“畏怖”
その光景を見て、まず胸に浮かぶのはそんな言葉であろう。
神竜族のシンボルである太陽をイメージさせる巨大な紋章が彫られた壁の前に、紋章に劣らない存在感を誇る真紅の椅子――
否。暴力的なまでの威圧感を振りまいているのは椅子や紋章などといったそこいらの城にもある瑣末なものなどではない。
空間が歪んでいるのでは? とさえ思わせる圧力は玉座に深々と、堂々と、腰掛ける白髪の線の細い男から噴出していた。
神竜王 ナーガ
それが王の椅子に腰を下ろす者の名だ。
外見こそ20代の後半辺りに見えるが、その実、人という種の誕生以前から生を紡ぎ、竜を導いてきた神にも等しい力を誇る最強の【竜】だ。
そして今、彼は一人の男の来訪を待っていた。以前彼に謁見を申し込んだ頭がオカシイ人間だ。
だってそうだろう? 護衛も付けず、たった一人で竜の本拠地に乗り込んでそこの王様に謁見を申し込むのだから。
少なくとも健全な精神構造はしていない事は確かだろう。健全な精神をもった人間ならばそんな事はしない。
自分をいつでも殺せる人外の化け物の様な奴らがウヨウヨいる場所に、一人で行ったりする等断じてしない。
……例外としては知識欲に狂った魔道士というのがあるが。ナーガは今から来る者はこの種の人間だとあたりをつけている。
竜族の産まれた地にして、本拠地でもある「殿」の玉座の間は今、その役目を果たそうとしていた。
即ち、下々と王の唯一の謁見の場という高貴な役目を。
扉が開く。約束の時間だ。
まず部屋に入室したのは大胆なスリットの入った紅いドレスを身体の一部のように違和感なく着こなす、髪、眼、雰囲気さえも“紅い”女性――――火竜族のアンナ。
そして数瞬遅れて、誘導されるようにもう一人、黒いマントを纏った人間の男が入ってくる。
部屋の空気が変わった。張り詰めていた場が男の近くだけ、ぞぶり、という擬音がなりそうな程に生々しく濁った。
まるで戦争のすぐ後に出来る死体が散乱している場所のような空気だ。気のせいか腐臭もする。これで鴉が来たら完璧だ。
その男は【黒かった】ただ只管に、どこまでも【黒かった】
しかし、どこが? と、訊かれても具体的に答えられる者は少ないだろう。
顔は普通だ、少しだけそこいらの成人男性よりも整っている事を覗けば。
髪も普通だサカに住まう遊牧系の民族とは違った種類の黒い髪。よい生活を送っているのか明かりを反射して艶やかな光が見える。
眼、これも特に珍しくない。魔道士によく見られる煮え滾る狂気を胸の奥底に隠している者特有の、濁りきったどぶを連想させられる眼。
全て、今までナーガは見たことがある。特に三番はよく見る。大抵は自滅していったが。
考える。理解しようとする。読み取ろうとする。この男の何が、この【黒さ】を出しているかと。
何がオカシイ? 一体何が?
入ってきた男をまじまじと観察していたナーガはやがて気がついた。この男の【黒さ】に。
気がついたナーガの眼が射殺すように、まるで矢を獲物に放つ狩人のような冷たい鋭さを帯びた。いつもイドゥンやイデアに向ける物とは程遠い眼だ。
【エーギル】だ。エーギルが黒い。
もっと分かりやすい様、噛み砕いて言えば、魂が、黒い、濁っている。
【エーギル】とは生命力そのもの。その在り方はその存在そのものと言っても過言ではない。
それが濁っているのだ。まともな筈がない。
ナーガの中で、このアウダモーゼという男はかなり危険と判断された。澱んだ魂を持った魔道士など危険人物以外の何者でもないからだ。
見ればアンナはいつの間にかアウダモーゼの後ろに陣取っており、片手は懐の暗殺様の小型の武器へと、もう片方の手は後ろに回されている。
恐らくは、この男の危険性を理解したのだろう。万が一に備えている。
男――アウダモーゼが音もなくゆっくりとナーガの腰掛ける玉座に歩み寄っていく。まるで影が歩いているようだった。
這い寄る様に地を滑って動いていたが、王座の8メートル程手前で止まり、自然な動作で膝を地に突けて、頭を垂らし、玉座の主に臣下の礼を取る。
「お初に、お眼にかかります。偉大なる竜族の王よ」
外見通りの若い男の声。しかしどこか聞いていて不安になる。暗い闇の底から響いていると錯覚してしまいそうな声だった。
「何用だ」
答える玉座の主は簡潔にそれだけを口にする。
濁った空気が吹き飛び、きりきりという音が何処からか聞こえてきそうな程、場が再び張り詰め、空間が歪む。
「貴方様にお頼みしたいことがございまして……」
少しだけ顔を上げ、影がナーガを見る。内心は興奮しているのか、ギラギラと暗く、おぞましく輝いた眼がナーガに向けられた。
