「お」
と声を上げた俺の前を歩くのは、後ろからでも分かる長い袖が目印の軍師見習い・呂蒙さんだ。
師と弟子という関係から気兼ねなく話せる人物なので、軽く挨拶でもしようと小走りに近づいて――。
「――っ!?」
目の前で長い袖が舞い、俺は直感に突き動かされて顔を右へ動かした。
そして感じる頬をなでる風圧とストンという乾いた音。
恐る恐る首を左に回すとそこには長い袖、しかも壁に突き刺さっている。
「……は?」
何故袖が壁に突き刺さるのだろう? おかしいだろ物理的に考えて。
あ、そうか。何か、分からないが長い袖の中に危険なものを潜ませていて、それが壁に刺さってるのか。
遅れていた思考がここにきて追いつき、現状を推測する。
それなら問題ない。物理的に言って。
「あ、亞莎?」
顔を引きつらせながら、俺はこの危険極まりない袖の持ち主に声をかける。背中を逆立てる猫に話しかける要領で。
物理的におかしくなくても今の状況はおかしいのではないかと思うのだ。
「その声は……朱羅先生!?」
驚きの声の後、亞莎は視線をさらに鋭くした。
知らない人にとっては戦闘開始の合図になりえるのだが、彼女にとっては索敵行動だ。
俺はそのことを知っているので笑顔になるように顔の筋肉を使いながら指で壁に刺さる袖を指し示す。
「そう、俺。だからこれどけて欲しい」
「し、失礼しましたっ」
そう言って亞莎は、慌てて"何か"を袖の奥に引っ込める。
「申し訳ありません、つい……」
あぁ、理解しているよ。見えないんだよね。
それで武人としての勘で動いちゃうんだね、その勘が俺の行動を奇襲か何かだと判断した、と。
授業ではこういったことが全くなかったので油断していた。
そもそも、普通なら背後を取る事なんて不可能なのだが、勉強に頭が一杯かつ城内ということもあり周りへの注意が散漫になっていたのだろう。
「少しは 周りに気を使った方がいいんじゃないか?」
「いえ、悪意のあった場合には反応できますから」
「……その理屈で言うとさっきの俺ってあったの? 悪意」
「い、いえ! そういうわけではっ」
慌てて訂正する姿は可愛いのだが、いくら可愛くとも、こっちは刺されかけたのだ。
俺の立ち居地と壁にできた真新しい穴。比べると額の辺りだった……恐ろしい。
「亞莎、眼鏡買おう」
「は、いえ。そんな……」
恐縮してる場合ではない。
相手を殺し手からでは遅いんだ。そしてソレが俺だったら何もかもが手遅れなんだよ。
頼むよ、俺の命に関わってくるんだ。
………………。
…………。
……。
そしてやってきた眼鏡屋……ではない。というかこの世界に眼鏡屋は存在しない。
身に付けるものの一部ということで呉服屋の片隅に眼鏡を扱うスペースが存在する。
故に店員は呉服屋のそれで、だから……つまり。
「お譲ちゃん、そんな男みたいな服着てないで……云々……」
正直全てを聞く気は起きないが、こういう輩がいるのだ。
また出た。というのが端的な感想。
服屋に来るといつもコレだ。人を何だと思っている。
問いたい、子一時間問い詰めたいのだが、ソレをすると子一時間こちらの服の方が良いということを説明されるので可能な限りやんわりと断ることにしている。
「いや、そもそも前提として色々と違ってまして。相互の理解に致命的な相違が」
というわけで今回も断りの言葉を切々と述べていたのだが。
「あの、朱羅先生。どれが良いと思いますか?」
間の悪い事にちょうどモノクルを選んでいた亞莎が戻ってきた。
「? どうしたのですか?」
「あぁ、いや。服を薦められただけ」
「服、を……」
その言葉に何かひらめいたのか亞莎はぽん、と手を打つ。いやな予感がする。
「それでは、私が先生に服をお贈りします!」
「…………は?」
ナニをイッテルンダ、この子?
いや、言わんとすることは理解できる。
亞莎としては完全に善意というか自分ばかりで恐縮しているのだろう。
そんな慎み深さと優しさを併せ持つ少女であることは理解している。しかし今は凄くお呼びでなかった。
「そうかい、じゃあとびっきりの服を用意しとくよ!」
「ちょっとあんた!?」
そして店の主人は正直消えて欲しかった。
「お願いします。先生が着替えている間に私も眼鏡を選んでいます」
「お前も待て!」
何故当の本人をおいて話が進んでしまうのだろう? そんな事を考えているうちに事態は収拾不可能な段階にまで進み俺に出来ることといえば諦めるか逃亡するかの二者択一。
諦めたら色々と終了だし、ならば逃げるしかないのだが……そうするとかなりの高確率で亞莎に眼鏡を買うという当初の目的が果たされなくなる。
別に次回でもいい、とは思うのだが。
命に危険があるけど、別に次の機会でも良いか。
うん、凄くフラグだ。ダメだろコレ。
何か死にそうな気がする。
とすると、男としてのプライドを取るか命をとるか。
命に関しては確実に失うわけではないが……。
プライド? それがどうした。そんなもの俺にあったか?
いや、あるのだろうが命と比べてどのくらい重い?
