「よし、ちょうど鍵があるんだ。工作室に行こう」
工作室はこのすぐ上の階だ。2階からなら少しは周りの様子も見れるだろうし。
「立てるか? 有瀬」
「う、うん、大丈夫です」
涙目だが、有瀬はしっかりとした足取りで立ち上がった。
だがおびえている彼女をあまり遠くまで連れて行くわけにもいかない。そういう意味でも工作室はちょうどいい距離だろう。
俺は有瀬の手を引いて来た道を戻り始めた。
どれくらいぶりにか握った女の子の手は、とても柔らかかった。
階段を一足飛びに駆け上がる。
だが後ろからついてくる彼女とのコンパスの差もあって、どうしても全力で駆け上がるというわけにはいかないのがもどかしいところだ。
いっそ抱えていってしまったほうが早い気もするが、そうもいかないだろう。
確かにほてほてぽやぽやとした有瀬が一生懸命走ってる姿というのは微笑ましいというか、和むものがあるのだが……。
って、いかんいかん、何を考えてるんだ俺は。
「はふぅ……?」
ぶんぶんと頭を振る俺を不思議そうな顔で見つめてくる。
むう、そんな眼で見られると自分が考えていたことが酷く不埒なものに思えてくる。
「いや、だからそれどころじゃないよな」
「? なにがですか?」
「な、なんでもない」
ごまかしているうちに2階についた。
ふと、階段の踊り場を出て上へと続く階段を見上げた。
俺たちの教室はこの更に上の階だ。
沙耶は……妹はどうしただろうか。
出来れば教師や他の生徒と落ち着いて逃げ出してくれていればいい。
だがアイツはこういうときにじっとしていられる性質じゃないのは俺が一番よく知っている。
考えてみれば昔から俺が怪我をしていの一番に駆けつけてきたのは沙耶だった。
そして決まって説教されるのだ。
────アンタはバカなんだから、私の目の届く範囲にいなさい! と、こんな調子で。
なら今回なんて怒り心頭になっているかもしれない。
そう思うと早く顔を見せてやりたいし、何より俺自身沙耶のことが心配だ。
「衛宮君? どうしたの?」
足を止めた俺を不思議に思ったのか、手を引きながら顔を覗き込んでくる。
……有瀬を放っては置けない、でもそれは沙耶のことも同じで……。
だが答えを出しあぐねいている俺をよそに、事態は既に次の段階へと動き始めていた。
────ウワァァァァァァァァァァァアアァ!!!?
────キャアアアアアァァアァァァァアアァ!!!
怒号、悲鳴、それに地鳴りのように響く大量の足音。
「なんだ、上の階か?」
音の津波が階上から押し寄せてくるかのような……!?
「衛宮君!!!!」
それは人だった。人の群れだ。
押し合いへし合い、恐慌状態の生徒たちが階段から押し出されるようにして溢れかえってくる……ッ!
間一髪、俺は有瀬に手を引かれて踊り場から逃げ出し、事なきを得た。
「酷い……」
惨状を目の当たりにした有瀬の呟きが聞こえる。
確かに、あまりに酷い光景だった。
そこに何も特別なものはない。人が、階段に収まり切らないほどの生徒たちがいるだけだ。
恐怖と狂気に駆られた彼らはただ逃げ出すことに必死で、前の生徒を突き飛ばし、踏みつけていくこともいとわない。
思わず廊下を後ずさる俺の背中には、絶えず冷たいものが流れ落ちていた。
もし。
もし教室まで戻ろうとしていたら……いや、それとも有瀬がいてくれなかったら、俺は、どうなっていた……?
