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No.521の一覧
[0] 遥かなる時を越えて[z](2005/09/29 23:40)
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[521] 遥かなる時を越えて
Name: z
Date: 2005/09/29 23:40
「やっぱり日本の美といったら桜の花ね」

 感嘆しながら、輪島塗の高価な紅の盃を傾けると、うっとりしたように美神が呟いた。
 彼女の目の前には数百メートルにも及ぶ長い桜並木が満開になって、桃色のアーチを描いている。
 そのすぐ傍らには、多摩川が川幅数十メートルにも渡って拡がりながら流れている。耳を傾けると川のせせらぎが囁くように微かに聞こえてくる。
 そして、それに混じって聞こえる破砕音の連続と急いで何かを飲み込む音。

「こんなに趣ある景色が目の前にあるって言うのに」

 顔を顰めつつ振り返るとその目に映るは、桜を一瞥もせぬバンダナの少年の食べっぷり。
 箸を忙しくなく動かして、欠食児童さながらに飢えを満たさんと、眼前に展開する料理に挑むその勇姿はまさに『花より団子』という言葉の良い見本。
 情緒も趣も理解せぬその様は、思わずどつき倒したくなる事この上ない。

「あんた達を連れてっても、本当に意味がないわね」

「昨日から殆ど飲まず食わずで場所取りしてから、腹が減ってるんですよ!」

 美神の棘を含んだ嫌味を物ともせず、横島はおキヌや美神が花見の用も作ったご馳走をパクついている。
 その横ではおキヌがニコニコしながら横島の幸せそうな顔を見つめ、シロは師に倣うように肉に齧り付き、タマモはツンとすまして桜を見る振りをしながらさり気なく稲荷に手を伸ばす。
 これぞまさに現代日本の花見の光景。
 奈良の京の八重桜や吉野の桜の美を詠った古の偉い人達がそれを見たならば、きっと大いに落胆して、いと哀しと嘆きの歌を詠むだろう。

 美神はまだ言い足りなさそうな顔で横島を睨んでいたが、ふと手の中の杯に花びらが落ちてきた事に気がついて上を見た。
 大気の中を胡蝶の様に、桜色がふわりふわりと舞っている。その向こうには雲一つない快晴の空。
 柔らかな日差しの中を穏やかな風が吹き渡り、3人と二匹の鼻腔にほんのり甘い桜の花の香りを届けてくる。
 季節はすっかり春めいて、彼らは都心の喧騒から離れ、多摩川の取水堰のある羽村市を訪れ、前日から横島が泊り込みで確保していた、500本の満開になったソメイヨシノが見晴らせるスポットで、日頃の慰労を兼ねて存分に羽目を外していた。




「やっぱり23区に比べれば落ち着いてるわね」

 花びら入りの酒を優雅に飲み干して。
 機嫌を直した美神は何とはなしに言葉を投げる。

「場所取りする身分としては、上野公園か隅田川の方が近くて楽なんですけどね」

「だってあっちは酔っ払いが煩いじゃない。全然静かに桜を見れないわよ」

「そう言いつつ、その手の中の杯と一升瓶は何なんですか!?」

 美神の右手には『久保田 万寿』と書かれた一升瓶が握られている。
 あれ一本で最低でも十日分の食費が余裕で賄えるだろうと、憤慨混じりに指を突きつける横島。
 高価な日本酒の味を想像する前に、その代金分の金の使い道を考えるあたりに、彼の日頃の苦労が滲み出ているといえなくもない。
 だが私憤に駆られて愚かにも突っ込みを入れた横島に鋭く尖った殺気の針が飛んできた。

「っ!?」

 思わず凍結した横島の舌。
 空気を求めて喘ぐ彼に美神の笑顔が突き刺さる。

「横島くん。それはそれ、これはこれ。
 もっと上手く世渡りしたいなら、その言葉を肝に銘じておきなさい。いいわね?」

 そのありがたい御言葉は神託にも等しい強制力を伴って。
 それに縛られた横島の首が何度も上下動を繰り返す。

 それは穏やかな陽気の中で花見をした日の事。 
 いつもと変わらぬ和やかさと殺伐とした空気が交差する中で。
 彼らは思う存分に食欲を満たし、酒を嗜み、騒ぎ、そして桜を愛でていた。




 やがて料理と酒がなくなり薄暮の気配が色濃く漂いだした頃、彼らは花見を切り上げた。
 美神は酔っ払った末に熟睡したおキヌをコブラの助手席に寝かせ、シロとタマモは狐と狼に戻ってコブラに乗り込み、横島はごみを纏めてトランクに積みこんでいく。
 それが終わると、美神が軽く手を叩いて彼らに告げる。
 
「それじゃあ、解散ね。私はもうちょっと酒が抜けてから出発するけど、あんたはコブラのトランクと電車とどっちが良い?」

 酔いを感じさせぬその口調。飲酒運転の違反など容易く揉み消せる彼女には取締りなど怖くない。
 それを知る横島は苦笑いしながら答えようとして、僅かに迷う。
 予め場所取りのために電車賃は渡されていた。だから電車に乗っても自腹を切る事は無い。
 しかしコブラで送ってもらえば、彼のアパートの最寄り駅までの四桁を超える電車賃が丸々懐へ入る
 だが酒を飲んだ状態で、コブラのトランクに揺られたら、色々まずい事態に陥るのでは。
 些細な、彼の生活を考えればある意味重大な葛藤に言葉を失う横島。
 その時、彼のジャケットの裾を横合いから伸びてきたほっそりとした手が掴んだ。

「せんせぇ。これから事務所に戻りがてら散歩にいくでござる」

「ちょっと、待て。此処から事務所までかよ!?」

「ほんの50kmほどでござる。いつもの散歩と大して変わらんでござるよ」

 弾む声で言い募りながら、やる気に漲る少女の顔。
 それを見ると、否と言い辛くなる。
 とりあえず、せがむように、ぐいっ、と引っ張ってくるシロの手をジャケットから離させて。
 唐突に笑みが浮かぶ。
 二者択一の状況があっさり壊れた事に、何とはなしに可笑しさが込み上げてくる。
 その気分に身を任せ、横島は美神に目配せするとシロと共に歩みだす。
 そこで彼の視界がぐらりと歪み………。




 気がつくと見慣れぬ天井が目に入ってきた。

「一年前の夢か」

 上体を起こして目を擦る。既に太陽が地平線から姿を現して、差し込んでくる日の光は真北へ影を投射する。時計を見ると12時になっていた。
 昨日は空が白むまで起きていた。おかげで今朝は見事に寝坊してしまった。
 だが今の彼にとって、その言葉はあまりに意味を持たない。

「今更、寝坊もクソもねえんだけどな」

 皮肉な笑みを浮かべる彼の顔は自嘲の色に溢れていた。
 もう何時に起きようが自分を責める者などいないのだ。自分はこの屋敷に軟禁されているのだから。

 大きく伸びをして障子をあける。すると渡り廊下の向こうにある庭から春の気配が感じられた。
 庭の中に一本だけ立っている樹。
 樹高2m程の山桜。
 その蕾が綻んで枝には桜色が広がり始めている。
 もしかしたら今朝の夢はこの樹の開花を暗示していたのかもしれない、ふとそんな感慨が浮かび上がってくる。

 去年の今頃に事務所の皆といった羽村の花見。
 美神が美味そうに酒を飲みながらうっとりと桜を眺め、おキヌは嬉しそうに自分の世話を焼いてくれて、シロは一通り食べ終わると武士道の象徴である桜の散り際の潔さに感動し、タマモはそれをからかって遊び、そして自分はおキヌ達のご料理に舌鼓を打ち、相変わらずシロに振り回されていた。

 それでも一年前に見た羽村取水堰の桜並木の美しさは彼の脳裏に焼きついている。

 いつか古典の授業の時にそう聞いた事があった。
 開花してから直ぐに散ってしまう儚い命。その切なさが桜の花の刹那の美をいっそう際立たせているのだと。
 それはまるで、彼が大好きだった誰よりも綺麗な蛍の化身を思い起こさせる。
 短い命を精一杯に生きようとした彼女。昼と夜の一瞬の狭間に現れる華を己と重ねていた少女を。

 けれどその日に彼が抱いた感情は、彼女を偲んだ切なさと、気心の知れた仲間達との濃密で、でものんびりとした時を過ごせる喜びだった。
 客観的に見れば、横島は立ち直りつつあったと言う事が出来るだろう。
 ルシオラへの想いは心を引き裂くような悲痛の代わりに、彼に前を向こうとする力を与えていたのだから。

 だからこそ、1年経った今でも彼は心から思っている。
 あの時、自分は幸せだったと。
 初めて心底から好きになった少女を失った悲しみは完全には癒えていなかったけれど。
 それでもあの日の自分は確かに幸福を感じていたと、誰に向かっても断言出来る。
 けれど、今は………。

 思わず感傷的な気分に陥りそうになって庭から目を外したその時、渡り廊下に現れた少女の姿が目に映る。

「先生、お目覚めでござるか?」

「おはよう、シロ。いつから来てたんだ?」

「一時間ほど前からでござる。今は、おキヌ殿が作った料理を温めなおしている途中でござるよ」

 その言葉に腹の虫が空腹を訴える。
 己の欲望の正直さに苦笑いすると彼はシロを下がらせて寝巻きを脱ぎだした。既に眠気の大半は消えている。




 彼が郊外にあるこの屋敷に軟禁されるようになってから一週間余り。
 美神やおキヌ達を含む彼の知り合いの殆どは、彼との接触を禁じられ、神魔族の某かによって監視されている。
 現在ではシロだけが彼と外部との連絡役として屋敷に立ち入るのを許可されていた。

 発端は同期合体した横島と美神が究極の魔体を撃破した映像だった。
 コスモプロセッサー発動によって世界中で発生した未曾有の霊障。
 核ジャック事件の真相は伏せられたものの、それは余りにも起きた規模が広すぎるせいで隠しようがなく、世界GS本部はアシュタロスの人間界襲来を発表せざるをえなくなる。それによって妙神山の小竜姫など人間界に駐留する神族やアシュタロスの暴走を止めねばならなかった魔族が、冥界チャンネルの封鎖や逆天号の奇襲で真っ先に撃破された事実が知れ渡る。

 そこで何よりも揺るぎ出したのが信仰である。
 神は、人間が正しい道を歩むように教え導き、そして悪魔と戦う。
 それが多くの宗教の構図であった。
 しかしアシュタロスとの戦いにおいては、人間の総力を挙げた抵抗が魔神を追い詰めて、遂にはその企みを打ち砕いたのだ。
 それ故に、世界各地であらゆる宗教の信徒が徐々に減っていき、同時に魔族を恐れる者も少なくなる。

