「お前のどの辺りが鳳統だぁ!」
事の起こりはこの一言だった。
その後、士元から避けられるようになり。勃発する妹、朱里との冷戦。
さすがに俺も後悔はしているよ? しかししょうがないじゃないか、まさかあの鳳統が幼女だなんて……。
そういいながら視線は一つ席を空けて座っている妹に向けられる。
幼女だなんて……あれ? 予測できた?
………………。
…………。
……。
夜が明け今日も私塾の一日が始まった。
「――!?」
俺の顔を見た瞬間泣きそうになりながら走り去る士元。
欝だ。
声をかける暇も無い。
きっと前世は小動物か何かだったのだろう。
どうにかして怖がらせずにこちらの言い分を聞いてもらわなくてはならない。それは理解しているのだが、そんな都合の良い方法が果たして俺に思いつけるかという大きな問題が立ち塞がっていた。
何より朱里……お兄さんはそろそろ本格的に寂しいです。
「少しいいかな、子瑜?」
「いいが、何だ元直」
士元に頭を痛め、朱里に心を痛めている俺に級友の徐元直が声をかけてきた。
「キミがどのような性癖を持っていても僕はキミの友人を辞めるつもりは無いよ」
……なに?
「ただ友人であるからこそ時としてキミを諌めないといけない事もあるんだ」
「オーケー、なんとなく落ちは読めたが。いいだろう言ってみろ」
それでは。
元直は前置きをすると口元をニヤリと歪めて、
「キミが……嫌がる士元を無理やり<ピーーーー>して<ピーーー>、そして<ピーーーー>」
「もういい」
もはや最後の方はピーしか聞こえない。
とりあえず年頃の女の子がピーピー言うのはどうかと思うぞ。
「分かってて言ってるだろ?」
「さて、何のことやら」
そう言いながらも元直は左右不ぞろいの笑みを止めない。絶対分かってて言ってるな。
「まぁ、何にせよ早めに誤解を解いた方が良いと僕は判断するけどね」
「って、やっぱ分かってるんじゃないか」
じっとりした視線を向けると元直は「ははは」と笑った。そしてその後、真面目な顔で。
「しかし正直なところ口八丁で言いくるめられたんじゃないかい?」
それは俺も分かってる。しかしあいつが鳳統であることが問題だ。
なるべくなら真正直に友誼を結んでおきたい。
その為の方法をこうして考えているわけで……あ、そーだこいつなら。
「ちなみに僕に聞かれても解答は出せないよ。そういうのは人に頼っちゃだめだしね」
……ケチめ。
ならば用はない。
俺は元直に背を向け、手を振った。
「あえて助言をするならば素のままでいけばいい、とだけ言わせてもらうよ」
「――ありがとさん」
何だかんだで助言をくれる辺り捻じ曲がってはいるが性格は良いのだろう。
………………。
…………。
……。
というか素を出して避けられるようになったんだよな。
早くも助言に対して沸いた疑念にうんざりしながらも俺は士元を捜し歩く。
しかし物欲センサーとでも言うのか俺の前には見慣れた黄色の髪。
「あ、朱――」
「―――」
手を伸ばし声をかけた俺に汚物を見るような視線を向けた後朱里は背を向ける。
冷戦状態のステージは無視からさらにワンランクアップしているようだった。
駄目だ……早く何とかしないと。
………………。
…………。
……。
それは亡者か冬眠前のクマか。
とにかく私塾中を彷徨い歩いた俺はようやくセンサーを振り切った。
あの魔法チックな帽子は間違いなく士元のものだ。
「あー士元…………?」
……よく見ると案山子だった。何故?
あまりの事態に呆然とする俺だが、帽子に触れることで思考が引き締められる。
……まだ暖かい。
ばっと、振り返り辺りを伺う。どこだ、どこは知らないが、近くにいるはずだ。
呼吸を整え空気の流れを読む。実際はそんなもの読めるわけないのだが、ここは気分。気にしない方向で。
そこか!
気配、の様なものを察知した俺は走り出す。そして――。
鳳統が現れた!
「……!?」
鳳統は逃げ出した!
くそ、はぐれメタルかお前は!?