いや、自問するまでもない。答えは既に目の前に示されている。
人がひしゃげていく。押し飛ばされ、踏み潰され、人としてあってはならない形になっていく。
足を踏み外した少女が危険な勢いで転がり落ち、その体に躓いた男子が顔面を階段に強打する。
しかし後ろから押し寄せる集団はそんなモノに意を介すこともなく、容赦なく彼らの体を踏みしめていく。
手足がへし折れ、首が捻じ曲がり、眼球が、はらわたが飛び出す。人としての尊厳など欠片もない、ただの肉の塊に成り下がる。
恐怖を扇動者として、彼らはもはやただ暴走し続けるだけのイキモノになっていた。
ぐ、と強く腕を引かれる。
そうだ、この場を離れなくては、巻き込まれかねない。
顔面蒼白になった有瀬を連れ、工作室へときびすを返す。
目の前にある死に、背中を向けて。
「う、うぇぇぇ……げふ、げほ……ッ」
工作室の前まで来くると、耐え切れず有瀬は胃の中のものを吐き出した。
廊下の床に吐しゃ物が広がるが、もう俺にもそれを気にしている余裕はない。
えずく有瀬の背中をさすってやりながら、しかし俺は別のことで頭がいっぱいになっていた。
あまりにも圧倒的だった。
暴徒と化した人の群れは俺たちを飲み込みかけ、否、もっと多くの誰かを飲み込み続けている。
だが俺の胸に去来したのは、恐怖でも、助かったことに対する安堵でもなく。
あの走り続ける死の塊を前にして、俺は、
俺は。
────何も、なにも出来なかった……ッ!
当たり前だ。あんなもの、ただ個人の力で対処できるものではない。
そんなことはわかりきっているのに。
どうしてか無性に悔しくて仕方がない。
衛宮士郎は、衛宮の名を名乗る俺は、それでもどうにかしなくてはいけなかったんじゃないのか……!?
名前のわからない焦燥感が胸を焼く。
いや、それはずっともやもやと胸の中にあった。沙耶の家に引き取られたあの日から、ずっと俺を苛みつづけた。
────教えてくれ……衛宮の名前には、どんな意味があるんだ……。
「えみや、くん……もう大丈夫だよ」
そういう有瀬の顔色はまだ決していいとはいえないが、ひとまず持ち直してはいるようだ。
俺もいつまでも悩んではいられない。
まずは有瀬を守らなければ……そしてなんとしても沙耶と合流しなくては。
沙耶にもしものことがあれば、俺を養ってくれた親父さんたちに合わせる顔がない。
カツン。
不意に響いた足音に、俺はとっさに有瀬を背中にかばった。
軽い疑心暗鬼に陥っていたこともある。だがもし、廊下の向こうから来る相手が森田のようになっていたら、対処を間違えるわけにはいかない。
かつかつと軽い足音が聞こえる。
いや、もう1人分聞こえるか……?
足音が近づくにつれ、心拍数が上がり、握る拳に汗がにじむ。
そして、角から姿を現したのは……。
「沙耶……沙耶か!? 無事だったのか!!」
つい今しがたまで考えていた相手だった。
「し、士郎、あ、アンタ何やってたのよ授業にも出ないで!?」
「い、いきなり怒鳴らなくてもいいだろ……」
一気に肩の力が抜ける。
くそぅ、俺は散々沙耶のことを心配していたというのに、再会して第一声が罵倒か。なんでさ。
少しくらい心配してくれてもいいだろうに。
沙耶の後ろには一緒に逃げてきたのか、小太りでメガネの男子生徒がいる。
同じクラスの平野か。
「あ、あのぉ~、高城さん……?」
「ああ、コイツは大丈夫よ。人畜無害さにかけては右に出るものはいないわ」
そしてこの言い草である。
血の繋がりがないとはいえ兄妹に対してあんまりではないだろうか。
「え、衛宮君っ」
と、何か慌てた様子の有瀬が沙耶たちを指差し……いや、その後ろだ!
廊下の向こうには先ほどの森田と同じ様子でうろついている生徒や教師の姿が見える。
「士郎、後ろ!」
沙耶の声に慌てて振り返ると、一体どこから現れたのか、俺たちの背後にも同じようなやつらがいる……!
