―――ザァァァァァァァァァ…………。
文字通りバケツをひっくり返したような激しい豪雨が窓をガンガンと叩きつける音でイデアは強制的に覚醒させられた。
ムクリと起き上がって、喧しい騒音を奏でている窓を忌々しげに多分の眠気の混ざった眼で睨む。
昼間ならよく見える山々の絶景も見えず、それどころか隣接しているバルコニーさえも見えない。見えるのは窓にぶつかる豪雨と底知れない夜の深い闇だけ。
いつもの癖で時計を探そうとするが、そんな便利な物など、ここには無いことを思い出して止めた。
「ふぁぁ……」
ぐっと背筋を伸ばし、大きな欠伸を吐き、気分を入れ替える。
薄暗い部屋にパチパチと暖炉にくべられた薪が燃える音がやけに大きく聞こえた。
とりあえず、一度厠に行って用をたしてからもう一度眠ることにイデアはした。
まずは明かりが必要だ。足が引っかかったりして転倒したら危険だ。幸い自分はそれを持っている。
懐に手を伸ばし、純金の塊のような美しい竜石を顔の前に持ってくる。
最近、なんとなく動かす事に慣れてきた「エーギル」なるものをほんの少しだけ石に注入した。
音もなく竜石が黄金色に輝く。竜族の中でも自分の力そのものと言える竜石をトーチ代わりに使用するのはイデアぐらいだろう。
それを懐中電灯の様な明かり代わりにして大きすぎるベットから抜け出そうとするが……。
がっ。
何者かに毛布の中の裾を力強く掴まれた。身体がつんのめる。
「ひぃっあっあああ!!!」
予想もしていなかった事態にイデアの口から幼い子供特有の甲高い悲鳴が出る。
一気に背中に冷たいものが溢れてくるのを感じてながら、固まる。いや、どちらかというと凍りつく。
尖った耳が的確に心境を表して、天を突くばかりにそそり立つ。
隣のイドゥンは今、ぐっすりと寝ている筈だ。ならば一体誰が?
はっはっはっと、何度も小刻みに疲労した犬のような吐息を漏らしながら自分の裾をがっちりと掴んでいる何者かの手を見ようとするが……やはり勇気が湧かない。
思い浮かぶのは後悔の念。以前幽霊なんてかわいいものだとか思ってた自分を殴り飛ばしたいと彼は思った。
竜族の術で強化され、決して雨風程度の力では割れないほどの強度を誇る窓に、激しく雨が叩きつけられる音が部屋に響く。
バクバクと心臓が普段の二倍近い速度で鼓動を刻み、血液を猛烈な勢いで身体に送り出しているのをぼうっとした頭でどこか他人事のように感じながら、徐々に気を落ち着かせていく。
そうだ今の自分は竜なのだ、ただの人間ならともかく今の自分なら何とかなるはず。そう必死に自分に言い聞かせて、精神の安定を図る。
チラリと、意を決して力強く掴まれている裾を盗み見る。
小さな、細い、華奢な手が、そこにはあった。
大分引いて来ていた冷や汗がまたもや吹き出て、服を濡らしていくのを実感しながら、その手の先の腕を見て、更にその先にある筈の身体を探す。
長い彼の耳が心境を表すように伏せて耳を塞ぐ。
(まさか……)
腕を辿っていくに連れて、イデアは自分の中から恐怖が薄れていくのが分かった。何故ならばこの白くて細い腕に見覚えがあったからだ。
そして手を動かしていた身体――――姉の顔を見てイデアは喉を震わせた。
「……おきてたんだ、姉さん」
大きく、大きく深呼吸して緊張感やその他もろもろを自分から吐き出す。そして空気と一緒に安堵を吸い込む。
耳が安心したと言わんばかりに、力なくゆるゆると緩慢に起き上がり、いつもの定位置に戻った。
暗闇の中、竜石の仄かな明かりに照らし出されたイドゥンの顔は少しだけやつれていて、眼の下には黒い隈が出来ていた。
「いかないで……」
言葉と共に更に強くガッチリと皺が出来るほど強く力を込める。
イデアが内心やれやれと肩をすくめる。姉の手に自身の手を優しく添える。少しだけ力が弱くなった。
「すこし、かわやに行くだけだよ。すぐに戻ってくる」
柔らかな口調で言い聞かせながら手を離させようとするが、弱くなっていたのにまた強く握られてしまった。服に浮かんでいた皺が深くなる。
