炎が迫る。純炎。蒼い色。
灼熱といっても過言ではなく、ひとたび触れれば焼け焦げる。広がり、燃えて、待つのは死。
それはもちろんただの人間だった場合。
『反射』。
敵意を向けられたのなら『反射』する。敵意をそのまま返す。
悪意を向けられたのなら『反射』する。悪意をそのまま返す。
では、善意はどうすればいいのか。そのまま返していいのだろうか。
優しさを、ぬくもりを感じてしまった場合、一方通行はもちろん『反射』する。必要の無いものはいらない。
悪を超える。超悪者。ぬくもりよりも冷たさを求め、優しさよりも冷たさを求め、血液の代わりに悪意が血管を通っている。
反射する。全て。
しかしそれはどこへだろうか。
マイナスを貰えばそのまま反射してやるのが良い。相手がのた打ち回る様を見て大いに喜ぼう。
だが、プラスは、何処へ反射するのが良いだろうか。
そもそも笑顔を受けたことがあるだろうか。遠い遠い昔になら、あるだろうか。
理解不能。
そのような状況が無い。経験でしか物を語れない人間だとは思っていないが、それでもこれは脳をいくら働かせても答えは出そうに無い。
聞こえる“だめ”と叫び声。
そして目の前に見えたのは背中だった。そう、背中が見えたのだ。
『最強』であるこの身。それを守る。
冗談ではなかった。そして現実、蒼い炎が今まさに、目の前に見える背中を燃やし尽くそうとしている。一度殺して蘇った女。ルイズ。そう呼ばれていたことを記憶している。
馬鹿め。一方通行はそう思った。
拾った命をまたも投げ出すか。あまりに無能。あの炎は中々の威力を誇るように見える。人間一人を摘み取るのは至極簡単なのではないだろうか。
それを、それなのに自分から死に突入してくる。
理解できなかった。
自分から死に向かう最弱を。
死ぬと分かっているのに向かってくる一万人を。
何よりも自分の死が一番に理解不能。
一方通行は死に鈍感だった。殺しすぎたし、強すぎた。幼い頃から自己完結している、死ぬということ。終わるということ。
人間じゃないと誰かに言われた。
当たり前だ。人間以上。
化け物だと誰かに言われた。
ふざけるな。化け物以上。
神の様だと誰かに言われた。
一緒にするな。俺は誰も救わない。
0.3秒間思考に費やした。
炎が迫る。
伸ばした両腕が行き場を無くし、だらんと垂れた。
向かってくるのなら撥ね返そう。
そこに居るのなら弾き飛ばそう。
しかし、背に守られれば、どうすればいい?
「っだらね」
ため息をつき目を閉じた。
一方通行。直進する。加速する。誰も救わないし、誰も助けない。
踵を返したその瞬間、背後で炎が逆巻いた。己の『反射』は万全。また一人、自分以外が死ぬだけ。どうでもいいこと。さようなら。
03/『ちがう世界』
「……?」
目を覚ませばそこには白い天井が広がっていた。
人間は寝ている間に記憶の整理をすると聞いた事があるが、まったく出来ていないのではないだろうか。全然覚醒が始まらない。脳内はぼんやりと寝ぼけているし、開いた瞼も今にも閉じそう。
だって、天井が白いのだ。
ここは自分の部屋ではなくて、どこか知らない場所で、だからこれは夢なんじゃないかと。
思えば激動に飲み込まれすぎだろう。
(召喚で、そう、召喚して……)
二度目のスパークが脳を刺激した。
ビクリと身体が反応し、大事な事が次々と、その情景まではっきりと思い出す。
今はベッドの住人であるルイズは、召喚の儀を確かに成功に修めた。
しかし現れたのは、白い悪魔。
「……何処まで不幸なのかしら、私」
ポツリと言葉を吐き出した。
「さぁ? けど、まな板に赤くてすっぱいあんちくしょうが二つ乗ってるような胸は確かに不幸ね」