 これに慌てたのが神魔の最高神である。
 彼らがデタントに踏み切ったのは、人間の可能性を見守るため。
 しかしそれは、あくまで彼らの掌の上で行われるべき事なのだ。
 故に人間が神魔への畏怖や敬虔を忘れてその掌から離れようとする動きは、彼らにとっては好ましくない。
 また神族の最高神の力の一部は信仰によって支えられている。
 よって人間界における信仰の衰退は彼らや彼らと同系の神の影響力の一部が喪失する事を意味していた。
 神族全体の途方もない実力を考えれば、それは僅かな変化にすぎない。
 しかし同時に、神魔のバランスを崩してデタントに悪影響を及ぼす可能性も捨てきれない。
 魔族にとっても、魔神を自分たちが打倒したのだと人間達が勝ち誇っているのは面白くない。

 それに加え、アシュタロス死亡後に人間界でも無視できない動きが起こった。
 アシュタロスの野望の挫折。
 それは彼に立ち向かった人間達が宇宙意志からの追い風を受けて様々な幸運を呼び込んだからである。
 勿論、詳しい事情を知る財界人達も当然その事を知っている。
 だが彼らは、島を一撃で破壊した究極の魔体が、人類が手に入れ得る最強のオカルトパワーの顕現である同期合体に粉砕された映像を見た。
 そして、あの事件の事後報告と美智恵と美神が考案し、結局は放棄した作戦から、『模』の文珠が魔神を出し抜くのに一役買ったのを知った。
 だからこそ彼らは人類の神魔との関係について検討を重ねた末に思いついたのだ。
 文珠を創れる者が大勢いれば、神魔の介入を全て跳ね除ける事も可能になるかもしれないと。

 これは、神族にとっても魔族にとっても到底見過ごせる話ではない。
 信者の減少は一過性の動きだとしても、組織的な反抗は長年に渡って悪影響を及ぼしかねない。
 実際、横島の子供が文珠生成能力を発現させられるかどうかについて研究を始めた機関もあった。
 それ故に神魔の最高神は密かに話し合い、そして最も人間界に影響のない解決策を思いつく。
 それが、人間界から横島忠夫を抹消する事である。

 最高神にとって人間界での神魔族のイメージを元に戻すのは急務であった。
 その為に最も手っ取り早いのが、神の威光や魔族の恐怖を全世界的に思い知らせる事。
 即ち中世の暗黒期のような大々的な天変地異や霊障、疫病の大流行を天罰として引き起こす事である。
 しかしそれではデタントの目的である、人間界に極力干渉せずに人間の発展を見定める事からかけ離れてしまう。
 また、天罰を中途半端に行えば、神魔への反発はますます高まり、手が付けられなくなる怖れもある。
 故に最高神は人間界の権力者たちの思い上がりの拠り所である横島忠夫の存在を消してしまおうと決めたのだ。彼がまだ子を成さぬ内に。
 そうすれば、次に文珠の使い手が現れるのは数百年か、或いは数千年後となるだろう。
 そして文珠の反則的な効果は記録の中だけの存在となり、不遜な事を企む者達は何も出来ずに寿命を迎える。
 また、一時期は信仰が薄れたとしても、アシュタロスの引き起こした事件が歴史となり、その当時活躍した者が亡くなれば、大衆は崇拝するシンボルを求めて以前のように神に縋るだろう。
 故に、人間界から横島忠夫を抹消するアイデアは、確かに人間界への直接的な影響が最も少ないアプローチではあったののだ。

 そこで横島への処遇が問題となる。
 殺してしまうのが最も手っ取り早く、次元消滅内服薬で葬れば横島と文珠の活躍の記憶が人間界から消えて万々歳。それが大方の意見だった。
 しかし、天竜童子とその父親の大反対を皮切りに流れが変わる。
 何と言っても最高神も含めて全ての神魔が、土壇場での横島の決断に命拾いをしているのだ。
 それ故に恩を仇で返す事に後ろめたさと情けなさを覚える者が続出して、横島の殺害に反対する者が増えていく。
 結局、紛糾を重ねた議論は、横島の属性を人間から変えた上で彼を人間界以外の場所に住まわせる、という結論に落ち着いたのだ。

 しかしそれを聞いた時、横島の周りから即座に強烈な反発が湧き上がる。それはもう苛烈に、猛烈に、激烈に。
 当事者達の都合や感情を無視したデタント維持の為の理屈を叩き潰さんと息巻いた者もいた。
 横島に密かに逃亡を勧める者もいた。
 確かに逃げようと思えば逃げる事も出来たかもしれない。
 ヒャクメの能力は万能ではなく、文珠さえあればその監視の網を潜り向ける方法は幾らでもある。
 実際彼女は、メフィストにも、土遇羅達にも、世界GS本部の暗殺部隊にも裏をかかれている。

 だがここで逃げ出せば、ほぼ決定していた横島への処遇は厳しくならざるをえない。
 デタントの成否が懸かっているだけに、魔族も神族もワルキューレのような正規軍の腕利きを出動させてくるだろう。
 おそらくは、生け捕りから生死を問わずの捕縛へ。それでも駄目なら問答無用の抹殺へ。

 それに加え、よしんば神魔族の捕縛を逃れえたとしても、最高神が人間界の神威や魔への恐怖の衰退の動きを見逃すわけが無いのだ。
 横島への干渉が失敗に終われば、別の方法が執り行われ、最悪の場合は世界的な天変地異、大災害、疫病の大流行が起こる事になるかもしれない。
 その前では文珠の奇跡など児戯に等しい。 
 はたして文珠による局地的な奇跡で、火山の噴火、台風や竜巻の襲来、大雨と洪水、日照り、大地震等、下手すれば数億人に被害が及ぶような事態を防ぎきることが出来るだろうか?
 否である。
 たとえ文珠が千個あり、それを操れる霊能力者の数を揃えた所で無理なものは無理なのだ。

 だから横島は反発を堪え、泣きたくなる気持ちを抑えて、神魔の決定に従った。
 神魔が天罰を起こさぬ為の犠牲の羊としてではない。
 そんな殊勝な性格ではないし、見も知らぬ人間の生死に責任を持たなければならないと思うほどに傲慢でもない。
 けれど横島は行く。ルシオラの望み、横島の命と彼が住む人間界を守りたいと願った彼女の献身を、その愚かで尊い犠牲を穢さぬ為に。
 そんな彼の気持ちを知って、美神もおキヌも掛ける言葉を失ったのだった。

 そしてそれから3日後、親しき者達との別れを終えた彼はその身柄は郊外にある屋敷と移された。
 人間社会との繋がりが殆ど無く、悪巧みも苦手なシロだけが、美神達との連絡役として屋敷への出入りを許されていた。

 屋敷での滞在は直ぐに終わる予定となっている。
 彼がどこに住むのかを、即ち彼の帰属がどこになるのかを決定する会議は、もうすぐ開かれる事になっているからだ。
 そしてそれが終われば、横島は人間界には戻れない。
 文珠使いが活躍した記憶が人類から消えるまでずっと。おそらく最低でも100年は。
 会議での結論がどうなれ、彼の体は人間ではなくなって、彼は人間の住まぬ場所へ行く。
 別れは、もうすぐそこまで近付いていた。










 居間に行くと温め終わった鯖の煮つけやほうれん草のおひたし、茄子の味噌炒めが、米飯と共にテーブルの上に並べられている。
 それは会う事の出来ないおキヌがせめてもの心尽くしにと作ってくれた料理の数々。
 そこには豪華な食材は使われていない。
 けれどそこにある料理は、かつて彼女が幽霊だった時から、貧しい生活を送っていた横島の栄養状態に配慮して作られた彼女の真心の結晶で。
 それ故に横島にとっては何物にも変え難い味がするのだ。

 今日も彼は彼女が作ってくれた料理を噛み締めるようにゆっくりと味わっていく。シロと2人で静かに昼餉を取る。
 口に入れ、噛んで、味わい、飲み込む度に、おキヌの姿が、台所に立って料理する様が浮かんでくる。
 別れてから一週間も経っていないのに、もう寂しさがこみ上げる。




 昼餉を終えて後片付けを済ますと、シロが神妙な顔で傍に寄ってきた。
 少し前までなら散歩を強請るなり、構って欲しいと言うなり、気軽に声をかけてきただろう。
 けれど自分だけが彼に会う事を許されている状況への負い目なのか、シロの態度はどうにも硬かった。
 彼女自身それを分かっているようで、もどかしそうな顔で何かを言おうとして、けれど軽々しく甘える事も出来ずにいるようだった。
 その姿に。元気印だった少女のしょんぼりとした姿に、愛惜が湧いてくる。

────散歩に行こうと言って元気付けてやりたい
    体を張ったギャグで笑顔にさせてやりたい

 けれどこの状況下ではどれも無理だ。散歩は外出違反に引っ掛かり、ギャグは自分自身すら笑う気力が起きてこない。
 だからせめて、こんなのは自分のキャラではないけれど。
 そう思い立つと彼はすっくと立ち上がる。
 そしてシロに、ついて来るよう目配せすると上着を脱いで庭に下りた。
 怪訝な顔をするシロに向かって、元気の良い声をかける。

「シロ、お前の実力を確かめたくなった。やる気があるならかかってこい!」

 少女の顔が見る見る間に明るくなる。

「はい!」

 そして2人は五メートル程離れて向かい合った。
 両者ともこの時だけは悩みを忘れて、睨むように見詰め合う。 
 横島は、右手には霊波刀が握られて、左手は拳を握りながらサイキック・ソーサーを発現させている。
 対するシロは、霊波刀を正眼に構えながら隙を窺おうと足を使う。
 円を描くように動きながらシロの心は歓喜に躍る。
 彼が自分を見ている。犬塚シロという存在を真剣に見てくれている。

「おおおおぉぉぉぉ!」

 激烈な気合声を発しながらシロの体は一足飛びで間合いを詰め、渾身の力で霊波刀を斬りつける。
 踏み込みの速さも、剣閃の狙いの的確さも滅多にないほど完璧だった。しかし、かつて西条の銃弾を叩き落した横島の化け物じみた動体視力は、その完璧な一撃すらをも凌駕した。彼は一歩も動かずに右手の霊波刀を鉤爪のような形状に変え、シロの凄烈極まる一撃をあっさりと掴み取ったのだ。
 それでも素早く刀を消すと、シロは飛び退きながら再び霊波刀を発現する。
 その動きを追う様に横島の左手から放たれたサイキック・ソーサーが彼女を襲う。
 横薙ぎに飛来してきた盾を切り裂いた瞬間、彼女の目を微小な砂礫が襲った。
 刹那、奪い去られるシロの視界。
 ほぼ同時に、目に気を取られた彼女の左足に衝撃が奔る。
 思わずバランスを崩したシロは転倒せぬよう片手をつく。その時、シロの首に彼の手が触れた。

「参りました、でござる」

 冷や汗を流しながらとシロが告げた。
 先ほどの勝負の分かれ目。それは横島の左手に握り隠されていた庭の土だった。
 横島はサイキックー・ソーサーを放った後に、素早く手首を返して土を投げつけ、シロの視界を奪った。
 そして間髪入れずに右手の鉤爪を刀に戻すと、彼女の左足を狙って伸ばし、一気に距離を詰めて勝負を決めたのだ。

────拙者は先生に何も見せられぬままなのか!?