とにかく話をしなければ関係回復など夢のまた夢なので俺は叫ぶと同時に走り出す。どうでもいいけど案山子と同じ形の帽子を被っているのは何でだろう? 予備持ってたのか?
後に士元は語った。
「わたしの帽子は108型まである」
もちろん今の俺はそんなこと知らないし、別にどうでもいい事だ。
「ちょい待て!」
マテといわれて待つ奴は居ないよなぁ……。と思いつつもつい叫んでしまうのはお約束だからだろうか。
そして逃げたら追う、追われたら逃げる。そこから始まるスパイラル。
追いながら気付いたが、強引に捕まえると状況を悪化させる可能性が高い。かといってどうやれば平和的捕獲、後に説得と事を運べるのだろうか?
何より平和的捕獲って一体……。
「はははは」
「ふふふふ」
脳裏に、目をきらきらさせながら浜辺をバックに走る一組の男女。そして、
「捕まえた~」
「捕まっちゃったぁ」
となるのは平和的に捕獲しているといえるのだろうか? 問題はここの近くに海は無いということで……。
何をトチ狂っている、落ち着け諸葛瑾。
海がどうこうの前に前提としておかしいだろう。
却下だ、考える価値すらない。
俺は頭を横に振って妄想を振り払った。おれ自身「はははは」とか言いながら追ってくる様な男に捕まりたくなどない。
色々と考えてみたが、もっとも良い方法は朱里に仲介を頼む事。……しかし今は、無理だ。そもそも話を聞いてもらえない。
その後も士元を追いながら頭を回転させてみるが上手い考えは浮かばなかった。
そしてどこからか聞こえてくる誰か分からない声。
「うわ、本気で追いかけてる!」
「妹二人じゃ満足できなくなったって本当かな?」
「百合! 禁断! ただれた関係!?」
「え? じゃあ攻略した後全員で4<ピー>?」
色々煩い上に最後伏字になってねぇ!
くそ、早く何とかしないとまたある事無い事ばら撒かれそうだ。
割合的に後者が7を占めるのだから始末に終えない。
「士元! 待て、マジで待て」
「あ、ああああわわわ」
こけそうでこけない、微妙なバランスで士元は俺の前を走る。
ていうか何故追いつけない? 単純な身体能力ならば負ける事は無いはずなのに。
後ろを走りながらしばし観察……そして気付いた。
私塾の構造に人の流れ、自分と俺の速度差、全てを計算し士元は逃げている。
あえて言わせてもらおう……何と言う知略の無駄遣い。
………………。
…………。
……。
どうやら撒いたみたいだ。
先ほどまで後ろから離れなかった人影が見えなくなったのを見て取り雛里は一息つく。
偽報を駆使し子瑜を私塾にとどめ自らは外に出る。雛里がとっさに思いついた策だが思いのほか上手くいった。
全力で走った所為で胸が苦しい。
雛里は肩で息をしながら傍の木に身体を預けた。
冷静になって考えてみると逃げることは無かったのかもしれない。
相手は親友である朱里のお姉さんだ。話には聞いているが優しい人みたいだし。
どうして自分が鳳統だといけないのか、その点は疑問に思うが私塾の友達が言うように 仲直りをしたいというのは本当だろう。
それは理解しているのだが、あの人を見ると身がすくんでしまう。
元々人と話すのが得意ではない自分が心底嫌になる瞬間だ。
子瑜と朱里。
仲の良い二人が自分の所為で喧嘩をしている事を考えると申し訳ない気持ちでいっぱいになり、何とかしなくてはいけないと思うのだが……。
いつもより深く考え事をしていたため雛里は気付かなかった。
目の前の男たちに。
「よりにもよって子供か」
「しかし見られたからには……」
「この服はあそこの学生だな」
3人の男はどう見ても友好的とはいえない顔つきで雛里に近づいてくる。
震えながら後ろへ下がる雛里だが、男たちは大股で近づいてくるので相対的に距離は縮まってしまった。
