その男は、ポーラの侍女であったレナという少女を毒殺した。 その男は、リィに薬物を嗅がせて監禁し、寸でのところで手籠めにされるという危地に陥れた。 何よりその男は、幾度もリィを傷つけた。深手を負ったリィは、その度に生死の境をさ迷う羽目になった。 リィは、ウォルにとっての大恩人であり、同盟者であり、そして配偶者であった。 つまり、その男は、ウォルにとっての怨敵であったのだ。 例え、その男の罪が、リィの手による死によって一度雪がれたのだとしても。 例え、ウォルも生まれ変わり、此度の邂逅が異世界での出来事だったのだとしても。 ウォルは、レティシアという男を、寸毫も許していなかった。 だからウォルは、レティシアの姿を認めるや否や、放たれた矢の勢いで飛び出した。 その表情に、激情は無い。激怒も無い。ただ無表情に、しかし迸る灼熱色の殺意がウォルの漆黒の双眸から吹き零れるようだった。 ――殺す。 この男は、ここで駆除する。駆除しなければならない。その冷たい意思が、ウォルの身体を突き動かす。 ウォルの右手が、無意識に左腰に伸びる。そこに剣があれば、間違いなく彼女はそれを抜き放っていたに違いない。しかし今の彼女は、学生の身の上だ。そんな物騒なものを、常に身に帯びていられるはずがない。そして、リィから贈られたラー一族謹製の名刀も、無から抜き放てるほどに便利なものではないのだ。 空虚な左腰の感覚に非武装の自分を思い出したのか、片頬を苛立たしげに引き絞ったウォルは、剣の間合いから素手の間合いに飛び込んだ。 そして、凄まじい戦いが始まった。 ――速い。 二人の戦いを眺めるしかないヴォルフは驚嘆した。ウォルの動きも、レティシアの動きも、歴戦のヴォルフの目をもってしても全く追いつけない。 拳と拳が交錯し、蹴りと蹴りが弾き合う。その間にも、絶えず足は動き、相手との間合いを詰め、あるいは距離を取り、自分に有利な戦局を作ろうとしている。 ヴォルフは、今のウォルの身体の持ち主である、ウォルフィーナと戦ったことがある。その時も、彼女は目で追えないスピードだったが、これは更に一歩先にある戦いだ。 何故なら、ウォルフィーナは、こと戦いという点において、ほとんどずぶの素人であった。いわば、身体性能だけでヴォルフと戦い、寸でのところまで追い詰めたのだ。 それに対して、ウォルは歴戦の戦士である。例え素手であっても、幾多の死線をくぐり抜けてきた経験がある。そのウォルが、ウォルフィーナの身体を十全に操ることが叶えば、その戦闘力がウォルフィーナのそれを上回ることとなるのは自明の理である。 これは、あの時のスパーリングではかなり手加減をしてもらっていたらしいと、ヴォルフは思った。そして、ウォルの戦いに感嘆すると同時に、彼女と互角の勝負を繰り広げている、得体の知れない男の戦いぶりにも目を見張っていた。 見た目は痩せた線の細い青年にしか見えないのに、一撃必殺のウォルの攻撃を容易く受け止め、怒涛のような攻撃の僅かな間隙を縫って的確な反撃をウォルに加えている。 しかも、その表情に、うっすらとした微笑みを浮かべながら、だ。 例えば、痛打を浴びたボクサーが強がりで浮かべる笑みならば、ヴォルフは一目で虚勢だと見抜くことができる。 だからこそ分かる。あの青年は、暴風のようなウォルの攻撃を受け止め、それでもまだ余裕があるのだと。 この男は何者だ。リィやルウ達以外に、まだこんなに強い男がいたのか。 そんなヴォルフの内心を知らず、拳や蹴りを繰り出しながら、ウォルが叫ぶ。「どうして貴様がここにいるっ!?」 ウォルの、当然とも言える疑問に、にやにや笑いを浮かべたレティシアが、「俺がここにいるのがそんなに不思議かい?」「貴様、まだリィを狙っているのか!?」「さぁ?もしもそうだとして、どうするんだい?」 