返ってくる言葉に最早言い返す力もなくて、ただただため息が漏れた。
動かすとやけに痛い身体に難儀しながら首だけを向けると、当然のようにキュルケがベッドの脇に座っていた。読んでいた本をぱたりと閉じ、赤い瞳でルイズを覗き込んでくる(胸を強調しながら)。
そして艶やかな唇を開いたかと思えば、
「死んだと思ったわ」
ルイズは“私もよ”と返してやろうかと思ったが、ツェルプストーに本音を語るのはいけない。それ即ち『何となく負け』なのである。
先刻(実際にはどの程度時間が経っているのか分からないが)はパニックの最中、悔しい事に素直に礼など言ってしまったが、今回はそうは行かない。
だからルイズも、もちろん憎まれ口を返す。
「何であんたが私の看病なんかしてんのよ」
「頼まれたんだから仕方ないじゃない。学院長じきじきによ? 断ってもよかったんだけど、まぁ、他の授業どころじゃないのは確かだし、皆と居てもあんたの使い魔の話でもちきりなのは目に見えてるし。それなら静かにここで本でも読んで適当に看病してるほうが楽かなって思ったの」
「もぎ取れろ、乳女」
「残念ね。張りと弾力と柔らかさ、さらには完璧なサイズを兼ね備えた私の胸はそう簡単にもぎ取れやしないわ」
相変わらずの会話だが、ルイズは確かに感謝しているし、キュルケも割と重傷を負った人物を前にして適当にとはいかない。
両者とも口を開けば自然にこうなってしまうのだ。
もう一度だけため息をついてルイズは静かに目を瞑った。
「それで、私の使い魔は?」
「さっき見に行ったけど、まだ学院長室でお話の最中みたい」
「……そう、そうよね……あんな馬鹿みたいなことやっといて……」
「でも強いわ、彼。……彼よね?」
「男でも女でもどっちでも良いわよ。それよりなんだって私の使い魔があんななの?」
「本人に聞いてみなさい。何とかしないと契約する前にまた殺されちゃうわよ?」
「冗談じゃないわよ、二度も三度も殺されてたまるもんですか。大体よ、ご主人様を見捨てる使い魔なんてありえていいわけ?」
「ま、頑張んなさい。今度寝込んでも看病はしないからね」
言い残しキュルケは席を立つ。
ルイズは閉じた瞼をもう一度だけ開き、
「ツェルプストー」
「なぁに?」
「あれよ、ほら、遺憾ながら私はあんたに看病されたわけで、まぁ、それに付いては感謝しないでもないわ」
「あら、一度目のありがとうの方が心地よかったけど?」
「ぐぬ……っだ、だから、感謝してるって言ってるの!」
「はいはい。あんまり大きな声出してると障るわよ」
クスクス笑いながら今度こそキュルケは扉を開き、手をひらひら。
最後に髪の毛切っといてあげたから、と訳の分からぬ事を言い残し去って行った。
「髪の毛……?」
痛む身体をゆっくりと起こし、その時になって気がついた。
頭が軽い。髪の毛が短くなっている。それもかなりばっさりと。
「……」
なぜ? という疑問は出なくて、そう言えば燃えてたな、と。
耳元でちりちりいいながら髪の毛が焼け焦げていく臭い。蒼い炎が眼前いっぱいに広がって、広がって、自分は見事なまでに燃えたのだった。
学園側もまさかラ・ヴァリエール家の息女を授業で死なせるわけにも行くまいて、迅速な対応と破格の治療薬を用意して何とか一命は取り留めている。あろう事かルイズは一日に二回死ぬことになったのだ。
髪の毛を触っていた指先から体温が消えたような気がした。よく生きていたものだと自分自身そう思う。
「……ていうか助けなさいよね、あの馬鹿使い魔……!」
拳骨を握って己の使い魔の事を思うのであった。
。。。。。
「では君は何者で、何処から来たのかね?」
ルイズの消火がなされた後、そこに現れたのは長い髭を蓄えた老人だった。
