なにやら薄暗い室内に俺は居た。
最初に感じたのは強烈な吐き気。それにほんの少しは耐えたんだけど、程なくして決壊。
両膝を床に落として、胃液を水浸しの床にぶちまけることになる。
くそぅ……いったい何がどうなって――あ、また吐き気がブリ返してき……おげぇ。
静寂が支配していた部屋に、びちゃびちゃと水音が響く。
自分でも信じられない量を嘔吐した後、ようやく吐き気が落ち着いてきた。
胃液の影響で痛む喉に顔をしかめながらも、蹲っていた上体をよっくらせと起こし、辺りを見渡す。
「……えーと…………ここ、どこ?」
思わずそう呟いてしまう。だって……まったく記憶に無いような場所なんですよ?
なかなか広い部屋。だけど居心地は最悪。
暗いし臭いし水浸しだし。なんか後ろにあるシリンダー割れてるし。天井にある小さな光しか光源が無いのは正直どうかと。
しかもところどころに液体の詰まったシリンダーがあるし。ぱっと見怪しげな研究室、みたいな感じですか。
「うぅっ、さむ……」
ブルッと身体が震える。なんでこんなに寒いのさ……。
そこで俺は気付いた。
俺……裸。素っ裸!
「なんで裸に……まさか露出に目覚めたのか、わたし……?」
昔からの癖で喋るときは"わたし"。言ってて違和感を欠片ほども無い。慣れって凄いよね。
露出云々は一先ず置いといて……寒い。室内の温度が低いってのも原因なんだろうけど、それよりも身体が濡れてるのが致命的にマズイ。
くそぅ……なんだっていうんだ……。
震える身体を両の手で抱きしめつつ、脳内で悪態を吐く。そんなことしても現状は変わらないけど、これくらいは許して欲しい。
なんでかは知らないが、俺はこの割れたシリンダーから出てきたみたい。なんでだろ。
まあ……今はそんなことはどうでもいい。とりあえず辺りを確認して、なにか身体を拭くものを探さないと。
そう思って、立ち上がり…………それが目に入った。
俺の真正面にあるシリンダー。液体に満たされたそれは薄暗い室内の中で、それはなかなか異質な雰囲気を発していた。
……が、そんなもの辺りを見渡せばいくらでもある。
俺が、思わずフリーズしてしまうほど驚いたモノ。
それは液体に満たされたシリンダーが、鏡のように写したモノで。
……シリンダーには少女が写っていた。
長い黒髪が濡れていて、幼いながら艶やかだ。異常に整った顔立ち。その顔はどこかポカンとしていて愛らしい。しかし黒曜石のようなその両の瞳がこちらを捕えて離さない。両手で自分を抱きしめ寒そうに震えている。
「…………ゑ?」
自分の口から、間抜けな声が出た。わずかに動いた俺の口。シリンダーに写った少女も同じく、わずかに口を動かした。
俺はシリンダーに向けて一歩踏み出す。少女も同じ動作をする。
ぺた、ぺた、と足音がする。水に濡れてるからこんな足音なのか、と変に納得してしまいましたよ。
脳内でくだらないことを考えつつ……シリンダーの目の前に着いた。少女も目の前。
そっと手を伸ばす。もちろん少女も同じように。
ひんやりとしたシリンダーに触れる。
うん、傍から見れば少女が手を取り合ってるように見えるかも。
「……ふふっ」
うん。わかってるよ。今までちょっと混乱してただけだよ?
可笑しくなって笑えてくる。目の前の少女ももちろんね。
「あっはははは! わたし、女の子じゃん!」
そう。気付いたら俺は女の子になっていたんだ!