激昂して歯を軋らせたウォルは、レティシアの顔面を思い切り殴り飛ばそうと、拳を振りかぶった。その姿を見て、レティシアも顔を両腕でかばう。 だが、ウォルの拳は、レティシアのガードにぶつかる寸前で停止した。その代わり、右足を蹴り上げ、目の前の男の股間を狙う。 当たれば、睾丸を潰し、そのまま恥骨を砕くような一撃だった。悶絶どころでは済まない、下手すれば命を奪う攻撃だ。 しかし、レティシアは、目の前の少女を愛でるように微笑みを浮かべ、左手で少女の蹴りを容易く受け止めていた。「惜しかったなぁ。剣があれば、最初の一撃であんたの勝ちだったのに」 戦いが始まる前の、ウォルの一瞬の逡巡と、左腰に向けて動きかけた右手の動きで全てを悟っていたのだろう、そんなことを言ったレティシアの声は、寧ろ自分が斬られなかったことを残念がるような声色である。 必殺の一撃を受け止められたウォルは、次の攻撃を繰り出すために右足を引こうとしたが、しかしレティシアの強靭な握力がそれを許さず、少女の右足をつかんで離さない。 ならばと左足で跳躍し、レティシアの顔面を蹴ろうとしたウォルだったが、しかしそれよりもレティシアの動きが早かった。 レティシアは口中で何かを噛みつぶし、唾液ではない液体をウォルの顔に向けて吹きかけた。 それは一種の暗器であった。唐辛子の成分を抽出した刺激物を、唾液では溶けないカプセルに包み、口中に仕込んでいたのだ。 致死の毒物ではない。だが、霞状になった刺激物はウォルの眼球を直撃し、その粘膜を痛烈に刺激した。 突如眼球に加えられた、思わずのたうち回りたくなるような強烈な痛みに、しかし歴戦の戦士であるウォルは鋼の精神で耐えた。この敵の前でそんな隙を見せれば、間違いなく殺されることを理解しているからだ。 レティシアは内心で感嘆した。眼球を攻撃されれば怯むのは、生物として反射運動に近い。野生の猛獣であっても苦悶の叫びを上げ、背を向けるに違いない。それを精神力で抑えるのは、並大抵のことではないからだ。 しかし、強烈な刺激により一瞬で目を充血させ、大量の涙を滲ませたウォルの視界は、宵闇の暗さも相まって、極度に機能を低下させている。目の前の憎き男の顔も薄ぼんやりとしか認識できない。 当然、レティシアもウォルの状態は承知している。 そしてレティシアは、ウォルの右足を離し、先程のお返しとばかりにウォルの頭部を蹴りにいった。 ウォルも、霞んだ視界でその動きを認識し、自身の左側頭部を守る。相手の右足が高く上がったなら、狙われるのはそこのはずだ。 だが、次の瞬間ウォルは、想定していたのとは逆側、右顎に鋭い衝撃を受けた。一体何が起きたのか、ウォルには分からなかった。どうして相手の右足が、自分の右顎を蹴りぬくことができるのか。分からないまま、強かに脳震盪を起こしたウォルは、膝からその場に崩れ落ちた。 それに対して、二人の後方にいたヴォルフには、レティシアが何をしたのか、はっきりと見えた。 確かに、レティシアは右足を持ち上げ、ウォルの頭部を蹴りにいった。それは間違いない。しかし、白鳥の羽根のように折りたたまれ、そのままウォルの左側頭部を狙うと思われた足は、本来の軌道とは真逆に回転し、内側からウォルの右顎を蹴りぬいたのだ。 格闘技で言えば、内回し蹴りと言われる技に近い。ただ、普通の内回し蹴りは、右足が地面から離れるときから相手の右側を狙っていると、軌道でわかるのだ。おそらく、その軌道の蹴りであれば、ウォルも十分に対応できたはずである。 しかし、今のレティシアの蹴りは、外側から蹴りに行くと見せかけて、その途中で膝を起点に足を逆側に回し、ウォルの右顎を打ちぬいたのだ。 普通に考えれば、あり得る軌道ではない。人間の膝関節は、そこまで柔軟に出来ていない。 