「うううぅぅぅ!」

 口惜しさが胸を衝き、思わず彼女の口から唸り声が上がりかける。
 無念だった。何も出来ずに負けた。
 霊力を操る技量に屈したのは己の技量の未熟故だが、左手に目潰しの為に土が握られていた事を見抜けなかったのは不注意の謗りを免れない。
 また彼は態々霊波刀の切っ先を棒の様に丸くしてシロの左足を突いてきたが、さもなければ今頃は立っている事すら不可能だっただろう。
 しかしそんなシロの苦渋とは裏腹に、横島は軽い口調で声をかける。

「どうした、もう終わりか?」

 思わず顔を上げると、横島は最初の位置に戻っている。
 どうやら稽古はこれで終わりではないようだ。

「もう一度、お願いするでござる!」

 慌てて初期位置に戻りながら答えると、彼は頷いて構えをとった。
 内心では驚きと喜びが交差する。
 信じられない。面倒くさがりな彼が何度も相手をしてくれるなんて。
 急いで構えると呼吸を整え、気合を入れる。

「たあっ!」

 再びシロの体が風となり、すっかり春めいた庭に霊刀を打ち合う音が響くのだった。




 そして。
 結局その日の日没まで、横島はずっとシロの相手をしてくれた。
 持ち前の頑丈さと桁外れの動体視力による彼の防御と回避はシロを中々寄せ付けず、土壇場での閃きから繰り出される反則技は、シロの不意を突いて何度も彼女に地に這わせた。
 けれど彼女も負けてはいない。
 無尽蔵のスタミナと天性の身軽さとフットワークは度々横島を翻弄し、遂には彼を打ち倒した事もあった。

 やがて訓練が終わると、横島はまだ子犬くらいの体躯の狼に戻ったシロを洗ってやり、シロが来る途中に買った特盛牛丼を温めなおして夕餉を取る。
 一時の楽しい時間は終わって屋敷は再び重い空気が立ち込める。
 その中で、物思いに沈みながらもくもくと食べる横島の姿にシロの胸が締め付けられた。

 いつもは何だかんだと言って相手をしてくれない横島がずっと稽古をつけてくれた事。
 彼女がこの屋敷に通うようになってからいつにも増して彼の相貌に滲む苦悩の痕。それが今日は特に露なのである。
 そこから導かれる結論は明白で、けれど彼女は何も聞かずに夕餉を終えると風呂を沸かし、彼が入浴してる間に後片付けを済ませて布団を敷いた。

 着替え終わって風呂場から出てきた横島が寝所へ入ると、いつものように正座したシロが待ち構えていた。
 大きな瞳に覚悟を宿しながら無言のまま。けれど彼の顔から目を離さず。
 その真摯な態度に横島は嘆息すると、これまで言葉に出したくなくて黙っていた事を告げた。

「シロ。昨日の夜にジークが来た。明日から会議が始まるから、明日の朝には出発してくれって言われたよ」

「左様でござるか」

 彼女が意外に静かな面持ちで頷く様に、ふと疑問がわく。

「知ってたのか?」

「いえ、拙者が知る筈もありませぬ。ですが今日の先生の御振る舞いを見て、そのような予感は感じておりました」

 その言葉に頭をかいて苦笑する。
 どう言おうか一日中迷っていたのに、自分の悩みなどとっくに見抜かれていたのだ。
 少し気が楽になった彼はだらしなく姿勢を崩してあぐらになった

「俺は明日から人間界に入られなくなるけど、お前はこれからどうする?美神さんの所に戻るのか?」

 その声に答えず、シロは俯き加減に床を見ていた。
 膝に置かれた手が僅かに震え、体が堅くなっている。
 これから彼に告げる言葉。それはこの一週間、屋敷で過ごす横島を見ていた事で生まれた決意だった。




 神魔の出した結論を告げられて、それに従うと決めてこの屋敷に移るまでの3日間。彼は一見、いつもと変わらぬように過ごしていた。
 だがいくら彼が明るく、何でもない様に振舞っていても、その内心が穏やかだった筈がない。
 まだ二十歳にもならぬ少年が、今まで築いた人間関係のほぼ全てを喪失する事に傷つかぬ筈がないのだ。

 もう横島は、両親とも、ほぼ全ての友人とも、そして美神令子や氷室キヌとも二度と会えなくなる。
 そして再び人間界に戻った時、おそらく彼は横島忠夫という少年の記憶を既に忘却した世界を目にする事になる。
 それがどれ程の絶望か。それがどれ程の苦痛を伴うのか。それがどんなに哀しい事なのか。口にせずとも皆、分かっている。だからこそ誰も横島の態度を咎めない。すぐに訪れる別れの日まで、無理にでも彼が彼らしくあろうとするように、彼女たちもいつもの様に日常を過ごそうと無理を重ねてきたのだ。

 けれど皆と会えなくなってからの屋敷での一週間の辛さは、皆と過ごせた3日間の比ではなかった。
 希望は断たれ、なのに考える時間だけは与えられる形になった事で、彼の心にネガティブな想いが渦巻いていく。

 俺が何をしたのか、と。
 こんな目に合わされるほど酷い罪を犯したのか、と。
 どうして放っておいてくれないんだ、と。

 空笑いする余裕すらなくして沈みがちになるその姿を見て、シロはどれほど己の無力を嘆いただろう。
 何度、このような仕打ちを彼に科した神魔族を呪っただろう。
 だがその果てに、彼女はある結論に辿り着く。
 そしてそれを今、彼に伝えようとして、緊張感に喉がひりつき、声が出ず。
 刹那、瞑目して祈る。

────美神殿、おキヌ殿、タマモ、父上!
    拙者に勇気を!!

 やがて堅く引き結ばれて弓の様に張りつめていた唇が、胸に温めていたその言葉を紡いだ。

「拙者はこの家に残る所存でござる。先生が再び人間界に戻る日が来るまで、ここで先生の御帰りを待つもりでござる」

 立ち込める沈黙。
 予想外の事態に言葉を失った横島を、銀髪の少女が一途な眼差しで見つめている。
 コールタールのような重い雰囲気が両者を取り巻いた。

「お前………そんな事を、美神さんが許すはずがないだろ」

「いえ。美神殿は承知してくださったでござる。
 先生が去られた後に、この屋敷を買い取ってその管理を拙者に一任してくださると仰いました」

 漸く声を振り絞った横島に、明確な返事が返ってくる。
 少女の言葉は嘘ではない。それは凄まじい、罵りあいにも似た話し合いの末に、昨日の夜に美神はシロの願いを聞き入れたのだ。
 美神らしからぬその決断。
 だが或いは、彼女はシロに託したのかもしれない。人間の寿命の限界では決して報われぬ『待ち続ける』という選択を。

「この馬鹿弟子め………」

 苦々しく呟きながら、横島は顔を背けた。
 もし今でも文珠が使えたのなら、『忘』の文珠を叩き込んでいただろう。
 けれど人間界に残っていた文珠はワルキューレやヒャクメ達が回収し、横島の文珠生成の能力も小竜姫とハヌマンによって少し前に封印されていた。
 今回の会議で横島の処遇や帰属等が全て決まれば封印は解除される事になっているが、それまでは文珠を作る事も文字を込める事も出来なくなっている。
 だから目の前で並々ならぬ決意を固めているシロを翻意させる事など不可能で、思わず彼は天を仰いで目を覆った。
 
 ふたりはしばらく無言でいた。
 シロの決意が堅い事を彼は痛切なまでに感じていたけれど、自分はどう足掻いても傍にいてやることは出来ないのだ。
 だから彼は心を鬼にして意地の悪く問い掛ける。彼女には自分などに拘って不幸になって欲しくなどなかったから。
 
「シロ。お前は、その為だけに、ずっと此処にいるって言うのか?俺が戻ってくるかどうかの保証もないのに」

「申すまでもござらぬ」

「俺がその前に死んだらどうする!?」

「先生は死にませぬ!」

「俺がお前を忘れて帰ってこなかったらどうする!?」

「そのような事があろう筈がござりませぬ!!」

「俺が帰りたくても、ずっと帰れない境遇になっちまって、お前の命が先に尽きたらどうするんだよ!?」

「その時は」

 彼女は言葉を止めて庭を見る。

「拙者の屍を庭の桜の木の下に埋めてもらうでござる。そうすれば我が肉体は、この桜と共に先生の御帰りを待つ事が出来るゆえ」

 少女の柔らかい微笑みに絶句する。
 横島に答える声には絶大な信頼に溢れ。
 浮かべる笑顔には一片の迷いも無く。
 力強く言い切る少女の姿は美しかった。
 うっとりと頬を紅潮させて桜を見やる彼女の横顔は本当に美しかった。
 彼女の真っ直ぐな思慕は横島の暗く沈んだ頑なな心を少しずつ解きほぐし、その胸に小さな火を灯していた。
 その灯火を、時に人を死地から帰還させる力を秘めたその力を、人は希望と呼ぶのだろう。

 そしてシロが言葉に詰まって狼狽する横島を見た。
 強烈な視線が彼を貫いて、

「何百年経っても、人間界で先生の事を待っている者がいると思ってくだされば、僅かでも先生の無聊の慰めにはなりませぬか!?
 それとも拙者は、先生にとっては取るにも足らぬ存在でしかありませぬのか!?」

 思いの丈を告げる凛とした声が彼の魂を揺さぶって、横島は今度こそ完全に叩きのめされた。
 もう彼にはシロを止める言葉が無かった。
 揺ぎ無き信仰にも似た彼女の意思はたとえ美神を敵に回しても変わらないだろう。

「重ねて申し上げるでござる。不肖ながらこの犬塚シロ、先生が帰ってくるまでずっとこの家を守り続ける所存でござる」

 今ではシロは堂々とした態度となり、先ほどの緊張が嘘の様にすらすらと言葉を紡ぐ。
 だがその内容はあまりにも報われぬ茨の道。終わりがあるのかどうかさえも見晴らせぬ。
 それを進んで選び取ろうとする少女の姿に、だから彼は激情に駆られて彼女のほっそりとした肩を掴んだ。

「ば、馬鹿か」

「はい、馬鹿でござる。だから先生をずっと好きでいられるのでござる」

「お、お前は馬鹿だ、ばかだ、ばか………」

 声はやがて小さくなり、何も聞こえなくなった時、彼は両腕を回してシロを抱きすくめていた。
 シロの馬鹿正直なまでの一途さは知っていた。
 シロが自分に好意を持っている事も分かっていた。
 けれど彼女がこんなにも彼の心情を思い遣っていてくれた事は、この瞬間まで気付かなかった。

「先生。先生は本気にさえなられれば、相手がどんなに強かろうと逃げ延びる事が出来まする。
 ですがそれは先生が生き延びたいと心から思っていればこそ」

 畳み掛けるようにシロが言う。
 生きてくれと。
 精一杯理不尽な運命に抗ってくれと。
 何があっても死を選ばないでくれと。
 その想いを訴えるように、彼女の瞳は横島を捉えて離さなかった。