うん、普通に考えたら狂人の妄想ですねの一言で終わりだが、これ現実なのよね。
前の俺より高い声で、気の済むまでケタケタと笑っていると、呼吸が怪しくなってきたので一旦深呼吸。……あ~、この部屋やっぱり臭い。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、落ち着いたところで少し考えよう。
俺は一回死んだ。これは間違いない。すんごいスピードの軽トラに撥ねられたのだ。
で、気付いたらこんなワケの分からん所に居て女の子になっちゃいました、と。
うん、すっごい笑える。ははは……はぁ。
「なんなんだろうねこの状況は…………もしかして、転生? しかも前世の記憶持ちで」
転生したかどうかはわからないけど、今までの記憶はばっちりある。リリカルなのはとかA’SとかStrikerSとか。
もし転生したのなら強くてニューゲーム状態! やばい。オラワクワクしてきたぞ!
……嘘です。ワクワクなんてしません。仮に転生だとして、俺がどういう立場の人間なのかはっきりしないと安心すら出来ません。
「とりあえず…………見た目は良いね」
シリンダーに写る自分を見て、本気でそう思っちゃったんだからしょうがない。
自分で自分を褒めるナルシー野郎って思わないでね? まだ……ちょっとこの身体が自分だっていうのを認めてないんだよね。
「う~ん……なんか、最初は全然知らない場所かと思ったけど……」
改めて辺りを見渡した俺の感想は、当初のものと大分変わっていた。
なんと言うか、見覚えがあるというかなんというか。こういうのをデジャヴというのかも。
薄暗い部屋。どことなく不気味な雰囲気。シリンダー。
なんというか、そう。まるでリリカルなのはの時の庭園のような――
そこで不意に、静寂を保っていた部屋に響く異音。
「――ひゃっ」
うわぁ情けない声出た。だって今まで俺が出した音以外はなんにも無かったのに。いきなりじゃあ……ねぇ?
そんな風に自己弁解したところで意味も無い。それよりも……何の音だろ。
そっと、聞き耳を立てる。耳元に手をやっただけですけどね。
かっ、かっと軽い音。
これは…………足音?
一定のリズムで響くその音が、徐々に大きくなる。
やばい。なんか知らないけどこっちに近付いて来てるよ!? いきなりの展開で本当に怖いんですけど!
恐怖に駆られるまま、上手く動かせない身体を精一杯使って、部屋の隅のほうに移動。
俺が目覚めたこの部屋には、ドアが一つしかない。
つまりこの音の主が……もし、この部屋に来るのなら、あのドアから来るはず。
「……チャンス」
そう。これはチャンスのはず。
理解不能だった俺の立場を確かめるチャンス。
さっきもやったけど、自分を落ち着かせるために深呼吸一つ。
誰が来るかは知らないけど、言語が通じればきっとなんとかなるっ…………なんて自分を励ましてるんだけどやっぱ怖い。変なおじさん来たらどうしよ。
音が大きくなって――――ちょうどドアの前で止まる。
カチャッ、と案外軽い音でドアが開き、音の主が部屋に入ってきた。
「……え?」
ドアを開け、入って来た女性に…………ひどく見覚えがある。
白い帽子。黒を基調とした服の上に、白い袖なしのコートみたいな少し胸元が開いた服。
間違いない。俺は彼女を見たことがあるし。知っている。
「…………リニ、ス?」
そうポツリと呟くと彼女――リニスはその端正な顔を、驚愕に歪めるのだった。
<リニス>
「……リニス」
大仰な椅子に腰掛けた主、プレシアが私の名前を呼ぶ。
「なに? プレシア」
「フェイトの教育はどんな様子かしら?」
……驚いた。プレシアがフェイトのことを気に掛けるとは。
順調です、と当たり障りの無い事を言っておく。実際のところフェイトはプレシアに会いたがっていますが。
プレシアがそう、と気の無い返事を洩らした後、沈黙がこの場を支配する。
どこか虚ろなプレシアの瞳。
思えばいつからだろうか。プレシアが変わったのは。
アリシアが亡くなった時だろうか。プロジャクトFに加担している最中だろうか。それともプロジャクトFをさらなる高みへと昇華する際に自らの身体を壊した時だろうか。