見ているだけで生理的な嫌悪感が湧き上ってくる眼だった。
「人間同士の闘争などに興味はないぞ?」
自分に向けられる瞳に若干の嫌悪感を抱きながらも、その感情を一滴たりとも面には出さずに言う。
当然、ナーガ自身こんな男が貴族や王族な訳はないと分かっているが、万が一の為に鎌をかけておく。
人は見かけによらないかもしれないからだ。
そして竜の力を使って国を奪いたい等のそちら方面の願いならば、即刻、お引取り願うつもりだった。
しかし影のような男――――アウダモーゼが首を横に振るい、否定の意を表す。
ナーガが内心、ほんの僅かだが、落胆した。追い出す口実が1つ消えてしまったからだ。
まぁ、元々期待はしていなかったからいいが。
「私めは、貴族や、ましては王族などではありません。私は只のしがない魔道士でございます」
「そのしがない魔道士が、我らに何の用だ」
色違いの瞳の狩人、否。絶対者の一対の瞳が影を射抜く。
深い影が、返事の変わりに懐から束ねられた紙を取り出し、ナーガに差し出す。
その手は少しだけだが、震えていた。
玉座の傍らに立っていた黒い髪と金色の瞳を持った男がそれを受け取り、主に渡した。
ナーガが眼を通す。
一枚、また一枚と、束ねられた紙を捲っていく。
「……ほう」
ナーガが彼には珍しく驚きを表に出す。その声には心底驚いたという気持ちが含まれていた。
ペラリ、ペラリ、と細い指で捲り、眼を通しながら影に疑問を投げかける。
「お前は、この情報を何処で知った?」
影が膝を突きながら恭しく答える。
「恐れながら。我々は貴方達、竜族を研究するものであります」
ナーガが更なる意識を影に向けた。影に凄まじい重圧がかかるが、影は気にせずに語り続ける。
いや、単に気がついていないのかもしれない。
「我々は、竜の、圧倒的なまでな力に魅入られた者。貴方方の忠実な僕……」
「質問に答えよ。お前は、お前達は、どこで、この情報を知った?」
言葉巧みに誤魔化そうとする影に、大きすぎもなく、小さすぎもない声で一喝。
――――部屋が、歪んだ。
彼の腰に差してある【覇者の剣】が金属質な音を立てる。
パサリと、王の手より書類が机に落とされた。
その書類に書かれていた事。それはかつて神竜に葬られた種――――始祖竜の事柄が詳しく書かれていた。
それは「殿」の図書館に保管されている古代の資料の内容に比べれば氷山の一角に過ぎない内容だったが、それでも見過ごす事は出来ない内容であった。
影が、ぶるっと小さく一度震えると、再び口を開いた。
「失礼を、お許しください。その特異な竜――始祖竜と呼ばれる竜の事を我々が知ったのは、最初は偶然でした。正直、今、貴方様にその書類を見せるまでは
私もその存在を信じる事ができませんでした。しかし――貴方の反応を見て私は確信いたしました。その竜は実在したと」
「我で、試したのか?」
利用されたというのに口元に小さな笑みを浮かべながら王が聞く。
しかし、眼は欠片も笑ってはいなかった。眼球の中には極寒のイリア地方の吹雪もかくやという冷気が吹きすさぶっている。
「はい。恐れながらも利用させて頂きました」
申し開きもなく。只々、真実のみを口にする。この場で嘘を吐く事は得策ではないからだ。少なくとも影は腹を括っていた。
最も、竜の王を利用する時点で得策からはかけ離れているが。
王からの圧力が減衰した。
「………………よい、それで何用でこの殿に来た? 真実かどうか確かめたかっただけではないのだろう?」
ナーガが呆れ半分な口調で問う。内心、さっさと帰ってくれと、思いながら。こんなイカレタ魔道士には正直これ以上関わりたくなかった。
問答無用で殺さないのは心が広いのか、それとも人の間に竜族は尋ねて来た人間を殺した等という変な噂が立つのが嫌だからか。
影が頭をもう一度深く下げる。
「私に、この殿の、図書館を使用させて頂けないでしょうか?」
「いいだろう」
答えは簡潔。影が驚くほど呆気なく許可する。待機していたアンナが顔に驚愕を浮かべるが、直ぐに精神力で無表情に戻す。
「但し、資料紛失を防ぐ為、見張りをつける。それと――」
王が手を広げる。掌にて蒼紫の禍々しい炎が燃え出した。
「これに、今この場で、血で貴様の名を書いてもらう」
炎が消える。彼の掌には年季を感じる一枚の茶色い皮紙が存在していた。
紙がフワフワとアウダモーゼに飛んでいく。
影が皮紙を手に取った。
「これは……?」
アウダモーゼが紙を見て疑問の声を出す。
「その紙の名は【血の誓約書】かつて汝ら人の王族が我らと契約を結ぶ時に使用した一品だ」
