目覚めは曖昧なものだった。
気づけば、いつのまにかあのしみったれた天井を見つめている。
そこから、ここがあの窓のない部屋ということが辛うじて解った。
戻った意識が、まず最初に考えたのは当然の疑問だった。
(……生きて、る……?)
どうやら死なずに済んだらしいことだけわかる。
ゆっくりと時間をかけて混濁とした記憶を辿る。直前に聞いた筈のあの一言。
「まあいいわ。次は失敗しない」
ということは記憶を弄られた筈だが――
(いや、まって? なんで自覚できる? なんで覚えてる?)
おかしい。
名前を忘れるだけにしても、あの部屋での出来事を覚えている筈がないし矛盾を自覚できるのは論外だ。
(あれから心変わり? いや、ないでしょ、流石に)
都合が良すぎる発想をする自分に呆れる。だが、他を推測しようにも、寝ぼけた頭には少しばかり荷が重い。
(まず、起きなきゃ)
その義務感を糧にして、億劫な体を起こす。無理に起したからか単純に辛い。
じっとしてその辛さが多少楽になるのを待ってから部屋を見渡すが、前と変わりなく、何も無い。
変わりがないことは都合がよかった。次は鍵が掛かっているかどうか確かめる必要がある。とにかく逃げ出さなければ。
そこでとあることに気づく。
(リニスが居ない)
いつも傍にいたあの山猫が見当たらない。
そう気づいた時と同じぐらいだろうか。緊張で体が強張った。
良く通る足音が一つ、近づいてきたことに気づいたからだ。
気づいた時には遅かった。かなり近い。近すぎて禄に考えることすら出来なかった。そのまま扉が開き、足音の主が姿を見せる。
(……あれ?)
プレシアかと思えば違う女の人だった。それが誰かは解らないが、表情も自分が想像していたものと食い違い敵意の欠片も見えない。
正直拍子抜けしてしまった。
「あら、起きてましたか」
顔をじいっとみつめるがやはりアリシアの記憶でも見覚えはない。視点を引いて全体を見てみた。それでもまだ解らない。
目立った特長である耳と尻尾を見て少し考える。そしてようやく得心がいった。
アリシアの記憶にもなく、オレの記憶として辛うじて記憶に留めていたあの使い魔。消えた山猫。
リニス。
格好が小説で見た挿絵と違い耳と尻尾を出していたので、逆に解りづらい。
プレシアの時はアリシアの記憶があったので特に驚きもしなかったが、人間形態のリニス相手は違和感が凄まじい。
取って付けた様な耳、緩やかなカールを描いて常に動いている尻尾。まるで凝ったコスプレのようにしか見えない。
そして、なにより初めて見る他人の顔。
(実際見るとこうなるのね……)
いい加減プレシアや自分で解っていても良さそうだったが、なんというか改めてショックを受ける。
「おはようございます、そしてお初にお目にかかります。この度、プレシア・テスタロッサに作成されました使い魔のリニスです」
(……お初に?)
敬語なことや、プレシアのことをフルネームで呼んでるのはともかく、いきなり引っかかる物言いだ。
同じように記憶を弄られたのか、それとも猫の時のことは覚えていないのか。
そんな疑念を横に自己紹介は続く。
「研究で忙しいプレシア・テスタロッサに代わって、あなた方の身の回りのお世話と魔法の手解きをするように、と仰せ付かっております」
ここまで一息に言い切ったリニスが視線を改めてこちらに向ける。
「お体を崩されていたとのことですが、大丈夫ですか?」
その言葉がきっかけだった。
(え、ああ、そう、たしか、私はあの時、魔法に失敗して―― え?)
あの時、失敗してなんかいないのに。アリシアの記憶を想起する時と同じ違和感。
慌てて自分の名前を意識しようと努める。
(あれ? 私の名前は――)
まず、まだオレの名前がくる。次にアリシア、そして――オルタナ。
(……? ……オルタナ?)
いつのまにか増えていた自分の名前。オルタナ。
(代替物って……。ちょっとは捻ってくれてもいいのに)
胸中で毒づいてる最中にも、まだ引っかかるものがある。
(あれ? あなた方って……私だけよね?)