もしくは…………フェイトを創り上げ、それがアリシアではないと理解したときなのだろうか。
私にはわからない。出来ることも少ない。
私に出来るのはフェイトの教育とプレシアの身の回りの世話だけ――なんて少ないんだろう。
自分の不甲斐無さに少し気分が重くなる。
その時だ。遠くから何かが――そう、ガラスが割れるような音が響いた。
プレシアを見る。その端正な顔を明らかにイヤそうに歪めて、溜息を吐いていた。
「……リニス」
面倒臭そうに私を呼ぶ。実際面倒なのでしょうが。
「様子を見て来なさい」
そう言って、興味を失くしたかのように瞳を閉じる。
「ええ。わかってるわ」
聞いているかわからないが、私はそう言って歩き出した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
音がした部屋に着いてから私は言葉を失った。
この部屋はプレシアの、プロジェクトFの研究室だった。かつてプレシアがこの部屋に何日も篭っていたのを覚えている。
プレシアはプロジェクトFのクローン技術でフェイトを創り上げた。だが、それ以前に創ったものがある。
アリシアの遺伝子でクローンを創る前に、プレシアは実験をしていたらしい。
本当にクローンを創れるのか。私の技術は間違っていないのか――
それを確認するために、プレシアはプロジェクトFの基礎を作った男から寄越された遺伝子を使い、実験を行った……と言っていた。
結果は成功。無事にクローンは創られ、プレシアはアリシアを生み出すための準備に入り――
――この部屋はプレシアに忘れ去られた。
それ以来放置され続けていたこの部屋に、驚くべきことが起きていた。
部屋の中心にあったシリンダー。そこにはクローンが入っていたはずである。
しかしそのシリンダーは無残にも割られ、シリンダーの中にあった培養液が、床に水溜りを形成していた。
その水溜りを起点に、点々と足跡が作られている。
シリンダーから溢れた培養液が、小さな……とても小さな足跡を作り、道標のように続いていた。
その足跡を、目で追いかけていくと――居た。
部屋の片隅に座っていた。濡れた黒い髪の少女。寒いのか、怯えているのか。両の手で身体を抱えている。そして私の視線が彼女の黒曜石の瞳とぶつかる。
まさか……シリンダーの中から自力で出てきたというの?
どうして今頃になって……プレシアに報告すべき?
混乱している私をよそに、彼女は言った。
「…………リニ、ス?」
何故。貴女は今、生まれたのではないの?
たった今生まれたばかりの存在が、私の名を知っている?
<???>
どうやら俺は失言をしてしまったらしい。
思わずリニスと呟いてしまったんだけど、その瞬間から俺を見る目が、猜疑心に満ちているワケでして。
「何故私の名を知っているの?」
そんなリニスの視線に気圧されていると、そんなことを聞かれた。
もちろん答えられるワケがない。アニメで貴女の事を知りましたなんて言ったら……残念な視線を向けられるに違いないし。
「あなたはクローンなのよ……私のことを知っているはずがないわ」
クローン!? 俺はクローン!? 衝撃の事実発覚。
というかちょっと待って。彼女はリニスで、俺はクローンで、ってことはここは時の庭園で……薄々気付いていたけど、今の言葉で確信した。
ここは、リリカルなのはの世界ということですね!? 前世からの憧れの世界……もう感動としか言いようがないですよ!
嗚呼、思わず涙が……。
「うぅっ……」
「なっ……!(涙? 一体どういうことなの……)」
「わたし、ずっと見てました……」
もうこの感動は止められない! あなたに俺の気持ちを伝えたい!(感動的な意味で)
「あなたやフェイトのこと、ずっと見てました……」
「なんですって……(私達の事を見ていた? どういうことなの……もしかして遠視を行うようなレアスキル?)」
「いつか会えたらいいなって思ってましたっ」
やばい。顔がニヤけてくる。だって嬉しいんだもん!