ナーガが何時の間にかその手に出現させた銀のナイフを影に向けて柄から投げる。
「契約方法は至極単純。その紙に自分の血で自分の名を記せばよい」
一泊。
王が一度息を吸いなおす。
そして口を開き無表情だが、よく通る声を飛ばした。
「契約内容は『資料室の使用は3ヶ月のみ。それ以上は認めない』そして『資料及び、資料を写生した一切のものを殿の外に出さない』これだけだ。もしもこれが破られれば、契約の縛りによってお前は造作もなく死ぬ。さぁ、どうする」
あぁ、と、思い出した様にナーガが続ける。
「もしも、契約を結ばないのならば帰るといい。アンナに送らせよう。恐らくはもう二度合うこともないだろうな」
淡々と言外にもう来るなと言う。正直な話、この腐臭を纏った影は非常に不愉快な存在だった。
影が考えるように揺れる。否。考えるまでもなく最初から答えは決まっている。例え3月の間だけとはいえ竜の叡智が取り込めるのだごちゃごちゃ考える方が馬鹿らしい。
例えそれが呪いともいえる横暴な契約をその身に受けようともだ。影はつくづくどこまでも典型的な魔道士であった。
「分かりました、その誓約、受けましょう!」
影はそう言い放つと渡されたナイフを指に突き刺す。紅い、どこか粘り気のある液体が滴り、床を朱に染めて汚す。
影がそのまま指を筆代わりにして自分の名前を書き殴っていく。
【アウダモーゼ】 と。
インクとして使われなかった分の血が花吹雪のように飛び散る。
「書き終わりました。王よ」
影が何処か興奮した様子でナーガに告げ、サインを書き込んだ誓約書を差し出す。その眼は竜の知識が取り込める嬉しさから先ほど以上に狂気的にギラギラ輝いている。
誓約書が音もなく浮き上がり、玉座に向けて飛行し、そのまま王の手に収まった。
王が近くに控えていた黒い髪の人形のような中性的な人物に影を資料館に案内せよ、と、命ずる。
影は最後に深くナーガに礼をすると人形に案内され、部屋から退席した。
「本当に、よろしいので? 長」
影が完全に部屋から退去したのを見計らって今まで沈黙を続けていたアンナが主に尋ねた。
「構わん。滅びた種の事など幾らでも学ばせておけ」
それに、と続ける。
「資料館の文字は全て我らの言語で書かれている。それもかなり古いものだ」
竜族の古い文字、それは“読む”というよりは意味を“感じる”に近いものだ。あくまで竜族の超感覚で読む、竜族専用の文字を人間であるアウダモーゼは読め……感じられるかどうか。
それに始祖竜等の文献はともかく、竜族の術が記された書などは竜以外がその強大な力を利用できないように半ば暗号じみた物になっている。
いかにあの男が優柔な魔道士でも3月で言語の感じ方を覚え、更には難解な暗号を解き、竜の知識をその身に宿せるかどうか。
「それに、しつこく嗅ぎ回られ、万が一にでも【門】や【里】の事を知られる分けにはいかぬ」
最後にそう言うと、ナーガが眼前に今まで撤去されていた机を呼び出す。その行動は遠まわしにアンナに退室を促していた。
アンナも影と同じく一礼すると、入室時と同様に音もなく退室していった。
いつも通り、部屋に一人になったナーガが考える。
あの影――アウダモーゼという魔道士について。
度胸こそは買うが、愚か者。それがあの影についての評価だった。
もしも、訪ねてきたのが20年程早く、人と竜の関係が今よりも気にせずに良かったら、誓約書と偽り、呪いの書にサインさせていたかも知れない。
それほど不愉快な存在だった。
小さく、頭を振る。そして頭からあの影の見ているだけで不快な眼の記録を消し去る。
もう、あの影には鎖をつけておいた。不確定要素足りえない存在になったのだと自分を納得させる。
――そう、誓約書に書かれている3ヶ月のみといのは、人生全てを含めてだ。二度目はない。一生あの誓約はあの影についてまわる。
勿論、契約の重複など不可能だ。異常を感じ取った誓約の『呪い』は二度目の契約を受け付けないだろう。
一度施行された契約は竜王ナーガでも簡単には覆せない。【血の誓約】などと言う強力にして凶悪な契約ならば尚更だ。
もしも三ヶ月たってまたあの男が資料館に入りたいと言うならばこの事を教えてやろう。無論、一歩でも入ったら誓約で死ぬが。
ナーガの“小さな”嫌がらせであった。
あとがき
今回もいろいろとやっちまった感があります。
それにしても妙に背中がゾワゾワするし頭も痛い……。
こんな状態で書いたので何か変な所があるかもしれません。
もしかして今話題の豚インフルかな?
後、ネットでマスクが4000円で取引されていて驚きましたww