目の前の男たちは誰なのかは分からない。しかしとりあえず自分の身に危機が迫っている事だけは理解した。したのだが、今の雛里に出来るのはそこまでだ。
誰も自分が外に出ている事を知らない。故に助けが来る可能性はゼロ。
この場に至っても片隅に残る冷静な判断が答えを出した。
それは、震える雛里の眼前で起こった。
「ぶべら!?」
「ひ!?」
突然雛里の前にいた男の姿が横へ消えた。
「何だお前は!?」
「あんたは寝てろ!」
それは聞き覚えのある声で、ここにはいないはずの人。
突然現れた人影、諸葛子瑜は動きを止めずに二人目の男の腹を蹴りあげる。
それは雛里が惚れ惚れするほどに人体急所を的確に突いた一撃だった。
「逃げるぞ士元!」
「あ、あわわわ」
振り返った子瑜にそういわれても、突然の流れに思考が追いついていない雛里はただ慌てるだけで身体が全く動いてくれない。
「えぇい、我慢しろよ!」
「え、ええ?」
子瑜の方も余裕は無いのだろう。切羽詰った表情を見せた、次の瞬間雛里の視線が上へと上がる。
気が付くと雛里は抱き上げられていた。
………………。
…………。
……。
あ……ありのまま、今、起こってることを話すぜ。
俺は士元を追いかけていたと思ったらいつのまにか知らない人達に追いかけられている。
な、何を言ってるのか分からねーと思うが。俺も急展開についていけてない。
頭というか心肺機能がどうにかなりそうだ。
鬼ごっことかかくれんぼとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねぇ。
もっと恐ろしいものの片鱗を味わっているぜ。
いやまぁ、つまり。何だよこの状況!
偽報に気付きならば外に出たのか、と看破したまでは良かった、いやその後士元を見つけたまでは良かったのだ。
問題は同じくそこにいた男たち。
どう見ても仲良くお茶しにいこうという雰囲気ではなかった。そしてそのうちの一人が士元へと手を伸ばすのを見た瞬間、俺の身体は動いていた。
身体は妹分(子瑜を形成する重要な栄養素)で出来ている――。
よく分からない呪文とともに俺の身体は大地を蹴り男の顔めがけて飛んでいた。
…………のが一刻程前。
「ま、撒いた……か?」
恐る恐る後ろを伺いながらつぶやく。
うん、追ってくる人はいない、撒いたようだ。
「何なんだ一体……賊、なのか?」
「水鏡先生が言ってました。最近戦場から逃亡した兵士の手配が出ているって」
そう言えばそんなことを聞いた気もするな。もっとも最近変な人が出るから気をつけましょう、的なノリだったので気にも留めていなかったが。
しかしそうなると奴等は元とはいえ正規兵、俺の手に負える相手ではなさそうだ。
「とりあえず私塾にもどって――」
「だ、ダメです!」
無難に他力を頼ろうとした俺に士元が全力で待ったをかけた。
「士元?」
「あの人たちは私が私塾の生徒だって知ってました」
うわ、最悪。
なら私塾は優先的にマークされている可能性が高い。
突破は、無理だろうなぁ。これが関羽とか張飛とかいう豪傑なら可能なのかもしれないが。俺は諸葛瑾、武勇などに期待する方が間違いだ。
しかし、いくら地の利があるとは言えいつまでも逃げ続けるわけにも行かない。体力的には俺たちの方が大きく劣っているのだ。
ど、どうするか。
しばし黙考。
ダメだ、何も思いつかん。
ここは稀代の名軍師に頼らざるを得ない!
と言うわけで士元、キミに決めた。
…………。
あれ? 反応なし?
どうしたのか? と見ると士元は俺の右腕にしがみ付き、ただ震えていた。
「えーと、士元さん?」
何やってるんですか貴女? ほらその泉のごとく湧き出る知略を持ってあんなやつらちょちょいのちょいって。
「あ、あわ、わわわ……」
鳳卵?
