宮殿の奥まったところに、部屋があった。 広々とした、豪奢な造りの、如何にも貴人がその住み家として選ぶような、そういう部屋であった。 そこから、一晩中、笑い声が漏れていた。 若い声ではない。年老い、移りゆく時の流れを、身体と心に刻んだ人達の、声だった。 一人や二人ではない。たくさんだ。たくさんの年老いた人が、立っていたり、少し疲れた様子で腰掛けたりしながら、とても楽しそうに談笑している。みんな、良い身形をした者達ばかりであったから、相当に身分の高い人間の集まりなのであろうと思われた。 男がいた。そのいずれもが、老人とは到底思えぬほどに鍛え込まれた体躯を誇る、堂々たる武人であった。腰に差した剣はよく手入れがされていて、今すぐにでも戦場の一番前の方で名乗りを上げて敵に切り込むことすら出来そうなくらいだった。 女がいた。そのいずれもが、柔和な皺をその頬に刻んでいた。その一事だけで、どれほどに彼女達が愛され、そして愛した人生を送ってきたかを窺い知ることが出来る。どれも、とても幸せそうで、満ち足りた笑顔だった。 たくさんの、幸せそうな人達。 その中心に、一人の老人がいた。豪奢な部屋の造りに勝るとも劣らない程に立派な寝台で、身体を起こしている。 満ち足りた、顔だった。 かつては黒絹を梳かしたように精気に満ちあふれていた黒髪も、いつからか白いものが混じりはじめ、今ではタウに積もる新雪の如き白髪になってしまっている。青銅の騎士像よりも遙かに逞しかった筋肉も、歳と共に衰え、抜け落ちた歯と同じくらいにそげ落ちてしまった。 浅く焼けた皮膚は、床に伏せるうちに青白さを通り越して土気色になり、排泄すら己の思うままにならない。 それは、紛れもなく、死期を間近に迎えた、老人だった。 それでも、その老人は、笑っていた。 頼るべき友人と、頼るべき戦友と、頼るべきその妻達に囲まれ、昔話に花を咲かせ、時折は咳き込み、時折はその眉を顰め、時折は涙を薄く浮かべて、そして最後には笑っていた。普段から笑いの少ない生活を送っていたわけではないのに、その一昼夜で、彼は一年分の笑い声を出したと思った。 だから、彼は少しだけ疲れてしまった。「従兄上、お疲れですか」 傍らに立った、彼の従弟が話しかける。老人はそれに笑顔で応じ、しかし首を横に振った。「こんなに楽しい夜に、どうして疲れていられる。俺は、まだまだ卿らと話したいこと、話し足りないことが山ほどにあるのだ」「なるほど、それは疲れている暇などありませんな。しかし、別に、我らが集うのは今日が終いというわけではなし。今日はもう休まれてはいかがですか?」「しかし、現に俺はまだまだ疲れてはいない。ほら、このとおりだ」 老人は腕をまくり、力こぶを作る動作をした。 そこには、痩せ細って骨と皮だけになったような、二の腕があった。 誰も、その表情に痛ましさの欠片も見せなかった。見せず、ただ笑っていた。「おいおい、天下に名だたる名君が、身内を困らせるもんじゃあないぞ」「人聞きが悪いな。俺がいつ、誰を困らせたというのだ?」「お前の目の前で、心配そうにお前を見つめているお前の奥さんだよ」 言われて、老人は、ベッドの脇の椅子に腰掛けた、己の妻を見た。 彼女は、少し困ったような顔で、でも、笑っていた。 少女のように、純粋な微笑みだ。その輝きは、老人と彼女が出会ってから、時の暴虐も含めたところで、何者も穢すことが出来なかった。 老人は、そんな妻が大好きだった。「なぁ、ポーラ。俺はお前を困らせたかな」 少女のような老夫人は、はにかむように笑った。「はい。陛下には、もう、いつもいつも心配ばかりさせられました」 その言葉で、老人を囲んだみんなが、一斉に笑った。「だ、そうだ。なぁウォリー。今日のところは負けておけよ」 老人は、生真面目な顔で頷いた。内心では、果たして自分がそれほどに迷惑をかけたことがあったのだろうと自問していたのだが、口に出してはこう言ったのだ。「そうか。それは申し訳ないことをした。しかし…俺はもう陛下ではないのだがな」「はい、承知しております。でも、あなたは陛下です。いつまでたっても、私だけの陛下」 老夫人が、そのしわくちゃの掌で、老人の痩せこけた頬を撫でた。老人は、くすぐったそうに笑った。 それが合図になったように、部屋にいた人間は、次々と別れの挨拶をして、部屋を出て行った。まるで邪魔者は退散しますと言わんばかりの様子だった。 彼らは、最後まで笑っていた。その瞳の端に光るものがあっても、とりあえず笑みだけは浮かべていた。それが、自分の義務だと思っていたのかもしれない。 取り残されたのは、二人だけだった。