「と、とにかく部屋に入るぞ!!」
俺たちは慌てて工作室に駆け込んだ。
しっかりと施錠をし、俺たちはようやく一息入れることが出来た。
外の廊下にはうつろな様子でうろつく人影がいくつも見える。だがそのいでたちがあまりに異質だった。
どれも服装は学生服や教師の格好をしているが、あれは断じて人間ではない。
一体どこの世界に腕と足といわず肉をえぐられ、破れた腹から腸を引きずって歩く人間がいるというのか。
一目見て直感した。いや、森田のときから気づいていながら、知らない振りをしていたのかもしれない。
彼らは皆もう、死んでいる。
死んでいるのにもかかわらず、立ち上がり、歩き回っているのだ。
おそらくは、生きている人間を求めて。
「ほんとに……一体何が起きてるんだ」
「わからないわ。けど気づいたら校舎中にあの連中がいた。ひとつわかってるのは、今の状況はあいつらのせいってことね」
沙耶たちの話によれば、5限の始まってしばらくした頃突然教室に孝が乗り込んできて、宮本と井豪をつれて出て行ってしまったらしい。
逃げるぞ、とそういいながら。
そしてあの校内放送。
パニックが起こると踏んだ沙耶たちは一足先に教室を抜け出してきたとのことだ。
わが妹ながら流石といわざるを得ない。その先見性には驚嘆させられるばかりだ。
「で? そっちは一体何してたのよ」
「あー、いや、沙耶が出て行った後うっかり居眠りしちまって」
ここに至るまでの経緯をかいつまんで話す。
窓から森田を見かけ、追いかけることにしたこと。途中で有瀬とばったり遭遇したこと。
森田が……あの連中と同じような"何か"になってしまっていたこと。
「森田って誰よ」
「いやA組のやつだけど……」
「ふーん、知らないわね」
いや待て、確か森田のやつ、前に3回くらい沙耶に告白したとか話してた気がするんだが。
……ま、まあ追求はしないでおこう。浮かばれろ、森田。
「まあ、それでここまで逃げてきたんだ」
すると沙耶は、ふーん、と…………な、なんだ、なんでそんな視線が冷たくなるんですか沙耶さん。
「それで2人仲よく逃げてきたってワケ」
「仲良くって、そんな場合じゃ」
と、俺はさっきからずっと何かを握ってることに気づいた。
にぎにぎ。
うん、やわらかい。
「え、衛宮君……」
「ぃあッ!? わ、悪い有瀬!」
ず、ずっと手を握ったままだった!
慌てて手を離すと、有瀬も顔を赤くして困ったように笑っている。
「~~~~~~……ッ!」
「もしかして高城さんが工具室に行こうって言ったの、衛宮がいたからですか?」
「んなっ、そんなわけないでしょ!? ここなら何か武器になるものが……!!」
だから少しくらい心配してくれてもだな……。
が、俺の反論より先に割ってはいる声があった。
────あぁぁあぁぁぁ……。
────うぁ……ぉぅぉおぉ……。
バン、と扉をたたく音がして、廊下の向こうから亡者の呻き声が聞こえてくる。
泡を食って4人でしーっ、と声をたしなめあう。
「とにかくわかってることは……あの連中は、人を襲う。多分、喰うために……」
「ええ、アタシたちも見たわ。とにかくまずは武器を探しましょう」
沙耶の言葉に頷き、俺たちは部屋の中を捜索し始めた。
机の上には雑然と工具が並べられている。
ドライバー、スパナ、のこぎり、かなづち、他もろもろ。平野とかき集めたものだ。
どれも使いようによっては武器になるが……いまひとつ決定打に欠ける気がする。
「いい武器になりそうなのはこれくらいか」
電動ドリルを手に取りトリガーを引くと、先端が勢いよく回転する。
しかしこれも、いかんせん有効範囲があまりに限られている。目の前にいないと効果がないと考えると、緊急時以外は使いたくない代物だ。
「確かにあまり近づきたくはないね……」
「ああ、それにやたらと力が強い。森田だけがそうだったのかはわからないけど、もし掴まれたら振りほどくのは一苦労だ」
平野の言葉に、昇降口でのことを思い出しながら答える。
けど何だってあんな馬鹿力だったのか不思議だ。森田がそんなに鍛えていたということはまずないだろう。
「それは一応説明がつくわ」
首を捻っていると、いつの間にか沙耶が隣に来ていた。
「おそらく脳が正常に機能していないのよ。もしくは神経が鈍いかわからないけど、肉体にかかっているリミッターが外れてるのね」
肉体にかかるリミッター……そういえばどこかで聞いた覚えがある。
人間が肉体の限界以上の力を出そうとすれば、当然のごとく負荷のかかる場所が壊れてしまう。それを避けるために、脳は無意識に力を抑制していると。
力をこめすぎれば痛覚という形で脳が警告を出す。
だが連中のあの様子を見るに、痛覚などあるようには到底思えない。何せ死人が起き上がって動いているのだ。
「常に火事場の馬鹿力、ってわけですね」
納得したように頷く平野に、それよりも、と沙耶は何かを差し出した。
あれは。
「アンタ軍オタとかいう生き物でしょ? リーサルウェポン2くらい見たことあるわよね?」
「釘打ち機……ガス式か!」
「ったりまえじゃない、映画じゃないんだから」
「……高城さん、映画とか好きなんですか?」
「な、違うわよ! アタシは天才だから……」
平野の指摘に真っ赤になって反論しているけど……。
「沙耶、リーサルウェポン好きじゃんか。昔3のまねして犬のえさ食べそうになってお袋さんに怒られてたし」
ぴた、っと沙耶の動きが止まった。
ぎ、ぎ、ぎ、と軋みをあげてこっちに振り返る……いかん、地雷踏んだ。
「お、俺ちょっとこれ改造してくるからっ」
待て逃げるな平野!