戦いの熱が完全に霧散してしまい、ぼんやりとしていた一方通行は一応大人しく学院長室に同行。用意された椅子(もちろん椅子を寄越せと要求)にどかりと座り、その両足は老人の机に乗っていた。
「あァ? この俺を知らねェってか」
くっく、と咽喉を震わせ一方通行は不気味に笑った。同時にそれはそうだと自分に言い聞かせる。
それはルイズの消火と治療を見ている時だった。
何となしに息をつきながら空を見上げたのである。そこで目撃した物は一方通行を驚愕させた。ちょっとやそっとのことでは驚かない自信はあるし、そんなに可愛い性格でもない。
しかしその空に在る物、白昼の残月は一方通行を大いに驚かせたのである。
魔法使いは良い。居ることを許容してやってもいい。
ほんの二十年ほど前は超能力だって存在しないはずの物だったのだ。それが時間の経過と、少し度を越えた科学力で生まれた。それだけの事。
だから魔法使いも、まぁ、居ても良い。一方通行は学習した。『有り得ない』は無い。
そして、月は二つあるのだ。
思わず鼻で笑ってしまったのを咎める者は居まい。
寒いとは感じていた。それは移動したからだと思い、恐らく異国のどこかだろうと、学園都市を出る事を許されていない一方通行からすればむしろ感謝したいほどだった。
しかしあの鏡(?)、移動などと生ぬるいものではなかったのである。
「一方通行《アクセラレータ》。名前はこれだな。どこから来たかっつーとだ、テメーらの知らない遠い遠いどっか、ってトコか」
「……真面目に答えたまえ。我々は君を牢に繋ぐ事さえ出来る」
「これこれ、いかんぞコルベール君」
背後から聞こえる声。先ほどまで死闘を繰り広げていたコルベールである。
火の扱いに長けた彼は炎がルイズに当たった瞬間その威力を弱め、そして的確な指示で火傷を治した。彼が居なければ恐らくルイズは黒焦げの焼死体であっただろう。
「言わせて下さいオールド・オスマン。彼は何も分かっていない」
「ッハ、テメーは燃やした女の事でも心配してろよハゲ」
「っ! ……自分のした事の咎は受ける。しかしその前に君を消す。私は君の存在を認めはしない」
「ちっ、随分硬ェ頭してンなァおい。理解できねェか? テメェじゃ俺には勝てねェンだよ」
「……やってみらねば、わからない事もある。私には君を殺す術がある」
「面白ェこと吠えるじゃねェか、『最強』の俺に向かってよォ」
じわり、と空気が歪んだ。
殺気とでも言うのか。一瞬にして学院長室は弱者が住めぬ空間に成り果て、一触即発。どちらかが動けば即ち殺し合いの始まりである。
しかしその中にあっても柳のようにつかみ所の無い一声。
「あーこれこれこれ、イカンぞ。ほっほ、君もまだまだ若いの、コルベール君。それとアクセラレータ君……だったかね? 君もあまり彼を挑発せんでくれ。心労が祟ってこれ以上頭がさみしくなったら可哀想じゃろ?」
「オ、オールド・オスマン! 彼はっ!」
「コルベール君、まずは話し合うんじゃ。わしは誰も見捨てたりせん。人殺しだろうが何だろうがの。……そうじゃろ? わし最高」
ぱちりと随分下手糞なウィンクを老人は放った。
「……はい。申し訳ありません」
室内に充満していた空気の無産と共に、取り出していた杖をコルベールは懐に収める。
まるで演劇のような『クサさ』を感じながら一方通行はため息をついた。
「だりィ」
「おお、すまんの。なかなか血気盛んな若者のようじゃな、君は」
「そういう熱血ものは他でやってくンねェか? 気持ちわりィンだよ、テメェら」
「ほっほ、そう言わんでくれ。じじぃになると若いモンが羨ましくなるんじゃよ」
途端に気分が悪くなってきた。