威力のある攻撃ではないが、相手の意表を突くといえば、これほどの攻撃もそうそうあり得ない。 常識外れの柔軟性。瞬発力。そして、相手の顎の先端、皮一枚を狙って蹴るだけの正確性。それらが無ければ、成立し得ない技である。 ヴォルフは驚愕した。この、見た目は痩せた少年にしか見えない男は、一体何者なのか。 常人であるはずがない。おそらく、今まで見てきた全ての危険人物が霞むほどの、暴力の申し子。生まれながらにして、人を殺す権能を宿命づけられた者。 そんな男が、堪え切れない微笑みを浮かべながら、崩れ落ちたウォルに歩み寄る。 仰向けに倒れたウォルの視線は焦点を結んでおらず、半開きになった口元からは唾液が零れ落ちている。 完全に意識を失っているのだ。 勝負ありである。これが、ルールのある、試合ならば、だ。 そしてこれは、そんな生易しい勝負ではない。 レティシアは、意識を失ったウォルの前髪を無造作に掴み、軽々とその頭部を持ち上げた。 そして、ウォルの耳元に優しく語りかける。 「王座でふんぞり返るのが仕事の、王様のわりには頑張ったぜ、あんた。流石、王妃さんの旦那だよ。じゃあな」 そう言ったレティシアは、右手の指先を伸ばしたまま、ウォルの右目を狙って突き出した。 いわゆる目つぶしのように可愛げのある攻撃ではない。眼窩に指を突っ込み、そのまま眼底を貫き、脳みそをほじくり返すための攻撃だ。当たれば、失明では済まない。命を奪うための攻撃だった。 脳震盪を起こしたウォルに、その攻撃を躱す術はない。脳と身体を繋ぐ命令系統が断線しているのだ。レティシアの繰り出す致死の攻撃を、ただ眺めるしか為せることがない。 だが、ウォルの小さな体は、レティシアの攻撃に貫かれる前に、強い力で後方に引っ張られていた。 この場にいた、ウォルとレティシア以外の人間――ヴォルフが、ウォルを助けたのだ。 空を切った右手に、レティシアは唇を尖らせた。「おいおい、一対一の勝負に、無粋な真似をするもんじゃねぇよ、おっさん」 ヴォルフを見ながら、不服そうに言ったレティシアだが、その表情は堪え切れない悦びに綻んでいる。 それはきっと、死神の微笑みだ。人の命を刈り取ることでたつきを得る神の農夫が、己の職責を果たすことができたときに浮かべる、誇り高き微笑みだ。 つまりこの少年にとって、人を殺すことは天職なのだろう。神がこの少年に与えた、最も相応しい生き方が、人の息の根を止めるということなのだ。だから、これほど無垢な笑みを浮かべることができるのだ。 ヴォルフは、今まで感じたことのない戦慄を味わっていた。 殺人鬼。違う。人を殺すことに悦びを感じる異常者ではない。おそらくは、先天性の暗殺者とも呼ぶべき存在。人を殺すことではなく、その困難事を達成することにこそ悦びを覚える、人の世と相容れない職人。 「おっさんは酷いな、俺はこれでも花の二十代だぞ」 固い声でそう言ったヴォルフに、しかしレティシアは愉快そうに微笑いながら、「おっと、そいつは悪いことを言った。でも、あんたの年齢は、もうあんまり関係ないよ。だって、どっちみち、今、ここで死ぬんだからさ」 ウォルを狙っていた右手とは反対側、レティシアの左手から、冷たい光を放つ銀色の繊維が伸びているのに、ヴォルフは気が付いた。 反射的にレティシアから背を向け、ウォルを右腕で抱きかかえて庇い、そのまま駆けだした。 今のヴォルフは手負いである。オリベイラに折られた左腕は、ヴォルフの優れた回復力であってもまだ万全ではない。まして、仮にヴォルフが万全で、しかも重武装していたとしても、果たして勝ち目があるかどうか怪しい相手である。ここは、逃げの一手以外あり得ない。 そう考えて、一目散に逃げようとしたヴォルフであったが、何かに足を取られ、盛大に転んだ。足だけではない。