俺の頭の中に新たな単語が生まれた。
この士元、まだ生まれる前らしい。
ていうか良く考えろよ俺。
この年齢の女の子がこんな状況で冷静に思考を働かせられるワケ無いだろ。……いやなかには出来る奴もいるだろうけどさ。
「とりあえず士元」
「は、はい」
「悪かった……」
「え?」
打開策を見出せないのでとりあえず当初の目的を達成しておこう。
さすがに士元も今俺から逃げることは無い様だし、その意味では好都合だ。
「いきなり怒鳴ったのはどう考えても俺が悪いよな。すまない悪いごめんなさい許してください」
「あ、あわわわ……そんなに沢山謝らなくても。わたしも話を聞かずに逃げたりしたから」
「いや、第一印象最悪だったから逃げもするだろ。何こいつキモッとか」
「そんなことは……」
うん、どうやら仲直りできそうな雰囲気。
「そうか、じゃあ仲直りということで」
そう言って差し出した右手を不思議なものを見るように見た後、士元ははにかむ様に笑ってしっかりと握り返した。
計・画・通・り。
………………。
…………。
……。
それは雛里が見とれるほどの笑顔だった。
やはり朱里のお姉さんはとても美人だと雛里は思った。
触れられた手はとても暖かく、ざわめいていた心が沈静化していく。実際のところ子瑜は心の中でどこぞの神っぽい笑みを浮かべていたのだが、人生経験の浅い雛里に気付けという方が無理だ。
そして手を握ったままぼんやりとしていた雛里は、
「あ――」
解かれた時、思わず出た声に赤面する。
「さて、これから何とかして私塾に帰らないといけないわけだが」
「あ」
そうだ、今はどうやって私塾に帰るか、そのことを考えなくてはいけない。
一瞬弛緩した空気が張り詰めたものに戻る。
「何かいい方法あるか、士元? あいにく俺は何にも思いつかん」
そう言って肩をすくめて笑う子瑜を見ていると雛里の頭に冷たい思考が戻ってきた。
何のために今まで勉強してきたのだ。
いくら知識をためても使うべきときに使えなくては何の意味も持たない。
そして今こそ知恵を振り絞って的確に使う時だ。
足は震えが止まらず、先ほどよりマシとは言え胸は今もどきどきしている。
でも……。
困ったねー、と気楽に笑っている子瑜も年上とは言えまだ子供と言える年代のはず。
それなのに他人を気遣う余裕すら……いや少なくともあるように見える。
負けられないという気持ちと頼られて嬉しいという気持ちが同時に沸いてきた。
「はい、一つ考えが――」
………………。
…………。
……。
「あの……本当に上手くいくんでしょうか?」
「さあ、後になって冷静に考えたら別のいい手があるかもな」
その言葉に雛里はしゅん、と俯いた。
「だが、今の俺たちになんら助けにならない策なんて必要ない。この時にこの場で考え付いた中での最善だとは思うから、きっと上手くいくさ」
現金なものだがそう言って笑う子瑜に雛里の表情は明るくなる。
「それにこうして追いつかれてないことを考えると本当に上手くいってるんじゃないか?」
「そうでしょうか……」
雛里が考えた策とは極めて単純、戦わないことだ。
よくよく考えてみれば何も私塾に戻る必要はない。
とは言え普通に逃げてはつかまる可能性が高いので小細工をしてはいる。
「―――――」
遠くから悲鳴が聞こえた。
方向から察するに、"成功した"のだろう。
「すごいです」
「元々は獣取るための罠なんだけど。人間も引っかかるんだなぁ」
情けないねー、と笑う子瑜に雛里はあいまいな笑みを返す。一体どんな罠を仕掛けてきたんだろうこの人は。
その罠だが実は逃げた方向とは別に仕掛けてある。少し迂回して私塾に戻る、そう男たちに考えさせるためだ。
もっとも足の遅い雛里は先に町の方へ逃げ、子瑜が別方向へ罠を仕掛けたので彼女はどんな罠かは知らないのだが。
分かれるときの引きつった顔と帰ってきた時の精根尽き果てた顔から、かなりの無理を強いたのだろうが雛里には出来ない事だけに申し訳ない気持ちは多々あるが任せるしかなかった。
この策において重要な事は二人の向かった先を知られない事。故に、移動の際には木の根や石など可能な限り痕跡を残さないように移動し、今こうして子瑜の背に負ぶさっているのもその関係だ。それ以外に深い意味は断じてない。
「もう少しで、街だ」
「はい!」
街にさえ入れば男たちは追ってこれないだろう。その後は誰かにに頼んで私塾まで護衛してもらうか人を呼んでもらう。
雛里が考えた策とはこれが全てだった。
それは彼女一人で成し遂げられるものではなく、子瑜に殆どの負担を強いてしまった。
そのことについて謝ると。
「軍師なんて人使ってなんぼだ、気にしないで、というかどんどん使え。ようは使ってもらうのが嬉しいと思わせればいいんだ」
といって笑った。
相手を喜ばせる。
そんなことは考えたことが無かった。
でも確かにそんなことが出来れば、とてもいいことだろう。
そのためにもっと頑張ろう。頑張って勉強しよう。
誰かの台詞を数年先取った事には、当然ながら気付く者などいなかった。
………………。
…………。
……。
あと少しで街、そのことが雛里と子瑜の心に隙を生んだのだろう。
あれ?