「はっ……(もしそうなら……彼女はシリンダーの中でずっと……)」
なんかリニスさんが浮かない雰囲気。どうしたんだろ。
……はっ、そうか。俺はクローンだったんだ。それなのに今シリンダーから出てきたような奴が、自分の事知ってたら気味が悪いよね。
「あ、あの……いきなり変な事言ってすいません」
「いえ……いいのよ。ほら、立って」
そう言ってわずかに微笑みながら手を差し伸べてくれる。
俺はその手を取って立ち上がる。なんかもの凄く嬉しい。
嬉しいんだけど……ちょっと寒い。いい加減風邪引きそうですし、震えが止まらない。
「私と一緒に来なさい。そのままじゃ寒いでしょう?」
「え……あ、はい! ありがとうございます!」
リニスさん……俺には貴方様が天使に見えます。
そんな感動に打ち震えている俺の手を引きながら、リニスさんは歩き出した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そんなこんなで、俺はリニスさんにホイホイと付いて行き、ある部屋に入った。そこで濡れていた身体を拭いてもらって、リニスさんに服も貰った。
「あの、なにからなにまで本当にありがとうございます」
「いいのよ……気にしないで」
リニスさん、本当にいい人だなぁ。……いや人じゃないんだけども。
「それじゃ、ちょっとここで待ってて欲しいの」
「え? わかりました」
う~む、どこに行くんだろ。まあそんなこと聞いてもしょうがないか。
「それじゃ……」
そう言い残して、リニスさんは出て行った。早く帰って来てくださいね。
<リニス>
「プレシア。貴方が最初に創った……クローンが動き出していたわ」
椅子に座って、瞳を閉じているプレシアに伝える。
「そう……そういえば、そんなモノを創ったわね」
そしてそのままどうでもよさそうに答えた。
何故だろう。少し気分が沈む。なんとなく次のプレシアの言葉を予想出来てしまうからだろうか。
「リニス。もうあれはいらないわ。処分してきてちょうだい」
案の定、プレシアから予想通りの言葉が出た。
「しかし……」
「なにか問題でもあるかしら?」
プレシアはそれで問題無いのだろう。でも、あの子の数年に及ぶ苦しみを知ってしまった私に、そんなことは……とても出来ない。
「情でも移ったの? あんなただの実験台に」
その言葉に思わずプレシアを睨み付けてしまう。情が移った? あの子は意思がある。ならばもう人間ではないか。
「プレシア……!」
自分からこんな声が出るとは。凄まじい程怒気が篭った声色だった。
「……仮に処分しないとしても、誰がアレの面倒を見るって言うの? 私は御免よ。あんなモノ」
「それは私が……」
「無理よ。……リニス、わかっているわね? 貴女に残った時間はもう無いのよ。それなのに誰がアレの面倒を見るって?」
――時間が無い。
そうだった。私には時間が無いんだった。
私はプレシアの使い魔。使い魔は主から送られる魔力なしでは生きられない。
そして、プレシアはいずれ死に至る病を患っている。
その病により、魔力は小さくなっている。使い魔の私を維持出来なくなるほどに。
それでもプレシアが今まで私を残していたのは、フェイトの教育のためだ。
それが私の最後の仕事。私はフェイトの教育が終われば、プレシアとの契約を解除され――消える。
そしてフェイトの教育はもう終わりに近づいている。
「……わかったようね。だったら早く処分してきなさい」
「…………わかったわ」
プレシアの部屋から踵を返し……私は決意した。
たとえプレシアの指示に逆らうことになっても……私を見て、嬉しそうに笑ったあの子に出来ることは、まだある。
<???>
「あ、リニスさん。お帰りなさい」
「…………」
リニスさんは三十分ほどで帰って来たのだが、どうにも沈んでいるご様子。なにかあったのだろうか?
「あの……?」
いったいどうしたんだろ。ちょっと気になる。
「ごめんなさいね……」
「?」
えーと……なんでいきなり謝られたのでしょうか?
「私にはこれくらいしか出来ないの……」
そうリニスさんが言った直後にりん、と風鈴のような涼やかな音が響く。
そして……俺とリニスさんを中心に現れる魔法陣。
「あ、あのぅ。リニスさん……?」
「ごめんなさい……貴女がいい人に会えるように、祈ってるわ……」
リニスさんが優しく、だけどどこか影のある微笑を浮かべ――俺の意識は消えた。