「シロ、お前はとっくに俺を超えていたよ。本当に………お前は俺なんかには勿体無い弟子だ」

 弟子の成長に驚きと一抹の寂しさ、そして限りない愛しさを感じながら、横島はシロの頭を優しく撫でた。
 純粋でひたむきな気持ちで彼を慕い、その生涯を捧げる事で彼に希望を与えようとするシロの想いに胸が熱くなる。
 いつの間にか自分はシロの申し出を嬉しいと心の底から思っている。
 自暴自棄になりそうだった心に、もう一度此処に戻ってきたいという願いが湧いてくる。
 その為に何が何でも生き抜いてやろうという気持ちが、今では彼の中で心の大半を占めるほどに強くなっている。
 先ほど灯した希望の火は、今は炎となって燃えていた。




 やがて横島から離れると、シロの態度が一変していた。
 先ほどまでの凛然とした顔は紅く染まっている。
 上目遣いで覗きこんでくる彼女からはさっきまでの余裕が消えていて、その視線もきょろきょろと忙しなく揺れて定まらない。
 ぶつぶつと漏れてくる言葉は断片と化して、明快さを欠いて意味不明。それでも彼女はなんとか声を出す。

「せんせぇ。その………一つお願いがあるのでござるが」

「ああ、遠慮するな。出来る事なら何でもやってやるよ」

「拙者、物覚えも良くない上に、しばしば大事な事を忘れてしまうのでござる。
 ですから…………幾年月が流れても、決して拙者が今宵の事を忘れぬように、消えない痕が残るまで拙者に先生を刻み込んでくだされ」

 瞬間、彼の体は彫像と化した。
 鼓動が早鐘をうち、呼吸が浅く速くなる。
 頭の中が空っぽになったとばかりに思考は遅くなる。
 それでも彼女が何を願っているかなど明らかで。
 馬鹿になった頭でも理解してしまえて。

 シロがそっと近付き、その体が彼に触れる。間近で感じる少女の体温と鼻腔をくすぐる甘い香りに彼の意識が白くなる。
 彼女の腕が絡みつくように横島の背に回されて、彼女の舌が横島の首筋に這わされる。
 …………もはや横島に彼女を拒絶する術はなかった。
 やがて横島の腕が、意思を離れてシロのしなやかな腰に回される。
 震える腕でそっと彼女の体を布団に横たえると、彼はシロに口付けた。










 次の朝、目を開けると傍らで微笑むシロの顔。
 軽く柔らかい彼女の髪を撫でると、起き上がって彼女と共に台所に向かう。
 備蓄してあるインスタントで朝餉を済ませると、お茶を持って縁側に腰掛ける。
 シロがその隣にちょこんと座り、二人は静かに庭を見ていた。

 会話は殆どない。もう2人はお互いが傍にいるだけで胸の内が満たされている。
 だから言葉を交わす必要などなく、ただそこに居るだけで心から幸せな気持ちが湧いてくるのである。

 ゆったりとした時間が流れ、徐々に日差しが強くなっていく。
 日陰に移ろうと立ち上がった時、壁時計が九時になった事を告げてきた。

「時間だな」

 振り返りながら声をかけると、シロは僅かに声を震わせながら頷いた。
 彼は少女の手をそっと取ると、桜の樹の前に誘った。
 昨日、既に開花を始めていた山桜は、今日で満開になったようだ。
 枝中に広がる淡い花を見やり、枝の根元を軽く撫でる。
 シロもぼぉっとした顔で、何もしゃべらずに桜を見つめている。

 爽やかな風が別れを惜しむ2人の間を駆け抜けて、桜の枝を震わせる。
 肩や頭に落ちてくる花びらにも構わずに、2人は並ぶようにずっと桜の木の下に佇んでいた。
 今にも抱きつきたくて堪らないのだけれど、抱きつけば互いに離れ難くなると知っていて、だからシロはこのまま笑顔で見送ろうと思っていた。
 彼を困らせるような事にはしたくなかったから。
 けれど駄目だった。
 耐え切れるはずなどなかった。

「せんせぇ!」

 叫ぶとシロは、横島の首に両手を回して顔をその胸に押し付ける。
 彼はシロを抱き止めると、大事な宝物を抱くように少女の肢体をそっと腕の中に閉じこめた。
 彼女の体つきはまだ未成熟で細かったけれど、それでも柔らかくて温かい。
 シロの抱える不安や悲しみを取り除こうとするように横島の手に力がこもり、瞼を閉じて切なげな表情を浮かべる彼女の顔に、彼の唇が舞い降りる。
 瞼に、頬に、顎に、鼻に、額に、耳元に、そしてその唇に、雪のように優しく口付けの雨が降ってくる。
 唇が触れる度にその温もりは至福となってシロの身を包みこみ、横島の意思が言葉の代わりに彼女の心に沁み込んだ。
 やがてその唇が、消えない痕を残すかのように、切なげに鼻を鳴らすシロの首筋を強く吸う。

 どれほどそうしていただろう。
 やがて、背に回る腕が静かに解かれ、温もりがゆっくりと遠ざかり。
 2人は最後にもう一度見つめ合う。

「シロ、行ってくる」

「はい。待ってます。たとえどれほど時が流れても。拙者は此処で、貴方が来るのを待ってます」

「約束する。どんなに時間がかかっても、俺は必ず人間界に戻ってくる。そうしたら、一番初めにこの木の下でお前を抱きしめるよ」

 彼は桜に手を当てながら力強くシロに言った。
 その言葉を、彼女を見つめていた横島の顔を、彼の目に宿る意思の光を、シロは生涯忘れないと感じていた。
 やがて未練を振り切るように横島は背を向けて歩き出した。シロにその背中を見送られながらゆっくりと、けれど力強い足取りで。
 己の口調に女言葉が混じっていた事も気付かずに、シロは肌を桜色に染めて目を潤ませながらただ彼を見つめていた。
 その姿が徐々に小さくなっていき、そして彼が完全に見えなくなったその時に、彼女の目から一滴の涙が零れ落ちた。

 その日から、横島忠夫は人間界から姿を消した。
















 それから彼女は屋敷に留まりながら彼を待っていた。
 強風の吹きすさぶ春の日も、厳しい日差しが照りつける夏の日も、穏やかな陽気に包み込まれそうになる秋の日も、大地を白く染め上げる冬の日も。
 ただひたすらに彼が戻ってくる日を待っていた。
 そして幾度かの暦が終わる頃、彼女の外見は成熟した大人へとなっていた。

 その年の春も桜が咲いた。
 今年は例年よりも大分早い。

「温暖化とやらの進行のせいかもしれませぬ」

 けれど声高に叫ばれる危機とは別に、世間の空気は相変わらず暢気なものだ。
 だから彼女ものんびりしたまま庭に落ちた花びらと落ち葉を掃いていく。
 悲しくはない。
 待つと決めた。何があろうと待つと決めた。思い出だけでこの胸が温かくなると知ったから。

 だが、悩みがないわけではない。
 最近、里の者がわざわざ此処まで来て縁談を持ち掛けてくる。
 一時期は吸血鬼よりも希少な種族となってしまった大神族だが、ピエトロ・ド・ブラドーのオカルトGメンでの活躍によって世間の目が人外に対して寛容になったこともあり、少しずつその数を増やしている。
 けれどその総数は相変わらず少数で、なればこそ里の者が彼女に婚姻を勧めるのは必然だった。
 種族の存続の為に彼女が里の者の誰かと番になり、そして子を成してもらおうという願いはシロにも十分すぎるほど理解できた。

 しかし彼女は丁重に、けれどきっぱりとその申し出を断っていた。
 里の仲間達はいぶかしみ、理由を問いただし、やがて叱責せんばかりにシロに詰め寄った。
 それでもシロは堂々とした態度で応対し、持ちかけられた縁談を無礼にならないように断り続けていた。

 シロは一度たりとも縁談を断る理由を話した事はない。情の深い人狼達でも理由を知ればきっと彼女を止めようとするからだ。
 自ら進んで選んだ終わりの見えぬ孤独の道。
 いつ果たされるかも分からぬ儚き誓い。
 それは到底、余人には理解しきれるものではないだろう。
 シロもそれは解っていた。

 最後には彼女の家を里の長老が訪れてシロの真意を糺したが、

「長老。拙者にはもう契りを交わした相手がおります。拙者の命ある限り、その誓いを違える訳にはいきませぬ」

 微笑みながらそれだけ言うとあとは頑として黙っているシロに、結局長老は説得を諦めて、

「死に場所を見つけた者に、諭しの言葉などあろう筈がない。これからもお主の心のままに生きるが良い」
 
 静かにシロに頷いて見せたのだ。
 長老への申し訳なさと、己の真意を汲んでくれた喜びに、シロの両眼が熱くなる。
 彼女は居住まいを正すと、ありったけの感謝を込め、

「まことに………かたじけないでござる」

 両手をついて頭を下げた。
 それ以後、彼女に縁談が持ち込まれることはなかった。










 1人でこの屋敷に住むようになってから20年近い月日が経ち、不器用な彼女もようやく彼を待ち続ける生活に慣れてきた。
 屋敷の管理は色々と面倒な事が多かったが、シロは長い時間をかけて忍耐強く必要な事を学んで屋敷と庭の維持と保存に努めてきた。
 幸い法的な問題や金銭的な事については、美神が全面的にバックアップしてくれて、掃除や調理や庭の手入れ等についてはおキヌが熱心に教えてくれた。
 タマモは特に何もしなかったが、シロが退屈や寂しさを感じる時に図ったように屋敷を訪れてくる。
 このように、シロは心強い仲間に支えられ、どうにか己の選んだ道を真っ直ぐに進めるようになっていた。
 だからそれから何年経とうとも、シロは美神事務所の仲間達から受けた恩を、そして彼女達と過ごした時を忘れる事はなかった。




「せんせぇ」

 この生活に慣れて余裕が持てるようになってから、時折シロは空に向かって呟いた。
 凛とした姿勢で、心から想いを込めて、ただひとつの約束を守る為に。

「もしこの世界が先生を忘れてしまっても拙者がおります。拙者がずっと待っております。忘れる事など不可能だから」

 誰もいない、この庭の桜の下で、彼女は優しく微笑みながら愛を唄う。
 満月の夜には、彼方にいる横島へ届くようにと、彼女は銀狼となって荒々しく咆えるように愛を叫ぶ。
 そして彼女は祈る。瞼を降ろして、闇の中へと意識を沈め、彼の無事を、彼の帰還を希う。
 神も悪魔も敬わない。そんな事は無益だと思い知らされたから。彼らは憎むべき簒奪者達だから。
 だから彼女は月の女神に祈る。月に頭を垂れながら、その生涯の中で彼女を助けてくれた女神のアルテミスに敬意を込め、己が願いを託すのだ。
 祈りはいつも月夜の晩。
 月光は彼女の血潮を熱くして、思わず走り出したくなるけれど、散歩はしない。
 この手を引きながら隣で歩いてくれる人が帰ってくるまでは我慢すると決めたから。何より横島がいない散歩はつまらない。










