だ。
先ずは何でここにこの二人がいるのかを聞かねばなるまい。エイナールは膝を折り、目線を二人に合わせ、口を開いた。
「あの、よろしいでしょうか?」
「なぁに? エイナールさん?」
イドゥンが首を傾げてクエスチョンマークを出す。何? と、全身で聞いてくるその様子はとても可愛らしくエイナールには見えた。
「どうして……このような所に?」
彼女の質問には弟のイデアが答えた。まだ産まれて1年もたっていないのに、目上の人に接する大人みたいな態度でだ。
だが、エイナールはイデアの頬がほんの僅かだけ普段より赤みを帯びていた事に気がつかなかった。
「笛の、音に惹かれてきました」
「あ……」
エイナールがしまったと言わんばかりに声をだす。まさか姉弟の部屋まで音が届くとは思わなかったのだ。
「ふ、不愉快でしたか?」
恐る恐るエイナールが訪ねると……姉弟が違うと首を横に大きく振る。
そして全く同時にズイ、と、身を乗り出しエイナールに顔を近づけた。
「「すごかった!!」」
姉弟が声を合わせ、憧れと好奇心に眼を、太陽の光を反射させている氷の様に輝かせながら、同じ言葉を発する。
その小動物を思わせる姉弟の様子が余りにも可愛らしく微笑ましかった為……。
「……ん……」
思わずエイナールは笑っていた。手を口元に当てて上品にクスクスと美しく笑う。
さっきまでの緊張が自分の身体から抜けていくのが彼女には分かった。
ふぅ、と、今度はさっきよりも穏やかに小さく息を吐き、精神を落ち着かせ、心を完全に平常に戻す。
完全に普段の状態に戻ったエイナールが二人に視線を戻すと、姉弟はまだ彼女を見ていた。竜族の中でも特徴的な紅と蒼の眼が無邪気に輝いていて、とても美しい。
「あの音はどうやって出すの?」
イドゥンが興味深々に訪ねる。まだまだ幼く、ナーガとイデアに教えられた事意外はほとんど知らない彼女は、あの音を出す物体の正体を一刻も早く知りたかった。
「あ、はい。あの音を出していたのはですねぇ……」
ゴソゴソと純白の長衣の懐に手を差し入れ、先ほどそこに放り込んだ笛を探して、取り出す。
「おお~~」
イドゥンが取り出された木製の横笛を見て喜びと好奇心の混じった声を出す。
「えっ、と」
さっきは気が動転していて乱暴に懐に放り込んだため、そのせいで傷などがついてないか心配なのでグルッと一通り回して見る。
「よかったぁ……」
傷1つ付いてない事を確認するとエイナールは安堵の息を漏らした。そのまま笛を愛おしそうに優しく、さするように撫でる。
「大切な物なんですね」
イデアがエイナールの仕草に見惚れながら、言う。
エイナールが頷き、小さな子供がするような無邪気な微笑をその端正な顔に浮かべて答えた。
「はい。すごく、すごく、思い入れがあるものなんです……」
間違いなく万人を魅力する笑みで笛を撫でるエイナールは酷く艶やかだった。少なくともイデアの視線を釘付けにするほどには。
「あの、イデア様? よろしいでしょうか?」
「な、何ですか? エイナールさん」
笛を撫でるのを止めたエイナールに突然自分の名を呼ばれ、エイナールに見入っていたイデアが慌てて答える。
「私に敬語は不要です。エイナールと呼び捨てにしてください」
「なんで?」
イドゥンが眼を瞬かせながらイデアの疑問を代弁した。
エイナールが優しげな、しかし凛とした、確たる意思を宿した赤い眼で双子の色違いの眼を真正面から見る。
声を少し低くして、まるで母が子に言い聞かせるように姉弟に語りかける。
「御二方は神竜族、我ら竜族の頂点に君臨する者。その様な方が私のような一氷竜に気を使う必要など御座いません」
「「……」」
姉弟がエイナールの言葉の意味が分からないと言わんばかりに沈黙する。
びゅうっと一陣の生暖かい風が吹き、姉弟のローブとエイナールの蒼い長髪を揺らした。美しい髪に隠されていた彼女の耳はやはり長かった。
重々しい空気がバルコニーを完全に支配する。
と。
エイナールが破顔し、正しく氷の竜に相応しい凛とした顔が、実の子を見守る母親のような優しげな顔になる。
そして何とか二人でも理解できそうな言葉を脳内で検索する。
そして出て来た言葉が――
「つまりは、気さくに接してくださいという事です」
「「分かった!」」
イドゥンが笑顔で、イデアが少し納得いかない顔で頷く。
「ねぇ、エイナール……神竜って、そんなに凄いの?」
「さん」と続けそうになるのを意識的に押さえ込み、イデアがまだナーガからも詳しく学んでないことを問う。
【神竜】という種族なだけでここまで他に尊重される理由がイデアにはよく分からなかった。
「神竜族は文字通り、我ら竜族にとっての【神】といえます。神竜はその力で竜族を守り育み、知識と知恵で導く。神竜と言うのはそんな存在なんです」
本来は【エーギル】の量と質やら、神竜だけの能力やら、竜族の歴史などの深い部分もあるのだが
そういった小難しい部分はいずれ彼らの父が教える事になるので極力排除して、今は子供でも分かりやすく噛み砕いてエイナールは教える。
「……」
イデアが無言で首を緩慢に上下に動かす。
言われた意味は何となく分かるが、火の玉1つ出すのに四苦八苦している自分が、彼女にそこまで言われるほど強大な存在だとは到底思えなかった。
それに何より思った事が―――
(宗教、なのかな……?)