「あ、ん、た、はぁぁぁぁぁっ!! そういうことをぺらぺら喋るんじゃないわよ!!」
「どわ馬鹿! 声が大きい!!」
バンバンと扉をたたく音が増えてる!
この調子じゃここも長くは持たないって言うか頼むからもう少しボリュームを落としてくれ!
「ふーっ、ふーっ……とにかく! アンタは何か武器見つけたの!?」
毛を逆立てた猫みたいになってる沙耶をどうにかなだめながら、俺はいや、と首を振った。
どうもどれもしっくり来ない。選り好みしているわけではないが……。
そこに有瀬が、なにやら長い鉄の塊のようなものを持ってきた。
「え、衛宮君、こ、これ、どうかな……」
結構な重量のあるらしいそれをよたよたしながら差し出してくる。
なるほど、これは。
「ふーん、バカスパナのアンタにはぴったりじゃない?」
「バカスパナって……」
大体これ、パイプレンチだし。
そういうとどっちも似たようなもんでしょ、と言われた。興味のない人にはそんな物らしい。
一抱えほどあるパイプレンチは片手で振るには少々重いが、それなりに長さもあり、鈍器として十分に使えそうである。
ここに来て日ごろから少しでも体を鍛えていたのが幸いになりそうだ。
だが……考えたくはないが……。
「これで、殴るのか。人を……」
「人じゃないわ、人だったものよ」
沙耶が一歩俺に詰め寄り、指を突きつけてくる。
「いい、士郎。アンタが底抜けにバカでお人よしなのは今更、でもね、やらなきゃやられるのよ。分かってるわよね」
それは分かってる。
だけど……。
「覚悟決めたほうがいいよ、衛宮。俺はもう決めた、もう今までどおりの"普通"なんて何の意味もないんだ」
戻ってきた平野の手には、T定規をストックにした、まるでライフルのような有様になった釘打ち機が握られている。
様になっているな、とのんきな感想を抱いた。
あるいは、平野はこれで思いのほか頼りになるのかもしれない。
「衛宮君……」
有瀬が不安げに見つめてくる。
彼女を安心させてやれる態度を取れない自分がもどかしい。
窓の外に目をやる。
中庭、正門、グラウンド────どこを見ても地獄の有様だ。
道を行く人々に亡者が取って代わり、青空には街のいたるところから黒煙が立ち上っている。
逃げ惑う少女に死人が群がり、喰い散らかされた少女がゆっくりと起き上がる。
悲鳴が、窓を震わせている。
この狂気に満ちた光景から沙耶を、有瀬を守るためとはいえ、俺は────。
1.やれる。やってやる。
2.出来る……とはいえない。
/*/
更新早いけど今連休もらったからです。
明後日ごろからは遅くなります。
ところで教えてもらった雑談板の学園黙示録スレを拝見。色々皆さん考察してて面白かったです。
が、とりあえずこのSSでは一個だけゴールデンルール。
「ゾンビってそういうもんだし」の一言で片付けようと思います。
今回ちょっと考察してみましたが、正解かどうかは謎ってことで。この理論だと足が遅い理由が説明できないし。
あとロメロ式ゾンビは首を切られると首だけで生きてることがランド・オブ・ザ・デッドで判明してますが、うちでは首切られたら頭も体も死ぬということで。
……だって、首だけで生きてるゾンビがあまりにシュールだったんだもの。