突然身体が放り出され、雛里は気が付くと宙へ投げ出されていた。
一体何が?
幸い踏み固められていない大地は柔らかく、大した衝撃を雛里の身体に与えなかったが突然の事態に混乱した少女は咳き込みながら視線を左右へ振った。
「子瑜さん!?」
そして思わず息を呑む。
そこには先ほどの男たちの一人と剣を交えている子瑜の姿があった。
何故!?
混乱の極みにある頭は、しかし一つの疑問に収束した。
私塾ではなく街へ向かった事がばれたのだろうか?
いや、それならばこの人が一人でいること自体不自然だ。だったら……。
別の歴史で稀代の軍師と呼ばれた少女は冷静に事実を吟味し、答えを出す。
そうか、この人は仲間を見捨ててきたんだ。
そしてそんな男が、手配の回っているこの街に来るのは不自然だからきっとこの人は道に迷ったのだろう。
何て、不運。
今持ちうるものを振り絞っても、天のいたずらによって全てを否定される。
そのことに雛里は唇をかんだ。
こうなってしまっては雛里に出来る事など殆ど無い。
元直ならば加勢できるのだろうが雛里の剣の腕は高くない、むしろ低い。ていうか持つので精一杯だ。
今彼女がとりうる最善は街へ逃げ込み助けを呼ぶ事。
そのことは理解してたが、震える両足は雛里の意思に反して動いてくれなかった。
そんな自分を心底情けなく思いながらも、それでもパニックになることだけは避け、雛里は二人から距離をとった。
目指す方向は子瑜の後ろ、せめて人質になることだけは避けないといけない。
その雛里の目の前で、筋力の差か子瑜の剣がはじかれた。
「子瑜さん!」
叫ぶ雛里。しかしその声に現実を左右する力はなく、武器を失った子瑜の胸が上から切り裂かれた。
………………。
…………。
……。
「―――っ!?」
胸を掠めた風圧に冷や汗がでる。
だが、賭けには勝った。
初手こそ完全な不意打ちだったが、それでも思い通りに事が運んだのは相手の初歩的なミスが理由だ。
それは位置取り、この男は坂の下から襲いかかってきた。
恐らくは街へ逃げ込まれることを考慮したのだろうが、雛里を考えるとそれは難しい事位分からなかったのだろうか?
坂道の上と下ではどちらが有利かは一目瞭然だろうに。だからといって馬謖のアレはどう考えても下策だったが。
まぁ恐らくはこいつとしても予期せぬ遭遇だったのだろうし、こちらが有利になる分には文句を言う理由は無い。
相手のミスがなければ俺に勝ち目などなかったことを考えると、まだついてるということだ。
しばらく男を観察するために受けに回ったが、だいたいの性質はつかめた。何と言うか元直に比べると剣筋も思考も読みやすいことこの上ない。
故意に武器を失って見せると案の定大振りで勝負を決めにきた。
至極よみやすい。気分は某古流剣術使い、今必殺のヒテンミツルギスタイルを……。
結果、服はだめになったが無防備な背中を取る事には成功したわけで、流石にこれを逃すほどの優しくもないし余裕もない。
………………。
…………。
……。
ちょっと疲れたなー。
しかし仲直り出来たのでよしとしよう。これで朱里も冷戦を解除してくれるだろうし。
総合的に見ればプラスじゃないか?