「帰ってしまったな」 ぽつん、と呟いた。「ええ。もう、これで二人きりです」 最初、その部屋には、もっとたくさんの人間がいた。 彼らの子ども達とその夫や妻、そしてその子供である孫達。中にはひ孫を設けた、少し気の早い孫もいた。二人は恋愛方面には奥手な夫婦だったから、果たしてその孫は誰に似たのかと思って頭を捻ったものだ。 やがて、一人減り、二人減り、人影がまばらになっていった。そもそも、何故に今日、ここに集まったかも知れない人間ばかりである。別に、国家の一大事があったわけではなし、特別な慶弔があったわけでもなし。 何故か、不思議なものに糸引かれるようにして、彼らは集まってきたのだ。そのいずれもが、生ける伝説と化したその老人にとって、大切な人達ばかりだった。 そんな彼らが、立ち去って。 そして、最後に残ったのが、老人と同じ歳の頃の人達ばかりだった。 彼の従弟がいた。老いてなお堂々たる体格を誇る偉丈夫である。彼がもと率いていた騎士団の現団長でさえも、その剣技にはいまだ遠く及ばないと、もっぱらの噂である。そんな彼が、今は自身の孫達の稽古をつけるのが何よりの楽しみだと笑った。 彼の友がいた。タウの寒風に晒され続けた皮膚はひび割れたような深い皺に覆われ、かつて浮き名を流した面影はどこにもなかったが、しかしその飄々とした有様と鋭い視線は失われることはない。もう陣頭で指揮を執ることも少なくなくなり、たくさんの孫達には優しいお爺ちゃんとして慕われている。 彼の臣下がいた。遠い昔、王が囚われの身として処刑されかかっていたときに、己の身を引き替えに彼を助けようとした臣下だ。音に聞こえた白百合が如き美貌も、今はその名残を残す程度になっている。それでも、その暖かな雰囲気はそのままだ。 彼らの妻も、いた。そのいずれもが、老人と、宝石のような想い出を共有する、得難い人達ばかりだった。 彼らも、今はいない。 だから、そこには二人だけが、いた。「楽しかった」 老人は、夢を見るように目を閉じて、そう呟いた。 それを見た彼の妻は、くすくすと笑った。「はい、とても楽しい夜でした」「もう、一生分、笑った気がするよ」「ほとんどが王妃様のことでしたね」 老人は苦笑した。「正直に言うとな、ポーラ。俺は今日、とても驚かされた」「何にですか?」「もう、40年だ。あいつが帰ってから、それだけの年月が経つ。そうすれば、もう誰もあいつのことを覚えていないのではないかと、そう思っていた」「あの方のことは、忘れようとしたって忘れられませんわ」「俺もそう思う。しかし、40年だ。それに比べて、あいつがこの世に留まっていてくれたのは6年だけ。ならば、40年間一度も顔を見せなかった人間のことなど、人は容易く忘れてしまうものだと思っていたよ。少なくとも、俺以外はな」 夫人は、言葉を返さなかった。返さずに、ただ、微笑んだ。「しかしどうだろう。あの頃のみんなが顔を揃えれば、口から出るのはあいつのことばかり、いや、あいつのことだけだ。するとな、不思議なことに、あいつが目の前にいるような気がするんだ。もう、どうやって思い出そうとしても思い出せなかった、あいつの瞳の緑が、目の前で笑っている気がする」 この城の大広間には、老人の若かりし頃の肖像画と一緒に、彼のただ一人の妻の肖像が、並んで飾られている。 美しい、そして雄々しく猛々しい、女武者の肖像である。決して、王妃には見えない。決して見えない。 なのに、どこの国の王妃の肖像よりも、遙かに気品に満ちあふれ、何よりも美しいのだ。 その瞳は、緑柱石を砕いた破片で描かれている。 そのたった一枚以外、王妃の肖像画の瞼は常に閉じられている。他の、どのような肖像画を探しても、目を開けたものは存在しない。一説によると、それは画家の敗北宣言だという。王妃の瞳の美しさをどうやっても己の筆で表すことが出来なかった、それ故の閉じた瞼だというのだ。 誰しもが、王妃の顔を思い浮かべたときに、最初に頭に描かれるのがその瞳の緑だ。 どこまでも澄んだ、深い緑。人の記憶に止めることすら許されないような、そういう碧。それは、老人の生まれ故郷である、スーシャの木々の緑を凝縮したような、深い深い碧だった。人の手でそれが描けなかったとしても、それは決して恥ではない。「私は、忘れませんわ」「うん、忘れないで欲しい。出来れば、絶対に忘れないでくれ。そして、少しでも長生きをして欲しい。王妃が、ただの伝説などではなくて、間違いなくこの世界で、みんなと一緒に笑い、怒り、悩み、戦い、酒を飲み、そして他の誰よりも笑ったのだと。彼女はただの戦女神などではなく、俺達と同じ人間だったのだと。