 21世紀も半ばを過ぎると、次第にシロの住む屋敷も所々で傷みが目立つようになってくる。
 必死に修繕を続けていくものの、年が経つに連れて柱も老朽化して、しかも家全体が徐々に傾いているような気がする。
 遂に限界を感じて美神に相談すると、小国の国家予算に匹敵するほどの財を成していた彼女は直ぐに改修の手はずを整えてくれた。

 翌日からあれよあれよという間に工事が進み、そして屋敷の大々的な改修が終わったその日、久しぶりに美神令子が屋敷に訪れた。
 改修を終え、ついでにリフォームもした横島の屋敷は外見は殆ど変わらぬものの、今までとは比べ物にならぬほど頑丈になっている。
 また結界のおかげで、屋敷と庭には清浄な空気が流れ、陰気や悪しき氣など微塵もない。

「建材はとことん長持ちするやつを使わせたし、霊的な結界も張ったから悪霊もシロアリも寄ってこないわ。普通に暮らせばあと300年は大丈夫よ」

「かたじけないでござる」

 誇らしげに胸を張る美神にシロは最大限の感謝を込めて頭を下げた。
 今回の屋敷の改修では、美神は金に糸目を付けず脅迫や懐柔を駆使して、宮大工に超特急で仕事をさせたのだ。
 握った弱みを仄めかし、報酬の札束を見せながら高笑いする美神の前では、伝統も宮大工の権威も児戯に等しかった。

 当たり前といえば当たり前なのだが、結局いくら年を重ねても美神令子の唯我独尊ぶりは改まらなかったのである。
 否、財力を増して各方面へのコネや貸しを大量に持っている故か、自分自身の強さへの確信と最強のGSとしての自負はますます強固になっている。
 そんな彼女だが、かつてシロに言った事がある。

「横島くんを待ち続けるって馬鹿な真似が出来るのは、多分あんたともう1人だけでしょうね。
 私なら寿命が1000年有ったとしても、きっと無理よ」

 それは嘘だろうと、その時シロは直感的に感じた。口には出さないが、今でも嘘だと思っている。
 タマモの話では、彼がいなくなってからの数年は美神もオキヌも火が消えてしまったかのようにしょんぼりする事もあったという。
 だが稀にここを訪れる時はいつも、彼女たちは幸せそうだった。
 無論、横島の事を忘れた訳ではないだろう。しかし月日の流れがその傷を癒し、彼女達は幸せを探そうと足掻きながらそれを乗り越えていったのだ。
 それでももし彼女達の寿命が長かったのならきっと自分と同じ選択を取った筈だ、とシロは信じて疑わない。
 彼女達は、1000年も待ち続けた魂と、幽霊として数百年の時を過ごした魂を持っているのだから。




 一通り屋敷の中を歩き回って改修後の具合を確かめると、2人は和室に戻って寛いだ。
 やがてお茶を啜って一服した後に、美神は何気ない口調で問い掛けた。

「シロ、今でも修行は続けてるの?」

「はい。毎日絶やさずに続けておりますが」

 ふーん、と面白くなさそうにシロの体をぺたぺた触ると、突然彼女は目を吊り上げてシロを睨んだ。

「結構疲労が溜まってるみたいね。もっと休みを増やしなさい」

「なれど拙者は───」

「シャラップ!!」

 ビシッと指差しながら宣言する美神に気圧されて、シロの体が反射的に気を付けの姿勢を取っていた。

「シロ、人間の一生は短いわ。私は核戦争が起きたって生き延びて見せるけど、それでも100年は生きられるかどうかね。
 でもあんたはもっともっと長生きしないと駄目でしょう?
 どんなに強くなっても横島君が帰ってくる前に死んだら負けなのよ。
 だから体を鍛えるのも動かすのも体調を崩さない程度に抑えなさい。
 要は、しっかり食べて、しっかり休んで、適度に体を動かすこと。良いわね?」

 反論する間もなく捲くし立てる彼女の姿に、昔と全く変わらぬ彼女の押しの強さに、シロの顔がついつい懐かしさに緩みそうになる。
 慌てて気を引き締めるシロに美神の叱責が容赦なく飛んでくる。
 その後もいくつかアドバイスを与え、

「シロ、横島くんによろしくね。あいつに会ったら私とオキヌちゃんの分までちゃんと文句を言いなさいよ。分かったわね?」

 最後にそう言い残すと彼女は颯爽と去っていった。
 悔恨も、改修費用を出した事に恩を着せるような言葉も、湿っぽくなるような話題も一切口にせず、伝えたい事だけをはっきりとシロの胸の中に残して。
 その鮮やかな立ち居振る舞いと美神らしい言動の数々に、相変わらず自分が美神には頭の上がらぬ事を悟り、シロは清々しい敗北感を覚えたのだった。

 ……………それが犬塚シロと美神令子の最後の邂逅だった。
 それから数年後、彼女は死ぬ直前まで波乱万丈な生活を送り、そして息を引き取った。
 その死に顔は、不敵で、何もかもが満ち足りていたような、それは見事な笑顔だったという。

 西暦2087年。最強のGSと謳われ、途方もない富を築き上げた女傑、美神令子、永眠。












 桜と共にこの家を守るようになってから既に90の年が巡っていた。
 美神も、おキヌも立派に生涯を生き抜いて今では土へと還っている。
 滅多に外出しないシロも、父と彼女達の墓参りには毎年必ず足を運んで手向けの花を添えている。

 墓参りを済ませた日の夜は、いつも無性に寂しくなる。
 親しかった人の死を悼むのは、その人と過ごした時の事を思い出させてくれるけれど、もう何処にも居ないという事をも思い起こさせるから。

 そんな時、彼女は刀を振るう。
 弱くなった心を叱咤するように刀を振るう。
 雑念を取り除き、己の意識を剣技に没入するためにひたすら刀を振るう。
 けれど疲労で太刀筋が乱れると、決まって美神の顔が浮かんでくる。

『私の忠告を無視するんじゃないわよ!
 鍛練も運動もやりすぎるなって、あれだけ言ったでしょう!
 疲れたらお風呂に入ってリフレッシュしてからぐっすり休む!!』

 彼女の声が蘇るたびに、シロの背中には戦慄が奔り、その手が思わず止まってしまう。
 きょろきょろと周囲を見回して、怒れる美神の魂がいない事を確かめると、ほっと息を吐いて休憩する。
 やがて気付く。美神が死んでからもその世話になっている己の現状に。
 そんな時、シロは思わず苦笑いを浮かべながら深く感謝するのだった。












 最近、街へ赴くと『光陰矢のごとし』との言葉のように、時の流れが途轍もなく早く感じることもある。
 21世紀が終わろうとしていた。
 今、人間界は新しい時代に入る準備を始めている。まだ幼かった彼女は100年前に行われたミレニアムの祝賀や世界各地で行われた祭りにも似たセレモニーついては覚えていないけれど、新世紀を祝おうとする華やいだ空気だけは感じ取っていた。

 けれど世間に漂うお祭り気分とは対照的に、彼女は沈み込んでいた。
 この数年、待ち人が帰ってきてくれる夢をしばしば見る。
 彼女が庭の掃除をしようと縁側から降りると、桜の樹の下に横島が立っているのだ。
 彼女は笑顔を浮かべて手を振る彼に向かって走っていく。
 そして、その胸の中に飛び込もうとした所でいつも目が覚めてしまう。

 夢から覚めた時に、改めて思い知らされる。
 此処には横島がいない。
 帰ってくる予感もしない。
 その残酷な現実を容赦もなく思い知らされて、さしもの強靭な決意も悲しみに覆われ、不安になる。
 あの日、抱かれた時に体の奥に刻み込まれた刻印はまだこの体を温めてくれるのだけれど、どんなに堅く彼の帰還を信じていても、もう駄目かもしれないと弱気になってしまう事もある。いつまでこんな日が続くのだろうと、こみ上げてくる不安に眠れなくなる時もある。
 特にあの夢を見るようになってからは、刀を振っても消えない寂寥感が彼女の心の中に寒風のように舞い込んでくるようになっていた。
 
 そしてその日も、彼女は心の内を冷たく嬲る寂しさに悩まされていた。
 夢見が悪かったせいもあるだろう。
 それに加えてここ数日降り続いた重苦しい雨が彼女を気鬱にしていた。
 縁側から庭を眺めて、雨が止む気配のない事を確かめると、シロは思わず大きく溜息をついた。

 神魔の狙い通り、もはや人間界から文珠とその使い手は歴史と化し、煩悩少年だった横島はごく少数の者達の追憶の中にしか存在しない。
 だからもうすぐ横島が人間界に来てくれるかもしれない。そう思っても、横島の気配の残滓までもが希薄になっていく世界に、悲しみを覚えずにはいられない。寂しいのだと、孤独なんだと、思い知らされているような気がするのだ。

 ふと目を上げると、夢で見たように桜の樹の下に横島の姿が見えたような気がした。
 夢中になって駆け寄ると、その幻覚は消え去って目の前には樹だけが残っている。
 呆然と立ち尽くす彼女の体を、しとしとと降り続く雨が冷たく濡らす。
 それはまるで彼女の心に流れる涙の様で、とうとうシロは内心に抱え続けた不安と悲しみを紡いでいた。

「せんせえ………横島せんせぇ………拙者の背の君。
 御体は健やかにあらせられるでしょうか?
 まだ、拙者の事を、覚えてくださりますでしょうか?
 拙者はここで先生が戻るのを、これからもずっと待っております。ですから、いつか……………」

 彼が今でも生きていると信じている。
 あらゆる相手と戦って生き延びてきた彼の力を信じている
 あの日、帰ってくると約束した彼の言葉を信じている。
 信じているけれど……………。

「寂しいでござる………先生のいない世界は………冷たくてイヤでござる」

 哀愁を紛らわせようと、立派に育った山桜の幹に縋り付いて頬擦りすると、一滴の涙が地面に吸い込まれた。
 その刹那、思わず俯いた彼女の鼻を奇妙な臭いが刺してきた。下を向くと漂う臭気は桜の根元にあるようだ。
 それは非常に微か臭いで、普段なら気にも留めなかっただろう。けれど感情が昂ぶっていた故か彼女の脳裏に何かが閃いた。
 昨日までは彼女の鋭い五感でも感じられなかったのに、何かが埋まっているとしか思えない。
 不審を覚えて掘ってみると、二枚貝がしっかりと合わさった蛤が現れた。
 その表面には彼女の知らない特殊な呪が書き付けてある。
 手にとって見ても既に蛤そのものが微生物や土中の化学変化の影響でぼろぼろになっていて良く読めない。
 彼女が二枚貝を開けようと僅かに力を込めた時、

「あっ!?」

 腐食しきった蛤は刻まれた呪諸共崩れ落ちた。
 そして次の瞬間、

────キィィィィィン

 桜の樹から霊気が漏れ出した。
 シロの全身が稲妻に撃たれたかのように硬直した。あまりにも強い驚愕が彼女の胸を支配する。
 決して忘れえぬ懐かしく、愛しい人の気配が桜から立ち昇っている。