まだ、本格的に一日が始まっていないのにそろそろ二桁に到達しそうな溜め息をまた吐く。恐らくかなりの量の幸運が逃げているだろう。
「どうして?」
イデアが問う。どうして引きとめるの? と。少し用を足してくるだけじゃないか、と。
「暗いところに、一人はいや……」
「あぁ……」
なるほどと解を得て小さく頷く。確かに小さな子供が、真夜中にこんな大きくて暗い部屋に一人ぼっちにされるのは怖いだろう。しかも外は大嵐なのだ、余計に恐怖をかき立てるだろう。
もしかして起きていたのも嵐が原因かもしれない。いや、きっとそうだろう。
理由が分かればどうって事はない。対処法も至って簡単だった。
「じゃ、いっしょに行こうか?」
「えっ……?」
二人で行けば良いだけなのだから。
「しかし、まぁ、竜なのにくらい所が怖いとは……」
無事に用を済ませて、ベットの毛布の中に潜りこみ、外気に触れて冷えきった身体に暖を取り入れながらイデアが隣に横たわっている姉に呆れたように言う。
対するイドゥンはガンガンと先ほどよりも喧しく騒音を発生させている窓を勤めて気にしないようにしながら弟に答えた。
「……だって、こわいものは、こわいよ……」
そのままイデアの手を強く握りしめながら雨風の音を聞きたくないと毛布に潜る。
彼女の弟も仕方ないなと内心で呟きながら、姉を追うように自分も毛布に潜り姉の傍に寄り添う。何故だか嬉しくてたまらなかった。
残ったもう片方の手も姉と握る。
スゥスゥ、と、二人分の呼吸音だけが支配する暖かくも暗い空間で双子はがっちりと手を握りあったまま眠りについた。
この後、二人はナーガが朝食を運んで来るまで眠っていた。
これは余談だが、その日の朝食は以前イデアに激しく好評であった「日本食」だったそうだ。
トントンと、木製のドアが規則正しくノックされる。
その音に愛用の杖を何とか地面から1メートル辺りの場所まで手を使わず、超能力の様な力で持ち上げていたイデアが気を逸らした。
カランと、乾いた音を立てて杖が床に落ちる。そのままコロコロと転がっていく。
邪魔をされた事からむっとした表情を一瞬だけイデアが浮かべるが、すぐに表情を直して扉に向かって言う。
「どうぞ」
音もなく木製の扉が開き、幽鬼の様に白髪で細身の男、双子の「父」ナーガが入ってくる。
手に持った分厚い本に二人の視線が否応なく向けられた。
部屋の中の机がひとりでに動き出し、ナーガの前まで滑るように飛んでいく。まるで主に呼ばれた召使のように。そして彼の前でピタリと止まった。
ぱさっと、ナーガがその召使――机の上に手に持っていた分厚い茶色の本を丁寧に置く。
次に椅子が二つ机の前まで飛んできて、二人の前で座れと言ってるかのように停止する。
イドゥンとイデア、二人の子供がそれに座った。
そして、彼が言った一言でイデアのテンションは大いに高まる事になる。
「今日からお前達に魔道を教える」
イドゥンが魔道という単語の意味が分からず、首を傾げて頭上に「?」マークを浮かべた。
対する弟のイデアはというと、小さくガッツポーズを取っていた。
彼の脳内に克明に再生されるのは手から眩い光の矢を射出したり、姉に負わされた自分の傷を薬などを使わずに瞬時に癒した光。
あれを自分自身も使えるようになる。そう思うと不思議と気分が高揚してきて頬が知らず知らずの内に緩む。
「まずは概要からだ」
「へ?」
てっきり術の使い方から教えてくれるものだと思っていたイデアが間の抜けた声を出す。
ナーガがその鋭い眼でイデアを見据えた。ドキンっと睨まれたように錯覚したイデアの心臓が跳ね上がる。
「自分達がどのような力を手に入れようとしているか、それを知るのは当然の事だと思うが?」
いつになく厳しいその口調に肩を落とし、身を縮める。力なく垂れた耳が哀愁を誘う。
それを見届けたナーガが続ける。
「まず始めに、魔道士というのは単純に魔道の術を使う者を示すものではない」