一方通行は他人の心の機微に疎いところがある。読もうとした事は数少なく、友人など、そう呼べる人物など一人もいない。これまでの人生で全て反射してきた。
そんな一方通行からすれば目の前で行われる茶番。前記の通り演劇にしか見えない。
老人の笑顔はうそ臭く見える。
禿頭が収めた杖はすぐさま取り出せそう。
違和感。いや、異物感か。
最強のこの身は常に頂点にある。隣になど誰も立っては居ない。シンパシーを感じる相手といえば人殺し位なもの。
「……学校なンだろ、ここ」
「そうじゃな。ここはトリステイン魔法学院。貴族の子を預かる所じゃ」
「図書室は?」
「もちろんあるぞい。何とその蔵書数はっ」
「どうでも良い、ンな事は。案内しろ」
「……なんじゃ、いじけるぞ? じじぃがいじけた姿はそりゃ見れたモンじゃないぞ?」
「死にてェンだったら今すぐ送ってやンぞ」
「おお怖。ホレ、学園の見取り図。行きたきゃ勝手に行けい。終わったらちゃんと説明を頼むぞい。人間が召喚されるなんて初めてなんじゃ」
鼻を鳴らし、一方通行は奪い取るように見取り図を受け取った。
話なんて必要ない。
異世界である事はすでに理解した。必要な情報は適当に探る。まずは情報から。行動した後に考えるのも嫌いではないが、今は違うだろうと判断。
何とかして帰る術を見つけ出し、そして、そして?
はた、と気がついた。
帰る手段を見つけ出して、それで自分は一体どうしたいのか。
もし帰ったとして一方通行に未来はあるのか。
大々的な実験失敗。付きまとう一万人の処遇。
幸せになりたいだとか、そんなことを思った事は一度も無いが、帰ったとしてどうなる。
「どうかしたかね?」
「……なンでもねェ」
少しだけ。ほんの少しだけ考え込みながら部屋を出た。
。。。。。
雪色の肌は今日も健在である。
ちんまい身体を椅子の上に、黙々と読書中。
ただ静かに本を読みたいだけ。
それだけなのに周りの喧騒は聞こえてくる。
誰もが噂した。
ゼロのルイズ。
使い魔。
エルフ。
やかましいだけだった。
興味が無いわけではないが、むしろ少なからずある好奇心を刺激してくれたが、それはそれ。関係ないと割り切れば、本に集中するだけ。
授業どころではないのは目に見えていた。だから自室で本を読んでいたら、今度は妖艶な赤色が進入してくる。
やはり授業に出ると嘯き、そしてたどり着いたのが図書室だった。
ここは良い。ほっと一息。
もぐもぐとおやつを頬張っていた司書には嫌な顔をされたが、この静寂は落ち着かせてくれる。
雪色の少女、タバサは積上げた本を見つめ、一度本棚に返そうと杖を握り魔法を使った。
ふわりと浮かぶ十冊ほどの本の束。明らかに自分の身長よりも高い場所にある棚の一段目、そこに本を差し込んでいく。
そしてそこで一人の人物と目があった。
「あ」
タバサの肌は雪のようだ、と友人は言った。
それはちょっとした自慢だった。誰にしてもそうであるように、やはり容姿を褒められたのは嬉しかった。
そして目があった人物、その人は赤い瞳に、雪のように白い肌と髪の毛をしていた。
何となく同族意識を駆り立てられ、感情の篭らない瞳で見つめてしまうその先は、先ほどゼロと呼ばれる人物が召喚した使い魔。
「……」
「……ンだァ?」
「……本」
「あァ?」
「……本が」
使い魔は本に座っていた。
七冊積上げた本に腰を下ろし、その彼の周りにはいかにも適当に放り出した本。今読んでいる本にも、なにやら落書きしている様子。
本が、タバサの好きな本が、汚れていく。
「っち」
使い魔は舌打ち一つ。
無視を決め込んだようで、またも本に向かって落書きを開始した。
許されざる行為ではないだろうか。