「先生の匂いが………する」

 ふらふらと樹にもたれかかりながら嗅覚を働かせる。微かに想い人の霊臭が彼女の鼻に届いてくる。

「どうして、急に?」

 シロの呟きに答えるものはない。
 彼女は知らない。別れの日に横島が誰にも気付かれぬように、隠し持っていた最後の文珠を桜の幹の中に埋め込んだ事を。
 蛤に刻まれた文字が、文珠の存在を隠蔽するための陰陽師に伝わる呪法である事を。
 それを持っていたが故に、ヒャクメすらも彼が最後まで持っていたたった一つの文珠に気付かなかった事を。
 何十年か経って神魔が文珠への注意を払わなくなった後に、腐食しきった蛤と共にその呪法が崩壊するように横島が仕掛けを施していた事を。
 そして、シロの嗅覚に届いた臭いは、既に呪法そのものが崩壊寸前になってした為にその存在を隠せなくなっていたからだという事を。

 けれど、やがて彼女は考えるのを止めてなぞる様に樹の表面を撫でた。
 理由なんて後から考えればいい。
 彼の気配がする。彼の匂いがする。彼の存在をすぐ近くに感じることが出来る。
 だから、今はただそれだけで良い。

 愛しい人がそこに居るかのように樹に縋りつきながら、彼女はうっとりとした表情を浮かべ、

「先生………ここで、拙者を見守ってくださったのですね?
 いつか拙者の心が折れそうになった時、拙者を支えるように先生の御力の一部を託してくださったのですね?
 ………今、はっきりと感じられまする。先生の懐かしい氣がこの樹から溢れている事を」

 気がつけば泣いていた。大声を上げて泣いていた。この数十年間で一度も流した事のない嬉し涙が、シロの瞳から止めどなく溢れていた。

────先生に抱きしめられているみたい。

 幹に触れ、樹の根元に蹲りながら号泣した。
 彼が何処にいるか、どうしているかも分からない。
 けれど横島は確かに生きていて、その力の一部が桜と共に在り、そして彼女の震える心を温めてくれたのだ。

 樹に耳を当てると桜が、桜の中の文珠に込められた想いが聞こえてくる。

────この文珠があるかぎり、俺は元気でやっているから。
    いつか必ずお前の所へ帰ってくるから。
    だからそれまでは、この文珠が俺の代わりにお前を護るよ。

 他人はそれを彼女の願望が生み出した虚構だと笑うだろう。賢しげに幻聴だと諭すだろう。奇跡は起こらないから奇跡なのだと言うだろう。
 けれどそれがどうしたというのだ。
 彼女の中の真実はもう既に一直線に定まっているのだ。
 シロにとって大切なのは、文珠が此処にあり、師の存在がすぐ傍に感じられる事だけなのだ。
 
「あぁ………」

 そっと桜を包み込むように流れてくる文珠の波動に触れて確信した。
 待っていられる。
 この桜があればもう迷う事はない。
 師の気配が傍にいてくれる限り、たとえ何があろうとも、どれほど時が流れても、犬塚シロは横島忠夫を待つことができる。
 穏やかな風の中、蹲って感涙に咽び泣く彼女の背中を涙雨が優しく叩いた。
















 そして季節は何度も巡り、再び庭に桜が舞う。
 10年ほど前から彼女は、少年少女達に剣を教えていた。
 初めの弟子は美神家の者だった。
 ひのめの曾孫にあたる少女は紹介状を携えて、霊力を使った戦闘の手ほどきをして欲しいと願い出た。
 緊張を浮かべてそれでも真っ直ぐにシロを見つめるその少女の乞いを、シロは笑顔で受け入れた。

 それから約5年間、少女はシロと共に屋敷で暮らした。
 彼女は毎日の様にシロに稽古をつけてもらい、そして18歳で見事にGS資格試験にトップで合格したのだ。
 それは美神の血筋譲りの素質と潜在的な霊力の強さが、シロとの厳しい修行によって見事に開花した結果だった。

 それが評判になって、何人かのGSの卵達がシロの元に弟子入りするようになる。
 やがて彼らがシロの指導を受けようと訪れるせいで、屋敷には始終喧騒が立ちこめるようになっていく。

 その賑やかな空気や、彼女を敬い、慕う若人の存在はシロの心を随分と支えてくれた。
 稽古が終わると、若者達はシロの除霊の体験談や彼女の若い頃の話を聞きたがり、シロも美神については多少脚色しながら話してやる。
 けれど彼女は横島についてだけは何も語らず、自分が彼の弟子だった事も明かさなかった。最初の弟子となった少女にさえも。




 ピートはその功績を認められ、最もオカルトGメンへの要請が盛んなヨーロッパへと転属して、現在日本に滞在することは殆どない。
 だから横島忠夫の事を覚えている者で、ここを訪ねてくるのはただ1人。
 巧みに男に取り入りながら楽しげに浮世を渡っていく傾国の美女。
 自分よりも更に長命な彼女は、若々しく元気そうな姿でちょくちょく此処を訪れる。
 付き合っていた男のスキャンダルが自分に及びそうになった時、隠れ家代わりにする事もあった。
 たまたま居合わせた弟子にその姿を見咎められた時には、幻術を使って誤魔化そうとしたので、慌てて彼女をどついて気絶させた事もある。




 今では横島忠夫は既に記録上の存在となってしまったけれど、寂しくはない。
 だってきっと会えるから。
 横島は真面目な約束は絶対に破らなかったから。
 だからいつか彼はこの家に戻ってくる。
 けれどそこでため息が出る。

「先生。拙者の女盛りの姿を見てもらいたかったでござる」

 刀を振るって剣術の型を確かめると、技のきれは衰えぬものの、以前よりも肉体がするまでの時間が早くなってきた。
 悲しい現実だが受け入れるしかない。もう自分の体が若くはない事を。

 それでも待つ。
 この家に過ごした年月は110を超え、植えた時には2m程度の若木も今では立派な大樹となった。
 たまに剪定して桜が傾かぬように整えてやっている。
 桜が以前よりも大きくなった事に気付く度に、何故か彼女の心は浮き立つのだ。














 毎年元日になると、彼女は桜の幹に薄く横線を1本引く。
 それは彼と別れてから直ぐに思い立った事。

「もし拙者に何かがあっても、この桜があれば先生が現れた時に拙者の事を思い出してくれるだろう。
 きっと先生は分かってくれる。拙者が約束を破らなかった事を。
 もし拙者に何かがあっても、1000年を生きるこの桜が先生の帰りを出迎えてくれるだろう」

 それから彼女は毎年欠かさずに桜に線を刻んでいた。
 そして今年も既に終わりを迎えている。
 耳を澄ませると、遠くで除夜の鐘が鳴り響く音がする。
 彼女はそっと臥所を出ると、雨戸を開けた。
 雪化粧を施された庭には全てを吸い込むような静謐な闇が広がっている。
 そっと縁側から降り立って慣れ親しんだ桜に辿り着く。優しくその幹を撫でながら霊波刀を発現する。
 やがて除夜の鐘の鳴り終わりを聞き届けると、彼女はすっと刀を動かした。
 すると既に刻まれた線の上に並ぶように新しい線が刻まれる。
 しばらくそれを眺めると、シロは1つ頷いて寝所へと戻って行く。
 桜に刻まれた線の数。
 今ではもう140に達しようとしていた。














 幾度の冬を越えて桜が舞う頃に、シロは弟子達と共に花見を行うようになっていた。
 大きく生長した桜の樹が満開の花を咲かせると、屋敷の庭にはしばしば桜吹雪が舞い踊る。
 その桃色の花の舞い散る様を眺める事を、彼女も彼女の弟子達も、楽しみにしているのだ。
 花見の時の弟子の顔ぶれは毎年変化する。
 GSの資格を取って社会に羽ばたく者。引越し等で屋敷に通えなくなった者。そして死んだ者。
 理由は様々だが、時の流れと共に、彼女の許には次々と人が現れては去っていく。
 その出会いと別れの織りなりは、時代が変わった事を否応なく感じさせてくる。

 あの頃に比べれば、あまりにも永い時が経ち過ぎた。
 もう、あまりに多くの事が変わってしまっている。人も、社会も、自分さえも。
 けれど変わらぬものもある。

 それは、ある年の花見の席での事だった。

「犬塚先生の喋り方ってずっと前からそうなんですか?」

 高校に入ったばかりの少女が首を傾げながら尋ねると、周りから同様の疑問の声が上がった。
 苦笑しながらその素朴な問いに答える。

「もう170年以上前から、拙者の喋り方は変わっておらぬよ。拙者の生まれ故郷ではこのような喋り方が当たり前だった故に」

「でも、先生は人狼の里を離れてから100年以上経ってるんですよね。直そうと思った事はなかったんですか?」

 シロは微笑みながら首を振った。
 彼女も己の物言いが古風だとは自覚している。
 けれど、いつか横島が似合っていると言ってくれた喋り方を直そうとは思わない。
 それでも彼の前でだけなら、女言葉で喋るのも吝かではないけれど。

 そしてそれから5年後、シロは肉体の衰えを理由に弟子入りを断るようになる。
















 そして時は移りゆく。
 様々な命が現れては消えてゆく四季の移り変わりを眺めながら、彼女は毎日欠かさず庭を掃除して桜の樹に手を当てていた。
 その鼓動に耳を傾けながら目を瞑るたびに思い出す。
 大好きだった、否、今でも大好きな彼の姿。
 何故かこちらの心を弾ませてくれるテンションの高い笑顔。将来は美人になるぞ、と言いながら撫でてくれた温かな掌。
 落ち着きのない軽薄そうな眼差し。だらしのない声。
 けれど、いざという時は誰よりも真剣に彼女の事を案じて叫び、そして彼女の事を見てくれた。
 いつの間にか彼女の心に住み着いていた、彼女の生涯でただ1人のヒト、横島忠夫。
 思い出は、血にまみれた戦いの記憶から始まっていく。
 冷たくなった父の体。恐ろしいまでの眼光で睨みつけてくる犬飼ポチ。吼えるような怒号。そして横島との出会い。
 フェンリル狼を討ってからしばらく後に腐れ縁の悪友と出会い、彼の傍に暮らすようになった自分。
 そして訪れたどうしようもない運命の非情。人間界との繋がりを全て断つ事を求められた彼女の師。
 そして………別れの日の前夜に交わした契りと約束。彼女と別れて去りゆく彼の後姿。
 桜の中にある文珠のおかげか、彼と過ごした日々の記憶はどれだけ時が経とうと決して色褪せない。

 初夏の風が屋敷の庭を軽やかに吹き抜けて彼女の髪をなぶるので、シロは回想を止めて目を開けた。
 春に咲いた可憐な花が鮮やかな新緑へと移行している真っ最中。
 夏。それは生き物達が最も力強く躍動する季節。
 空は青く晴れ渡り、蝉時雨が聞こえてくる。時折小鳥が生き生きとさえずっている。
 狼としての本能故か、どれほど月日を重ねても、この時期は心が浮き立つような気持ちを抑えることができない。
 久しぶりに刀を振るった後に縁側に腰掛けてすっかり年老いた体を休めると、体中に溜まっていた不純物が流れでていくような心地がする。
 新鮮な風を思い切り吸い込むと、瑞々しい青葉の香りを感じる。柔らかな微笑みが自然にこぼれ出た。