ヴォルフの身体に細い紐状の何かが巻きつき、恐ろしい力で締め上げていた。 服を着こんだ箇所はともかく、肌が剥きだしの箇所は鋭く割け、血が噴き出す。 おそらく、繊維状の刃物。ヴォルフは、それがレティシアの攻撃によるものだと理解した。 「あれ?おっかしいな、二人まとめて輪切りにしたつもりだったんだけど」 さも不思議そうにレティシアが言う。 ヴォルフは、ウォルを抱きかかえたまま振り返り、不敵に笑ってやった。「あいにくだが、俺は臆病者で有名でね。外に出るときは、防刃防弾加工の服以外は着ないようにしてるのさ」「へぇ。見た目、そんなに薄っぺらいただの服にしか見えないのにねぇ」「安月給のボーナスをつぎ込んだ高級品だよ。おかげで、命拾いできたらしい」 レティシアは嬉しそうに頷き、「勉強になったよ。やっぱりこっちの世界は面白い。あっちの世界の常識がそのまま通じると思い込んでると、足元を掬われるらしいや」 レティシアは、自由な方の右手に、ファロット一族伝来の暗器である鉛玉を握りこんだ。「服だけじゃなくて、あんた自身も結構頑丈そうだけど、果たしてこいつをどたまに喰らって生きていられるかな?」 レティシアは、得物が軽いアクリル片であっても、投擲すれば人体にめり込ませて戦闘力を奪うだけの技量がある。それが鋭利な金属となれば、銃弾と遜色ないだけの威力があるだろう。 そんなことは流石に知り得ないが、しかしレティシアが下手な脅しを口にしていないことだけは理解できるヴォルフであったから、さてこれは年貢の納め時かと覚悟を決めた。せめて、自分の巨体でウォルを覆えば、この少女が生き残る可能性が少しでも増えるだろうか、そう思ってウォルを自身の身体の下に隠した。「……ヴォルフどの、おれはいい、だから、あなただけでもにげてくれ……」 ようやく意識を取り戻したのか、ウォルがただただしい口調で言う。 だが、そもそも銀線に絡めとられ、身動きのできないヴォルフである。そして、今まで何人もの敵兵やテロリストの命を奪ってきたヴォルフだ。ようやく順番が自分に回ってきただけの話、醜く狼狽えたり泣き喚いたりせず、ただ穏やかに微笑み、「ばか野郎ウォル、死ぬのは年寄りから、そして男からってのが世のならわしだ。それが気に食わねぇなら、大人になってから一人余分にがきを産んで、帳尻を合わせておいてくれればそれでいい」「……」「じゃあな、ウォル。結構楽しかったぜ、お前と知り合ってからな」 そう言って、ヴォルフは、来るべき衝撃に身を固くした。 しかし、予想されたタイミングになっても、頭を貫く固い感触がない。 訝しんだヴォルフが後ろを振り返ると、苦笑したレティシアが身を翻すところだった。「運がいいね、あんた達。ま、それが王様の宿命ってもんなんのかね?」 レティシアの言葉に首を傾げかけたヴォルフだったが、遠くから、誰かの会話する声が近づいてくるのに気が付き、合点がいった。 この少年にとっては、どうやら殺しの場面を見られるのが不味いらしい。この手の犯罪者は、少々強引にでも目的を達成し、そのまま消えおおせるのが普通だと思っていたヴォルフには、少し意外だった。 そんなヴォルフの視線に気が付いたのだろう、レティシアは不本意そうに肩を竦め、「そんな顔しなさんなよ。これでも、真面目な医学生で通ってるんだぜ、この辺りではな」「……見逃してくれるってことかい?」「先に手を出してきたのはそっちだぜ?見逃すもへったくれもないだろうがよ。それに、俺にはあんたらを殺す理由がない。少なくとも、今のところはね」 天使のように微笑んだレティシアは、そのまま溶けるよう闇に消え去った。 ヴォルフは、レティシアの気配が完全に消え去るのを確認し、ようやく総身から力を抜くことができた。 まるで、猛獣の口の中に頭を突っ込んでいたような気分だった。