実際、竜族が神竜に向ける想いと信頼は人が神に向ける物と寸分も違わないのだが、何かを信仰した事など今までで一度もないイデアにはよく分からなかった。
イデアの前の世界の宗教と違う点と言えば、神がその場に形を持って居ると言う事と、その神が責任を負う事もあるという事ぐらいか。
(ま、今考えても意味なんてないか)
どうせ長く生きれば詳しく知る機会もあるだろと思い、今の所は「強大な存在だから他者に頼られる」と自己完結する。
そして同時に
自分がそんな大勢に信仰される様な存在に成るなんて無理だなと、イデアは胸の中で思った。
「エイナール、あのきれいな音はどうやって出すの?」
少しだけ欝に陥りかけたイデアの思考を無邪気な姉の声が強引に現実に引き戻す。見れば、イドゥンがエイナールに「笛」について聞いていた。
「それは、こうして、ですね……」
エイナールが「失礼」とイドゥンに断りを入れて、立ち上がり笛を唇の少しだけ下に当てる。その細く白い指で、細長い横笛の表面にある穴を塞ぐ。瞼を降ろし、集中する。
先ずは基本的な音階。ドレミファソラシドに近い音を出す。そして次はその逆にドシラソファミレドと音階を落としていく。
その次はランダムに低いドから高いドまでの音を吹き鳴らす。
同じ音でも強弱をという表情を付け、決して聞きなれさせない。
轟々と濁流のように激しく、サラサラと湧き水のように優しく、音程を変え、様々な音色を横笛一本で生み出していく。
既にそれが1つの名だたる曲として成立してしまいそうな程にエイナールの奏でる音色は美しく洗練されていた。
「すごいなぁ……」
イドゥンが感嘆の声を出す。イデアも同じ気持ちだった。音楽に詳しくないイデアも、エイナールは非凡な奏者なのだと分かった。
一通り演奏を終えたエイナールが笛を口元から離す。そして瞼を開けて、集中を解く。
「どうでしょうか?」
そして自らの技を二人に誇るように無邪気に笑う。しかし、彼女の言葉に答えたのはイドゥンでもイデアでもなく、全くの第三者だった。
「見事だ」
喜怒哀楽と言う物が全く含まれていないのに、不思議なほどよく通る声がバルコニーに響いた。
三人が声の主の方を見る。
姉弟の「父」ナーガが手すりの外側――――足場などない宙に翼も出さずに立っていた。そして相も変わらず、何も感情を読めない眼で三人を見ている。
ナーガの姿に気がついたエイナールが静かにその場で自身らの主に平伏す。
「面を上げよ」
宙を滑るようにナーガがエイナール達に近づく。
人が歩くとき特有の肩の上下の動きが全く無い、その朧気な動きはナーガの無表情な顔と希薄な気配も合わさってイデアには亡霊が自分達に近づいてくる様に見えた。
ここにナーガが現れた事に関してはイデアは特に疑問には思わなかった。何故ならばこの男ならばどんな所に現れても不思議ではないと思っていたからだ。
「子らが世話になった」
それだけをエイナールに言うと、次は視線を姉弟に移し
「昼食の時間だ。続きは後にせよ」
二人に手招きをする。イドゥンが翼を出現させると大好きな「父」に文字通り飛び込んだ。父の手を取り、甘えるように笑う。
ナーガがイドゥンの背に現れた四枚の竜の翼をみて、その眼をほんの僅かに細めた。
そして探るように自分の娘に聞く。
「もう人の姿のままで飛行できるようになったのか?」
「うん! それにイデアも出来るよ!!」
ナーガが眼を動かし、イデアに向ける。
「出して見せよ」
「う、うん……」
イデアが少しだけ冷や汗で背を濡らしながら頷く。さながらその気分は竜に睨まれた人間と言った所か。
石を取り出し、先ほどと同じ要領で竜の力を操り金色の「翼」を出現させる。
ナーガが一言も発さずにその翼をしげしげと見極める様に眺める。
「…………」
「ど、どう、かな……?」
「いや、目出度い事だ。だが、飛行するのは快晴で吹く風が弱い時だけにせよ。そして夜間の飛行は許可せん」
少しだけの圧力を込めた声で注意する。二人がナーガの怒気ともいえる物を敏感に感じ取り必死に首を縦に振る。
落ちたら即死なのだ。これぐらいの釘は必要だろう。念の為、後で二人の部屋のバルコニーの下方一帯に投網の様な形状の結界をナーガは張って置く事にした。
ぐ~~。
「父」の言葉が終わると同時に、間抜けな空腹を知らせるあの音がイドゥンとイデアの腹から同時に響いた。
何処までも共鳴している姉弟にナーガがやれやれと溜め息を吐いた。
お前もこっちに来いとイデアに手招きし。自分の前に立たせる。
「ではな、エイナール。また暇を持て余した時にでも二人の相手をしてやってくれ」
「またね、エイナール! また笛で呼んでね」
二人が一先ずの別れの挨拶をし、イデアも無言ながら少し青い顔のまま笑顔で手を振る。
そして神竜の父子は自らの部屋に帰っていった。
その光景を見てエイナールがクスクスと上品に笑う。余りにもあの三人が、
強いてはイドゥンと自身の主が幸せそうだったから、何だか自分も胸の辺りがポカポカしてきたから笑った。
そして、また快晴の日にでも笛を吹いて、あの神竜の姉弟と楽しい時間を共にしたいと思った。
エイナールの趣味である笛の演奏に、もう1つの楽しみが追加されたのだった。
あとがき
こんばんは。
書けば書くほど当初のプロットから離れていき、軽く恐怖しているマスクです。
物語を書くのって凄く難しいですね。
では、次回の更新にてお会いしましょう。