「オルタナ・テスタロッサ、大丈夫ですか?」
「あ……うん、大丈夫」
思考を遮られた。嫌な予感がする。
「それはなによりです。食欲はありますか? 食事を用意してあります。……簡単なものではありますが」
妙な既視感を覚えたが、ともかくおなかも空いていた。なので素直に甘えることにする。
「食べる。お願いしてもいい?」
「はい! それでは、お持ち致しますので少々お待ちくださいね」
部屋を出るリニスの後姿を見ると尻尾がぴんと立っていた。
◆ ◇ ◆
リニスは配膳を終えると小さく一礼して部屋を出て行った。ちょっと寂しい。
運ばれてきた料理は、プレシアが最初に振舞ってくれたものと同じものだった。
もうすっかり慣れてしまった左手でスプーンを持ち、手を付け始める。
一人で食べるのは、こうなってからは何気に初めてだ。前は当たり前の事だった筈なのに、今は酷く侘しく感じられる。
何度か口に運んでから思い出す。
(おいしい。それにこの味付け……)
プレシア(の味。
(これを作ったのはリニスで、プレシアじゃないのにね)
使い魔の教育の過程で伝わったものだろうとなんとなく想像はついた。
プレシアはもう私の為に料理を振舞ってはくれないだろうから。
(母を捨てた私が、母に捨てられる、か)
浮かんだ皮肉で自嘲してみるが、何の慰めにもならない。
それがきっかけだったのかもしれない。
気づけば何かが頬を伝う感触がある。指の腹で頬を拭って確かめてみると濡れていた。
そうして、ようやく私は自分の感情に気づく。
(私――今、泣いてるの?)
自覚したと同時に、想い出したのは、起きてから今までプレシアと過ごした記憶。
(あれだけ欺いておいて。なんて私は自分勝手な――)
そう思えど、声を押し殺して我慢しようとしても、涙は止まってくれなかった。
しばらくして落ち着いてから、皿を空にしたところでぐるぐると考える。
プレシアに名前を弄られたことがどうしても気になっていた。
この調子だと他の記憶も怪しい。確認の為に記憶の索引を辿る必要がある。
ここ最近のことをばらばらでもいいから思い出そうと試みる。
(うわ……)
辿ってみればすぐだった。一つのことに気づいたら芋蔓式に連鎖していく。その過程で、先ほど浮かんだ疑念も晴れた。
つまるところ、記憶はしっかりと弄られていた。所々で二重に思い出せる事柄がある。それも妙にはっきりと。
自覚できるだけでも多岐に渡る改竄だった。プレシアもここまでやるとは。
追加だけで消えていないのが多少気がかりではあるが、自覚できてないだけかもしれない。
それにこの方向性ならもうあんまり関係ないだろうから、できるだけ考えないようにする。
(問題は――)
丁度、足音が聞こえてくる。聞き覚えがあるものとそうでないもの。
扉が開き、姿を見せるふたつのシルエット。一人はリニス。そしてリニスに隠れるようにしてもう一人。
「……あ、ねえさん……」
そう、一番の問題はこの目の前にいる私が、同じ欠陥を抱えてる可能性が高いということだった。
/.覚醒前 研究室
あの時に記憶を覗けなかった原因は、デバイスの不調ではなかったらしい。
記憶閲覧魔法の直接行使に至りようやく確証を得た。やはり前と同じく何の意味もない写像だけが結ばれる。
この徒労に対する怒りに任せて素体を処理しようかと一瞬考えたが、なんとか堪える。
忘れてはならない。魔力資質の高いこの素体は私の手足として有用だ。
何故こうなったのか多少興味はある。だが今更検証してもあまり役立つことはないだろうし、そもそもそんな余裕はない。
(……もう諦めたことよ)
それでも処置はしないといけない。私のこれからの目的の為に。
記憶の閲覧が行えないだけで、記憶の編集は成功する可能性が高い。
問題となっていたのは記憶の視覚化プロセスで、それ以外は問題なかったからだ。
それから何度かテストを繰り返し、本番に移る。
プロセスを注意深く監視しながら、『自分がアリシアと呼ばれていたこと』の置換を行う。
……処置はおおむね上手くいった。
この調子なら整合性を取る為の記憶の編集も大丈夫だろう。
そうして編集も終わり、後はリニスの作成を残すばかりとなった。
リニスを造り終えれば二人(を目覚めさせ、目下模索中である最後の手段(の実現方法へと注力できる。
まだ先は途方もなく長かった。
/.覚醒前 無人の研究室
予備素体の脳内では、編集されたばかりの記憶の書き戻しが静かに行われていた。