自分の命運は尽き、あとは鋭い牙が首を両断するのを待つだけ、そういう状況だったのだ。そして、猛獣のほんの気まぐれで口を離し、今、自分は生きている。 しばらく、呆けたようにレティシアが消えた闇を見続けていたヴォルフだが、いよいよ会話の声が近づいてくるに当たり、自身の置かれた状況に思いが至った。 全身傷だらけで血まみれの様相、人通りの絶えた夜道でウォルのように幼い少女を組み敷いている大男。どう考えても犯罪の臭いしかしない状況である。まともな人間が見れば、善良な市民の義務として警察に通報すること疑いない。 慌てたヴォルフは、全身に絡みついた銀線を手早く解き、右手にウォルを抱えたまま、そそくさと逃げだした。 セム大学のキャンパスを走り抜け、裏路地に出ると、幸いなことにタクシーはあっさりと捕まえることができた。運転手は、傷だらけのヴォルフとぐったりとしたウォルという不審な組み合わせに眉を顰めたが、ヴォルフが財布から数枚の紙幣を取り出すと、自身の職責だけを全うすることに決めたらしい。「どこまで?」 不要な会話をする気が無いだろうその問いに、ヴォルフはほっとした。 近くの総合病院の住所を告げると、タクシーは静かに走り出す。その時点で、ようやくヴォルフは一息つくことができた。 そして、考える。あの男は、一体何者なのか。ウォルを王と呼んだこと、そして『あっちの世界』という口振りからすれば、ウォルと同じ異世界の出身という推測が成り立つ。 加えて、ウォルも、どうやらあの男のことを知っているらしい。そうでなくて、どうして冷静なウォルが、突然あそこまで怒りを沸騰させて襲い掛かることがあるだろう。相当の因縁があると考えるのが自然だ。 タクシーの後部座席に座ったヴォルフは、隣のウォルを見た。ウォルの閉じた瞼からは涙が零れ続けているし、意識もまだ朦朧としているらしい。速やかに医者に見せる必要があるだろう。 だが、それよりもまず、あの男の存在を然るべき人間に伝えなければならない。例えウォルとあの男がどういう関係だとしても、あの男は放置しておくには危険すぎる。それはきっと、然るべき人間――リィやルウにとっても。 ヴォルフは、懐から携帯端末を取り出した。◇ 夜の電話というものは、一様に不吉を覚えるものだ。それが仕事のことであっても、私用のことであっても。 リィにとってもそれは変わらなかった。自室で明日の予習を終え、さて少し早いが横になろうかという頃合い、突然着信音が鳴った携帯端末を手に取り、少し険を含んだ表情で画面を見遣る。 端末の画面に表示された相手は、よく知った人物だった。「ヴォルフ、どうしたんだこんな時間に」 少し年の離れた、人間離れした体格を持つ友人に、リィは気安く話す。 だが、端末の向こうの相手の声は、その分重苦しい調子だった。『リィ。落ち着いて聞いてくれ。ウォルが喧嘩に負けて、負傷した。今、タクシーで病院に向かっているところだ』 決して冗談ではあり得ないその言葉に、流石のリィも僅かに表情を強張らせる。 そして、例えば転んで膝を擦りむいた程度の怪我でこれほど沈鬱な声をするほど、ヴォルフという男は肝の小さい男ではないことを、リィは理解している。 つまり、ウォルの負った怪我は、決して軽いものではないということだ。「怪我の程度は?」『頭を蹴られて脳震盪を起こしている。そのせいで、意識がまだはっきりしていない。だが、こちらは多分大丈夫だ。問題は目だ。目つぶしに、何か刺激物を喰らわされた。少なくとも、今は目が見えていない状態だ。最悪、失明の可能性もある』「相手は誰だ?あのオリベイラとかいう小者の関係か?」 まさか、オリベイラという男と一対一で戦って、ウォルが敗れるとはリィも思ってはいない。 しかし、一人では勝てないと判断したオリベイラが、数に頼む可能性は十分にある。