だからこそ、他の何者よりも神々しかったのだと。そう、孫達に伝えてやってくれ」 それは、老人の人生を後世に伝えることと何ら変わるところが無い。 何故なら、伝説の中の王と王妃は、最も研ぎ澄まされた時間を、互いの翼を供として駆け抜けたのだから。 老人は、自分が英雄だと知っていた。 しかし、自分の力だけで英雄となったのではないことを、誰よりも知っていた。 後悔、しなかったとは言わない。あのとき、何故、彼女の手を取って、全てを捨てて、共に行かなかったのだろう、と。そう思って枕を噛んだ夜も、幾度となくあった。 それでも、その結果としての生を、彼は一度足りとて恥じなかった。彼は、王妃が命がけで守ってくれた己の魂―――戦士としての魂に恥じない一生を送ったつもりだった。 だから、彼は満足していたのだ。「流石に、少し疲れたよ」「はい、陛下」 寝台に身体を横たえる。ふわりと、身体が沈み込む。まるで故郷の、草で出来た海に寝そべった、幼き日のように。 鼻孔を、嗅ぎ慣れた風の香りが擽った。幻臭だと分かっていた。きっと、懐かしい誰かが、自分を呼んでいるのだろう。 「最後まで迷惑をかけるな、ポーラ。俺がいなくなって寂しくなると思うが、出来るだけ長生きをして欲しい」「はい。はい…。は…い、へいか……。」 夫人は、少女のように、ぼろぼろと泣いていた。 まるで、彼と彼女が出会った頃のように。 その時、片方は王で、片方はただの少女だったのだ。そんな彼女がここまでやってこれたのは、ただ、いつの日か再び王妃とまみえたときに胸を張って再会を祝いたいと、その一心だった。 でも、今は。今だけは、思うさまに泣いても、きっとあの方は許して下さる。 だから、彼女は泣いていた。 それを見て、老人は、少し困ったように眉を寄せた。 「泣かないでくれ。俺は、一足先にあいつの所に挨拶に行くだけなのだ。そして叱り飛ばしてやる。40年、たったの一度も顔を見せないなど一体どういう了見だ、とな」 今際の際の老人は、悪戯を成功させた少年のように小憎たらしい表情で、笑ってやった。 それを見た夫人も、歯を食いしばり、嗚咽を堪えながら、笑った。今は笑わねばならないと知っていた。「…そうですわね。いずれ、誰しもが、あの方の国に行くのです」「そうだ。あれは、天の国の住人だった。…しかし、天の国は、みんながみんな、ああなのだろうか?」 何気なく口を突いて出た疑問は、意外なほどに深刻なもののような気がした。これから自分は、王妃の群の中で過ごさなければいけないのだろうか。それは、とても楽しいことのような気がするし、しかしとてつもなく恐ろしいことのような気もするし…。 老婦人も、同じことを考えたのだろう。一瞬、驚いたように目を丸くしたが、その後で、掌で口を覆い隠しながら、笑った。 笑って、笑って、笑って。目の端に浮いた涙を、人差し指で拭った。 「もしそうだとして…それは、とても幸せなことですわ」「ああ…そうだな…。なんて、贅沢なんだろう」 老人と最も長い時間をともに過ごしたその女性は、彼の冷たい手を握った。 かつては、彼女を片手で軽々と持ち上げたその手も、今は枯れ木のような頼りない手触りでしかない。だというのに、その乾いた感触が、これからの人生をたった一人で過ごさなければならない彼女にとって、どれほど愛おしく、そして頼もしく思えただろう。 もう、老人は、その手に感じるはずの、妻の温もりを感じることさえ出来なくなっていた。しかし、人の温もりは人の肌で感じるものではない。それは、人の魂が感じるものだから、老人の手はとても温かくなった。 少しずつ狭まる視界の中で、小さくなっていく妻に向けて、彼は最後の笑みを浮かべた。「最後に、お願いがあるのだ」 少女のような老婦人は、可愛らしく小首を傾げた。 目は赤かった。でも、口元は微笑んでいた。まるで、眠りに落ちる幼子を見守るように。「名前を、俺の名前を呼んで欲しい」 やがて、老人の視界から光が消えた。 それが、瞼によって遮られたせいなのか、もう光を光と感じることすら出来ないのか、それは彼自身にも分からない。 ただ、最後に聞こえた。 おやすみなさい、わたしのウォル、と。 その声を供にして、彼は、どこか知らない、暖かいところに誘われていった。 まだ春の香りも色濃い、初夏の夜のことだった。◇ その夜、最も偉大な英雄と詠われた、一人の英雄が現世を去った。 英雄の名は、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。 デルフィニアの太陽と呼ばれ、獅子王と呼ばれ、闘神の娘の夫と呼ばれた、不世出の英雄であった。