ここは図書室で、その本は今までにタバサが六回借りて、そしてとても楽しかったと、読了後に充足感を与えてくれるものであったはずなのに、まだ読んでいない人が居るのは当たり前で、それはタバサのお勧めブックだったのだ。
読書など気が向いた時にしかしないという赤い友人、キュルケに勧めて、そして楽しいと言ってもらった本なのだ。
瞬時に杖を向けて使い魔が持っている本を宙に浮かし、そして一言。
「ダメ」
「はぁ……おいガキ、今すぐそれを返すなら許してやンぞ」
「……」
「……おい、聞こえてンのか? ソレを返せっつってンだがよ」
「……」
「はいはい出ました、ここでも話が通じねェってか。俺ァあンまり気は長くねェぞ?」
使い魔、一方通行は立ち上がりぷらぷらと手首を振った。
何をするつもりなのかと疑問を感じながらも、タバサは別に戦うつもりなどなく、落書きを止めてもらえればそれで良い。あと本の上に座らないで欲しい。
一方通行の振る舞いは、少なからず実戦を経験しているタバサにとっては隙だらけだった。瞬間に『戦う者』ではないと判断。
ちらりと見たが、脅威なのは魔法を跳ね返すあの技と、ルイズがやられた右手だけのようだ。
口を開き、もう一度本に落書きをしては駄目だと言おうとしたとき、タン!と一方通行が足踏みを。
ついピクリと反応してしまい、ただの足踏みだと理解するまでもなく、足元に散乱している本がタバサに襲い掛かってきた。
「っ!?」
身を翻してソレを避け、まん丸に開いた瞳で一方通行を見た。
面倒くさそうに頭を掻きながら、今度は本棚をコン、コン、コン。
「おら、さっさと返しやがれ。やっと文字が理解できそうなンだよ」
タバサから向いて左の本棚から一冊づつ、当たったら痛いだろうなぁ、程度の速度で本が飛び出してくる。
いったいどんな魔法を使っているのか、容赦なく飛んでくるソレは全て顔面を狙ってくる。メガネをかけているタバサにとっては正直かなり喰らいたくない部類の攻撃である。
何より飛んでくる本達が全て読んだことのある本で、全部雑に扱って欲しくないものばかり。密かに自分のお勧めを一つの棚に集めていたのが仇となった。
避けるよりもキャッチ。
飛んでくる本を受け止め、次が飛んで来る前に足元に積上げていった。
雪崩のように降り続く本は勢いを止めず、本棚の中身を全部足元に積上げた時にはすでに逃げ場はなかった。自ら逃げ場を塞ぎこんでしまった。
積上げた本達を張り倒すわけにもいかず、つかつかと近づいてくる一方通行は欠伸をしていた。
「くぁ、ああクソッタレ、眠ィ。余計な手間取らせやがって」
「……ダメ」
手を伸ばしてきた一方通行に取られぬ様、持っていた本を背に隠す。
行き場を失ったその手。それはそのままタバサの頭の上に置かれた。一方通行はわざとらしくため息をつきながら、
「5」
「……?」
「4」
「……ダメ」
「3」
「落書きは……」
「2」
「ダメ……」
「1」
「だ、だめ……」
「はいゼロォ」
プツリと目の前が暗くなった。
変わらぬ姿、変わらぬ格好のまま彫像のように一方通行は本を読み漁った。隣で倒れている子供はそのままに。
「ろめ、ろうめ、ろまれ、ろまれあ……ろまりあ、ああ、ロマリア、ロマリアか……地名だったな」
そして手に持っていた本をポイと放り投げ、子供が積み上げた中の一冊を取る。
図書室に来てどれくらいの時間が経っただろうか。
学院長と名乗る老人から見取り図を奪い、そしてまずその見取り図が読めないという事態。すごすごと引き返し教えてくれと頼むのは一方通行の美学に反する。
迷いながらも何とかたどり着き、たどり着いたはいいが今度は本のタイトルが読めない。