そして、ウォルも人間だ。夜道に不意打ちで複数の人間に襲われれば、不覚を取っても不思議はない。 だが、端末の向こうのヴォルフは首を横に振ったようだ。『分からん。ただ、相手は一人だ。そして、襲われたんじゃない。ウォルが、その男に突然襲い掛かって、返り討ちにあったんだ』「ウォルの方から?何故?」 当然とも言えるリィの疑問に、『俺も、何が何だか分からん。確かに、尋常な雰囲気の男ではなかった。だが、だからといって必ず向こうから喧嘩を吹っ掛けてくるとはかぎらんだろう。無視をするっていう選択肢だってあったはずだ。なのにこちらから仕掛けるってことは、おそらく、ウォルと相手との間に、何か、因縁があるんじゃないかと思ってる』「因縁?」『ああ。それも、多分、この世界の話じゃない。その男は、ウォルのことを王様って呼んでいた。つまり、あっちの世界でのウォルのことを知っているってことだ。そうなると、もう俺にはお手上げだ。むしろ、リィ、お前の方こそ、その男のことを知っているんじゃないか?』 リィの脳裏に、一つの可能性が浮かび上がった。 ウォルとあちらの世界で相応の因縁があり、そしてウォルを一対一で倒してのける可能性のある人物。そして、ウォルがその男の顔を見れば、反射的に飛び掛かるほどに恨み、或いは怒りを覚えている人間。 リィに思い当たるのは、たった一人の人間だった。 「……どんな男だった?」『年の頃は、おそらくまだ未成年。外見は、やせ型で上背はそれほどでもない。金髪で、猫みたいな目をしていた。糸のような刃物を操る。話しぶりだと、どうやら医学部に所属しているらしい』「……男と遭遇した場所は?」『セム大学のキャンパスの外れだ。人通りの少ない場所だったから、目撃者はいないはずだ。それが幸か不幸かは分からんが……』 ヴォルフの人相評は非情に分かりやすく、リィは自身の疑念を確信へと変えた。 猫のような面相のセム大学医学生で、ウォルを倒してのける実力者。リィの知る限り、そんな男は一人しかいない。 つまり、異世界の死神組の片割れと、ウォルが遭遇してしまったということらしい。 リィは、新たな厄介事に僅かな頭痛を覚えた。「……ヴォルフ、今向かっている病院は?」『アヴェイロ中央病院だ』「わかった。おれも今からそっちに向かう。ウォルが入院することになったら、病室番号を連絡してほしい」『ああ。何かあったら、また連絡する』 リィは通信を切り、そして、自身の相棒であるルウの端末へと連絡を取った。 深夜であるが、緊急事態だ。少し掟には目をつぶってもらって、人外組を集合させる必要があった。 ◇ 結局、ウォルはその夜を病院で過ごすことになった。 脳震盪は暴漢に襲われた結果であり、目の炎症は、その際に使用した防犯スプレーに運悪く自身も巻き込まれたことにしておいた。 ウォルを診察した医師は警察への通報を勧めたが、大ごとにしたくないというウォルの言葉と、ウォルを病院に担ぎこんだヴォルフの厳めしい様子にただ事ではない雰囲気を感じ取ったこともあり、しぶしぶ引き下がった。 目の洗浄をし、脳の検査を終えて、特に問題はないという診察結果を下されたウォルだったが、念のためということでこの日は入院することとなった。 突然の急患、しかも年端もいかない少女である。大部屋では何かと都合が悪い。個室に入れられたウォルは、しかし口数が少なかった。付き添いとして病室に留まったヴォルフも、ウォルの内心を察して、余計なことは口にしない。 あの勝負は、ウォルの敗北だ。それも、完敗と言っていい。 ウォルの本来の姿は、剣士だ。剣を握ることで、その性能を十全に発揮することができる。それは事実である。 しかし、だからといって勝負に『もしも』はない。それに、おそらくはあの男にとっても、今回の戦いは突発的なものだったはずだ。