 自分の寿命が尽きる日は近い。今でも十分過ぎるほどに時を重ねた年齢なのだ。
 おそらくあと10年を生きられるかどうかだろう。
 けれど自分は誓いを立て、この家を守り、そして彼に再び会うために生きてきたのだ。
 誰が何と言おうと、今更止めるつもりなどない。
 もしも志半ばで肉体が先に朽ちるなら、骨と灰を土の中に埋めてもらい、ずっとこの樹に寄り添おう。

 今年の春にその願いを古い友人に告げると、傾国の美女と呼ばれる事もある彼女は珍しく真面目な顔で請け負ってくれた。
 そしてその時、

「ねえ。1人の男を待ち続けるってどんな気分なの?」

 不思議そうに尋ねてきた友の問いにシロは微かに笑った。

「幸せ、でござるよ」

「幸せ?
 ずっと会えないのに?
 抱きしめることも、声を聞くことも出来ないのに?」

「確かにそうでござるが………。
 でも先生が今日もどこかで生きていて、その御力の一部がいつか帰ってくる証として拙者に託されている、そう思うだけで幸せになれるのでござるよ」

 もしも直接触れ合えるのなら、きっともっと幸せになれるでござろうな。と年老いた銀狼は何の翳りもない笑顔で呟いた。
 その笑顔はタマモの長い生の中でも滅多に見た事がない美しさに満ちていた。まるで花が綻ぶような笑み。そして、その中に込められた想いは、きっと誰よりも強く純粋だった。

 その深く清らかなシロの愛情に眩しさを覚えて思わず目を背ける。
 タマモもシロから桜の中の文珠の事は聞かされていた。実際に桜に触れてみて、横島の気配を感じた事もある。
 けれど、とてもシロが言うような感情は湧き上がってはこなかった。タマモにとっても横島という男は決して軽い存在ではないのに。

「私はそんな生き方は絶対に出来ない。
 だから、きっとあんたの人生観は何年経っても理解できないでしょうね」

 哀れむような羨ましがるような複雑な色を宿しながら答えると、金髪の妖狐は黙って桜を見た。
 その横から穏やかな声が返ってくる。

「拙者は、拙者。美神殿は、美神殿。そしてタマモは、タマモ。それぞれの求める幸せの形は、決して同じ物ではござらん。
 だからお主の様に、気の向くままに、時には大きな流れに身を任せるように生きるのも、何ら恥じる事はござらんよ」

「味な事を言うじゃない。年の功ってやつ?」

「お主と拙者とでは、年はたいして変わらんでござろうが」

 唇を尖らせるシロにタマモが笑う。シロも笑う。軽やかな笑い声の漣がゆっくりと庭に流れていく。
 見上げれば空高く筋雲が糸を引くように流れている。午後を回り、日差しは天頂を過ぎて少しずつ地平線に近付いていた。
 その光に照らされて、立派な大樹となった桜が庭に大きな影を投げかけている。
 穏やかな春の日の陽気に身を任せ、2人は日が暮れるまで自然が奏でる命の唄に耳を傾け、その変遷を眺めていた。




 その夜、去りゆくタマモを見送った後に、シロの中にしみじみとした思いが込み上げた。
 心の残りは今日で全て片付いた。
 もう何も心配は要らない。
 あとは朽ちるまで桜を愛でながら、彼の帰りを待っていればいい。
 うっとりと目を瞑る彼女が宿した静かな覚悟。その中に不変の想いが根付いていた。












 そしてまた数年が経ち、終わりは何の前触れもなく、ある春の日の夜に突然にやってきた。
 お茶を入れて、縁側に座って夜桜を眺めようと思って襖を開けた時。
 一歩踏み出してから、腰を下ろそうとしただけなのに。 
 急に足から力が失われて。

 バランスを崩して肩から地面に叩きつけられた。
 一瞬視界がぶれ、僅かに遅れて痛みがやってくる。

「………………っ!?」

 もはや確認する必要などない。
 この家で200に達する年月を、あの山桜と共に過ごしてきた。
 想いは褪せず、約束を待ち続ける心に曇りなく。
 けれどもう、この体はどこもかしこもガタガタだ。

───最期はあの樹の下で。

 喘ぐ様に息を吸い込んで、動けるだけの息吹を手足に送り込む。
 けれど足はもう動かない。
 だから腕を前に伸ばして、大地に爪を立てて力いっぱい引っ掻いた。

 ずずずずず………じゃり

 体が這いずって少しだけ前に進む。
 涙があふれてあの樹が霞んでいる。

「せっしゃ………あそこで………………せんせぇ………を」

 ずっと前から決めていた。もし約束が果たせずに倒れてしまった時は、あの桜の根元で終わろうと。
 たとえ亡骸になろうとも、その屍を糧として、いつまでも桜がこの地にあり続けるように。
 桜の樹と同化した肉体が、これからもずっと彼を待ち続けられるように。

 彼女は祈るように強く願いながら地を這っていく。
 けれど。

「何で………どうして腕に………力が入らんのだ………。
 まだ………桜まで…辿り着いて……おらんのに………。
 拙者はずっと………あそこで先生を………待たねばならんのに。
 どうして………この体は動かぬのだ………」

 無情にも彼女の体が大きく痙攣して。
 それでシロの中から全ての動く力が失われ、彼女の体はもう一歩も進めなくなっていた。
 桜の樹の根元まで約3m。その距離が断崖絶壁に遮られ、無限の距離にも等しいと思えた。

 情けなさに胸が張り裂けそうになる。
 口惜しさに涙が零れてくる。
 歯がゆさに息が苦しくなる。

 庭を照らす月光は風に舞う夜桜に紅の華を添え、夢幻の境に誘うように妖しく光る。
 この舞い散る桜の様に、命の尽きる時がすぐそこまで迫っている。だがそれを拒むように彼女は強く願った。

 死を厭う気持ちはない。いつか彼は桜の樹の下に帰ってきてくれるから。
 だからあの樹の根元で生涯を閉じたい。少しでも彼の波動に触れていられるように。
 どんなにみっともなくともいい。
 少しでもあの桜の近くまで。
 彼の息吹が感じられるあの場所へ。
 
 しかし救いの手は差し伸べられず、どんなに気張っても、意識が、保てなく、なってきた。

「このまま………死んだ………ら………拙者の魂は………先生の許へ………辿り着けるので………ござろうか………?
 せんせぇと………いつまでも………ずっと………一緒に」

 閉じそうになる瞼を上げて月を見る。冷たく冴え渡った空に輝く青い月。
 朝になれば、この身に力を与えてくれる月は暁へと沈み、この命は儚く。

────待ってます。
    たとえどれほど時が流れても。
    拙者は此処で、貴方が来るのを待ってます。

 最後まで消えなかった遠い日の誓いを胸に。
 流れすぎた時間に万感の思いを込めながら、彼女は哀しげに、けれどもどこか誇らしげに月に向かって大きく吠えた。
 吠え声は遠く高く、彼女が生きてきた世界に流れていく。

 もう一度桜を見ようと目を移したその刹那、シロの世界からほぼ全ての音が消え。
 肌を優しく撫でる夜風のざわめきすらもシロの世界から消え去って。
 そしてシロの呼吸が停止した。








































────キィィィィィン

 シロの意識は、呼吸を忘れて目の前で起きている現象に釘付けになっていた。
 彼女が樹を見た瞬間、桜の中に埋めこまれていた文珠が光を発して嬉しげな音を奏でたのだ。
 それはまるで、永く眠り続けていた文珠がようやく発動する時を迎えて喜びに打ち震えているかのようだった。
 そして桜の中から押し出されるように文珠が姿を現して、霊波を放ちながら宙に浮かぶ。
 その表面にゆっくりと文字が浮かび上がり、やがて『帰』という形が刻まれたその刹那、今までもすぐ傍に感じていた横島の霊波が爆発的に強まって、彼の存在感がどんどん高まって。

────光が溢れた。
 
「せんせぇ?」

 桜吹雪に誘われたかのように、バンダナを巻いた青年が虚空から現れる。その手に在りしは『還』と刻まれた宝玉。
 青年の足がすっと庭に降り立つと、彼は真っ先にシロを見た。

「横島先生?」

 それは彼女が毎日、桜に手を当てて思い出してきた男の顔。
 彼女の目に映る青年の顔は遠い日と何も変わらずに。
 何度も何度も夢に見続けた待ち人がそこにいた。

「あっ………ついに………拙者、幻覚を?」

 青年が相変わらずの笑顔を浮かべて彼女へと踏み出した。その笑顔を見た途端、シロの頭の中が真っ白になる。
 駆け寄った彼が彼女の上体を起こす。そして包み込まれるような優しい抱擁。

「せんせぇだぁ」

 別れた日から流れた月日は一瞬で消え去って、老いを重ねて透徹した雰囲気すら漂わせていた犬塚シロは在りし日の少女に戻っていた。 
 言いたかった言葉が溢れ出す。胸の奥で温めていた想いが外に出ようと暴れだす。

 ずっと待っていた。
 会いたくて、たまらなかった。
 大好き。

 余りに大きな感情の奔流に苦しくなった彼女は思わず目を瞑り、縋るように祈りの言葉を呟いた。

「幻でも偽りでもいいでござる。あるてみす殿。もしこれが夢ならば、覚める前に拙者の命を断ってくだされ。
 このような夢を見た後に、現世で生きる気力など沸きませぬ」

「夢でも幻でもねえよ。
 今日でお前と別れて、人間界から去って200年目。
 やっと堅物の最高神どもから許可がでたから、約束通りお前に会いに来たんだ」

 呆れるような、けれど限りなく優しい声が彼女の耳に届き、彼女の体を抱く腕に力がこもる。
 懐かしい霊波は温かく彼女の心を包み込む。
 両手をそっと青年の顔に触れさせると、見る見る間に光を失いかけていた双眸から涙が零れてくる。
 彼女の五感の全てが目の前の存在を現実だと肯定する。

「シロ………ただいま」

 その言葉が引き金だった。
 乱れた態度を取るまいと、押し留めていた堤防が決壊して、彼女の心が彼に向かって迸る。
 けれど伝えようとしていた言葉は喉につかえて言語化されず、結局告げた言葉は切れ切れで。

「拙者、拙者………ずっと、ここで、先生を」

「ああ、分かってる。ごめんな、シロ。ずっと待たせちまって」

 それでも良い。彼が此処に居る。彼女を優しく包んでくれる。
 だから何もいらない。何も言わなくていい。この時が永遠に止まってくれさえすればいい。
 けれどそれは無いもの強請りの我が儘だ。やがて彼の体が離れていく。永遠など無いのだと分かっているけれど、それでもやはり寂しくなる。
 その時、横島の口が耳元に押し当てられ、小さな声が聞こえてくる。