一方通行としては歴史書や地図が欲しかったが、手にするタイトルはどうにもファンタジー世界のファンタジー物語だったようで、半分ほど読んだところで気がつきそれを投げ捨てる。何度か繰り返したところで文字の規則性などを発見し、その聡明な頭で理解していく。
するとなぜか随分小さな子供が現れ、本を奪われる。その際魔法を使われたようだった。物体を移動させる魔法。随分便利なものだ。
「べりぃみゃ……? べりぃみぁれ、べぇる、違う、ぶ、ぶりぃみぁ……クソが」
どうにもこの世界は人名や地名などが随分読みにくい。
英語とドイツ語を掛け合わせ、フランス文法で読み取り口に出す時はそのどれでもない音として出てくるような、一方通行の頭脳でも多少手間取るものだった。
文章はそれなりに読める。だが、人名や地名が出てくると途端にあやふや。文法そのものが変わったような、顔の向いてる方向が先になるヒュポノグリフのような……。
「ぶりみぃれ、ぶりみぃれが世界の左腕……左手をぐん、がん……がんどらろべ? に、し、し……意味がわからねェ」
またもポイと投げ捨てる。
読んだ感じだと『世界』やら『救う』等の言葉が出てきている。恐らくファンタジー小説。
先ほどから取り出す本取り出す本全てがこの類のものばかりだった。読みたい本にまったく当たらない。第一に、文系は嫌いなのだ。
唾でも吐きかけてやろうかと一度立ち上がり、固まった背中を伸ばした時、もぞりと視界の隅で動く小さな物体。
「っち、起きやがった……」
「……何処?」
「あァ?」
「ここは?」
「……さァな」
面倒くさそうなので一方通行は知らん振りを決め込んだ。
気絶させるとその前後の記憶はあやふやになる様で、もちろん記憶を失わない奴もいるのだが、この子供はどうにも状況が分かっていない様子。
「私は……本を読みに来て……?」
関わると思い出されるかもしれない。
そうなるとそれはそれは面倒くさい。また“本が……”とわからない事を口走りながら読書の邪魔をされる。ここに来る前に会った巫女と同じくらいに厄介だ。
一方通行は思う。
恐らくこの子供やあの巫女は『足りていない』のだ、と。
何がとは言わないが、恐らく足りていないのだ。流石の一方通行もそういう人物に対しては多少寛容にもなろう。もちろん殺しはしない。今のテンションは先ほど(コルベールとの戦闘)とは違う。
「おいチビガキ、テメーが散らかしたンだからちゃンと片付けとけよ」
「……わかった」
「あとよ、歴史書と地図は何処にあるか分かるか?」
「あっち」
足りていない子供は一方通行の事など見ず、本を浮かせながら指した。
最初から言うつもりも無いが、礼など言っても恐らく分からないだろうと判断し、子供が指した本棚を漁る。
何となく読む限りでは『世界地図』のタイトルを取り、そして表紙をめくった。
「……く、くく……流石、ファンタジーってヤツだ」
わかっていた事だった。ここが異世界であると。
しかし本を開いての一ページ目、見開きである世界地図は確かな現実感をもって一方通行に襲い掛かる。
当たり前のように形の違う大陸。読めない文字。
「いよいよもって面白ェことになってンぞ、こりゃァよ」
窓のほうを向けばもう外は薄暗かった。
二つの月が照らすのは、何も無い平原。
吸い込まれそうだと思った。
恐らくもう少し時間が経ち、太陽がその姿を消してしまったのなら完全な暗闇が訪れるのであろう。
学園都市ではあり得ない。どこかに必ず人工光があり、何も見えないことなど、それこそ目を瞑った時だけ。
しかしここでは違う。夜が来れば暗くなり、光は魔法か炎、そして上空の双月だけ。
この世界で、何をしようか。
目的など何も無い。