ふと視線が道端の枯葉を捉えた。
あれだ、俺のプライドなんてあの葉っぱと同じくらいの重量しかない。……あ、飛んだ。
いいさ、今日のミッションの成功を考えればあえて泥を被るくらいなんだという。
の、様なことをコンマ5秒で考えた後、俺は満足そうな表情を浮かべた店主のもつセーラー服を嫌な目を隠すことなく見つめた。
………………。
…………。
……。
「わぁ、すごいです!」
ソウカイ……ソレハヨカッタネ。
新しいモノクル、見た目は変わらないが、をつけて喜んでいる亞莎を見ながら笑う。それだけだったなら心のそこからの笑顔を浮かべられただろうと思うと残念で仕方ない。
だって セーラー服。
前の世界にあっただけに余計ダメージが大きい。
俺の精神は致命的なダメージを受けたが……身の危険を前もって回避できたのだから良しとしよう。
そう思わなくてはやってられません。
「ありがとうございます! せんせ……」
喜色満面の亞莎。
しかし俺を振り向いた瞬間……その表情が凍った。
「やっぱりいりません」
なに?
「何を……言っている?」
「私には必要の無いものでした」
あるだろ、凄くあるだろ! 俺の命を考えてもありすぎるし、じゃあ何だ俺の命はお前に必要のないものなのか!?
ぐるぐると己の命の価値について考察を始めているうちに、亞莎はモノクルを戻すと足早に店を出て行った。
「あ、ちょ。待て!」
慌てて後を追おうとしたのだが、俺は一つ大切な事を忘れていたわけで。
「お嬢さん、お勘定!」
一つしかない出口をふさぐ店主の影。
売り物である服を俺が身につけている以上この人の行為に非は無く、むしろ当然の行いだ。
しかし、一時を争うこの場面では
く……眼鏡と違ってすぐに脱ぐわけにはいかない!?
脱げたとしても裸で街中を走るわけにはもっといかない。捕まる逮捕される、いやそれ以前に人生の汚点として俺の心に刻み付けられるだろう。
よくよく考えれば亞莎も城に住んでいるのだから無理して追う必要は無かったのだが、「何故追うの? 逃げるからさ」という問答が頭の中で完結していた俺は懐から財布を取り出していた。
く……何が悲しくて自分の為に女物の服を買わなくちゃいけないのだろうか?
何か違う。
そう感じつつ店主に着ていた服は後で取りに来ると言い残し店を飛び出す。
そして懐的にも精神的にも大きな痛手を受けながらも、必死に亞莎の後を追った。
………………。
…………。
……。
颯爽と前を行く亞莎に追いつければ話としてもまとまったのだが、今は軍師という立場にある彼女も元々はバリバリの武官。
身体能力という断崖絶壁が俺と亞莎の間を遮っていた。
結論から言って、俺を忘れてきた事に気づいた亞莎が戻ってきてくれなかったら追いつけなかったな。
コレが文官と武官の体力の違いか。
考えてみれば呉に来てからは剣の訓練もしていないし、袁術との戦争を除けばずっとデスクワークだった。
基礎体力は落ちに落ちているのだろう。
「すみません先生……」
「ああ…………いや……大丈夫」
「あまり大丈夫に見えないのですが」
そしてただでさえ低い身体能力をより制限しているのがこの服!
スカートが短いです。
「それ、より……何で、逃げるように、店を、出た?」
必要が無いというわけじゃないだろう。実際、今も俺に鋭い視線を向けている。
「はい、店を出たのは驚いてしまって……」
驚いた? 周りがはっきりと見え過ぎたということか?
目が悪くなった事が無いからその辺りは理解できないが。
「でも、よくよく考えてみれば取り乱す事など無かったのです」
だから戻ってきました、と言う亞莎に俺は首を傾げる。
「そういうものなのか?」
「はい……」
そして語りだす亞莎。
要約すると「今までは女として扱われる事が無い戦場にいた」、「だから女の子らしくなくて当然」、「よって自信をなくすも何も元々そんなものは無い」
…………。
ちょっと待て。
何か凄く嫌~な予感がする。
「じゃあ、さっき眼鏡いらないって言ったのは」
「はい、初めて鮮明に見る先生の姿が凄く綺麗過ぎて、その……服も似合ってますし」
その時亞莎が浮かべた凄くいい笑顔が俺の心にダイレクトアタック。
「いや、そうじゃなくて……。こう、格好いいとか輝いて見えたとか」
「あ、確かに輝いて見えました! 凄く綺麗で……光り輝いて」
何か違う……。
どこかの誰かは同じ事いわれてる気がするけどそれと違う。
おっと、妙な電波を受信してしまった。
と、とりあえず店に戻ろう。服を預かってもらってるし。早く着替えたい。
こんなところ誰かに見られたら……。
「あら、亞莎」
見られたら。
「雪蓮様! し、失礼しました」
突然現れた我らが主に慌てて礼をとる亞莎。俺としては現実逃避したいのだが。
「朱羅先生! 雪蓮様です」
駄目だこの弟子、早く何とかしないと……。
「あ、はい……。コンニチハ伯符さま」
「子瑜……?」
目があった。始めはきょとん、とした驚きの目。
やがて伯符さまは持ち前の鋭い洞察力で現状を正確に把握、その後に浮かべた視線は獲物を見る猫科の目だった。
終わった……、もう色々と。
俺が考え付かないレベルで終わった。
その後、始めに助けの手を出した蓮華様を伯符さまがからかうことで何故か俺へのダメージ増え。
流石に悪乗りが過ぎるだろうと公瑾さまが助け舟を出すまで俺の精神へのDOTは続いた。