あちらだって、準備が万端だったはずがない。つまり、互いに条件は同一である。 ならば、言い訳はない。ただ、敗れた。そして、おそらくはあの男の気まぐれで、自分達は生かされているのだ。 苦い認識がヴォルフの口中に広がった。ここが病院でなければ、唾の一つも吐き捨てたいほどに。 その時、病室の扉が開いた。「ウォル、大丈夫か?」 姿を見せたのは、見事な金色の髪の毛と緑翠色の瞳の少年だった。 ウォルの婚約者である、リィだ。 既に時間は深夜に近い。寮を出る言い訳にも一苦労だったはずだが、眠気や不満などは一切なく、心底ウォルを気遣う表情である。 そのリィの後ろに、ルウとシェラの姿がある。 そこまではヴォルフにとって十分予想したものだったが、意外だったのが、彼らの後ろに、インユェとメイフゥの姉弟がいたことだ。 二人ともベッドから身体を起こしたウォルの様子を見て胸を撫でおろしたようだったが、予想通りというか、インユェが、リィ、ルウ、そしてシェラを押しのける勢いでウォルの枕元まで駆け寄り、その細い肩に手を置き、静かな口調で問いただした。「誰にやられた」 努めて冷静であろうとする口調が、かえってインユェの激情を表しているかのようだった。 そして、その表情。眉間に深く刻まれた皺、吊りあがった目線、引き絞られた口元から覗く牙。愛する者を傷つけられた獣だけが浮かべる、激しい表情だった。 なるほど、激情に駆られた時のメイフゥとよく似ている。あまり似たところのない姉弟だと思っていたがやはり双子なのだと、一歩引いたところから眺めていたヴォルフは思った。「誰がお前をこんな目に遭わせた。言え!」 むしろウォルを責めるような口調は、インユェの精神がまだ未熟である証拠だったのだろう。 だが、その幼さと実直さは、ウォルにとっては好ましいものだった。 ウォルは、腫れあがった目を細めて微笑みながら、「インユェ、そんなに怒るな、この通り、おれは無事なのだから」「だからって……!」「それよりも、みんな。おれのために、こんな夜遅くにすまなかった。今回の件は、完全におれの落ち度だ。本当に申し訳ない」 ウォルは深々と頭を下げた。 あの男を見た瞬間、沸騰する感情を抑えることができなかった。その結果、自身だけでなくヴォルフの命までも危地に晒してしまったのだ。 あまりの短慮に、ウォルは内心で恥じ入るばかりである。70年を生きてこれほど未熟だったかと、自分で呆れかえってしまう。 そんな、自己嫌悪で身を縮こませるウォルに、リィは曖昧な笑みを浮かべる。「あのさ、ウォル、こんな時になんだけど、ちょっとお前に紹介したい人がいるんだ」「……紹介?こんなタイミングで、わざわざ?」 リィは曖昧に微笑みながら、ウォルの肩を抱きしめ、決して暴れださないよう固定した。 突然のリィの行動に抗議の声を上げかけたインユェを、同じようにルウが、やはり曖昧な笑みを浮かべながら抱き抑える。 「ルーファ。絶対離すなよ」「エディもだよ。深夜の病院で乱闘騒ぎなんて、絶対に警察沙汰だからね」 二人はしかと頷きを交わした。そして、シェラの頭痛を抑えたような表情。 「いいぞ。二人とも、入ってきてくれ」 リィの言葉が響き、そして、病室の扉が再び開く。 先程まで何の気配もしなかったはずのそこに、二人の青年がいた。 一人は、冷たいほどの怜悧な美貌の、貴公子然とした黒髪の青年。 もう一人は、堪え切れない興味に瞳を輝かせた、麝香猫のような青年。 その、麝香猫のような青年が、爽やかに片手を上げ、病床のウォルに向かって声をかけた。「よう、王様、こんばんは……ってさっきぶりか。思ったより元気そうだね、よかったじゃん」「貴様……」 先程まで死闘を繰り広げた青年――レティシアからのあまりに軽い挨拶に、流石のウォルも二の句を告げずに押し黙ってしまった。