ゆったりとしたローブの裾から片側式の眼鏡を取り出して装着する。まるで理系の教師のような風貌になった。
「【魔道士】というのは探求者だ。限りなく湧き出てくる知識に対する飢えに永遠に苛まれる者達。それが【魔道士】」
「「……」」
ナーガから放たれているいつものとは違う、言葉では言い表せない近寄りがたい独特の気配に完全に呑まれて双子は声も出せずにいた。
それをちらりと見て、一泊だけ空けてナーガが続ける。
「魔力や術など所詮は知識に付随してくるものに過ぎん。そして、これが最も重要な事なのだが――」
いつも通りの淡々とした喋り方が今はとても怖いと双子は思った。まるで人形が喋っているみたいに見えた。
「知識というのは魔物だ。姿もなく形もない、だがいつも魔道士についてまわる魔物だ。魔道士が己の分を弁えずに過ぎた知識を取り込んだ時、知識は魔道士を取り殺す」
「ど、どうなるの?」
イデアが青白い不健康な顔で問う。正直下手なホラー話より怖かった。ナーガはそちらの方面の語り部の才能があると思った。
「簡単な事だ。肉体的な死こそ迎えないが、魂が死ぬ。ただ息をして、食事を取り、排泄する「だけ」の生きた肉と血の塊に成り下がる」
人形と変わらんとナーガは続けた、なんでもないことだと言わんばかりに。それを聞いたイデアの顔が更に青くなり、白に近くなった。
「自分の器を遥かに超える知識を取り込もう等と思わなければ大丈夫だ。最もその見極めをするのは我ではなく、お前達自身であるがな」
そう言って、ポンと何気ない動きでイデアの頭の上に片手を置き、治癒魔法【レスト】を発動させる。イデアの顔色が幾分か健康的に戻る。
イデアが心地よさそうに眼を細めた。
「おとうさん」
不意に今まで黙っていたイドゥンに声を掛けられた「父」がイドゥンの方にその特徴的な眼だけを向ける。
「わたしも、撫でて」
「?……何故だ?」
言われた意味が分からず2、3瞬く。その行為には、何も理由など無いのに何故、撫でなければならないのかという彼の疑問が浮かんでいた。
本当に意味が分からず、固まっていると彼女の眼が潤んで来た。さしずめ決壊5秒前といったところか。
「撫でて……?」
なぜてくれないの? という疑問系。泣かせる分けにもいかず、仕方なく行動の意味も分からないままナーガが手をイデアの頭からイドゥンの頭へと移す。
「~~♪」
小鳥のさえずりの様な声を上げる。5秒ほどそうしていて、もういいだろうと判断した「父」が手を離す。娘がなにやら物足りなさそうな顔をしていたが気にしない。
「知識を取り込み、それを従えられるのは、ほんの一握りだ。だが、そういった者達も自身も気がつかない内に大切な何かを喰われているのが殆どだがな」
それでも、と続ける。
「それでも、その大切な何かと引き換えにしてでも知識を取り込み、力が欲しいという愚者は後をたたん。
中には自分が力を求めていた理由さえも忘れて、力を求めるというどうしようもない馬鹿もいる。
まぁ、生きて自分を維持したまま力を手に入れられるの者は述べたように本当に僅かしかおらん……」
ふむ、と、一旦口を止めて肺の中に空気を送り込む。喋るのに必要な分の空気を吸い込むと、また口を開く。
「これは、本当に珍しい事例で、ごく稀に、人の中でも魔道を歩いている内に人の【理】を超えて生を紡ぐ者がいるそうだ」
「【理】って?」
聞き慣れない単語に双子の姉が「父」に問う。
「人の法則ともいえるな。人間という生き物は元来、どんなに環境がいい場所でも100年程度しか生きられないように出来ている。しかし【理】を超えた者は寿命や睡眠等といった生物の縛りから開放される」
無論、そうなる前に殆どは知識に喰われて堕ちてしまうがな、と続ける。
「簡単に言ってしまえば、我々、竜に近い存在になるということだ」
「あぁ、なるほど……」
簡単に纏めたナーガに彼の息子が納得の声で答えた。つまりは人が進化したようなものだと思うことにした。