手を伸ばせば、違う世界に届いてしまった。ここでする事など何もない。日本は無い。学園都市は無い。図らずも一万人の殺人から逃れ、さぁ、一方通行はここで何をするのか。
「……」
一方通行が『最強』であるのは間違いない。
まだ『無敵』ではないが、恐らくこの世界でもランクをつけるのならレベル5である。
6の領域に行くのは一方通行しか居ないとはいえ、ここでそれが叶うのかと言えば疑問が浮かぶ。
この世界には科学が無い。見れば分かる。空気はまったく汚れていない。
科学の無い世界で、脳を弄繰り回すような実験も出来るわけもなく、上空には人工衛星の一つも飛んでいない。100%の天気予報など期待できるわけもなく、雨を感じればそれから準備しなければならないのだろう。
「俺は何をする、ここで」
誰かに言ったわけではない。だが、
「使い魔」
「……ガキは寝ろ」
いつの間にか子供が隣に立っていた。
身長が低く、パーツも一つ一つがいちいち小さい。一方通行は子供が苦手なのである。つもりも無いが、触ればすぐに崩れてしまうに違いないのだ。
「あなたは使い魔」
「冗談じゃねェな。誰かに使われるなンざ……」
御免だ、と言おうとした時、ふと思ってしまった。
今まではどうだったのだろうか。
6に成るために科学者を利用してきた。それが一番の近道だった事は間違いなく、一応力の使い道なども発展を見せた。
もちろん利用されてたのは知っている。一方通行の実験データは何処かの誰かに適応されているはずだ。“誰かの為なンざクソ喰らえ”とは思いつつも、6というニンジンを吊り下げられて一万人を殺し、データを提供。そして、
(……結局が誰かの犬ってか)
笑ってしまう。
学園都市に居た時は学者と学長の、そして異世界に来れば今度は使い魔と来た。
「……どうしたの?」
「あァ、誰かに使われるなンざ、そう、御免だッてンだよ、クソッタレが」
瞬間、やりたい事が出来た。
自分勝手に生きる。それだけの事。
ここで『無敵』になり、そして帰る。
科学者どもの鼻を明かしてやる。無敵の一方通行を見せ付けて、学長を殺そう。学園都市というシステムを完膚なきまでに破壊して、旅に出よう。そう、向こうでマホーツカイを見つけ出すのも良いかもしれない。
愛着など何も無い。縛るものは何も無い。一万人の殺人も関係無い。最弱に、リベンジだ。
「タバサ」
「あァ?」
「名前。私はタバサ。あなたは?」
「……くく、乳臭ェガキに名乗るような名前は持ってねェンだよ」
「あなたに興味がある。あの魔法は何? 杖が無くても?」
「さァな。お子さまにゃわからねェこった」
一度も目を合わせずに会話を打ち切り、そして踵を返した。
やりたい事が出来たのなら行動しようと、そう思った。
一万人で足りないのならもっと血を浴びる。
一方通行の能力はつまるところ認識力と計算能力に依存する。経験はそのまま力になる。新しいものを見、理解し、そして反射すればその分強くなる。
超能力者を一万人ほど殺したが、それはほとんど効果はなかった。
だったら、と。
「……行くぜ……」
己に言い聞かせたに過ぎないのだが、それに返事が返ってきた。
「何処へ?」
「……、……。何処……? ……っは、ははは、くく、スゲェ、ガキみてェだ!」
己も馬鹿さ加減に思わず笑いが出てしまった。
そう、何処へ、だ。
何処へ行けば良いかなどまるで知らない。文字もあやふや。世界の常識すらも。
そんな状態で、やりたい事が見つかったからと足を踏み出すとは、自分自身が信じられなかった。
「くは、っははははは!!」
「……?」
タバサと名乗った子供の不信気な表情がさらに笑いを呼び、その後も決して短くない時間一方通行は背中を丸めて笑い続けた。