「シロ、じっとしてろよ」

 そして彼女の額に当たられる『若』の文珠。
 再び閃光が溢れ出し、彼の霊気がシロを包むと、彼女の体が激変した。

 顔に刻まれた皺が消えて肌が滑々になっている。
 少し曲がり気味だった腰がしゃんと真っ直ぐになっている。
 脂肪も筋肉も削げ落ちた細い手足にふっくらとした感触が宿っている。
 体が動く。抜けた落ちた生気が戻っている。
 彼女の姿は、彼と別れたあの日の様に、瑞々しいの少女の姿に戻っていた

「せんせぇ、これは?」

「時間限定だけど、文珠で昔のお前に『若』返らせたんだよ。どうせ抱くならこっちの方が気持ち良いしな」

 まるで変わってないその物言いに苦笑しながら、再び抱きしめてきた彼の体に手を回し、もう二度と離さないとばかりに抱き返す。
 彼の体からかけがえのない匂いがした。何もかも忘れさせてくれる極上の温もりがあった。体中に溶けてしまいそうな幸福感が溢れてきた。
 全てが全て夢幻のようで、けれど全身に伝わる感触が確かな現実を教えてくれて、だからもう彼女は寂しくない。








 しばらく抱き合った後に、ようやく落ち着きを取り戻した2人は互いの状況について話し合っていた。
 と言ってもシロが伝える事はただ一つ。ここで桜の樹と共にずっと横島を待ち続けていた事だけだった。
 それに比べて横島の状況は彼の数奇な半生を表すかのように複雑だった。
 変化していく体を安定させるのに何十年も鬼教官にしごかれたと。
 ルシオラの魂を受け入れた彼の体は、魔族となるのに最も適応していたと。
 それでも帰属先は揉めに揉めて、一転、二転どころか三転、四転もした事。
 そして、今では。

「結局な。俺の文珠が神魔のバランスを崩す事がないように、俺の帰属は月になったんだよ」

「月、でござるか?」

「ああ、あそこは中立地帯だから俺が加わっても神魔のバランスにもデタントにも影響がないんだよ。
 それに、月の民の月神族とは知り合いだったから、俺の事も快く受け入れてくれたしな」

 そこまで言うと彼はぐっと右手を握り締め、目を閉じながら念じるように眉根を寄せた。
 凄まじい霊圧が一瞬だけ場に満ちて、右手を開くと白い文字で『半』と刻まれた漆黒の文珠がある。
 
「これは俺の魔力と寿命の半分を込めてある」

 説明しながら、訝しげにそれを見つめる彼女の目の前に黒い宝玉を持っていく。

「この文珠を使えば、お前は俺と同じになる。俺と同じ世界で同じ時を生きられる」

 弾かれた様に顔を上げたシロに向かって力強く頷いてみせる。

「だからシロ、これを使って俺と一緒に月に行ってくれ」

 あぁ、とシロは叫び、そして口元を手で覆った。
 彼女が願って止まなかったある一つの想いが現実になろうとしていた。

────横島忠夫と同じ場所で同じ時間を過ごすこと。
    横島忠夫の傍に在りて、彼の身を護る事。

 横島が僅かに緊張した面差しでこちらに手を差し伸べている。
 差し出す漆黒の文珠はきっと誓いの指輪の代わり。
 彼は犬塚シロを必要としてくれて、だから一瞬たりとも迷うことはなく。
 シロは想い人の望むままに、その身の全てを差し出そうと満面の笑みを浮かべながら駆け出した。 

「先生とならば、何処へなりとも御供いたします。だから、ずっと、先生のお傍に居させてくだされ!」

 返事を告げながら横島の腕に飛び込むと、彼は彼女を抱きすくめて破顔する。
 黒い文珠がシロの胸、心臓の真上に添えられる。
 横島が軽く力を入れると、文珠がシロの中に沈んでいく。
 そして、閃光。

「せんせぇ、体が熱い。熱いでござる!」

 その言葉とは裏腹に彼女は尚も腕に力を込めて横島の体に密着する。
 シロの体中の細胞が生まれ変わろうと激しく振動し、そして新たに生まれた細胞が産声を上げて生命の息吹を謳歌する。
 彼女の肉体年齢が20歳前後に固定され、彼女の体に魔力と力が漲ってくる。
 一瞬のうちにシロの身体が造り変えられて、けれど決して不快な変化はなく。
 そしてシロの体の熱が治まると横島は彼女の手を取って高らかに叫んだ。

「それじゃあ、シロ。俺達の結婚式を挙げるぞ!」

 彼の手から放たれた『幻』、『式』の文珠が虚空に吸い込まれ、庭の景色が一変する。
 荘厳さを醸し出す窓と信徒席と側廊にある柱。様々な色彩を放つステンドグラス。十字架に張り付けられた聖人像。そして祭壇の前には眼鏡をかけた神父の姿。刹那で庭が教会へと変わっていた。

「これは全部幻だよ、教会もあそこの神父も。でも形を整えたほうが雰囲気が出るだろう?」

 唖然としたままのシロに耳打ちしてその手を取ると、横島は神父の待ち受ける祭壇へと彼女を誘った。
 席には誰もいないけれど、ヴァージンロードをゆっくりと踏みしめる彼女の心は感無量。ここは2人だけの聖域だ。
 一歩一歩進むごとに、彼女の過ごした200年間の記憶が次々と現れては消えてゆく。
 そして2人は遂に唐巣にそっくりな幻の前に辿り着く。
 横島が目配せすると神父が厳かに問い掛ける。

「汝、横島忠夫は、
 病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、
 犬塚シロを妻として愛し続けることを誓いますか?」

「はい、誓います」

 躊躇わず力強い彼の肯定が耳を打ち、シロの鼓動をかき鳴らす。
 神父は彼の宣誓に頷いてシロの方に向き直る。

「汝、犬塚シロは、
 病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、
 横島忠夫を夫として愛し続けることを誓いますか?」

「ち、誓うでござるぅぅぅ」

 目の前の神父が幻だと分かっていても、動悸はちっとも治まらず。
 彼女の声は緊張で見っとも無いほど裏返り。
 けれど誓いは成立した。 

「それでは誓いの口付けを」

 そう言って父性に溢れた穏やかな笑顔を浮かべてると、唐巣の姿が薄れていった。
 そして、風。その中に舞う一枚の花びらが雪の様に教会の床に落ちた。
 続いて一枚、また一枚と花びらが教会の天井を透過するように落ちてくる。
 まばらにちらつく桃色の雪は徐々にその数を増していき、やがて花びらが渦を巻いて舞い踊る。
 教会の壁が、窓が、天井が、桜吹雪に塗りこめれて消えていき、その幻想的な花びらの舞に包まれながら、2人は向かい合って見詰め合う。
 ゆっくりと舞い散る花びらの中から桜の大樹が再び姿を現したその刹那、シロは目を潤ませながら誓いの言葉を紡いだ。
 
「先生、愛しております。心から、ずっと。犬塚シロは永遠に貴方をお慕い申し上げます」

 照れた横島が折れよとばかりに彼女の体を抱きしめて。
 痛いほどに甘美な抱擁に酔いしれながら、シロは頤を上げて目を瞑り。
 交わす口付けは永遠の始まり。
 至福に包まれ、浮かべる笑顔は夜桜よりもなお美しく。
 待ち人は来たりて、その腕に彼女を抱き上げ、愛の言葉を囁いて。
 想いは遥かなる時を越えて報われて。
 この日、犬塚シロは永遠を手に入れた。 










「シロ、これから月に行くぞ」

 そう言った瞬間、横島はシロをお姫様抱っこしたまま飛び上がった。
 彼の体が重力を物ともせずに宙に浮かび、そして魔法の様に空を駆ける。
 目を丸くしているシロの頭を撫でると、彼はかつてと些かも変わらぬ口調で彼女に告げる。

「俺、もう人間じゃねえし、修行もさせられたから、空ぐらい飛べるさ。あの文珠を使ったんだから、お前も飛べるんだぞ」

 言い終わると横島の手が彼女の体を宙へと投げた。
 突然の出来事に慌ててシロが泳ぐように手足をばたばたと動かすと、落下が止まって浮遊感が彼女を包む。
 おそらく彼女の身に宿った魔力の働きなのだろう。少し魔力を込めて宙を蹴ると、まるで地を駆けているように体が動く。
 楽しくなった彼女は出鱈目に空中を駆け回る。
 いつの間にか隣には先ほど伴侶となった男がいて、浮かれている彼女を愛でるように、優しい笑顔を浮かべている。

「とりあえず、月面まで一飛びだ。あっちにお前と住む為に家は確保してあるから、このまま月見しながらの散歩と洒落込もうぜ。
 散歩、今でも好きだろ?」

「わふっ、大好きでござる♪」

 貴方と一緒に散歩するのが拙者にとって何よりも。その言葉を飲み込んで、200年ぶりにシロが横島の手を取りながら駆け出した。
 2人は指を伸ばしてまさぐる様に絡め合い、しっかりと手を握り合う。
 それは2人の絆の帰結。結ばれた手と手は、神父の前で共に在ると誓った約束の証。
 そう。だから2人はもう二度と離れない。

 彼女の体が狼の習性に身を委ね、この数百年の空白を埋めるように速く、激しく宙を舞って風を切る。
 その激しい舞踏に身を任せながら、天頂に鎮座して地上を俯瞰している青い月を指差すと、彼は少年の様に悪戯な表情で、天を貫けとばかりに宣言した。

「さあ、シロ。俺達の時の始まりだ!」


 その夜、極少々数の人々が1人の男が銀狼を連れて天に昇る姿を目撃する。
 誰が知ろう。それが後に1つの神話となった、月に住み、月を護る銀の狼とその相棒の物語の始まりだと。 
 月の守護者となった2人は楽しげにその身を躍らせながら在るべき所へ還っていく。
 雲を踏むように月下に跳躍する両者の姿はやがて空に溶けて見えなくなる。
 そして新たな神話が始まった。










 後書き

 この話は、原作にある道真の詠んだ和歌から、無実なのに遠くに連れて行かれる横島とその帰りを一途に待ち続けるシロ、という大まかな流れを思いつきました。桜の樹と共に待つ、という部分は和歌通りに梅の木にしようと思っていましたが、桜は武士道の象徴とも言われていたので、シロにぴったりかなと思って変えました。
 一番最後の横島光臨のあたりは、書いていて非常に御都合主義な展開になってしまったので、実はタマモがシロに気付かれるように見せていた幻覚、というオチに変更しかけました。その場合は、タマモは終わりを迎えていたシロに幸せな夢を見せ、シロはあのまま何も知らずに至福の夢を見ながら静かに息絶えて、タマモは彼女の死を見届けると人知れずに去っていく、という展開になる予定でした。
 しかしそれではあまりにもシロが報われず、『戦いに斃れ』でも彼女には辛い役目を負わせていたので、結局は変更を止めて御都合主義、独自解釈のオンパレードの末にハッピーエンドで終わらせました。
 作中の青い月ですが、大気が清浄だと稀に見られるそうです。私は、大気が不浄な時に見られる僅かに赤みを帯びた月しか見たことはありませんが。
 


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