「名前も魔道に関係があるものだ」
「「……」」
黙って話に耳を傾ける子供達の顔を真正面から見据えながら続ける。
「他者に名乗る名前の他に、真名というものがあり。これはその者の本質を表すものだ。無論、お前達にもあるが……まだ、それを知るのは早い」
恐らくは自分達の真名は何なの? という質問が来るのを予期して最初に答えておく。ナーガの予想通り出鼻を挫かれたイデアが複雑な表情を浮かべている。
カチャリと、落ちて来た片側だけのレンズを上に押し上げる。
「真名を知っているのはその者の親と、番くらいだけだろうな」
「じゃ、おとうさんにも?」
「当然、ある」
当然だと頷く。イデアは少しばかりこの男の真名を知りたいと思ったが、命の危機を感じたので、訊くのは止めた。自殺願望は彼にはないのだ。
「さて、前置きはこれくらいにして……」
本がクルリとひとりでに回転して、双子の前に来る。イデアが何だろうと眼を通すと、そこにはびっしりと小さな文字が書かれていた。少しだけ頭痛がした。
「えぇっと……光魔法、…理、魔法?……闇、、まほ、う?」
あまりにも文字が小さすぎて読むのに手こずったが、苦戦しながら何とか大きめの文字だけを音読するとナーガが満足げに布擦れの音を鳴らしながら腕を組んだ。
「それには、各種系統の魔道の基礎的な説明が書かれている。よく読んで暗記しておけ」
同時に本の上に手を翳し、破れたりしないように魔力でコーティングを施す。これで貴重な本が破壊される恐れはなくなった。
「最後に、魔道の危険性について今まで述べたが、同時に魔道は素晴らしい可能性を内包していると言っておこう」
イドゥンとイデア、二人が本から眼を離し、自分達の「父」にして魔道士であるナーガに眼を向ける。
「食物の生産性を高めたり、飢饉に強い種を作り出したり、薬ではどうしようもない傷を癒す、泥水を飲める正常な水にする、火種無しで呪文1つで火を起こす、正しく無限の可能性を秘めている」
「……戦い、にも?」
遠慮がちにイデアが声を出す。
「もちろんだ。魔術を上手に使えば、味方の損害を最低限に抑えて勝利する事も可能だが、それは側面の1つに過ぎん。むしろそれ以外の分野の方が活用性に優れている」
そう締めくくると、ナーガが窓の外の雨が止んだ空を見る。太陽の位置は彼が来たときよりも少しだけ上昇していた。
音もなく立ち上がる。授業の終了の合図だった。
「では、昼食の時にまた来る」
それだけを言うと、来た時同様、音もなく扉を開いて文字通り幽鬼のようにその向こうに消えていった。
「ふぅぅぅぅ……」
緊張感が一気に途切れ、疲れたイデアが背もたれに脱力して思いっきりもたれかかる。何だか、いつもの数倍疲れた気がした。
危険性は高いが、万能の力、それがイデアのナーガの話を聞いた上での魔道に対する感想だった。
まぁ、自分は最低限自分の身と、姉を守れる力があればいいからそこまで堕ちる心配はないだろうとも考えていた。
よしと、気を取り直し、椅子に座りなおす。
「しかし、まぁ……どうしようか? これ」
眼の前には「父」が残していった分厚い、茶色の紙の頁が何枚も集まって出来た、魔道の術の教科書ともいえる本。まるで広辞苑という辞書のように分厚いそれをどこから読めばいいか少し、悩む。
「イデア」
「ん?」
姉に名を呼ばれて、答える。顔を向けると彼女はどこかワクワクした表情をしていた。自分の彼女にそっくり顔は今どんな表情をしているのか少しだけ気になった。
多分、彼女と同じような顔をしているのだろうとイデアは思った。
「がんばろうね!」
言葉と同時に弟に微笑む。イデアのやる気が内心で跳ね上がった。
「分かったよ、姉さん」
不快ではない、むしろ心地よいドキドキを感じながら双子の弟は分厚い本を読破しにかかった。
あとがき
皆様こんにちは。マスクと言う者です。
大分書きなれてきたので、チラシの裏より移動して来ました。これからよろしくお願いします。