などと考えながら後の士元を振り返った俺だが、やはり神様はそう簡単にいかせてくれるつもりはなかったようで。
「士元、大丈……」
「あわわ、あわわわわわわわ!?」
「?」
あぁ、そう言えば斬られたんだったか。
士元の視線を追うと、制服の胸の部分が大きく切り裂かれていた。
幸いかすり傷だが、この場合は俺の素肌がさらされている事が問題であって。
つまり……バレた。これはどちらかというと俺のミスだな。
一難さってまた一難。俺は天を仰いだ。
………………。
…………。
……。
「お願いします」
私塾に帰った後、俺は士元に深々と頭を下げた。
何とか黙っていてもらおうという切なる願いを理解してもらうためだ。
「本当にお願いします、いやマジで」
まだこの私塾にいたいいんです。
…………。
思えばこの頃から兄は自尊心を捨てたようだ。
後に朱里は語る。
一体どの様に頼み込んだのかはその言葉に集約されているが、とにかく士元の口を封じる事には成功した。
妹の生暖かい視線を浴びてもゆるぎないほどに、子瑜の心は鉄壁だった。
………………。
…………。
……。
一月が過ぎた。
何かが違う。
自分の半分程しか生きていない幼子に土下座外交をしたというなんとも情けない経歴を持つ兄に生暖かい視線を送りながら朱里は思った。
兄と親友はどうやら本当に和解したらしい、それはいい。
故に朱里が子瑜を避ける必要はなく、以前のような関係に戻ってはいるのだが……。
あの日覚えた違和感から朱里は未だ逃れられずにいた。
違和感の原因は彼女の親友であり今事件の中心人物、雛里だ。
確かに仲がよくなっているが、これは……。
仲良くなりすぎてないか?
正直元直も怪しいと思っていたのだが、雛里お前もか。
こっちはこっちで数年後の兄の思考を先取りする辺り流石は親友というべきか。
もちろん今回も指摘する人は存在しなかったが。
閑話休題。
少なくともこのときの朱里は兄を独占したいという気持ちが存在していた。故に警報はひっきりなしに朱里の脳内で鳴り響いている。
その関係で険しくなる朱里の視線の先で、子瑜が雛里に今水鏡先生が説明している内容について質問をしていた。
「あわわ、えと……これは」
わたわたしながらも雛里が浮かべている表情は、笑顔だ。
質問に答えた後、雛里は辺りを見回し、そっと子瑜の耳に口を近づけたりしているのを見てピクリと朱里は片眉を上げる。
「あの、どうして子瑜さんは女の人の格好をしているのですか?」
これも珍しい、雛里が自分から話しかけるなどめったに無いのだ。内緒話なのに何故朱里に聞こえているかは深く追求していけない。
今大事な事は、子瑜に多大なダメージを負わせ雛里があわあわしている事だ、反論は受け付けない。
「あわわ、ごめんなさい」
「いや、いい。普通はそうだし」
私塾に入った当初はほとんど気にしていなかったが最近になってやたら自分の格好を気にするようになった。
そんな子瑜に今の発言はクリティカルだったのだろう。
「ははは……いい年して女装とかね。はっきり言って気持ち悪い」
「あああああ、あの……私、好きです!」
何かフォローするつもりが頭の中でいかような化学反応を起こしたのか、頭が沸騰して色々とすっ飛ばした雛里の発言に朱里は驚ろく。
巡り巡って本音が出たようだが、興奮している今の雛里は気付いていないようで……。
兄は、どう答えるのだろうか?
時間が止まったかの様な空間の中、朱里は我知らず手を握り締めていた。
「……いや、好きも何も元々女の子だろ。ていうか男装? 男装したいのか?」
「―――」
……この人頭沸いてるんじゃないか?
実の兄の事ながら朱里は頭が痛くなり、ようやく自分の発言の意味に気付いた雛里は顔を蒼白に変えていた。
ため息をつきながらも朱里は隣で真っ白に燃え尽きている雛里のフォローに入るのだった。
何故か、朱里は雛里に対して仲間意識を覚え結果、以前よりも仲良くなったりした。
色々あったが珍しく3人にとってのハッピーエンドと言えるだろう。